読書について 他二篇 (岩波文庫 青 632-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003363225

作品紹介・あらすじ

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」-一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀ドイツの哲学者アルトゥル・ショウペンハウエルによる評論3篇を所載。『思索』『著作と文体』『読書について』。
    どの著作も現代に通じるほどの箴言が連なっており、自分にも耳の痛い言葉ばかりで、読書に対する姿勢について強く反省させられる。
    反面、どれだけの上から目線やねん!という反骨心がむくむくと起き上がってくるのも否めず(笑)、また、簡潔な文章を推奨する割には、延々と同じネタで執拗に繰り返される罵詈雑言や、ジャーナリストや流行作家、それにフィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどへの執念深そうな罵倒の繰り返し(恨みでもあるのか?)には辟易させられた。本書に出てくる「第一級の精神」とか「真に才能に恵まれた頭脳の持ち主」とは、すなわちショウペンハウエル自身のことを言っているのであって(笑)、他者への辛辣極まる攻撃の数々は逆に本書の品位を損なうもの(喝采すべきような思い当たる話も多々あったが(笑))と思うが如何?
    『著作と文体』の正しいドイツ語を護ろうというくだりは、これもかなりくど過ぎるのだが、言わんとすることはわかるが、もとよりドイツ語文法に全然詳しくないのでほぼスルー状態だった。(泣)
    だがこうした難点を感じるものの、それ以上にこの3論が示す読書への態度は、われわれに痛烈な批判・警句をもたらすものであることには変わりなく、彼の見解に真摯に向き合う必要があるだろう。すなわち、良書以外は読むな!そもそも読書とは自分の頭で考えることにあらず!なかなか胸に突き刺さる言葉ではある・・・。(>_<)


    以下、備忘的に。
    【思索】
    ・自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。
    ・読書は思索の代用品に過ぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。
    ・他人から学んだにすぎない真理は、我々に付着しているだけ。
    ・読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。
    ・読書と同じように単なる経験もあまり思索の補いにはなりえない。
    ・「何人も判断するよりはむしろ信じることを願う」(セネカ)
    【著作と文体】
    ・著作家には二つのタイプがあり、思想を所有し経験をつんでいてそれを伝達する価値のあるものと考える人々と、金銭を必要とし要するに金銭のために書く人々である。後者はできるだけ長く思想の糸をつむぎ、真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくり広げていく。また、多くは偽装のため薄明を愛する。
    ・また三つのタイプがあるともいえる。第一のタイプは考えずに書く。つまり記憶や思い出を種にして、あるいは直接他人の著書を利用してまで、ものを書く。第二のタイプは書きながら考える。彼らは書くために考える。第三のタイプは執筆にとりかかる前に思索を終えている。彼らが書くのはただすでに考え抜いたからにすぎない。
    ・執筆すべきテーマの素材を自分の頭脳から取り出す者だけが、読むに値する著作家である。編纂者のあらわすものを読む機会をなるべく少なくすべきである。
    ・ある本が有名な時には素材のためか、形式のためかよく区別すべきである。素材で劇場を満員にしようと努める低劣な劇作家はあとをたたない。
    ・芸術や文学の世界では、ほとんどいつの時代にも、誤った主義主張や誤った方法、手法が流行し、むかえられる。
    ・一般の読者は愚かにも新刊を読みたがり、良書を手にしたがらないのである。
    ・匿名批評は全て欺瞞を目ざしている。
    ・我々は他人の文章の中に、文体上の欠陥を発見すべきである。それは自分でものを書く際にそのような欠陥におちいらないためである。
    ・凡庸な著者に限って、つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深甚なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして、不自然、難解な言い回しや新造語を、だらだらとした文章、堂々めぐりを重ねたあげく、何を考えているのかを不明にする複雑な複合文章を使う。
    ・大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。
    ・「形容詞は名詞の敵なり」(ヴォルテール)
    ・人間にはまだ一度に一つのことしか考えられない動物である。主文章を細分化し、そのわずかの隙間に、いくつもの思想を挿入文として押し込むな。
    【読書について】
    ・無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活を送る。
    ・読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
    ・ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
    ・絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。
    ・著作家に固有の性質、才能としては、説得力、豊かな形容の才、比較の才、大胆奔放、辛辣、簡潔、優雅、軽快に表現する才、機知、対照の妙をつくす手腕、素朴純真などがあげられるが、このような才能を備えた著作家のものを読んでも、一つとしてその才能を自分のものにするわけには行かない。だが、そのような才能の「可能性」があるものが読書した場合のみ意味をもつ。
    ・悪書は無用なばかりか、積極的な害毒を流す。
    ・読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
    ・読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。
    ・重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。
    ・精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典の読書にまさるものはない。
    ・二つの歴史がある。すなわち政治史と、文学および芸術の歴史である。第一の歴史は意志の歴史であり、第二の歴史は知性の歴史である。

