判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

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  • / ISBN・EAN: 9784003362587

感想・レビュー・書評

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  • 人間の究極目的は「人間」であるという一文にドキッとした。
    でも、それは主観的にということで納得した。

    人が自分が生きている価値を感じるためには「自分」を目的としなければならない。
    人は自然法則と違う選択ができる自由を持っている。
    自由は使い方によっては、自然を壊す。それは自分の生存を危うくする。
    それを避けるために道徳という制約を必要である。

    この本で私が捉えた最も大事なことはこれだけ。

    読書メモ

    2-1 目的論的判断力の分析論
    65
    因果的結合の種類
    実在的原因(作用原因)によるもの(機械的連関)→悟性に従う
    結果Aが原因Bによるものである時、AがBの原因になることがないー下降的系列
    観念的原因(究極原因)によるもの(目的論的連関)→理性概念に従う
    AがBの原因になることがありうるー相互的な依存関係


    p36
    「有機的存在者は、それ自身のうちに形成する力を具えている、そしてこの力を、元来かかる力をもっていない物質に伝える(これを有機的に組織する)」

    66
    p39
    「自然の有機的所産とは、そのなかにおいては一切のものが目的であると同時にまた相互的に手段となるところのものである」

    動植物学者らが研究する上で、格律「被創造物には何ひとつ無駄なものはない」と一般的自然学の原則「何物も偶然的に生起するものでない」が必要となることからもそこに有機的存在者の内的合目的性を判定するアプリオリな原理があると考えられる。

    67
    人間のために有益であるという目的(外的合目的性)が秩序立って見えてしまうことを自然の究極目的って言ってる???

    68
    p52
    「自然における合目的性という語は、反省的判断力の原理を意味するだけであって、規定的判断力の原理を言っているのではない」
    p54
    「原因と結果との結合は、我々自身の側における概念の結合であって、物の性質に関するものではないからである。」

    2-2
    69
    規定的判断力 すでに条件がある
    反省的判断力 条件を考える→矛盾が生じる(アンチノミー)

    70
    正命題>
    物質的な物の産出はすべて単なる機械的法則に従ってのみ可能である
    反対命題>
    物質的な物の産出の中には機械的法則に従うのでは不可能なものがある

    理性の立法においては矛盾。だが、理性はどちらの命題も証明できない。

    反省的判断力においては矛盾しない?
    正命題>
    自然の所産としての一切の可能な形式を「常に自然の機械的組織に従って反省し、またできる限り機械的組織を探究せねばならない、というだけ」
    反対命題>
    「或る種の自然形式について…自然の機械的説明とはまったく異なる原理、即ち究極原因の原理を探究し、この原理に従ってかかる自然形式に反省を加えることを妨げるものではない」
    p40
    「判断力は…(主観的原理に基づく)反省的判断力として、…或る種の形式に対しては、自然の機械的組織の原理とは異なる原理を、かかる形式を可能ならしめる根拠として想定せざるを得ない、ということだけである。」
    →反省的判断力は主観的なもので完璧ではない分、まだ機械的組織に組み込めないものも考える余地がある。だから、2つの命題が矛盾しないってこと?

    72
    「原因の性質を観察によって知るに必要な手引を求めるためだけにも、…有機的存在者のその可能とは究極原因の概念に従って判断されねばならない、という原則の正しいことは、いまだかつて何びとによっても疑われたことがなかった。してみると問題はこういうことだけになる、…この原則は主観的にのみ妥当するのか…我々の判断力の格律にすぎないのか、それとも客観的原理なのか…機械的原因…は単なる中間的原因としてのみこの究極原因に従属するのか」
    p64
    「技巧」=自然のとる原因性
    「意図をもつ技巧」
    究極原因に従う、特殊な種類の原因性
    「意図をもたない技巧」
    自然の機械的組織のこと
    「この原因性と、…かかる概念に従う規則との偶然的合致は、自然を判定するための単なる主観的条件と解せらるべきであるのに、それが誤って自然による特殊な種類の産出と解せられるに到った」

    73
    以下の、どの体系も完璧ではないよね。と言っている。
    p65
    自然の技巧に関する体系
    観念論
    (自然の合目的性は)すべて意図をもたない
    偶然性の観念論
    生命のない物質
    エピクロス、デモクリトス
     この世界はすべて偶然。
    「言葉通りに解せられる限り明らかに不合理…問題にする必要はない」
    宿命性の観念論
    生命のない神
    スピノザ
     この世界は神のいたずら。
    超自然的根拠を想定
    p71「合目的性の理念を生じせしめるものではない」
    実在論
    意図をもつものもある
    自然的実在論(物活論)
    生命のある物質
    物質の生命を想定
    p71「生命を有する物質(この概念は矛盾を含んでいる、生命のないということが、物質の本質的性格だからである)」
    超自然的実在論(有神論)
    生命のある神
    p73「我々の認識能力の性質と制限とにかんがみて…一定の目的関係を物質に求めてはならない」

    74
    概念の処理
    独断的 規定すること、客観
    批判的 反省(考察)すること、主観
    自然目的としての物の概念
    人間には客観的実在性を確認できない
    理性には規定できない

    75
    人間は「そこに意図がある」という視点からしか世界を理解できない
    p80「自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではない」

    76
    p86「絶対必然的存在者の概念は、欠くことのできない理性理念ではあるが、しかし人間の悟性にとってはついに達せられ得ない蓋然的概念なのである」
    p87「対象の認識が悟性の能力を超過する場合には…我々に必然的に付せられている主観的条件に従って考える、という格律に常に妥当することになる」

    77
    人間が捉えられる範囲に限界があるため、特殊から普遍の結合しか捉えられない。だが、人間には普遍から特殊の結合を求める。それは人間は対象を見る時、そこに原因があると考える性質(悟性)があるからだ。
    人間が世界の根本原因(神など)を捉えられなくてもどうしても想定するのはそういう性だからだ。
    p98「合目的な自然的所産を機械的に説明する原理は、確かに目的論的原理と両立し得るがしかし決して後者を無用にするものではない」

    78
    機械的原理と目的論的原理に共通な原理を自然の根底に置かねばならないが、これは超感性的なものなので、人間はこれに肯定的な概念・理論をもつことが難しい。
    機械的原理を追求することは目的論的原理の暴走を防ぐために必要。
    目的論的原理を想定することは機械的原理の追求を促進するために必要。
    p107「自然の機械的組織が、自然におけるそれぞれの究極意図を実現するための手段としてどれだけのことを為すかはまったく不定であり、また我々の理性にとっては永久に決定せられ得ない事柄である。しかし我々は、自然一般を可能ならしめる原理、即ち前述した可想的原理〔超感性的なもの〕にかんがみて、自然はいかなる場合にも、普遍的に合致する二通りの法則(自然法則と究極原因の法則)に従って可能であると想定して差支えない、とは言えこのことがどのような仕方で行われるかは、我々にはまったく洞察できないのである。更にまた我々は、我々に可能な機械的説明方法がどこまで達するかを知らない、ただ我々にとって確実なのは、たとえ我々が機械的説明方法を頼りにどこまで進んでみたところで、この説明方法では我々がいったん自然目的として承認したところの物を説明するにはけっきょく不十分であるに違
    いない、それだから我々は、我々の悟性の性質に従って、これらの〔機械的〕根拠を挙げて目的論的原理に従属させねばならない、ということだけである。」

    81
    有機物以外のものには内的合目的性はなく、外的合目的性しかない。そのため、「それがなぜ存在するのか」問うことはできない。

    82
    地球上の有機物は人間のために存在する→人間を最終目的に置く考え方(目的論的)
    地球上の有機物の均衡を保つために人間が存在する→人間を手段とする考え方(機械的)
    地学的見地からすると人間も手段としか見なされる
    だが、目的論的原理は反省的判断の原理(主観的に考察するもの)であることはアンチノミーで確認した。そのため、人間は自分を最終目的に置いて自然の法則性を見出すことも許される。

    83
    自然の最終目的を人間とした場合に、人間の最終目的は何になるか。
    自然によって充足されること→幸福
    自然は人間の思い通りにはならないから、満たされることはない
    p133「人間は、けっきょく自然目的の系列における一項にすぎない」
    人間が自然を上手に使用すること→心的開発
    p135「自分自身に対してみずから目的を設定し、…彼の自由な目的一般を規定する格律に従い、自然を手段として使用する適性という条件である」

