判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

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  • / ISBN・EAN: 9784003362570

感想・レビュー・書評

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  • ・序言
    アプリオリな構成的原理の認識能力は悟性、理念の統整原理の欲求能力は実践理性の領域である。我々の判断力は、認識能力の序列において認識の悟性と欲求能力の理性をつなぐ中間項である。判断力がアプリオリなのかか、構成あるいは統整か、快あるいは不快かが本書の課題。
    判断力原理は、アプリオリであるはずだが、悟性のようにアプリオリな概念から導かれるものではない。この原理に関する困惑は、美学的判定と呼ばれる。自然や芸術における美と崇高の判定。美学的判定は認識において快不快を判断するが、理性に属する欲求能力ではなく、快不快と直接関係するわけでもない。これが判断力原理の謎。認識に属するので、理論的部門に批判として編入される。
    ・序論
    欲求能力を含む自然法則の原理は感性的な系の技術的実践的規則であり、意識規定の自由法則の原理は超感性的な道徳的実践的規則である。したがって、実践的という哲学の第二部門は、たんに実践的なのではなくて、感性的ではないということによる。
    認識によって対象に適用された概念は、それぞれ自分の土地をもち、認識能力と認識可能な部分の地域(territorium)をもつ。このうち立法的(法則を与える)部分は、領域(ditio)である。経験概念は自然において領域をもつので、住所(domicilium)をもつにすぎない。ゆえに規則は経験的、偶然的である。
    →ドゥルーズ領土
    悟性の理論的立法と理性の実践的立法は、自然と自由、互いの地域を侵害しない。これが一つの主観において矛盾しないことは、純粋理性批判によって異議を悉く粉砕した。しかし、感性界の結果においては制限し合う。これは示すものが、現象と物自体という違いによる。したがって、認識能力は、超感性的なものという土地には近傍しがたい。しかし、超感性的世界は、感性的世界に影響を及ぼすよう定められている。統一根拠が存しなければならない。
    批判の役割は、3つの認識能力を限界内に制限すること。心的能力は、認識能力、快・不快の感情、欲求能力に分かれる。悟性、判断力、理性がそれぞれに立法的である。判断力もアプリオリな原理があると推測される。したがって、哲学においては、純粋悟性、純粋判断力、純粋理性の3部門の批判となる。純粋=アプリオリに立法する。
    判断力は、普遍から特殊を包摂する規定的判断力と、特殊から普遍を見出す反省的判断力に分かれる。自然は認識能力を超えて多様であるので、反省的判断力が多様を統一する。ただし、自分で自分に法則を与えるだけにすぎない。
    対象の概念は、現実性の根拠を含むとき目的と呼ばれ、目的に適う性質と合致すれば、合目的性と呼ばれる。反省的判断力の原理は、自然物に関する自然の合目的性である。自然の合目的性は、アプリオリだが一個の特殊な概念である。
    先験的原理とは、物が認識対象になるためのアプリオリな普遍的条件(原因)を示す原理。これに反して、形而上学的原理とは、経験的に概念を得る対象が、さらにアプリオリに規定されるための条件(外的な原因)を示す原理。先験的原理におけるアプリオリな認識は、存在論的述語(純粋悟性概念)によって考えられるだけでよい。しかし、形而上学的原理は、経験的概念が命題の根底に存しなければ、外的原因を理解しえない。したがって、自然の合目的性は、先験的原理である。対して自由意志の規定、すなわち実践的合目的性の原理は、形而上学的原理といえる。
    可能的経験の自然一般には普遍的自然法則が絶対的に必然的と考えられるが、現実の経験的対象の特殊的自然は多様であるので、自然統一と経験の統一は、偶然的と判定する。しかし統一は想定されねばならないから、判断力はアプリオリな原理として、「特殊的自然的自然法則は偶然的なものを含むが、可能な法則的統一を含む」と前提する。悟性の必然的意図と偶然的自然を結合する、法則的統一を自然の合目的性として考える。つまり、自然は反省的判断力によって合目的性の原理に従い考察せねばならない。この原理が、判断力の格率(主観的原理)。ただし、これは自然概念でも自由概念でもない。自然の連関を一つにまとめる反省的で主観的な唯一の仕方。自然の合目的性の課題は、悟性のうちにアプリオリに存する。種、類に分けるような普遍的法則の秩序によって認識を可能にしている。判断力は反省的に自分自身に法則を指定する。自分自身に対する自律。自然の特殊化の法則。特殊的法則に対して普遍的法則を想定する。自然は、認識の合目的性の原理に従い普遍的法則を特殊化する。
    自然と認識の意図すなわち普遍的法則との合致は、偶然的だが合目的性として判定される。意図の実現には、快の感情が結びついている。快は認識との関係によるから、実践的合目的性は関わりがない。統一原理が見出されると快、驚嘆を生じる。判断力は、合目的性の原理に従い反省的に研究し、限界を決定しようと命令する。
    主観的表象は、美学的性質である。客観的表象は、論理的妥当性である。感官の認識では2つが同時に現れる。直観するための空間の性質は、主観的である。したがって、対象は現象とみなされる。しかし、現象によって、物の認識を構成する。感覚が、実質的実在的なものであることはアプリオリな形式である。ただし、主観的な快・不快は、認識の構成要素にはなりえない。合目的性は、客観(対象)の認識より前にあるが、客観(対象)の表象と直接結びつく。すなわち、主観的表象だが、認識の構成要素にはならない。合目的な対象の表象は、快と結びついている。合目的性の美学的表象。構想力の直観と、悟性の概念が調和し、快が喚起されるとき、対象は合目的なものとみなされる。これが客観(対象)の合目的性に関する美学的判断である。ある対象の形式(実質的なもの)が、反省によって快とみなされるならば、表象に快が結びついている。したがって、主観だけではなく、判断者一般に妥当する。
    →対象に付随する快・不快の感覚なので、単純に個別の主観だけの判断ではなく、他の判断する者にも客観的に妥当する。
    そのときの対象は美と呼ばれ、判断力は趣味と呼ばれる。快の根拠は、感覚や概念ではなく、対象の形式(実質的なもの)である。対象表象と調和するのは、主観判断力が経験的に使用されるときの合法則性(構想力と悟性の合致)にほかならない。
    →表象が合法則性と調和する