    • mkt99さん
      nejidonさん、こんにちわ。
      再訪いただきありがとうございます!(^o^)

      ホッ、ご納得いただけて良かったです。(^_^;
      も...
      nejidonさん、こんにちわ。
      再訪いただきありがとうございます!(^o^)

      ホッ、ご納得いただけて良かったです。(^_^;
      もうひとつの方のお叱りのご質問だった場合、どう言い訳=開き直ろうかとびくびくしていた次第です。(笑)
      普段はずぼらな性格なんですが(>_<)、何だか妙なところで、「整理・整頓」したがりますもので・・・。(笑)

      一晩寝ればあっさりリセットできるのはいいですね!
      実は自分も割とそのようなところがあります。(笑)いや、自分の場合、「リセット」という感じではなく、単に忘れてしまうだけですけど。(笑)
      「目的」、それが一番難しい・・・。
      2014/03/02
    • りまのさん
      mkt99さん
      はじめまして。
      読書について 、ですが……
      当たり前やん、それの、どこが、いけないの、と、思うこと、多々ありました。…そもそ...
      mkt99さん
      はじめまして。
      読書について 、ですが……
      当たり前やん、それの、どこが、いけないの、と、思うこと、多々ありました。…そもそも読書とは、自分の頭で考えることにあらず!…他人の文章を読んで、刺激を受けることの、どこがいけないのか、サッパリわかりません。  りまの
      2021/01/31
    • mkt99さん
      りまのさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      ショウペンハウエルは割と上から目線で書いていると思いま...
      りまのさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      ショウペンハウエルは割と上から目線で書いていると思いますが(笑)、その境地はきっとショウペンハウエルほどの知識があってはじめて言えることなんでしょうね。
      私は・・・やっぱり他人の文章を読んで、刺激を受けまくる方なので同感です。(^o^)
      2021/02/07
  • どういったものを読むべきか、どのようにものを書くべきか――「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇が収録された本作。

    「読書は、他人にものを考えてもらうことである」
    「一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく」
    「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」
    といった、鋭くも印象的な文章が多数登場します。まるで読書そのものの危険性を諭しているかのようですが、ショウペンハウエルが警鐘を鳴らしているのは悪書の多さ。金儲けのために本を書く者。それを野放しにしている出版業界。そしてものを考えずにただ読むだけの読者に対して。150年以上も前に書かれた本にも関わらず現在に十分通ずる内容です。
    一度読んで知ったふり・分かったふりをせず、自分の頭でじっくり考えること。必要に応じて何度も読み直すこと。情報に溺れがちの現代にこそ手に取りたい本。

  • もう18年以上前に、この本に出会いました。
    読書なんて、それまで、友達がいない、
    真面目な奴がする印象でした。

    読書家なんて、
    半分バカにしていましたが、あるキッカケがあって本好きになりました。そのキッカケの一つが、
    この本です。名著として名高いですが、100年以上も前に書かれている本が残っていること自体奇跡みたいなものですから、語られる内容も、長い長い時間が経過しているにも関わらず、全く旧くなっておらず、まさしく読書のある面の真実を語っているのでしょう。

    この18年間で、15,000冊ほどの本を手にとり、
    3,000冊ほど購入しました。
    800人の著者の著作に出会い、
    その中から160人ほどの著者が、
    自分に多かれ少なかれ影響を与えてくれました。

    18年間の読書歴で、自分が本に問うてきた事は、
    沢山あります。

    自分とは、何者か、日本とは、どういう国なのか、また日本人とは何者なのか?
    私は、どこへ向かい、
    私達は、何処へ向かっているのか?

    私は何ができるのか?何を知りたいのか?そして、
    何ができなくて、何を知らないのか?

    また有意義な人生とは何か?それを達成する生き方や考え方は、どういうものなのか?健康とは、何か?

    本を読むとは、どういうことなのか?
    著者ごとの問題意識の違いは何か?自分は、なぜその著者の主張に惹かれしまうのか?また批判したいのか?

    ある人との出会いとは、果たしてどういうことなのか?