    心的開発には意志によって欲求から解放されることが必要
    その手段として
    外的抑圧→他の人との衝突を避けるための公民的社会という合法的強制力
    戦争もその一部だよね…
    p138「戦争は最も恐るべき苦難を人類にもたらすものであり、また戦争に対する不断の準備は平時において恐らくいっそう甚しい苦難を人類に課する、しかしそれにも拘らず(国民の幸福とするところの平安な状態を欲する希望からはますます遠ざかるにせよ)、心的開発に資する一切の才能を最高度に発達せしめる動機を成すのである。」
    内的不満→文化による享楽からの克服
    p139「芸術と諸学とは 、すべての人が普遍的に与かり得る快により、また社会に洗練と醇化とを与えることによって、たとえ人間を道徳的に改善するまでには到らないにせよ、しかし少くとも人間を教養あるものにするのである」

    ⭐︎ 84 世界の存在即ち創造そのものの究極目的について
    最も大事な項目だと思った。
    ⭐︎ p140「究極目的とは、自分自身を可能ならしめる条件として、自分以外の目的を必要としないような目的のことである」
    物の目的による結合を実在的なものと「見なし」、これらの物がなんのために形式を持ち、他の物との相互関係の中に置かれるのかの客観的根拠を悟性に求めるとしたら、それを求める物自身が存在するためという目的にたどり着かざるを得ない。
    この目的は自然的条件に全く関らない無条件的なものであり、これが「自由」である。
    自然に自由を行使できる存在=究極目的に値するために、人間は道徳的でなければならない。

    85 自然神学について
    これは誤解された自然的目的論である。
    自然の目的論は、人間の認識能力の性質のため、自然の合目的性は自然にある種の悟性があることを想定する。しかし、それが究極目的を持っていたかを理論的に説明できない。

    87
    世界に理性を持たない物しかいないとしたら、世界の目的や価値を考える存在もいないから、その世界には価値がない。
    だから、世界の目的となる物は自然から自由となる条件である理性を持ち、その自由で自らと自らを生かす自然を壊さない条件である道徳性法則に服従する存在=人間である。

    どんなに道徳法則を尊ぶ人であっても現実とのギャップに挫けずにはいられないから、神の想定は必要である。

    91
    p201
    事実
    概念の対象となるもの
    客観的実在性が経験や純粋理性(理論的、実践的)によって証明されるもの
    理念の中で例外的に事実に属するもの
    「自由」のみ
    純粋理性の実践的法則と経験の両方から証明される
    p202
    信に属する物
    純粋実践理性を義務に従って使用するためにアプリオリに必要なもの
    「神の存在」と「心の不死」
    これは理論的には決して説明できないため、事実にはなり得ない

    第一序論
    2
    自然の合法則性→自然の機械的原理

    5
    反省的判断力は自然の法則を我々の判断力に適合するように節約し、斉一性を固守する。
    自然の技巧の原理を我々が見出すのはこのため。

    6
    p267「合目的性は、元来偶然的なものの合法則性にほかならない」
    自然の集合 機械的
    自然の体系 技巧的
    反省的判断力のみが区別

    7
    自然の技巧と機械の対立
    目的の有無
    有り 技巧 原因性
    無し 機械 多様なものの単なる結合
    てこや斜面を目的のために使用されるが、目的自体になることはない
    p271「我々が究極目的を物のなかに持ち込むのであって、物の知覚から究極目的を取り出してくるのではない」

    9
    【余談】
    カント

    フッサール

    ブーバー
    反省的判断力(美感(美学)的判断力)
    規定的判断力
    it(ただ存在する物)
    感性
    悟性
    目的論的判断力
    you(主体性のある物)
    理性

    判断力
    自然の形式は分かる。
    主観的合目的性、悟性と判断力の調和
    目的は作り出すものなので、自力では分からない。
    目的論的合目的性、悟性を理性と関わらせる

    自然の中で結果が原因よりも先にある状態
    目的がある
    理念がある と表現される

    自然の有機的所産の観察には、まずそこに目的を見出さないと、その物の性質や原因を経験として研究することはできない

    ???
    ここの、悟性(形式)では原因→結果という流れだったのが、理性(目的)では結果→原因の特定という逆の流れになるのが分からん。
    ここが理解できないの致命傷だと思う。

    眼球の水晶体の例
    水晶体が網膜上に像を結べる(目的)のは、光線を2回屈折させるから(原因)だ。
    そう理解すると、人間は水晶体の仕組みを理解しやすい。
    だからといって、自然がそういう目的を持って水晶体を作ったかは人間には分からない。

    p296「自然目的の概念は、反省的判断力が経験における対象の因果的結合の攻究を旨として、自分自身のために設けた概念にほかならない」

    10
    p303「我々はまた石をもってきて、その上で何か或る物を砕いたり、或はその上に何かを構築したりすることができる、そしてこのような結果はまた目的としてのその原因に関係せしめられ得るのである。しかし私は、それだからといってこの石はもともと建築に用いらるべきであった、と言うことはできない。眼は物を見る用をなすべきであるという判断は、眼についてだけ言い得ることである。眼の形状、そのすべての部分の性質や組織は、単なる機械的自然法則に従って判断する限り私の判断力にとってはまったく偶然的であるにも拘らず、私は眼の形式や構造において、この器官が或る仕方で形成されていなければならないという必然性を、或る種の概念〔目的の概念〕に従って考えるのである、そしてかかる概念を欠くと、私は単なる機械的自
    然法則によるだけではこの種の自然的所産の可能を理解することができないのである(このようなことは、いま述べた石についてはあり得ない)。かかる『べし』は、自然的機械的必然性とは異なる必然性を含んでいる。 」

    11
    心的能力/上級認識能力/アプリオリな原理/所産
    認識能力/悟性/合法則性(客観的必然性)/自然(理論的判断)
    快・不快の感情/判断力/合目的性(主観的必然性)/技術(美学的判断)
    欲求能力/理性/同時に法則であるような合目的性(責務)(主観的に必然であることによって客観的妥当性をもつような必然性)/道徳(実践的判断)(自由)