    対象と、構想力・悟性の調和は偶然的なので、主観的に合目的性の観念を生ずる。趣味判断は、何びとにも例外なく妥当する。その客観性は、概念ではなく、快による。可能的経験一般の法則に従い、規定的判断力によって水を知覚した人が、その認識の客観性を他者に要求するのは当然である。同様に、対象の形式に反省的判断力によって快を感じた人は、他者に同意を要求しうる。なぜなら、経験的、個別的、主観的であっても、対象(自然・芸術)と認識(構想力と悟性)の合目的調和であるからだ。この調和はいかなる経験的認識にも必要。快は、反省と主観的な普遍的条件に基づく。趣味判断は、アプリオリな原理を前提しているから、批判の必要がある。しかし、判断力原理は悟性認識原理でも意志実践的原理でもないが、快は自然概念だけでなく自由概念の合目的性をも表示する。したがって、美だけでなく崇高にも関わるので、2つの分析論が必要になる。
    合目的性は、第一に、対象形式の直観と認識概念の合一と、第二に、対象形式と物自体の可能との合致の2つに分かれる。第一は、主観的な快で物から生じるが、第二は、概念における悟性認識から生じる。判断力は、概念が与えられているときには直観を現示する。芸術などの目的の概念を実現する際に構想力によってなされる。自然の技巧における所産の判定は、自然によってなされる。合目的性のみならず、所産が自然目的として表象される。判断力の原理によって合目的性を見出すから、自然美を単なる主観的=形式的合目的性の概念の現示とみなす。また、自然目的を、客観的=実在的合目的性の現示とみなす。自然美を趣味によってすなわち美学的=快を介して、自然目的を悟性と理性によって論理的すなわち概念に従い、判定する。美学的判断力と目的論的判断力。美学的判断力とは、形式的(主観的)合目的性を快・不快によって判定する能力。目的論的判断力は、実在的(客観的)合目的性を悟性及び理性によって判定する能力。アプリオリな原理を含むという意味で、本質的なのは、美学的判断力である。特殊的(経験的)自然法則に従う、自然の形式的(主観的)合目的性の原理、すなわち認識に対するの合目的性の原理。
    →快の感情=感性が美学的判断力、自然目的の統一=理性+悟性が目的論的判断力。アプリオリなのは美学的判断力。目的としてのみ可能な物は決定されないから美学的判断力に委ねられる。
    理性の自由の原因を、悟性の自然の原因として規定する、実践的なものを度外してかかかる条件をアプリオリに前提するのが、判断力である。判断力は、自然と自由を媒介する、自然の合目的性という概念を与える。究極目的への移り行き。
    悟性は、現象を認識可能にし、未規定ではあるが超感性的な基体を指示する。判断力は、特殊的自然法則により、自然の超感性的基体を規定しうるものにする。理性は、超感性的基体を規定する。構成的原理の認識は悟性、快不快の感情は判断力、欲求能力は理性。
    心的能力の全体(認識・快不快・欲求)、認識能力(悟性・判断力・理性)、アプリオリな原理(合法則性・合目的性・究極目的)、適用の範囲(自然・芸術・自由)★
    ・第一部 美学的判断力の批判 第一篇分析論 第1章 美の分析論
    ・趣味判断の第一様式 性質
    美の判別は、悟性ではなく、構想力によって快不快に関係させる。つまり、認識判断ではなく、趣味判断。論理的判断ではなく、美学的判断。判断根拠の快不快は、表象による触発であるので、主観的でしかありえない。客観に関わる場合は論理的判断。判断様式をカテゴリーに求めてみたが、美学的判断はまず第一に性質に着目する。
    実在に結びつける適意は、関心と呼ばれる。適意は、同時に欲求能力にかかわる。美が問題になるときに知ろうとするのは、直観・反省の観察において物をどう判定するか。実在に無関心でも、対象表象が適意を伴うかどうか。この対象を美であるという。対象への関心が混ざれば、純粋な趣味判断ではない。
    →実在とは無関係に、観察で判定される対象が美であり、判定を趣味判断という。合目的性の快不快は、美学的判断。
    道徳的な判断は、関心を生ずる。反対に趣味判断は、関心の根拠は成さない。
    感覚は客観的表象、感情は主観的感覚と解される。快適なものは、欲望を喚起することからも、関心すなわち実在と私の状態との関係を前提する。したがって、快適なものは、快いではなく、感覚的満足といえる。感覚的満足のみを追う享楽には、判断は無用である。
    理性を介し、概念に快いものが善である。善は、目的を含み、関心を含んでいるから、概念をもっていることを要する。しかし、美は反省から概念に至るので、対象についての概念は必要ない。適意は、概念が必要な感覚に基づく快適なものと異なる。善は間接・直接が問題になるが、たんに感覚的満足の快適には関わりがない。美も同様。健康に悪い食べ物も感覚的満足で快適ということはある。快適すなわち享楽と、善が異なる。しかし、いずれも対象に関する関心に、したがって欲求能力に結びついている。快適は感覚的刺激による適意、善は実践的適意を伴う。実践的適意は、対象表象だけでなく主観との統合にも規定される。対して、趣味判断は、観想的判断であり、実在に関わらず、性質に快不快の感情を当てる。概念は根拠でも目的でもない。
    感覚的満足は快適、快いは美、尊重され客観的に承認されるのは善と呼ばれる。快適は動物的、美は動物的理性的な人間のみ、善は理性的。美における趣味の適意だけが、無関心的かつ自由な適意。快適の適意は情意的傾向、美の適意は恩恵、善の適意は尊敬に関係する。恩恵のみが自由な適意。
    →快適、対象関心目的あり、感覚的刺激、主観的、動物的、傾向
    美、対象関心目的なし、快不快、主観的客観的、動物的理性的、恩恵
    善、対象関心目的あり、実践的、客観的、理性的、尊敬
    ・趣味判断の第二様式 分量
    趣味判断は関心から離れているので、普遍性をもつことを要求するが、実際は対象表象と主観の関係にすぎない。快適なものは、各人が各様の趣味をもっている。美は、「私にとって美しいもの」ではなく、他の人に対して要求するもの。快適なものが多くの人に当てはまる場合は一般的(経験的規則)であって、美は普遍的(アプリオリな規則)である。善は概念によってのみ、普遍的適意の対象として表象される。
    美は、趣味判断において対象の適意を全ての人に要求する(善と違い概念はない)。この普遍妥当性は、美学的判断において本質的なもの。快適なものの趣味を感覚的趣味、美に関する趣味判断を反省的趣味と名付ける。いずれも快不快によるので、美学的判断である。概念に基づかない普遍性は、美学的普遍性である。主観的分量を含むにすぎない。つまり、一般的妥当性である。これは、表現と快不快の関係が全ての主観に妥当することであり、判断の論理的分量を標示する。主観的(美学的)普遍妥当性とは区別する。