    有効な勉強方法があるのか?そもそも、勉強とは何か?学習とどう違うのか?外国を知るには、どうすればいいのか?外国語をどうやったら身につけることができるのか?社会的に有用なスキルとは、果たして何か?これから何が求められるのか?

    経済、社会とは何か?具体的にどういう状況なのか?どういう問題があるのか?小説、エッセー、評論は、人間の在り方を、どう表現しているのか?

    また、人間の精神は、どうして病むのか?その時の状態は、どうなのか?宗教は、どういうものなのか?

    18年間に、沢山の疑問が浮かび、その度に、多くの本に回答を求めては、勘違いをし、誤解をし、著者の考え方を理解し、研究し、自分の考え方を知るように努めてきました。

    読書を通して、自分の弱さを知り、また自分を愛する技法を知りました。それは、精神的充実感を得ることに多大な影響を与えてくれました。

    これからも、私は本を読み続けることでしょう。
    今や読書家は、絶滅危惧種になりました。
    各種統計で、そのデータがはっきり出ています。
    時代の趨勢だと思います。
    滅びゆく宿命なら、やはり美しく滅びたいと思っています。こういう美学も、読書は、自分に教えてくれました。本は、私に多くのモノを与えてくれました。読書には、感謝しかありません。

  • 本書が世に出た時期から察するに、出版業者が乱立し、悪筆を振るう輩がたくさん沸いて出たのだと思われる。ショウペンハウエル氏が指す「古典」や「良書」が愛された古き良き時代とは、人類の英知や歴史を後世に残すための本が、お金と権力を持つ者の手によって大切に残されていた頃のことではないだろうか。ところがショウペンハウエル氏の時代では、誰でも望めば本の出版が可能になり、一攫千金狙いの執筆者や、悪書が溢れかえってしまった。そして、その状況に憤慨している様子がひしひしと伝わる。ショウペンハウエル氏の言葉は過激な表現も含まれるため、一部分だけを切り取ってしまうと、まるで違う意味になってしまう。彼が本当に伝えたいことは何なのか、本質を見極めながら読むことが求められる。

  • 【ショーペンハウアーの主張】
     3段階のロジックで捉えた。

     第一。多読は有害である。いくら栄養があるといえども、食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も同様に、とりすぎれば、過剰による精神の窒息を招きかねない。身の丈にあった量を反芻することではじめて、書物はわれわれを養う。

     第二。ただし、量の多寡の以前に、そもそも読書をするに値する人物が限られている点に注意をうながしたい。読書は、著作家の才能と共鳴する形で、読み手が持つ天賦の才能を呼び覚ますものである。才がない場合は、表層的な手法を学び、軽薄な模倣者になるにすぎない。

     第三。才ある人物が、限りある時間と力を消費して本を読むからには、悪書ではなく良書を読むべきである。良書とは比類なき高貴な天才がのこしたものである。このような作品だけが、時の試練に耐え古典となり、真に我々を啓発する。

    【個人的な見解】
     多読批判について。ショーペンハウアーに多読と認定されるのは、どれくらいの水準だろうか。彼が生きていた時代のドイツ知識人は、ユンカーと呼ばれる地主貴族が中心だったわけで、丸一日を読書に費やしている人もいたはず。当然インターネットなんか存在しない時代。読書スピードも現代人の2倍はあったに違いない。本の読みすぎはよくないと解釈するのではなく、まずはショーペンハウアーに怒られることを目指すのが正解ではなかろうか。また「身の丈にあった量を反芻」は、読書を通して心に浮んだ事柄を、時間をとって書きつけることで達成されるはずだ。

     読書の選民思想について。随分と厳しい思想である。「軽薄な模倣者」扱いされてしまっては、バカはどうしようもない。しかし、真似ることが学ぶことの第一のステップになることは、どの分野をみても明らかである。嘲笑されながらも、真似をし続けることが突破口になると信じたい。

     良書のすすめについて。出版物もビジネスの産物である。たとえば、本屋大賞は、素晴らしい作品と出逢わせてくれることもあるが、出版業界が作り出した、売上を立てるためのルーティンであることを忘れてはいけない。古典を読むべき、と声高に主張したいところだが、古典と格闘できるだけの体力が身についているとは思えない。そうなると多読で鍛えるしかないのだが、多読は有害。堂々巡りである。ショーペンハウアーさん、どうすればいいのさ。