    快・不快の感情、欲求能力の根底にも認識能力はある

    悟性/自然と理性/自由はアプリオリな規定的原理をもち、哲学の部門をなす

    判断力は両部門を結合するだけで、論理的なものではない

  • 反省的判断力は、自然における多様な特殊的経験を普遍に包摂し、体系を構築する。それが自然の技巧の合目的性であり、『純粋理性批判』における悟性カテゴリーや理性規則のように、アプリオリな必然的前提としての原理である。判断力における快の感情は、主観的普遍性(共通感覚)としての美を感じさせるが、それは道徳的感情が象徴されたものである。他方、自然の莫大な量・力に対する崇高の感情は、道徳的義務の強制を象徴するものである。『実践理性批判』で示されたように、実践理性は、道徳的法則によって自由を認識させ、法則の対象としての最高善を前提して、その実現を保証する神と心の不死に、実践的にのみではあるが客観的実在性を与える。美と崇高によって認識される自然の目的は、人間の悟性と知性的存在者(=世界創造者=絶対的必然的超感性的存在者=神)とを技術的所産の類比によって想定させるが、そこにおいて主観的道徳的法則の目的論と、客観的自然法則の目的論が、実践的な意味で接続される。いずれの場合も、感性界の自然認識だけでは達することはなく、道徳的法則を前提してはじめて可能になる概念である。
    カントは、『純粋理性批判』の認識論において「何を知りうるか」という人間理性を感性的自然から限界づけ、『実践理性批判』の道徳論において理性の超越傾向が「何をなすべきか」をアプリオリに規定することを示した。しかし、その二者、すなわち感性的自然法則の悟性認識と、実践理性の道徳的自由法則をつなぐ「何を望みうるか」の回路はどこにあるかを判断力、すなわち自然の合目的性を主観的普遍性(共通感覚)として判定する美に求めた。美学的-反省的判断は、構想力と悟性の間で、悟性概念認識としての規定とは異なる、経験的直観の快としての二つの能力の調和=自由な遊びを合目的に判定するものであり、趣味判断とも呼ばれる。これは、理性規則と悟性概念から判定する規定的(論理的)判断力や、自然目的を判定する目的論的判断力、快適を判定する美学的-感性的判断力のいずれとも異なる。なお、共通感覚(sensus communisドイツ語gemeinschaftlich)は、ゲマインシャフト共同体組織=血地縁・精神的連帯、ゲゼルシャフト機能体組織=企業の連想をさせ、また、ウィトゲンシュタインの生活形式に基づいた言語ゲームも想起させる。美を判定する趣味判断は、特殊的なものに対する主観的な快の感情であるにも拘らず、他者にも伝わる普遍性を根底に置く。そこにカントは、道徳的法則に対する感情が象徴されているとする。この点は、ルソーの市民宗教的な共同体でもあり、アーレントが見出したようにカントを政治哲学的に読む核心部分でもある。そして、同じ趣味判断から見出される崇高の感情は、自然の莫大な量と力による直観を超越した感情であり、そのことが人間を超えた道徳的法則の義務の絶対的な強制を暗に示すという。そして同時に、安全な場所から感じる崇高は、自然法則から分離された人間の自由法則を悟らせるものでもある。判断力の原理である自然の技巧、すなわち自然の合目的性は、自然の目的の概念を前提していることから、自然の目的論も判断力批判に属し、目的論的判断力の論理学としての自然的目的論として、後半の第二部が充てられる。自然を機械的に捉えることは、自然法則を悟性が見出すための前提ではあるが、自然の目的という超感性的な概念には辿り着けない。そこで、自然物が技巧的に産出されたとする人間の技術的悟性との類比によって、知性的存在者=世界創造者=根源的絶対的必然的存在者が想定されるのである。そのことによって、自然法則が一つの体系に統合されることが可能となり、多様が種類として体系化でき、目的の体系として想定しうるのである。このことはやはり道徳的法則がアプリオリであるから可能なのであって、人間悟性によってはじめて認識されうるのである。つまり、カントが行ったのは、自然法則と自由法則を美学的判断で繋ぎ、全てを道徳的法則を前提とした、道徳の形而上学に収めることだったといえる。
    なお、最後に収められている付録の序論は総括として非常によく、本書全体の体系の整理がなされる。特に下記の見取図は、カントの論述の意図が明快になるので、カントの三批判だけでなく、それを下敷きにした思想家を読む上で非常に役に立つ。
    〈心的能力の体系的結合の見取図〉()内は文中より追記
    心的能力-上級認識能力-アプリオリな原理-所産
    ①認識能力-悟性(理論的)-合法則性(客観的規定)-自然(感性的基体)
    ②快不快の感情-判断力(美学的)-合目的性(主観的反省)-技術
    ③欲求能力-理性(実践的)-責務(法則かつ合目的性)(主観的かつ客観的規定)-道徳(知性的基体)
    ※判断力を介して感性的基体から知性的基体へ移行する。判断力の合目的性は、超自然的基体に関係させない限り理解されえない。
    ・第二部 目的論的判断力の批判
    先験的原理に基づいて、特殊的自然法則に従う自然の主観的合目的性が判断力によって理解され、特殊的経験が統合されて一個の体系をなす。また、自然は判断力に適合する種別的形式を含むあり方をしていて、構想力と悟性の調和を強化する美的形式をなしている。
    しかし、自然の目的は、感性的自然にはなく、我々のうちにある表象を統合する主観的根拠との類比に従って、自然を理解する思弁が先立つことになる。これに対し、客観的合目的性は、偶然的な機械的連関としての自然を描く。したがって、自然の目的を統一する目的論的判定は、目的の原因性との類比において観察する、反省的判断力に属する。自然の結合や形式が目的に従っているという考えは、機械論的自然ではない、いまひとつの原理。自然の意図や、自然の構成的原理を目的論の根底に置くと、自然の目的は規定的判断力による理性概念になる。
    ・第一篇 目的論的判断力の分析論
    円の内部の三角形における円の特性のような、幾何学問題における図形は、客観的合目的性を示す。円錐曲線の物理における放物線、楕円を描く天体の軌道。古人は目的を意識せず研究し、成果は後人を裨益した。この合目的性は、必然的であることを完全にアプリオリに証示できた。プラトンはこのような超自然的原理(音楽も数学的)から一切の調和を汲む心的能力を知り、一切の存在者の根源と一致するイデアまで上昇した。しかし、そのような根拠は我々の外ではなく、理性に存する。客観的合目的性は、形式的合目的性である。目的論は不要。円の概念に外部から規定されるような目的はない。これに対して、整然とした庭園は、経験的に存在している。実在的合目的性。
    合目的性への感嘆は規則に適合しており、経験的な外的根拠、すなわち目的をもつかのように見える。これがアプリオリに認識されるとき、空間は物の性質ではなく、私のうちの表象にすぎないと考えざるをえない。合目的性は私の表象の中にある。この規則は、対象を規定しないが、真正な原理として私によってアプリオリに認識される。
    驚嘆は表象による原理と私の原理との不一致から生じる疑念だが、感嘆はこの疑念が消滅しても残る驚嘆。したがって、感嘆は自然の合目的性の結果。
    →正しく見ているにも拘らず驚く
    超感性的なものを予感させる。感性的直観形式と悟性の調和をさせる根拠。図形や数の合目的性は、概念に関わるので美ではなく、相対的完全性。構想力と悟性を強化する直接的表示が美。理性の精確さが結びつくと端正の美。この場合の適意は主観的だが、これに対して完全性は客観的適意を必然的に伴う。
    自然の目的という概念は、結果の条件としての原因性の法則が成立する場合に限られる。結果を技術的所産である自然の目的(内的合目的性)とみなすか、素材という相対的合目的性(有用性・有益性)のための手段とみなすか。
    河川が運ぶ土は、豊穣な陸地として植物の国となる。しかし、有用だから目的とは限らない。海が引き、砂地になり、ドイツトウヒが森林を作った場合など、上位の目的に対して下位の目的が手段をなす。
    →アーレント手段目的
    獣のための草、駱駝のための砂漠のオカヒジキ、狼虎獅子のための草食動物。物それ自体は客観的合目的性にならない。相対的である。偶然的合目的性にすぎない。
    →目的が見方によって手段になる
    人間の生存に不可欠な自然物も、自然の目的。外的合目的性(有益性)は、受益者の存在自体が自然の目的をなすという条件を要する。
    機械的自然法則ではない目的を考えるならば、経験的認識でさえも、悟性認識ではなく、理性概念を前提することになる。理性は、自然の原因に必然性を見出せない。形式は偶然的である。したがって、原因性は意志である。
    図形は理性と結びつく。理性概念と結びつく偶然性には、自然法則は存しない。対象概念が原因性を含む。技術の結果が目的となる。
    一方で、自然において実在する目的は、原因であり結果である。自然の原因性の実例、第一に樹が樹を生み出すなら類という点では、自分自身を生む。第二に、個体として自身を生む、生長でななく生殖。外の機械的自然にはなく、自身からの所産。第三に、相互に依存し合うどの部分も自身を産出する。接木しても同じものを生む。
    因果関係は、悟性のみによって考えられる限り下降的系列(原因→結果)となる。作用原因による結合(機械的連関)、実在的原因による結合と呼ばれる。これに反して、理性概念(目的)による場合は、上昇下降相互的な依存関係となり、原因の結果となる。例えば家屋は家賃金銭の原因であるが、家屋を建てる原因が可能的収入でもある場合、究極原因による結合(目的論的連関)、観念的原因による結合と呼ばれる。
    自然目的であるためには、部分は全体に関係していなければならない。したがって全体理念を前提するから、理性的原因の技術的作為によるものである。しかし、自然的所産として、目的に対する関係を自身と内的可能に含む、すなわち理性的原因が不要な自然目的としてのみ可能であれば、部分が互いに原因であり結果であるものとして全体をなす。そのときは結果から見て全体の理念が、部分を規定しうる。したがって、内的可能に関して自然目的とみなされるならば、部分は相互的関係にあり、一つの全体を生む。このとき全体の概念は、全体を産出する原因となり、作用原因が同時に究極原因による結果となる。
    部分が他の部分によってのみ存在し、全体のために実在する、すなわち全ての部分がそれぞれ道具(器官)とみなされる。たんなる技術の道具ではなく、産出する器官。
    →全体性ナチス、ドゥルーズ器官
    有機的存在であると同時に、自分自身を有機的に組織する存在者として自然目的。
    時計の歯車は、他を産出しないので機械的連関であって、一部が欠損すれば別の存在者を必要とする。しかし、有機的自然は動かす力だけではなく、形成する力を備えている。自然は、有機的に自分自身を組織する。これを生に類似するものといえば、物に物活論を与えるか、共在原理(心)を与えることになる。そうなると、工作者としての心を別で捉えねばならなくなるので、自然は原因性に類似するものはない。したがって、自然の内的完全性は、人間の技術との類比で捉えられるものではない。
    ※国家の有機的体制はこの意味で適切な用語法である。
    →政治と自然目的
    自然目的は、因果法則ではないので悟性理性の概念ではないが、その原因性との類比に従って、反省的判断力に対する統整的概念として使用されうる。研究指導や、実践理性における対象の最高根拠。有機的存在者は、実践的ではなく、自然の目的に客観的実在性を与え、目的論の根拠、特殊的原理の根拠を与える。
    →自然を全体と捉えてなんらかの目的に向かうものと想定する。
    有機的存在者(所産)は、全て目的であり、相互的に手段である。この合目的性の原理の根底には、アプリオリな原理がなければならない。このアプリオリな原理を、有機的存在者の内的合目的性を判定するための格率(主観的原理)と名づけうる。組織の意味を見出す解剖学者には、この格率は必要である。
    自然目的という概念が、理性を秩序の中に持ち込む。理念は絶対的単一性であるので、機械的組織の数多性は受け入れられない。自然の目的の単一性を、自然的所産の形式に、原因性として持ち込むなら、一切のものを常に目的論的に判定せねばならない。それぞれが有機的なもので道具でもある関係。
    →機械は原因結果が一方向で、それぞれのものが別で存在するが、全てが有機的なものとして接続するなら一つの目的があるとみなせる。
    自然の外的合目的性(有益性)は、自然の目的や究極原因の結果としての説明根拠にはならない。河川を諸民族の交際に役立つから自然の目的であるとか、山岳の水源保持、陸地の傾斜が水捌けをよくするなどは、それ自体を可能にする原理ではない。それ自体目的でない=手段になりうる外的関係は仮説的にしか合目的と判定しえない。実際存在を自然の目的とみなすことは、究極目的の認識が必要であり、目的論的自然認識を遥かに超出する。それは、自然の外部に目的を要する。草の茎の内的形式は、それだけで目的をもっていると考えうるにも拘らず、他の存在者が利用しうるという外的合目的関係だけを取り上げるわけにはいかない。
    →リゾーム