    趣味判断は、すべて単称的(個別的)である。なぜなら、概念を介さず、対象を感情に直接結びつけるからだ。趣味判断は全ての人に妥当する分量をもっているが、感覚的判断にはない。善は論理的普遍性をそなえていて、全ての人に客観的に妥当する。対象を、根拠や原則など概念のみによって判定するなら、対象そのものへの適意に基づく美はすべて失われる。趣味判断の要請は、普遍的賛成、すなわち美学的判断の可能である。普遍的賛成は、一個の理念。
    趣味判断における快は、対象表象の後に生じる。表象によって、構想力と悟性は、自由な遊びを営む。認識規則の制限がないので、自由な遊びが可能になり、その状態でこそ全ての人が普遍的に関与しうる。対象表象の美学的判定は、快より前にあり、悟性と構想力の調和の根拠をなす。適意が主観的普遍妥当性をもつのは、この判定の主観的条件の普遍性に基づく。美は、全ての人に妥当するかのように、あたかも概念的に規定された性質であるかのように思いなす。
    趣味判断における調和の仕方は、美学的(内感と感覚)である。意識は、構想力と悟性の調和する遊びで生じる感覚としてのみ可能。かくして悟性と感性の結合による判断を定められている全ての人に妥当するとみなすようになる。美は、概念にかかわりなく普遍的に全ての人に快い。
    ・趣味判断の第三様式 目的の関係
    目的とは、ある概念が対象の原因(実在的根拠)であれば、その対象のこと。原因性が合目的性である。ある対象が、結果としてのみ可能だとみなすなら、なんらかの目的を思いみる。目的、原因、結果という序列。主観を同一の状態に保持する原因性の意識こそ快である。反対に不快とは、表象を阻止あるいは排除する。
    欲求能力は、概念=目的の表象に従って行為するとき意志といえる。しかし、目的が前提されずとも、根底に目的に従う原因性=意志を想定すれば、合目的と称される。
    趣味判断は、目的=概念がなく、表象相互の関係にかかわる。目的なき合目的性、すなわち合目的性という形式にほかならない。構想力と悟性の調和的な遊びにおける、形式的合目的性の意識が快である。これは快適という感性的根拠ではない。善という知性的根拠でもない。美の考察を保持する原因性をもっており、考察は所論を強化し、新たなものを産出する。
    関心は趣味判断を損なう。
    →関心は具体的な内容を判断の根拠とする。
    感覚的刺激は、合目的性とはかかわりがないので、美とは関係がない。草原の緑やヴァイオリンの単なる音色は、快適であり美ではない。しかし、規則的振動など純粋な感覚の形式としては美である。感覚的刺激は関心を喚起して、純粋な趣味判断を阻害する。絵画、彫刻、建築、造園など一切の造形芸術は、線描的輪郭が本質である。線描的輪郭が、形式によって快いものとして基礎をなす。色彩は、形式ではなく感覚的刺激である。
    →ウィトゲンシュタイン色を形式としたのとは真逆。色空間も同様。
    感官対象の形式は、形態か遊びであり、遊びは、空間における形態の遊び(身振りや舞踊)か時間における感覚の遊び(音楽)のいずれかである。形態の遊びは、線描的輪郭あるいは作曲が純粋な趣味判断の対象となる。
    →作曲が形態の遊びで趣味判断すなわち美に関わる。★
    額縁や立像衣紋、殿堂の柱列回廊などの装飾もまた対象の形式に基づく。しかし、感覚的刺激のためだけの外飾は、真正の美を損なう。感動は美に属さない。感動が結びついている崇高はまた別の基準である。
    →誤植p111 7行目「崇高となると)→崇高となると(
    認識は、客観的合目的性によって概念として可能になる。美の判定は、形式的(主観的)合目的性によって、目的なき合目的性によって可能になる。したがって、善とは関わりがない。客観的合目的性は、外的な有用性か内的な完全性かだが、有用性は対象に対する直接的適意ではないので美ではない。目的と対象の一致が質的完全性。対して量的完全性は、何一つ欠けることがない、完備としての総体性。量的完全性は、本来何かという一者としての目的は度外視され、主観的合目的性しか残らない。完全性には目的が伴う。客観性には目的が伴う。趣味判断は形式的、主観的合目的性なので、目的はなく美は完全性ではない。悟性は趣味判断に対して、判断と表象を、概念に関わりなく、表象と主観・内的感情との関係に従って規定する。ただし、判断が普遍的規則が可能である限りにおいて。
    自由美は、対象が本来何であるかを前提しない。付属美は、本来何かという目的概念に従って完全性を前提する。花卉(かき)は、自由な自然美である。ある花の本来性は植物学者しか知らない。また、花が生殖器官という自然目的も趣味判断では無視される。したがって、趣味判断に完全性及び内的合目的性は無用である。鳥類、甲殻類、ギリシア模様、飾り縁、幻想曲、歌詞のない楽曲は、自由美である。
    →ウィトゲンシュタイン音楽の比喩
    目的が前提されると、形態を観察する構想力の遊びは制限される。人間、馬、建築の美は、目的を前提する。本来性を要する完全性による付属美。
    →付属美=機能美
    美学的適意と知性的適意が結びつくと、目的によって趣味が固定され、趣味を理性の規則、すなわち美を善に従属させることになる。しかし、美と完全性は共に得るところがない。自由美と付属美の区別をすれば、美に関する論争は解決できる。★
    美を規定する客観的規則はない。しかし、普遍的な美の標徴として時代民族を超えた実例がある。かくして、趣味の所産のあるものを範例とみなす。ただし、模倣は熟練にすぎない。したがって、最高の模範、すなわち趣味の原型は各人が産出せねばならない理念である。ここにおける最高の理念は、理性概念に基づくものではなく、個別的表現であるので、理想ではない。美の理想は、構想力の理想である。
    ※言語芸術は、現代語は時代遅れになるので、一定不変の死語或は古典語でなければならない。
    美が理想となると、客観的合目的性が求められる。趣味判断が知性化される。自由美、付属美ともに合目的性は固定できるものではなく、自身に目的をもつ人間のみが理想を規定しうる。完全性の理想と同様。
