- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003363003
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歴史における「理性」を明らかにしようとするヘーゲルの歴史哲学は、否定的に取り扱われた東洋世界を抜けて、西洋世界へと足を踏み入れていく。主観的自由の豊かな内実を展開したギリシャ、形式的原理として自由を確立したものの、「不幸な意識」にとどまるローマを承けて、キリスト教が登場してくる。キリスト教の原理がゲルマン的思想と結びつくことによって、近代西洋へと至る道が用意される。そしてヘーゲルは、「近代」の決定的徴表をルネサンス、宗教改革、そしてフランス革命に見出す。ここに至って弁神論、すなわち自由の原理の現実化の過程を把握する世界史の哲学は一応の幕を閉じる。ヘーゲルの「歴史哲学」は様々な批判に晒されてきたが、西洋近代が確立してきた原理を歴史的に弁証する試みとして、無視し得ないものであることは間違いない。批判に晒されてきたということが、逆にヘーゲルの思考の偉大さを物語ると言えるだろう。
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原署名: Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte
ギリシャ世界
ローマ世界
ゲルマン世界
著者:ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Hegel, Georg Wilhelm Friedrich, 1770-1831、ドイツ、哲学)
訳者:長谷川宏(1940-、島根県、哲学) -
あれから二百年の現代。
共産主義と全体主義の台頭と実存主義、理性の暴発とポストモダン社会の閉塞感。
ヘーゲルは歴史の動きをどう見ているだろうか? -
この上下巻は、上巻が東洋編とすれば、下巻は西洋編をなしている。ヘーゲルと云う人は、今で言うかなり自文化中心の人で、東洋の歴史は、「世界精神」というものの歩む歴史的に必然的な発展コースから外れているという理由でかなりないがしろにしている。要は、政治的に正しくない。しかし、そんな凡庸な批判は、補って余りあるほどその直線的進歩史観は、豊穣に有機的体系をなしているように感じた。
記憶に残ったところは、人間と言うものは、現実から疎外されて、主観と内面の世界に引きこもるとき、初めて世界に対して完全な精神的自立をはたす契機を得る、というような記述。どうもそういうヘーゲル哲学のコアになるような部分に差し掛かると、途端に理解が難しくなってくるのだけど、なにか凄いことを言っているということだけは気配として感じる。
理解が難しかった部分はキーワードとして「主観」「内面」という語がよく使われていた。ここの辺りのキーワードのニュアンスを知っておかないと、肝心の部分がよく分からなくなると思う。どうも「主観」というものを必ずしも「客観」に劣るものと捕らえていないし、「内面」も「現実」に劣るものと捕らえてない。寧ろ人類の歴史は、素朴な「客観」「現実」による束縛から、「主観」「内面」を経由して再びそれらと統合された「客観」「現実」に邂逅していくのである、とこの本には書かれているように思った。これがいわゆる「弁証法」というものだろうか。よく分からないが。
この辺りのキーワードのニュアンスは、なんとなく『精神現象学』に書かれていそうな気がする。難しいらしいが。あと、ヘーゲルはキリスト教をかなり重視した歴史観を持っている。山川の世界史なんかでは、キリスト教の内面は問題にしないが、さすが西洋の哲学ではその内面における革命を盛んに論じている。ウェーバーの『資本主義の精神とプロテスタントの倫理』でも、キリスト教部外者には難解な部分が多かったと思う。これを機に、『新約聖書』も読んでみるといいかもしれない。 -
上巻アジア編については、あまり見るべきところがなかったが、下巻の西洋史の分析についてはヘーゲルの真面目たるところがあるだろう。
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やはり上巻よりもおもしろい。宗教と政治。