    それでは定言的無条件的目的に達することはできない。自然の外に目的を求めることになってしまう。草→家畜→人間という連関において、人間の存在はなぜ必要かは答えられない。したがって、物質は、有機的組織をもつ限りにのみ、自然目的を必然的に伴う。
    自然目的は、目的の規則に従う体系である自然全体という理念に到達するので、機械的組織はこの全体に属する。この原理は主観的原理=格率として理念に所属する。「一切はなんらかの目的に役立ち、無駄なものはない」という格率。そして自然と法則の合目的であることを使命として要求するようになる。これは、反省的判断力に対する統整的原理である。
    →ドゥルーズスピノザ的な、生態系的な自然
    この観点から、衣服の害虫が清潔を促したり、アメリカの蚊はその開墾のための刺衝物である。夢は構想力を活発にして、生活器官を運動させる健康状態の救済手段である。
    →フロイト夢
    自然の目的という体系の理念を想定しうるならば、自然の美も同様に、自然全体の体系という自然の客観的合目的性とみなされる。有用な自然物だけでなく、美や感覚的刺激をも自然の恩恵とみなしうる。さればこそ自然の意図が舞台を用意したかのように、自然を尊敬し、自身の醇化を感じうる。
    ※自然美は目的を度外視するが、目的論的判断においては美も恩恵として自然目的になりうる。
    自然は、機械的組織の外に特権的な目的があるのではないが、究極原因は自然全体という内的合目的性として目的の体系を想定しうる。
    →スピノザ自然
    学の原理は、内的な土着的原理か、外的な外来的原理のいずれか。外来的原理は、概念と根拠を他の学から借りる補助命題を根底におく。いかなる学も、それ自体で一個の体系をなす。建築物のように一つの全体として構築せねばならない。したがって、自然の合目的性のために、自然科学に神の概念を持ち込むと、自然科学と神学の内的自存性を失う。しかし、自然の目的という概念で、自然科学の目的論的判定を神学的導来と混同せずに済む。自然の意図を自然に帰する。
    自然における合目的性とは、反省的判断力の原理を意味するだけで、機械的法則と異なる研究の理性使用をその不十分を補うために付け加えるにすぎない。自然の目的論の自然の智慧、節約、配慮、仁慈は当を得ている。これらの語は、理性の技巧的使用における原因性との類比に従って表示するにすぎない。
    目的論が神学への橋渡しと見られるのは、機械的組織的な研究が観察実験の規則に限定されるためである。自然の目的は、機械的な因果関係の概念の結合に明示されない、物の性質である。
    ・第二篇 目的論的判断力の弁証論
    規定的判断力そのものは、対象概念を確立する原理や、自律性をもたない。与えられた法則や概念の下に包摂するだけだからである。したがって判断力だけで矛盾が生じることはない。これに対して、反省的判断力は、法則も概念も与えられていないので、反省的判断力自身が原理のようをなさねばならない。したがって、合目的性のための主観的原理によって、経験における特殊的自然法則を認識する必然的格率をもち、理性概念を含む概念に達する。ここには矛盾が生じうるので、アンチノミーが成立する。自然本性に関するアンチノミーは、自然的弁証論であり、仮象は避けられない。
    理性の自然に関する法則は、二通りあり、アプリオリに自然を規定するか、経験的規定において無限に拡張するか。第一の普遍的自然法則は、客観的原理の与えられた規定的判断力である。第二の場合は、経験的な特殊的自然法則であるので、極めて多様で異種的な経験的認識を偶然的に統一する反省的判断力である。特殊的自然の統一には二通りあり、純粋理性がアプリオリに判断力を与える格率、特殊的経験を機因とする格率。これらは矛盾する。
    第一の格率、『物質的な物とその形式との産出は、すべて単なる機械的法則に従ってのみ可能であると判定されねばならない』正命題。
    第二の格率、『物質的自然における所産のなかには、単なる機械的に従ってのみ可能であると判定されえないものがある(原因性の異なる法則、究極原因の法則)』反対命題。
    二つの統整的原則を規定的判断力に対する客観的原理とみなせば互いに矛盾する。しかしこれは判断力ではなく理性立法の矛盾。我々は経験的自然法則に従う物のアプリオリな規定根拠はもてない。
    反省的判断力としてみなせば、矛盾しない。すなわち、第一は、できる限り機械的組織の原理に従って反省し探究せねばならない、という意味に解せる。実際これを根底におかないと自然認識は不可能になる。そして第二は、自然法則に関してこれまでとは別の認識を発見できるということ。すなわち自然の内的根拠として、自然的-機械的結合と目的結合が統合されて一つの原理となるということを、規定的判断力としては不可能ではあるが、反省的判断力として想定せざるをえない。
    特殊的自然法則は、経験的にしか認識されえないので、偶然的であり、完全な内的原理(超感性的)にたどり着くことは不可能。したがって、自然の産出能力が、目的理念あるいは機械的組織だといずれか、目的が根底に存するかは理性は答えられない。しかし、機械的組織は有機的存在者について説明根拠を与えないので、究極原因と目的が考えられねばならないことは反省的判断力にとっては正しい。むろん規定的判断力には早計であり、証明不可能。この理念は実在性ではなく反省の手引きとして利用するだけ。機械的説明根拠も感覚界から離脱するわけではない。自然的機械的格率と目的論的技巧的格率におけるアンチノミーに見えるのは、反省的判断力の自律(特殊的経験法則の主観的妥当)を、規定的判断力の他律(悟性による普遍的特殊的法則)に準拠せねばならないと勘違いするからである。
    究極原因の原則は、主観的な判断力の格率としてのみ妥当するのか、客観的原理として機械的原因が従属するのか。思弁においては未決定にとどまる。さもなければ究極原因は、理性の予感か、自然の示唆となる。しかし、自然的所産は余りに深く隠蔽されているので、主観的原理の技術の原理を、類比的に原因性として自然にやむを得ず帰するにすぎない。
    ここで、自然の目的らしいものを目安に、自然のとる手続き(原因性)を技巧と名づけ、特殊的な原因性の「意図をもつ技巧」と、機械的な原因性の「意図をもたない技巧」に分ける。
    (誤植?p65の4行目末、というにある)
    自然目的の、有機的存在者が意図をもつ実在論と、意図をもたない観念論。実在論の仮説的帰結は、自然の技巧は意図をもつ、目的である。
    観念論は、偶然性か、宿命性かのいずれかである。偶然性は、物質と形式の自然的根拠、すなわち運動法則との関係、エピクロス、デモクリトス的だが明らかに不合理。宿命性は、物質と自然の超自然的根拠との関係、スピノザ的。この場合、根源的存在者の自然本性に由来する世界統一の必然性から、悟性的意図はないので、無意図的である。合目的性の宿命論は同時に合目的性の観念論である。
    実在論は、自然的か超自然的かのいずれかである。自然的実在論は、目的において内的原理の世界精神による生命を根底におくので、物活論と呼ばれる。
    →ヘーゲル世界精神
    超自然的実在論は、宇宙の本原的根拠として知性的存在者をおくので、有神論と呼ばれる。
    ※自然の合目的性について、純粋理性の思弁的解決を試みる哲学諸派。生命のない物質(偶然的観念論)、生命のない神(宿命的観念論)、生命のある物質(物活論)、生命のある神(有神論)。
    (誤植p68 3行目我々「の」目的論的判断)
    エピクロスの目的意図なき機械的観念論は、全てが偶然となり何も説明しえない。仮象も観念論もなくなる。
    スピノザは、自然一般を原的存在者の付随性とみなし、自然目的の実在性を取り除き、自存性のみを帰する。そして偶然性と意図的なもの、すなわち悟性を除去する。したがって、目的による統一は不可能。目的には、原因と内的結果を結びつける実体の悟性が必要。全てが目的かつ原因であるスピノザの先験的完全性は、なんら因果関係による目的の概念をもたない。
    自然目的の実在論は、原因性をもつものの客観的実在性をもたねばならない。しかし、生命と物質は矛盾する。経験的な生命をアプリオリに規定はできない。
    有神論は、規定的判断力の客観的原理としては主張できない。
    独断的処理は、理性概念に従って規定的判断力で規定することである。批判的処理は、認識能力の主観的条件に従って反省的判断力で考察することである。理性は、自然目的の概念の客観的実在性を絶対に証明しうるものではない。自然目的は規定的判断力に対する構成的概念ではなく、反省的判断力に対する統整的概念にほかならない。自然的所産は、一方では必然性を含み、他方では偶然性の普遍的自然法則も含む。認識できない超感性的な根拠を含むことになってしまうから、反省的判断力には内在的ではあるが、規定的判断力には超絶的で客観的実在性をもたない。
    物の実際的存在や形式が、目的を条件としてのみ可能とすると、物の概念は、普遍的自然法則に関しては偶然性と結びついている。★
    この場合、自然物は、自然の外の実在的知的存在者が世界の根源であり、世界が依存する。目的論が自然研究にもたらす帰結は、神学においてよりほかにない。
    自然物の内的可能を認識する場合すら、根底に合目的性を置かねばならない。そして、合目的性を思いみ説明するためには、合目的性と世界を知性的原因(神)の所産と考えるよりほかない。我々の自然本性、すなわち理性の条件に従って判断する限り、自然目的を知性的存在者以外を思いみるのは絶対に不可能。このことだけが反省的判断力の格率に適い、主観的根拠ではあるが人類に必然的に与えられている根拠に適合する。
    ・注
    理性は原理の能力であり、推し進めれば無条件者に辿り着く。これに反して、悟性は自分の条件のもとでのみ理性に仕える。理性は、客観的綜合的判断のための悟性を欠くことはできない、統整的原理を含むものに過ぎない。悟性が追従できなければ、理性は超絶的になり客観性を失う。悟性は理性を主観的妥当性にとどめるが、類に属する主観全てに妥当性を及ぼす。このことは、客観的証明は不可能であるが、思索の材料を提供し、説明に役立つ。
    物の可能性と現実性の区別は悟性にとって絶対に必然的である。主観と認識能力の本性に存する。2つは悟性概念と感性的直観に由来する。表象と概念における可能的なもの、概念の外にある物自体の現実的なものの設定を意味する。したがって区別は悟性に主観的にのみ存する。物一般に存するわけではない。
    理性は、自然の必然性と自由の原因性の両方を前提し、対立する。道徳的には必然的行為も自然現象としては偶然的になる。すべきだったがなされなかった、と。このとき道徳的法則は命令、適合する行為は義務となる。理性は、かかる必然性をあるsein、生起するgeschehenではなく、あるべきsein-sollenと表現する。
    →ハイデガー存在
    可想界やその形式的条件である自由は、超絶的概念であり、客観的実在性を規定する構成的原理ではない。しかし、自由は、感性的自然と能力を理性から思いみる限り、普遍的な統整的原理の用をなす。普遍が特殊を包摂するとき、特殊は偶然的なものであるからアプリオリには不可能である。したがって、自然の合目的性は、判断力にとって必然的であるが規定的ではないから、人間にとって主観的原理である統整的原理であるにも拘らずあたかも客観的原理であるかのように必然的に妥当する。
    ・人間悟性の特性
    自然目的の概念は、悟性に対する理性原理ではなくて、判断力に対する理性原理。したがって、反省的判断において、人間悟性とは異なる可能的悟性の特性が開示される。『純粋理性批判』において直観が、現象としての可能的直観を想定せねばならなかったのと同様。つまり、特殊な悟性に鑑みて、自然の可能に自然目的の意図を見なさねばならない。悟性と判断力の関係において、特殊の偶然性を悟性の特性とする。直観の完全な自発性は、感性に関わりない認識能力であり、直観的悟性といえる。目的概念を介してのみ考えうる自然法則と判断力の合致を必然的なものにする。悟性の特性とは、自然原因について、概念という部分的な分析的普遍から、与えられた経験的直観という特殊の形式的帰結へ進まねばならないということ。これは規定ではないから、反省的判断力による包摂に依存する。
    論証的悟性は、全体が部分に依存すると考えるが、直観的原型的悟性は、部分の可能が全体に依存すると考える。
    →目的という全体
    自然的所産の全体が結果とみなされ、全体の表象が原因とみなされる。原因の結果の表象を根拠として、原因から生じる所産が目的と呼ばれる。反省的判断にすぎないから、規定を求める自然学にとっては満足できない。したがって、論証的悟性=模型的知性は、直観的悟性=原型的悟性へと至る。機械的な結びつきから全体を想定するとき、その内的可能は目的としての全体の理念に依存する。これが有機的物体。
    現象界を機械的普遍的法則によって、知性的直観の基体を物自体として目的論的特殊的自然法則によって考察すれば、自然に対する超感性的な実在的根拠を想定しうる。
    →感性的自然法則を悟性概念の普遍的原則によって、理性的目的論を理性理念の特殊的超感性的法則によって理解する。機械論で全体に到達すれば目的論的な有機論に至る。