    美の二つの理念、動物的な類による個別的直観(構想力)の標準的理念、現象結果としての人間の形態を目的として判定するための理性理念。標準的理念は、経験から全体としての類の理念を引き出さなければならない。構想力は、遠い昔からも不可解な仕方で再生し重ね合わせ、平均的寸法、すなわち美しい標準的理念を出すことができる。例としては、成人男性の平均が美男子。したがって黒人白人シナ人ヨーロッパ人それぞれ異なる標準的理念をもつに違いない。標準的理念が一定の規則に基づくのではなく、理念によって判定の規則が可能になる。個別的直観に見出される形像。これに対応するのは類の全体。標準的理念は、美の完全な原型ではなく、美の成立の条件としての形式。類の適性を示すにすぎない。ポリュクレイトス『ドリュフォロス』が呼ばれたのと同じ意味での規則(カノン)。標準的理念は、種別的-性格的なものを一切含んではならない。標準的理念は、美なのではなくて、類の条件として美に矛盾しないということにすぎない。したがって、標準的理念は、美の理想ではない。理想は道徳的なものの表出にある。道徳的でないなら快くない。道徳的人間が具体的に身体に表出しうる。美の理想は、感覚的刺激を許さず、大きな関心を喚起するので、目的なき純粋な美学的判定、趣味判断ではない。美は、目的なき対象知覚における、対象の合目的性の形式である。
    →標準的理念は平均値にすぎないので美の基準にならない。美の理想は、目的・完全性の道徳の反映であるので、趣味判断ではない。美は目的なき合目的性である。
    ・趣味判断の第四様式 対象に関する適意の様態
    表象は快と結びつくことが可能であり、快適なものは現実的に快を生ずる。しかし、美は適意に対して必然的関係をもつ。ただし、美の必然性は、理論的客観的必然性ではなく、範例的必然性にすぎない。美の判定は、べしsollenではあるが、常に条件付きである。美の判定に関する同意を全ての人に要求するのは、判断根拠が共通しているからだ。趣味判断は、認識のような無条件的必然性がないにもかかわらず、感覚のように必然性がないわけではない。快の主観的原理かつ概念ではない普遍的原理、これは共通感である。概念による悟性の共通心、すなわち常識とは異なる。趣味判断は、構想力と悟性の自由な遊びから生じる共通感を前提してのみ可能。
    表象によって、構想力は多様をまとめ、悟性は概念によって統一する。調和とその感情が普遍的とすると、共通感が前提される。共通感は、心理学的ではなく、認識の必然的条件として想定される。趣味判断の必然性は、普遍的同意の必然性であって、主観的であるがしかし共通感の前提のもとでは客観的必然性である。全ての人の判断は、我々の判断に合致すべきということになる。範例的妥当性。美とは、概念を用いずに必然的適意の対象として認識されるものである。
    趣味は、対象を構想力の自由な合法則性に関して判定する。趣味判断の構想力は、連想再生的ではなくて、可能的直観の任意な形式を創造するものとしての、自発的な産出的構想力である。構想力が、立法できないにもかかわらず、自ら合法則的に悟性に合致しようとする。
    円、正方形、正立法形は、規則正しいから美なのではなくて、建物や造園、動植物のシンメトリーなど目的に合致するから快いのである。趣味判断は、使用や目的を全く度外視して、適意を観照に結びつける。規則正しさは、概念形式の条件にすぎない。認識にとっては、概念規定が目的である。美の趣味判断は、悟性が構想力に仕える。美にとって規則正しさは強制であるがゆえに、イギリス庭園やバロック家具は自由の強調によってグロテスクに至る。自然は、人為的規則の強制を一掃して、趣味に不断の滋養を供給する。鳥の歌声。構想力は、捕捉するのではなく、創作する。眺望は朧げで多様、暖炉の炎、小川の水、形態ではなく自由な遊びが構想力の想像に魅力となる。
    ・第二章 崇高の分析論
    美には形式、すなわち限定が必要だが、崇高は無限定的である。美は不定な悟性、崇高は不定な理性である。美は性質の適意、崇高は分量の適意。美は感情、すなわち感覚的刺激と構想力の自由な遊びの直接的快だが、崇高は感覚的刺激はなく、生の力が一旦阻止され、その後強力になる感動の快であり、尊敬を含む消極的快。崇高は、判断力の目的に反し、表示能力に不適切で、構想力に強圧的であるからこそ崇高である。したがって、目的となりうる対象そのものは、美と呼べるが、崇高ではない。崇高は、心のうちにのみ見出される、理性理念にだけかかわる。嵐に渦巻く大洋は恐ろしいが、様々な理念で満たされなければ、高次の合目的性である崇高の感情は生じない。
    自然美は、技巧であり、特殊的自然法則であるが悟性の原理ではなく、判断力の現象適用のための合目的性の原理である。機械的自然を拡張して、技術的自然に至らしめる。対して崇高は、原理や形式ではなく、むしろ混沌や破壊の莫大な量と力によって喚起される。美は目的なき合目的性により我々の外に見出されるが、崇高は自然にかかわりのない合目的性によって、われわれの内に見出される。我々の心意が、自然の表象に崇高性を持ち込む。
    崇高の適意は、美と同じで、分量は普遍妥当的、性質は関心がなく、関係は主観的合目的性、様態は必然的である。しかし、崇高の分析は、美が性質だったのに対し、分量である。数学的崇高と力学的崇高に分かれる。心的状態において、美は平静だが、崇高は動揺すなわち感動を伴う。主観的合目的な感動を構想力が認識に関係させるなら数学的調和、欲求に関係させるなら力学的調和となる。
    ・A 数学的崇高
    崇高は、絶対的大。比較的ではないので悟性でもないし、感性的直観には現れないし、理性に認識はない。したがって、判断力の概念である。主観的合目的性。現象の量的規定は、基準が必要な比較的相対的概念であるので、絶対的という概念が得られない。
    比較ではなく、たんにあるものが大きいという判断は、美と同じで、全ての人の同意を要求する。同じ種類に属する他の多くに勝ることを意味する。この基準は、主観的な平均的量の尺度である。対象への関心がないにもかかわらず、普遍的同意、主観的合目的性の適意がある。ただし、美は対象に関する適意だが、崇高は構想力の拡張に関する適意である。大には尊敬を、小には軽蔑を抱く。崇高は、他の一切のものが小となるもの。理性の全体性の理念において、人間の感覚能力を超えていることが、超感性的能力への感情を喚起する。崇高とは、感官の尺度を超過するような心的能力を証示するもの。
    数の概念を得るためには、既知の数はないので、直観把捉と構想力表示による美学的判断が必要となる。数学的には数は無限に進行するので、最大量の概念はないが、美学的にはあり、それが崇高を生む。したがって、数学的判定は相対的であり、美学的判定は絶対的である。
    構想力が量を使用する二つの作用は、無限の進行である捕捉と、美学的最大尺度に達する総括である。サヴァリがいうようにピラミッドの感動は近づきすぎても遠すぎてもいけない。遠いとぼやけて捕捉できないし、近いと補足し終えられない。ローマの聖ピエトロ聖堂に入るときの驚愕当惑は、構想力が全体的理念を表示しきれないときに、その最大限度を越え感情が生ずるからである。崇高は、手を加えないそのままの自然に対するもの。技術的所産や生物のあり方は目的があるので、該当しない。崇高にあたる法外なものは、対象概念の目的を滅却する。崇高に関する純粋な判断が、本来の美学的判断である。