    自然の目的論のためには、原因の自発性が必要である。しかし、理性の性急な空想的狂熱的妄想を避けるためにも、できる限りこれを機械的に可能なものとみなさねばならない。
    機械的原理と目的論的原理の合一は、経験的自然の外の超感性的な物に求められねばならない。これは経験的規定によっては不可能だから、反省的判断による解明される根拠のみによる。説明とは原理から導来することであるから、まず合一する原理を示さねばならない。しかし、経験的に規定されえない以上、超感性的な理論は不可能。反省的判断の格率として主観的にのみ妥当する。目的論に機械的組織が加わらないと自然の産出が判定されない。したがって目的論が合一の必然性を伴う。機械的組織を意図をもつ技巧に従属させることができるだけ。自然の合目的性という先験的原理に従えば十分になされうる。
    目的に対する手段としては、機械的組織を想定しうる。意図的なものを、自然全体に対する反省的判断力の普遍的原理と想定すると、機械的法則と目的論的法則の結合がありうる。
    ・付録 目的論的判断力の方法論
    目的論は、どんな学に属するか。目的は神の規定的な想定ではないので、神学ではない。自然の結果を客観的原理として規定できないので、自然科学でもない。したがって、目的論は理論ではなく、批判、しかも特殊な認識能力の判断力の批判に属する。アプリオリな原理として自然の判定に方法を挙示するから自然科学の手続きに消極的に影響を与えるし、形而上学の予備学としての神学にも影響を及ぼす。
    人間には機械的組織による自然合目的性の全てを説明しきる知性的直観はないから、根底に有機的組織をおかなければならない。比較解剖学によって、動物の多様な種を類として共通な図式に一致しているその根底、様々な種が共通の原型に従って産出されているという希望の微光。
    考古学者は、遺物から機械的組織に従って族を思いみることができる。合目的性の低い被造物から、場所や被造物相互の関係に適応するような被造物へ種が限定されていく。このとき、目的に適合する形式を考えるために、それぞれの有機的組織を普遍的母胎に帰しなければならない。かくして、究極原因に至る。
    ある種の形式を考察するときに、偶然性を目的に回収する。ヒュームはこの種の目的論的判定原理、すなわち建築術的悟性に「では人間悟性はなぜ可能か」という問いによって反駁する。しかしこの反駁は無意味。人間悟性の独裁制を指摘して、目的を集合には見出すことは不可能。
    最高根拠に悟性を認めない場合は、世界を包括する唯一の実体を想定する汎神論か、世界を唯一の単純な実体に付属する多数の規定の総括とするスピノザ説のいずれかになる。スピノザ 説は目的の因果関係が一つになっているので、原因性が何かには応えていない。
    機械的組織から考えると有機的存在者の説明には不十分であり、意図ある原因の目的論的原理に機械的原理が従属することを想定せざるをえない。まったく同様に、目的論には意図をもつ作用原因の道具手段として機械的組織が配せられなければならない。
    目的論には、機会原因論か予定調和説かいずれかをおける。機会原因論は、生殖の機会に理念に従った有機的形造を与える。予定調和説は、種が自己保存を続け、個体の消滅は自然が補充する。機会原因論に自然はなく、可能判断の理性も消滅するので、哲学者でこれを採用するものはいない。予定調和説は二つあり、個々の有機的存在者を分出物とみなす個体的前生説・開展説(内展説)か、産出物とみなす後生説[新生説]・類的前生説か。
    開展説は、個体を世界創造者が直接作るものとして、生殖の機会的創造を無用のものとみなす。形式発生の超自然的措置は、自己保存のためだとする。
    後生説は、理性の自然目的の原因性に適う。代表格は、有機的物質から自然学的説明をしたブルーメンバッハである。
    (誤植p122最終行「自身自身」→自分自身)
    有機的組織の原理を根源的な部分に設定し、機械的組織の関与を認める。彼は、物質の機械的形成力を、有機的物体においては形成本能と呼んだ。
    外的合目的性とは、他のものを手段とみなすときの合目的性である。そのものを可能ならしめる内的合目的性をもたない大地、空気、水等も他の存在者(自然目的たる有機的存在者)にとっては原因を目的に関係させた手段となるので、外的合目的でありうる。山岳などの物は、目的を設定できないので、手段として大地などをみなすことはできない。
    内的合目的性は、有機的存在者なら「なんのために存在するのか」と問うことができるが、物は創造的悟性の意図と関わらないので問いえない。有機的存在者の外的合目的性は、一つだけあり、男女両性の有機的関係である。この対は、有機体を産出する一つの全体である。
    何のために存在するかという問いは、意図なき機械的組織か、究極原因と目的の有機的組織かである。目的は、存在者自身に究極目的としてあるか、手段としての存在者の外の自然的存在者に究極目的があるかのいずれかである。しかし究極目的である存在者はない。
    植物→草食動物→肉食動物→人間。つまり人間が創造の最終の目的。目的の体系を作りうる唯一の存在者。
    →人間中心主義
    しかし、リンネに従えば、草食動物は植物の過剰を抑えるため。肉食動物は草食動物の貪食を制限するため。人間は肉食動物の自然の産出と破壊の均衡をとるため。この場合、人間は手段にすぎない。
    →フーコー言葉と物のリンネか
    意図があるとすれば、まず土地と生活環境と思われるが、実際には陸海は混沌としており、陸地の形態は噴火や海洋の激騰によって生じた結果にすぎず、合目的性はなんら見出されえない。では、いかに自然目的を見出せるのか。
    ※記述的自然学は自然史と呼ばれるが、太古の地球の表象と技術の対立から、自然の考古学と呼んでよい。自然史は化石、技術は石器類。自然じたいが我々を誘う自然研究。
    (誤植p129最終行「地球理論と名ずけて称」)
    この考えでは、人間は自然の最終目的ではありえない。目的の体系も構築できない、機械的組織になる。しかし、目的論は反省的判断であり、究極目的以外の存在者の起源を考えることはできない。機械的原理だけでは、有機的存在者を説明できないから、超感性的原理によるしかない。主観的現象を超感性的基体に関係させることによってのみ、そして目的としてのみ、法則として統一できる。
    反省的判断力に対しては、人間を自然の最終目的と判定するに十分な理由があり、自然物は理性の法則に従って目的の体系を成す。そして、人間の目的は、自然による充足としての幸福か、自然を使用する適性・熟練の心的開発かということになる。
    幸福は、動物的な本能ではなく、経験的条件と自身の状態を一致させる理念。悟性で様々に構想したり変更する。したがって、普遍的法則を立てて、幸福概念と目的を一致させることは不可能。人間の自然的素質は、類を破壊する支配や戦争に向かうので、人間もまた自然目的の一項にすぎない。したがって、究極目的は、自然において求められてはならない。
    少なくとも人間を最終目的とするならば、究極目的たる人間がなすべきことを示さねばならない。地上の幸福は、究極目的とは合致しない、自然によって可能な目的の質量(内容)にすぎない。したがって、目的として残るのは、形式的主観的条件、すなわち自ら目的設定し、自由な格率に従い、自然を手段として使用する適性。このことこそ、自然が超自然的な究極目的を果たしうる、自然の最終目的である。目的を設定する適性を生み出すことが、心的開発。心的開発が人間の最終目的。つまり、幸福でも自然調和でもない。熟練は、意志の目的達成に必要な適性に本質的な条件である。訓育(訓練)の開発と名付けてよい。訓育は、消極的なものであり、欲求の専制から解放するにある。理性は本能を必要に応じて、引き締め緩め拡張縮小など自由に扱う。
    熟練を発達するのは、人間の不平等である。生活に比べれば必要性の低い文化、学問、芸術等に携わる人に、生活必需品を機械的に供給するために、大多数は殆んど楽しみもなく辛い労働に勤しまなければならない。ただし、高い階級の文化は労働階級にも広まる。
    →階級論
    無くても済むような物が求められ、生活必需品を圧迫する文化の高度の進歩は贅沢と呼ばれ、外来の強力行為か、内部の不満によって災禍が生じる。これは自然的素質にあり、自然の目的はこれによって達成される。究極目的のための唯一の形式的条件は、人間相互の法的体制であり、公民的社会が抗争する自由を抑制する。世界公民的全体、すなわち危険国家を統摂するような体系が必要。戦争は、人間の無意図的企てであるが、至高の智慧による隠微な意図的企てである。諸国家の自由の合法則性と、諸国家間の道徳的体系の統一を準備する。心的開発を発達させる動機をなす。
    人間の自然的素質は、動物として、情意的傾向に対しては合目的である。しかし、人間性を著しく困難にする。訓育は、人間の教化という自然の合目的努力が現れている。動物的な傾向(享楽への傾向)として、趣味を極度に洗練して理想化することや、虚栄心を培う諸学の過度の殷賑は、禍いを及ぼす。しかし、享楽傾向への粗野と烈しさを克服し、人間性の発達を促すことは、自然の目的である。芸術と諸学による社会の洗練と醇化は、道徳には至らないが、教養あるものにする。感性から理性へ。自然や利己心の禍いは、心的諸力の適性を我々に感知させる。
    ※もし人生の価値が享受である幸福によって測られるならば、人生の価値は容易に0以下として決定される。同じ条件で、あるいは享楽だけの人生をやり直す人はいない。不定ではあるが、究極目的に対する手段にとして、我々がなすところのもの、合目的になすところのものによって与えられる価値しか残らない。かかる条件のもとでのみ、自然も目的たりうる。★
    "もし人生の価値が我々の享受するところのもの(一切の情意的傾向の総計という自然的目的即ち幸福)に従って測定されるとすれば、人生が我々にとってどのような価値をもつかということは、容易に決定されるわけである。かかる人生の価値は零以下である。"(『判断力批判(下)』岩波文庫p139)
    究極目的とは、自分以外の目的を必要としない目的。機械的組織では原因は思考できず、想定するためには、原因となる悟性の客観的根拠を示さねばならない。この根拠が、有機的存在者の存在の目的である。物が究極目的として実在するなら、理念以外の条件にはかかわらない。
    →究極目的を考えうるのは、理性のみ。
    世界には、目的論的原因性を有する唯一の存在者がある。原因性は目的に向けられ、目的設定のための法則は自然法則とはかかわらない無条件的なものであり、しかし同時に必然的なもの。この種の存在者が即ち人間、ただし可想的存在者としての人間である。超感性的能力(自由)のみならず、原因性の法則を、その最高善という対象と共に、認識しうる。
    "道徳的存在者としての人間については、人間はなんのために実在するのか、という問いはもはや無用である。人間の現実的存在は、それ自身のうちに最高の目的を含んでいる、そして彼は自分の力の及ぶ限り全自然をこの最高目的に従わせることができる"★
    物が実在に関して依存的存在者であり、目的に従って作用する原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である。
    →ハイデガー現存在、ある種の人間中心主義
    道徳性の主体としての人間においてのみ、目的に関する無条件的な立法が見出されうる。かかる立法こそ、人間をして、全自然が目的論的に従属するような究極目的たらしめる。★
    ※機械的組織によって説明可能な幸福とは異なり、目的に従う原因性は、超感性的な主観的原理である。創造の究極目的に関して、人間は何のために実在せねばならないのかと問うとき、客観的な最高目的、すなわち最高の理性[神]が創造のために必要とする目的を指している。答えとして、最高原因が仁慈を施しうるため、とするなら、人間理性の道徳的一致と矛盾することになり、幸福は条件付きの目的にすぎず、道徳的存在者として究極目的でありうるということを証示している。幸福は結果としてのみ目的と結びついている。
    →人間の実在を神の施しに求めるなら、幸福の追求には限界があることになり、このことを人間理性と一致させるなら、自然と調和させる道徳しか究極目的としては合致しえない。
    自然神学は、経験的な自然目的から最高原因を推論しようとする。道徳神学は、アプリオリな道徳的目的から、自然の最高原因を推論する。
    →自然神学は経験的、道徳神学はアプリオリ。
    自然神学の自然目的は、道徳神学の究極目的よりも前にあり、原因性の原理を求めうる。自然研究は、目的論的原理に従ってなされるが、解明は不可能であり、反省的判断力の格率以上の洞察はできない。
    "そこで私は敢てこう言おう、──自然神学は、たとえどれだけ発展を遂げるにせよ創造の究極目的について何ごとをも開示することはできない、この神学は究極目的を問う段階にまでも達していないからである、と。"
    →ハイデガー開示
    自然神学は、自然における条件付きのものしか考察できないから、理論的にも実践的にも目的を規定できない。自然の外に出られないから、自然はなんのために実在するのかを問えない。
    →存在論、柄谷行人の言語数貨幣
    自然物は全てなんらかの目的に役立っていると思いうるのか、という問題には、判断力が目的論的に判定せざるをえない。我々に与えられているのは経験的なものにすぎないが、決して全自然を包括しえない。経験は自然を越えないから、目的概念、最高知性概念に達することはできない。
    自然神学は、その課題を縮小すれば、すなわち神概念を濫用し、可能的完全性を前提すれば、自然的目的論は神学を確立しうる。しかし、このような権利はない。最高存在者の理念は、理論的理性ではなく、実践的理性の使用であり、アプリオリに存し、我々の存在根拠をなす。
    古代の人々は、創造者の目的を想定したが、反目的なものを含む経験的世界から目的の証明はできなかったので、創造者の完全性を想定せず、人間同様に制限されていると考えた。しかし、自然神学者は、自然原理に絶対的単一性を求め、絶対的存在者に付属するものとして自然物を規定した。知性もまた絶対的存在者に由来する。この主体は単一であるから、全てが合目的になるので、究極原因の観念論になる。唯一の実体とすれば汎神論であり、根源的存在者からいえばのちのスピノザ説となる。これらはいずれも自然の合目的性の実在性を否定し、物一般の存在論的一般概念の誤った解釈に貶めた。
    →ハイデガー未完の、物一般の存在論
    神が理論的に示されないならば、かかる概念は、機械的組織によるか、原因性の実在論、すなわち唯一の知性的存在者を自然目的の根底におくか。究極目的をアプリオリに与えうるのは、純粋理性だけである。究極目的を欠くならば、全知無限な根源的存在者の理念は不可能。
    我々は、自然的目的論について、認識の経験的条件により、自然をある種の悟性の所産としてしか考えられない。むろん自然が智慧を備えているわけではないし、自然の最高の智慧が統括しているわけではない。したがって、自然神学は、誤解された自然的目的論で、別の原理を必要とする神学の予備学にすぎない。
    普通の知性でも、世界の被造物がなんらかのひとつの体系をなすという判断をする。被造物の価値は、人間の考察を含めて、究極目的に関係することで初めて価値をもつ。したがって、究極目的を前提する。創造の究極目的、絶対的価値を判断する基準は、幸福(感性的衝動の快、安寧や享楽)ではない。考察の対象として残るのは、欲求能力の自由(善意志)においての行動。善意志によってのみ絶対的価値をもち、世界存在は、道徳的人間に関係してのみ、究極目的をもちうる。
    →道徳的な人間によって、自然物が目的の体系をもち、究極目的が規定されうる。
    一般人の判定ですらこの善による究極目的の見解と一致する。人間は道徳的存在者としてのみ創造の究極目的たりうる。★
    主観的目的である幸福は、究極目的とはなりえないが、その主体が究極目的と両立するための唯一の条件。
    我々が究極目的に従属する世界配列を見出すとき、自然が実在するための創造の最終目的、すなわち究極目的実現の最高条件が問題となる。
    →目的の体系が想定されるならいかに現実化されるかが課題となる。
    道徳的人間が、世界を究極原因の体系とみなす主要条件であり、自然と目的の国における最高根拠としての第一原因の原理をもつ。根源的存在者を普遍的法則を与える立法的な知性的存在者としてのみならず、道徳的な目的の国における立法的元首としても考えざるをえない。かかる根源的存在者の統治のもとでのみ、最高善とこの存在者の実在に関して、全知の存在者と思いなす。我々の心意を見通すことから全能であることになり、原因性の条件として、全自然に対して大慈であると同時に公正である(知慧)と思いなす。究極目的の前提となる永遠、偏在の先験的特性も想定する。かくして、道徳的目的論が自然的目的論の欠陥を補い、神学を確立する。これなしでは自然的目的論は、精霊論にすぎない。
    道徳的目的論を神に関係させる原理は、自然的目的論を補うのではなく、それ自体で原理を充足しており、人間を技術と研究に向けさせ、純粋実践理性の理念を自然の目的において実証する。道徳的人間はアプリオリな原理であり、自身を判定せざるをえない。創造目的の道徳的関係の必然性も、自然法則と同様に必然的である。では、最高原因に究極目的を帰する根拠は十分なのか。もし十分なら道徳的人間の他に究極目的はありえない。経験的自然において目的を認識するのは不可能であり、まして自然が目的なしでは実在しないということは洞察されえない。
    →ハイデガー被投性としての世界内存在、現存在
    ・注
    ある人が道徳的感情と調和したとき、すなわち美しい自然に囲まれて自身を落ち着いた明朗な心的状態で享受するなら、感謝の内心の要求を感じる。そして、道徳的義務をなしうるし、命令と服従の内心の要求を感じる。義務に違反すれば自責の声を聞く。つまり、道徳的知性者を要請する。感謝、服従、恭順は、義務を果たしたいと希う特殊な心的状態であるから、知性者の実在の要求と根拠は道徳的心意に存する。世界の外に想定することが必要なのである。
    →ウィトゲンシュタイン言語の限界、柄谷行人批判と移動
    道徳的根拠に基づき、立法的な純粋実践理性の賞賛のみを期待して、知性者を想定する。人間は究極目的には達しえないから、道徳的努力そのものが世界原因を想定すべき根拠として判断されうる。したがって、努力を徒爾とみなしたり、徒に萎靡させる憂いもない。
    以上から、①神概念を生み出すのは、恐怖ではなく、目的論的理性であり、②人間の存在目的は、内的道徳的に規定することで、自然認識を補うということがわかる。
    →崇高は義務の象徴、美は道徳的調和の象徴?
    このことによって、究極目的に対する、最高原因としての神、すなわち全自然を従わせる意図の原因を思いみることができる。
    ・神の存在の道徳的証明
    道徳的目的論における知性者は、内的なものであるから、幾何学的図形を思い描くときと同様に、我々の外に必要とされるものではない。道徳的目的論は、人間、究極目的、自然物の相互関係にかかわる。すると、知性的最高原理と、自然の合目的を求めさせるのかが問題になる。すなわち、道徳的目的論は、自由の立法と自然の立法に必然的に関連する。その執行力は神学に至る。道徳的目的論は、道徳的法則に服従する(※)理性的存在者を究極目的として設定することによって、世界の価値を生み出す。
    ※ 創造者の威力を自然と一致させてしまう超越的な前提として「従う」のではなく、自律的な自由な行為として「服従する」ということで、究極目的たりうる。善悪の結果が道徳的法則に従うところに最高の知慧を認める。神の栄光。創造とは、世界の(物の)存在の原因にほかならないが、知性者を必ずしも前提するものではない。
    道徳的法則は、理性による形式的条件であり、このもとで自由を使用する。そして、アプリオリに究極目的を規定し、努力する責務を課す。究極目的は、自由によって可能な、世界における最高善である。
    人間が道徳的法則のもとで、自分の究極目的を設定しうるための主観的条件は、幸福である。自然的善は、幸福である。これを客観的にみたときには、「幸福に値する」という条件のもとに摂せられる。しかし、道徳的法則の要求は、自然法則の原因性によっては合致しないから、道徳的世界原因(世界創造者)を想定せざるをえない。究極目的と世界原因は同じく必然的でなければならない。すなわち、神が存在するということ。
    ※かかる神の証明は、客観的なものではなく、道徳的実践的には、神の存在を受け入れねばならないということ。
    実践理性は、理性的存在者に究極目的を指定するが、これが自然的本性でなければならない。理性は目的が普遍的になることを欲するから、道徳との一致を幸福に求める。かかる究極目的は、その行為の結果ではなく、誠実な意志の形式として、義務を果たす努力が道徳的法則によって命令されているのである。
    仮に神の存在を信じないからといって、義務の法則を踏みにじるなら、自身を自身の目にさえ取るに足らぬ人間として映じるだろう。その後に神を信じたとて同じであり、逆に義務の履行がなされたように見えても義務を尊重しているわけではない。また、義務を誠実に履行していても、神を信じなければ、道徳的心意と折りが合わないだろう。神も来世も存在しないとするスピノザのような人は、道徳的法則によって、内的目的が設定されている事実をどう受け止めるのか。かかる善の行為の努力には、限界がある。幸福に値するはずの人が、自然によって災禍を蒙って、混沌の深淵の底へ投げ返される事実をどう受け入れるのか。尊敬の感情を無意味として弱めたくなければ、神を想定せざるをえない。
    ・道徳的証明の妥当性に付せられた制限
    実践理性は、自身の原因性の自由な使用を純粋理性概念によって規定する能力。実践理性は、道徳的法則において、行為の統整的原理を含むが、同時にある種の構成的原理、すなわち行為の実現結果としての対象の主観的-構成的原理を与える。このとき究極目的の理念は、主観的-実践的実在性を有する。
    →こうなるという因果関係が、こうあるべきという構成的原理になるから、実在性まで想定することになる。
    かくして幸福と道徳を結ぶ最高善へ努力するようアプリオリに規定されている。経験的な幸福の可能は蓋然的であるが、アプリオリな道徳の可能は自然と無関係であるので確実である。究極目的が客観的-理論的実在性をもつためには、人間が究極目的を所有するだけでなく、世界もまた究極目的をもつ必要がある。
    →究極目的が主観的原理だけでなく、自然に現れていなければならない。
    これが、目的をもたぬものは何一つ存在しないということを自然研究の原理として想定する理由。しかし、自然に究極目的を求めることは無益である。なぜなら究極目的は、理性的存在者の理性のうちにのみ存するから。実践理性は、自然だけでなく、理性的存在者の究極目的をも規定する。したがって、創造の究極目的の客観的実在性は、規定的ではなくとも、理論的-反省的判断力の格率に対してなら説明されうる。
    理論的-反省的判断力の原理に従えば、自然の現実性(創造)の最高原因としての知性の原因性を考えねばならぬとすれば、自然目的だけでなく、究極目的を思いみるのに十分な理由をもつ。解明はできないが、説明はしうる。ただし、実践理性にしか使用されえない。道徳的法則によって究極目的の可能を想定する理由をもつ。
    ただし、道徳的目的論から神学に至るには、このような創造の究極目的の想定だけではなく、①究極目的に従う自然物の実在に対する知性的存在者と、②かつ世界創造者としての道徳的存在者すなわち神を想定せねばならない。これは実践理性においてのみ可能。ただし、自然的目的の認識は、この実践的実在性に力を貸す。
    誤解のための注意として二点。第一に、我々は最高存在者を類比によってしか考えることができない。第二に、最高存在者を認識したり理論的に性質を帰することはできない。そこで問題になるのは、最高存在者に関しいかなる概念をもたねばならないか、また、目的の実践的実在性のためだけに最高存在者の実在を想定せねばならないのか。
    我々は身体運動の原因と結果を表彰のうちにみる。このことによって、動かす力という特性を心に帰す。
    →ウィトゲンシュタイン哲学探究、右手が上がる。
    同様に、道徳的究極目的に対し、実践的必然性として存在者を想定することができるが、それは、最高存在者と我々の実践理性との関係を表現するためにすぎない。悟性や意志を想定するのでも自然から区別するのでもなく、主観的に必然的なものとして、反省的判断力に妥当する統整的原理として想定しうるにすぎない。
    ・注
    かかる道徳的証明の根拠は新しいものではなく、たんに新たな解明にすぎない。行為の道徳的是非は、古来より行われてきた。そして、道徳的法則に従って、世界を支配する最高原因としての神より他には、自然と一致する原理を見出せなかった。思弁的理性はこれに追いつくことはできず、まず第一に道徳的関心から自然美と目的に注意を向けさせたが、世界原因の理念を強化するにとどまった。自然研究は、究極目的を前提する関心があり、それは自然に対する嘆美において示される。
    ・道徳的論証の効用
    超感性的理念を実践的使用の条件だけに限定することは、神の理念に関する効用を伴う。神学が神智学(神人同形論)に堕したり、宗教が巫術(神以外の超感性的存在者と感応同交するという狂信的妄想)、偶像礼拝(道徳以外で思召しを期待する迷信的妄想)※に陥るのを防止する。
    ※実践的な偶像礼拝は宗教の一端であって、純粋概念をもっていても偶像として神人同形論的に表象する。
    神を理論的に洞察するなら、理性に限界を付すための原理が必要。二つ考えられるが、何事も理論的に規定はされないとするか、拡張的知識がまだあるとするか。道徳の前に理論的知識(神学)を置くと不道徳なものになり、究極目的の代わりに認識的な理性判断(心理学)をおくと行為の内感の現象は示しえない。死後の魂の概念は、理論的説明は不可能であり、一切が我々の存在の目的論的判定と死後の存続の想定に委ねられている。心理学はこの制限があるから、心霊学、唯物論にはならない。心理学は、内感、生きている我々の思惟する自己に関する知識として、経験的に止まる。しかし、死後の永遠の実在は、道徳的目的論の推論に基づいている。心理学の使用は、実践的規定として道徳的目的論に関してのみ必然的となる。
    ・神の存在の目的論的証明における意見の種類
    証明の要件は、説得ではなく、確信させ