    悟性が構想力の総括作用を指導し、構想力の無限進行の限界まで到達させる。量の直観の場合は、捕捉で前進的にのみなされる。総括が不可能な場合でも、心意識は理性の全体性を要求する声に耳を傾ける。無限を、一つの全体として考えうる。感覚界の無限は、超感性的な心的能力と、その理念である可想的存在によって、量の知性的判定において一つの概念として総括される。認識能力に資するものではないが、心意識を拡張する。したがって、崇高は、自然現象の無限性を伴うもののみが値する。
    無限進行の絶対的全体性は、矛盾するので、美学的判定において、自然の超感性的基体に到る。超感性的基体は、感官尺度以上に大で、心的状態を崇高と判定せしめる。
    →スピノザ 神即自然
    美学的判断力は、構想力に関係させて、悟性概念との調和による美、あるいは理性理念と調和させる崇高の心的状態を生み出す。崇高は、実践的理念の感情への影響によって生まれる。自然ではなくて、判断者主観の心意識から生まれる。
    →美も崇高も主体にある。
    能力が法則に適合しえないという感情が尊敬。自然に対する崇高は、我々自身の本分に対する尊敬の感情。一切の感性的基準が理性理念に適合しないと知ることが合目的であり、快である。超感性的なものの理性理念にとっては、超絶的なものはむしろ合法則的であり、構想力の努力を喚起する。この判断は美学的判断である。構想力と悟性の調和による美のように、構想力と理性の調和により、主観的合目的性を産出する。
    捕捉は空間を描く前進であり、総括は時間を廃した直観で単一にする背進である。構想力によって主観に加えられる強制が、心意識の全体的規定にとっては、合目的なものと判定される。崇高は判定能力に関する不快だが、合目的であり、無能力の自覚によって美学的判定を可能にし、無制限な能力の意識を開顕する。量を構想力で補足しきれず、美学的判定で総括せざるをえないとき、不快を感じるが、理性の絶対的全体理念に適合する限り、合目的である。知性的総括の理性によって崇高は快として受け入れられる。
    ・B 自然における力学的崇高
    威力とは、克服する力。抵抗を克服する威力は、強制力。強制力をもたない自然は、力学的崇高。力学的崇高は恐怖を喚起する。害悪に抵抗できる能力がないとわかると恐怖になる。自然は恐怖の対象としては威力であり、力学的崇高。恐怖でなくとも、抵抗を思いみるだけでも恐ろしいものとみなすことがある。神は畏れはするが、抵抗する気がなければ恐怖の対象ではない。
    →ハイデガー恐れ
    安全な場所から自然の脅威を見たとき、恐怖ではなく、心を惹きつける崇高。絶大な自然力に挑む勇気を与える。自然は、財産健康生命等を全て小とし、しかし人格にまでは強制力が及ばないことを喚起するから崇高なのである。心意識の本分に具わる崇高性を、自然に優越するものとして自覚しうる。崇高な精神的能力の開展と訓練とは、我々自身に委ねられている。いかに無力を痛感しようとも、──ここに真実がある。
    →スピノザ 開展、フーコー訓練
    未開人が雄々しく臆せず思慮深い人間に感嘆するように、文化的社会でも政治家より将帥を美学的判断力は尊敬する。ただし平和的人格的配慮も要求される。
    →ナチスと似て非なる点
    平和は、商人気質を旺盛にし、利己心、怯懦(きょうだ)、懦弱(だじゃく)を蔓延らせ、国民を低劣にする。たんに自然や神に恐怖し、ひれ伏すことは、心のうちに不届な心意がある。自身が神の意志に適うものとして意識したとき、恐怖を脱却し、自らの崇高性を自知する。自然事物への恐怖と不安の迷信から、自身の心意識への尊敬と崇高の宗教へ。
    崇高は、美と異なり、全ての人の判断との一致を要求するには、構想力と理性の認識能力も高度に開発されていることを必要とする。崇高は、粗野な人には威嚇にすぎない。ただし、崇高の判断は、人間の自然的本性のうちに、実践的理念に対する道徳的感情の素質のうちにもっている。美は趣味、崇高は感情を前提に、美学的判断の必然性の様態を要求する。
    ・美学的反省的判断の解明に対する総注
    快の感情は、快適、美、崇高、善。快適は感覚的刺激の量、美は性質を要し合目的性に目を向けさせる。崇高は自然と主観の関係であり、絶対的善は強制のアプリオリな必然性という様態。絶対的善は、美学的ではなく知性的判断であり、反省的ではなく規定的判断である。主観が障害を感じながらも、道徳的感情の内的状態の変様として感得しうる。道徳的感情は、義務行為の合法則性を崇高なものとして表示する。このことは、美学的判断力の形式的条件と類似している。
    美とは、概念的な感覚ではなく、単なる判定において快いものであるから、関心にかかわりなく快いものでなければならない。崇高は、感官関心に抵抗することで快いもの。美と崇高は、それぞれ悟性と実践理性において、主観的根拠に関係する。美と崇高が、同一主観で相合すると、道徳的感情に関して合目的なものとなり、自然美と尊重によって心を整える。
    崇高とは、自然が感性を超えて自然理念を表示するように、心意識を規定する対象のこと。★
    自然を直観するために、絶対的全体性の理念を必要とした理性が、構想力に働きかけ、主観的合目的性を表示する。つまり、絶対的全体性を超感性的なものとして考えざるをえなくさせる。道徳的感情に基づく、美学的判定がもたらす構想力の限界(拡張=数学的・心意識への力=力学的)によって、自然理念が思惟されうる。
    構想力自身が自由を奪うという意味で、崇高は消極的適意、反対に遊びのある美は積極的適意である。
    先験的美学においては純粋な美学的判断のみを問題にしなければならない。目的論的でも感覚的満足や苦痛の合目的性でもない、美学的形式的合目的性。星空を見るがままに広大な穹窿として眺める。それが崇高性。詩人に倣って大洋を映じるがままに崇高とみなさねばならない。美学的合目的性は、自由に働く判断力の合目的性。対象適意が依存する対象と主観との関係において、構想力を加える。
    知性的美、知性的崇高という表現は、知性的存在者なものでもないし、道徳的関心と矛盾することから、正しくない。知性的適意の対象は、道徳的法則である。この法則に先立ち、美学的心意識に威力を行使する。内的自由のためにいったん自由は奪われる。感覚的には消極的だが、知性的には積極的で関心に結びつく。知性的道徳的善が美学的に判定されると、善は美よりむしろ崇高である。愛よりも尊敬を喚起する。善が情緒を伴えば熱情となる。情緒は盲目的であり、自由な熟慮を不可能にするから、理性的適意ではない。しかし、熱情は、理念によって生じる高揚であり、崇高である。他方で、無情緒は、原則に従い精進する純粋理性の適意であるから、熱情より優れて崇高であり、高貴と呼ばれる。
    激怒や激越な絶望などの、克服を励起する逞しい情緒は、美学的崇高である。懦弱な情緒は、いささかも高貴でないが、心情の美である。優しい感動が、昂じて情緒になると感傷になる。小説、戯曲、浅薄(せんぱく)な修身訓、聖職者の説教などの同情的な苦痛、同苦は、弱々しい心の証拠であり、空想的なもの。自身の能力に対する信頼や、義務に対して無感覚にしてしまう。自己への軽蔑や後悔、受動性、誤った謙遜となる。激動は、教化として宗教的理念、文化として社会的関心と結びつくことがあるが、心の強さと知性的合目的性がないので、崇高ではない。説教、悲劇は、身体の運動と同様に、動揺の後の快的な疲労の享受にすぎない。崇高は、知性的な理性理念の格率を打ち立てねばならない。
    構想力が感性的なものを超出することによって無限なものを表示する。したがって、ユダヤ律法書で形像を禁止するのは崇高な章句であるといえる。ユダヤの情熱の由来。イスラム教にもある。道徳的法則とそれに対する素質も同様である。
    →カントはキリスト教よりユダヤ教モデル
    道徳的理念がある場合には、感覚を除けば、冷ややかな無気力となるよりもむしろ、本来的な感動を生み出す。道徳的でない無際限な構想力の熱狂を抑えるのに、政府は宗教を荘厳にし、心的拡張能力を奪うことで、国民を受動的で扱い易いものにした。
    狂熱は、理性原則を過信した夢想妄想である。熱狂は狂気、狂熱は偏狂と比較されうる。熱情は構想力が無拘束だが、偏狂は無規則。熱狂は悟性の一時的偶然だが、偏狂は疾病。
    →熱情(無拘束=自由)、無情緒、高貴⇔感傷、同苦、激動(動揺と享楽)、熱狂(悟性偶然)、狂熱(悟性疾病)
    作為なき合目的性の単純は、崇高の自然・道徳の様式。道徳は超感性的自然。ただし立法理性の直観は不可能。美と崇高は、普遍的同意性によって、社会に関心をもたらす。しかし、社会的隔離の孤高は、感性的関心を顧みない崇高である。たんなる人間嫌いや恐怖の非社交的逃避ではない欲求超脱の境地としての孤高は、崇高。
    →ドゥルーズ浅田逃避にむしろ孤高が近い
    孤高の人間的適意の喪失は、孤独を好む性癖、田舎への空想的願望、孤島の幸福の夢想、すなわち小説的、ロビンソン物語的な、世間の虚偽忘恩不公正の人間的愚かさに対する社交的断念。人間同志が互いに加え合う害悪を憂える悲哀である。
    →ローティ残酷さを避ける
    たんなる同情の悲哀はせいぜい美にすぎない。
    ソシュールのアルプス旅記におけるボノムの物悲しさ。憂愁といえども、道徳的理念に根拠をもつならば雄々しいが、同情によるなら懦弱な情緒にすぎない。道徳的根拠による情緒のみが崇高である。
    エドムンドバーク「崇高は自己保存と恐怖に基づくが、快適な感覚を呼び起こす戦慄であり平静である」。さらに欲望ではない愛に基づく美を、身体繊維の弛緩、緊張からの解放及び萎靡、気力弱化、不活発、沈滞、衰退、消散に帰す。判断力批判の分析は、心理学、経験的人間学に豊富な材料を提供する。
    表象は主観的感覚と結びつけうるという事実があり、その感覚的満足・苦痛は、生を促進する快と阻害する不快があるから、身体的なものである。しかし、美学的判断の普遍的同意性から、趣味判断は必然的に多元的なものであり、アプリオリな原理をもつはずである。趣味判断は、経験的法則を前提するから、経験的解明を手始めにする。美学的判断力の分析論は、第一に美学的判断の演繹(合法性の立証)がある。
    ・純粋な美学的判断の演繹
    自然美の趣味判断は、対象と形態に関する合目的性にある。美学的判断に、完全性の目的論的判断はない。崇高は、形式・原理をもたないので、判断がそのままアプリオリな主観的合目的性の関係だった。したがって演繹は、自然美の趣味判断のみが対象になる。
    演繹とは、ある判断の合法性を保証すること。理論的あるいは実践的認識判断ではないので、主観的合目的性を表す個別的判断の普遍妥当性を証明するだけでよい。普遍妥当性が、感官と概念なしにたんなる判定において可能になるのはなぜか。趣味判断における二つの特性、主観的なアプリオリな普遍妥当性と、アプリオリな根拠をもつ必然性を解明する。そのために快という内容を度外視して、美学的形式を論理学的客観的形式と比較する。
    第一特性の普遍的妥当性について。美は、対象の特性ではなく、判断者の捉え方に左右される。かつ、自分自身だけで判断せねばならない。若年の詩人は、自らの詩を美しいと判断していても、世間や友人の好評を博したいとあう欲望により妥協する。
    →商業音楽、美術、芸術など全て同じ。
    趣味は、ひたすら自律を要求する。文学や数学の模範を古人に求めることは、たんなる模倣ではなく、従前に勝る後継者として自身の道を行くように仕向ける。宗教もまた、自律のために歴史上の徳や実例を要する。模倣ではなく継承。趣味判断にあっても、長く賞賛された実例を必要とする。
    第二特性の根拠について。第一に、美の判定は他者の判断によらないので、経験的証明根拠は存しない。第二に、悟性的概念規則や、理性的アプリオリな証明にも、美学的判断は、耳を貸さない。趣味判断は、主観的妥当性しかないにも拘らず、認識的客観的判断であるかのように、全ての主観に同意を要求する。
    いかなる原則も、主観的な快にはあてはまらない。だが、論議はすべき。なぜなら主観的合目的性を実例で示すためだ。趣味の批判は、実例で示すなら技術であり、構想力と悟性の相互関係に規則を適用して条件を規定するなら学である。本書では、先験的批判としての学である。批判は、趣味の主観的原理をアプリオリな原理としてその合法性を立証する。
    趣味判断は、構想力の直観の図式化が、悟性の合法則性(概念ではない)に合致することにある。したがって、判断の形式的特性、すなわち論理的形式を考察すればよい。
    経験的述語を含む知覚に、概念が結びつくと、認識判断が形成され、経験判断が成立する。趣味判断は、概念・直観を無視するが、快の感情を付け加える。快は、経験的だが、全ての人に同意が要求されるから、趣味判断はアプリオリな判断である。アプリオリな綜合的命題はどうして可能か、という問題に帰する。
    趣味判断で知覚されるのは、快ではなく、快の(美の適意)の普遍妥当性であるから、一般的規則としてアプリオリに主張される。感性的対象一般の判定においては、快(構想力と悟性の調和の主観的合目的性)が、全ての人に要求されうる。
    ・注
    趣味判断は、判断の主観的条件を普遍的に前提でき、対象をかかる条件に正しく包摂している。しかし、趣味判断の対象を想定することがなぜ可能か、ということは主観の合目的形式を想定することなので、自然の目的論に関係する可能性がある。