  •  再読。カントの批判三部作のうち、美や芸術に関する判断について記述したもの。
    「美」をめぐるカントの思索はやはり興味深いものであり、美学の古典的なスタイルを示しているものとおもう。
     カントは美的判断を「趣味判断」と呼んでいる。そして「美」は快いものだが、そこには何らかの普遍性がなければならない。というか、美的判断そのものが、他の人びとにとっても同様に美であることを要求する。
     けれども美的判断はまったく「主観的な」判断であるため、それを公式化することはできない。
     ところでカントは「美」について、また「芸術」(=美的技術)について語るとき、常に「自然」にも言及せずにはいない。この自然の美は、たとえば、花や夕焼けの美しさのようなものである。
     また、これが厄介な点だが、カントは「合目的性」という概念で自然や芸術の美を説明する。
     最近読んだ進化論の本では、背後に神を想定せざるをえないような「合目的性」の考えは、生物学的レベルでは誤りであるとするのが一般的らしい。
     カントは最終的に神概念を全力で擁護するつもりだったから、この点、決定的に「現代の知」と異なる。
     では芸術における「合目的性」をどう捉えればよいのか。確かに「技術としての芸術」は作者が意図的に諸要素を配置することによって、合目的的だとは言える。ただし、この意識的統制の原理は、20世紀音楽の、たとえばケージやクセナキス以降では(部分的に)破棄される。シュルレアリスムで既に、「意識的な技術としての芸術」は否定されていた。我々は「意識」「意志」や「理性」に対する全幅の信頼を、もはやカントの時代のようには持っていない。
     するとカントの言う「合目的性」は原理としてはやはり重要性を失ったというべきだろうか。

     この本の前半はたしかに面白いが、訳はあまりよくないようだ。光文社古典新訳文庫で、「実践理性」「判断力」が引き続き出るならば、もう一度手にして熟読してみたい。

  • 『判断力批判』第二編および判断力批判のための独立した序論が含まれる。目的論的判断は人間理性にとって不可欠なものであり、それは機械論的自然観とも両立しうることなどが説かれる。第二編はもっぱら趣味批判にページが割かれた第1編よりも、さらに自然を人間はいかに判断することができるか、という論点に絞り込んだ内容となっている。

  • 目次
    第二部 目的論的判断力の批判
     第一篇 目的論的判断力の分析論
      62実質的‐客観的合目的性から区別された単なる形式的‐客観的合目的性について
      63自然の内的合目的性から区別された自然の相対的合目的性について
      ほか
     第二篇 目的論的判断力の弁証論
      69判断力のアンチノミーとは何か
      70判断力のアンチノミーの提示
       ほか
    付録 判断力批判『第一序論』
     Ⅰ体系としての哲学について
     Ⅱ哲学の根底には上級認識能力の体系が存する、そこでこの体系について
     Ⅲ
     Ⅳ
     Ⅴ
     Ⅵ
     Ⅶ
     Ⅷ
     Ⅸ
     Ⅹ
     Ⅺ
     Ⅻ

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