    感覚的快は、主観で異なるから、同意を全ての人に要求することはできない。これは受動的な享受の快である。対して、道徳的行為の自発性による快は、道徳的感情である。法則に従う合目的性。
    崇高なものに関する快は、道徳的基礎をもち、普遍的同意の要求は道徳的法則を介する。対して、美に関する快は、享受でも行為でも理念的観想でもなく、たんなる反省的な快である。構想力と悟性の調和=主観的合目的性を快と感じる。美の判定は、主観的条件であるので、普遍的に同意を求めうる。
    普通という語は、極めて曖昧で、卑俗のという意味をもつが、ここでは共通感覚(sensus communisドイツ語gemeinschaftlich)の意味に解さねばならない。
    →ゲマインシャフト共同体組織=血地縁・精神的連帯、ゲゼルシャフト機能体組織=企業、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム
    共通感覚は、反省において他のすべての人の表象の仕方を考えの中でアプリオリに顧慮する能力。総体的人間理性のように客観的条件とみなす錯覚を免れるためのもの。自身を他者の立場に置くことによってのみ可能。内容=感覚を除き、表象状態の形式的特性だけに注意を向けること。
    悟性の考法の格率、①自身で考えること、②他者の立場に置き考えること、③自身と一致して矛盾なく考えること。成見=先入観をもたないこと、拡張、首尾一貫である。
    第一に、成見は、理性の他律への性向である。最大の成見は、自然法則を無視する迷信であり、迷信からの解放は啓蒙である。迷信は盲目状態を強い、他人に導かれたいという欲求、受動的理性を示す。
    第二に、特に強度の拡大使用に絶えない人をふつう固陋(ころう)=頑固、偏狭、拡張への反対と呼ぶが、認識能力に限った話である。そうではなく、合目的に使用する考方。拡張は、他者の普遍的立場から自身の判断に反省を加える。
    第三は、二つの格率を結びつける。第一が悟性、第二が判断力、第三が理性の格率。
    趣味は、健全な悟性にもまして共通感と呼ばれてよい。趣味とは、与えられた表象に関する感情に、概念を介することなく、全ての人が普遍的に与りうるものを判定する能力。
    反省的適意に実在的な快が結びつくためには、趣味は他のものと結びついている必要がある。美は、社会においてのみ関心を生ぜしめる。社会適格性と社交性が、人間性の特性であるならば、趣味判断が自然的傾向を促進することになる。無人島で一人住む人は、身だしなみや着飾ったりをしない。社会においてこそ、洗練された人間になろうとする。文明の始まり。洗練された人とは、他者に自分の快を与えることが巧みで、適意を共有しなければ満足しない人。趣味は、判定能力の感覚的享受から道徳的感情への移りゆきを促す。経験的関心は最大の多様と最高段階における傾向と欲情を融合したがる。美が経験的関心に基づくかぎりは、快適から善は曖昧にとどまる。
    技術の美=人工美は、道徳的善に結びつかない。自然美への関心は、善良な魂の標徴である。ただし、自然美の感覚的刺激ではなく、形式。自然動植物の形態の愛好だけでなく、失われるのを痛惜する人は、形式のみならず現実的存在も快い、知性的関心。自然美は、直接的関心を喚びおこすから、芸術美に勝る。自然美への愛好は、道徳的感情の洗練された人の考方と一致する。美術通や芸術愛好者は、芸術的対象にたんに関心をもつにすぎず、美しい魂を誇れない。
    純粋な美学的判断力は、概念を用いずに形式を判断するあるいその判定に適意を見出す能力で、無関心。他方で、知性的判断力は、自身で立法する実践的格率の形式に対して、アプリオリな適意を規定する能力で、理念への関心を生ずる。それぞれ、趣味の快不快、道徳的感情の快不快。理念法則の自然における合致としての客観的実在性は、関心を喚起する。このことに、自然美への関心は類似している。自然美への関心があることは、道徳的善への関心を確立しているということ。趣味判断と道徳的判断は、どちらも直接的関心。ただし、趣味判断は自由な関心、道徳的判断は客観的法則に基づく関心。自然は、目的をもたない合目的性のような技術として顕現する。目的は、我々の道徳的本分のうちに求められる。自然の目的論は後出する。
    芸術は、自然の模倣あるいは適意を意図した技術。後者は人工に対する間接的関心にすぎない。目的による関心。自然の対象に関心が生じるのではなく、自然自体が道徳的理念と相伴う。自然美の感覚的刺激は、光あるいは音の変様のいずれかであり、形式に対する反省を可能にする、いわば自然が語りかける言葉である。7色は理念に相当する。赤=崇高、橙=勇敢、黄=率直、緑=友情、青=謙遜、紺=剛毅、紫=柔和。人工の自然美は関心も趣味も美もない。詩人よりも小夜啼鳥(さよなきどり)の囀り。直接的関心は、自然でなければならない。自然の観照に対する関心の感情がない人は、粗野で卑陋な心意とみなされる。
    技術は、行為の結果としての作品であり、自然による働き、作用から区別される。蜜蜂の巣は理性的思慮に基づくものではなく、自然的本能にあり、創造者だけに技術という語は帰する。目的表象が現実的存在よりも前にあるものが、技術的作品。
    できると知るを区別するように、技術は学と区別される。実践的能力と理論的能力、技巧と理論。知るだけではできない。
    遊びとしてのみ合目的な自由な技術と、報酬のための技術である手工は区別される。それ自体で快適か、労働強制か。
    →目的としての技術か、手段としての技術か。
    ただし、自由七科が示すように、機械的な仕事は必要である。機械的なものを欠くと、精神は身体から離れて完全に雲散霧消してしまう。例えば作詞法には用語の正確さと豊富さ、韻律、韻律法を要す。したがって、近頃の教育家がいう一切の拘束を除く単なる遊びだけでは、技術を促進しない。むろん精神の自由が作品の生彩を与える唯一の要件である。
    美の学ではなく、美の批判、美的な学ではなく、美的技術(芸術美術)だけがある。趣味判断は証明しえない。修辞学や詩学など歴史的諸学は芸術の基礎であるが、本来の意味での美的な学ではない。実現の技術は、機械的技術である。快を意図するなら美学的技術である。快が感覚にすぎなければ快適な技術(享楽)であるが、認識の仕方であれば美的技術である。食卓での談話で陽気にする技術は、享楽である。宴会における料理や音楽もまた享楽である。楽曲ではなく気分を盛り上げるだけの音楽は、快適な騒音としての享楽。気づかず時間が経つものはすべて享楽。
    それに対して美的技術はそれ自体合目的である表象の仕方。たんなる感覚ではなく、反省に基づく快。美的技術は、感官ではなく、反省的判断力。
    →機械的技術・美学的技術(快適技術・美的技術)
    構想力と悟性の遊びの自由は、合目的でなければならない。普遍的快は、自由を基礎とする。芸術のように見える自然は美である。芸術は、人工にも拘らず、自然のように見える場合のみ美である。自然美、芸術美にかかわらず、美とは単なる判定において快いもの。美においては、対象も感覚的快も目的とはならない。美的技術は、苦心や流派形式など意図的規則が見えてはならない。
    天才とは、生得の心的素質を通して、芸術に規則を与える才能である。芸術は、必然的に天才の技術とみなされねばならない。悟性的概念規則ではないから、主観的自然認識が芸術に規則を与える。天才は、①規則を産出する独創、②判定の基準となる範例を示す、③産出次第を記述や学的ではなく自然として示す。
    →カントにおける芸術的天才は心的素質であり、主観的規則が普遍性をもつ。
    天才は、自身の着想を自分でも知らない。おそらく天才genieは、ゲニウスgeniusに由来し、ゲニウスとは、人間各人の指導的守護霊で、精霊の示唆による独創的な着想。④自然は、天才に学ではなく芸術で規則を与える。美的技術は芸術のみ。
    学習は模倣にすぎないから、学識は天才になりえない。ニュートン然り。しかし、作詩法を学んでも生彩ある詩を作りうるとは限らない。ホメロスやヴィーラントでさえ示しえない。発見者、模倣者、学習者にほとんど差はない。ただし、知識を教えうる学者の才能は天才と呼ばれるに値する。芸術の限界は久しい以前に到達されていて、もはや拡張されえない。芸術的技能は、自然の手から直に付与される。
    芸術的規則は、概念規則ではないから、作品から抽出されたものになる。
    →芸術、技術、ハイデガー、ポイエーシス、アリストテレス
    作品を目安にするために、臨摸ではなく、模倣のための模範として用いる。着想の伝授。言語芸術のような記述による場合は、古代語だけが古典的模範になる。
    機械的技術は、勉強と習得の技術。美的技術は、天才の技術。しかし、ある目的の実現のための機械的なもの、規則による正格的なものが芸術の本質的条件である。天才は、強制をかなぐり捨てるよりむしろ、素材に形式を与えるための正格を修練によって陶冶(とうや)することで、素材を判断力の判定に耐えうるように使用できる。理性による綿密な研究を必要とする事柄を、喋々したり決定するようなことは笑止千万である。
    →陶冶…生まれ持った才能を向上させること。正格…規則にはまって正しいこと。
    美を判定するためには趣味を必要とする。芸術美を産出するためには天才を必要とする。自然美は美しい物であり、芸術美は美しい表現である。芸術的作品が対象として与えられると、目的を前提するから、物が元来何かという概念を要する。完全性は目的との一致であるから、芸術美の判定には、完全性も考慮される。自然対象の美は芸術として判定される。目的を形態で表現することを前提している。芸術美は、狂暴疾病戦争など自然であれば不快なものも美として描写しうる。死や戦意などの嘔吐を催させるような醜だけは、芸術美を滅却させるので、寓意や持物によって理性の解釈として間接的にのみ表現される。したがって、対象表現は、概念を表示する形式である。形式には趣味のみで足りる。苦心改善の結果。趣味は産出能力ではなく、判定能力にすぎない。趣味に合致するものは、芸術的作品だけでなく、運搬具などの機械的技術や、講述の形式など学的技術も含まれる。芸術的作品は、詩、音楽、絵画などであるが、趣味を欠く天才や、天才を欠く趣味がある。
    精神を欠く作品、というときの精神とは、心意識(構想力と悟性)において生気(合目的の自由な遊び)を与える原理。精神とは、美学的理念を表現する能力。
    →ヘーゲル精神
    美学的理念とは、多くのことを考えさせる機因を成す表象で、思想も概念も言葉も適合しない、理性理念の対応物。逆に理性理念は直観的表象に適合しない概念。構想力は、経験的自然とは別の自然の表象、すなわち理念を産出する。理念と呼びうる理由は、第一に超経験的に理性理念を客観的に表現しようと努め、第二に内的直観には概念は適合しえない。詩人は天国地獄永遠創造を感覚化し、罪悪や愛などの経験の制限を越え、自然に完璧な形を与え感覚化する。理性の模範と競う。詩こそ美学的理念の本領発揮する芸術である。
    →ハイデガー詩、ローティ詩人
    構想力の表象、すなわち美学的理念が概念の根底におかれると、一定の概念では包括しきれないほど多くのことを考えさせる機因となり、当の概念を拡張する。構想力が創造的になり、理性理念を働かせる。つまり、表象が表象以上のことを考えさせる。
    →デリダ散種、メタファー
    概念そのものではなく、二次的に概念を表示する形式は、理性概念の美学的持物attribut[=象徴]。ジュピターの鷲は天帝の持物、孔雀は天妃の持物。構想力は、持物を機因として、言葉以上のものを考えさせるような類似表象全体の上に及ぶ。美学的理念を表示し、展望を開き、心意識に生気を与える=精神。
    →attribute象徴。フロイト
    芸術における持物は、絵画と彫刻に用いられるが、この2種のみならず、詩や修辞においても精神を持物から得る。
    フリードリヒ大王は、この世への謝意を太陽の光で表し、逆にある詩人は、太陽の出現を徳からの平安に喩えた。イシス(母なる自然)の神殿入口の銘、我は現存、かつて存在、未来に存在すべきものの全てであり、死すべき者で我がヴェールを掲げし者なし。崇高な句。
    美学的理念は、一つの概念に無数のものを付け加える表象であり、無数のものに対する感情が構想力と悟性に生気を与え、文字にすぎない言語に精神を与える。したがって、天才の心的能力は、構想力と悟性である。認識では悟性に従う構想力が、美学的判断においては素材をそのまま悟性に供給する。
    →知性的な認識にカテゴライズされると美的要素が消え去る。
    概念に対しては理念が見出され、理念に対しては表現が見出される。勉強したとて学得しえない。表現を見出す才能こそ精神。
    →ヘーゲル、ハイデガー精神
    心的状態に含まれる無数のものを、全ての人が与りうるには、構想力の遊びを捕捉して、一つの概念に統摂する能力を必要とする。
    天才は、①芸術の才能であり、②素材直観の構想力と作品目的概念の悟性の

  • 第三批判と称される、1790年に公刊されたカントによる趣味論。上級認識能力のうち判断力についてはKrVで若干言及するにとどまっていたカントが、趣味批判を通じて判断力のアプリオリな原理として「主観的合目的性」を提示する。ゲーテやシラーもこの書によって啓発されたと述べ、またこれを政治哲学の書として読み解くという解釈もあるなど、未だにアクチュアリティを失っていない著作である。

カントの作品

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