  •  「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく。」
    表紙にあるこの一文を一目見たとき、全身に衝撃が走り、すぐに本書を購入した。
    なぜならば、近頃、私の中でぼんやりと浮かんでいた罪悪感というか満たされなさを見透かし、痛烈に批判されているような気がしたからだ。
    ここ最近の私は、大学最後の余暇を迎えながらも、学生と企業人の隙間にあたるこの微妙な時間を何に使うべきか分からずに、ただ無目的に読書に勤しんでいた。
    当初は、これまでに読んだことが無いジャンルの書籍を開拓し、新たな刺激を受け取りながら、それなりに楽しんでいた。しかし、徐々に、アウトプットイメージも無いままにインプットを続けている状態に、漠然な不足感を覚えるようになった。
    アウトプットのためのインプット(読書)こそが正義だとは言わないが、やはりアウトプットイメージを持って読書をしているときの方が、読書効率も上がるし、主体的に本と向き合えている気がする。
    そんなモヤモヤを、痛烈(すぎ?)な形で言語化している本書に出会った時の衝撃は、やはり大きかった。しかし、その衝撃は、自身が心に抱えながらもうまく言語化できていない考えが体系的にまとめられている作品を見つけたという感激と、自身が抱える不足感を見て見ぬ振りしながら、相も変わらず、盲目的な読書を続けていた私を叱責する者にとうとう見つかってしまったという絶叫(⁉)が含まれていた。

    本書の内容は、表紙の文章だけを読めば、筆者は読書・多読を全面的に否定しているようにも見える。しかし、本編を読んでみれば、著者は読書・多読そのものを否定しているのでは無く、読書を"目的"にすることを否定していることはすぐに分かる。
    つまり、ただ読了を目指し、その量を増やすことだけに躍起になっている人は、読書をしているとは言えず、ただ時間とお金、さらには自身の思考(脳)を浪費しているだけだと筆者は主張している。そして、自分自身で考え抜き獲得した知識こそ真に価値があり、自在に使いこなすことができる。そのため、読書とは自身で考え、獲得した知識を補填しさらに強固な知識とするためだけに読まれるべきだとも書かれている。

    「読書は自身で得た知識をさらに磨きをかけるため"だけ"に為されるべきである」という主張に、諸手をあげて賛同できるわけでは無いが、確かに、盲目的に読書にふけることは、時間・金・労力を浪費しているだけであり、「読書から何か(メリット)を得る」という目的とは真逆の行動であるように思われる。
    そして、この"盲目的読書"は誰もが陥りやすい落とし穴であろう。読書家の数が年々減少している現代においては、読書習慣があるだけで尊敬の念を向けられるため、ただ本を読んでいるだけで優越感に浸ることができる。しかし、本作著者によれば、そのような悦を得るためだけに為される読書は、「無価値(なんならば損失)」にあたる行為で、出版関係者の食い物にされているだけだと批判される。この批判は、非常に的を得ているからこそ、私がこれまで見て見ぬふりをして隠してきた思いを公然と叱責されているように感じた。これからは、真に価値のある読書を心がけようと思う。

  • 2021年積読整理の旅に出発したばかりなのに、
    出会ってしまった本。
    大事なのは目的。
    えーっと少しずつ修正していきまーす^^;

  • 学期末、参考文献造山帯に窒息しかけるたびに読む。
    巨人の肩に立って、どこを見るか考えること。なにが見えたか知ること。
    ただ巨人の肩によじ登ったからって、ニュートンにはなれないのである。

  • Webの検索、ノウハウ本に頼りすぎるのではなく、自分で考えることが大切。
    これから、ますます世界は混とんとしていくだろう。そういう時代の中、自分で考え判断しいていく力を若者だけでなく僕のようなおっさんも大切だと感じる。
    一方、自分はいまはインプットの時期でもある。考えながらも読む。読んで考える。ショウペンハウエルのような知の巨人ではないのだから、過去の思想家の考えに触れていこうと。
    2019年、最初にいい本に出会えた。

  • この本を読んでから読書習慣が変わった。
    この本を読む前は、多くの本を読むことが大事だと思っていた。
    なぜならば、本には作者の視点が書いてあり、読むことで自分の視点を増やせると考えていたから。
    視点を増やすことで、物事をさまざまな角度から見ることができる。
    そして考えが深くなると思っていた。

    しかし、この本はそれは違うと言っている。
    精読せよと言っている。
    しかも世界的な名著のみを読めと。

    思えばたしかに自分は読書は好きだが、娯楽の読書しかしてなかった。
    娯楽の読書とは要するに何も考えない読書だった。
    1冊読んではなるほどと納得し、とりあえず書いてある内容を実践してみるが、それはただの他人のやり方であり、ただ他人が轢いたレールの上を走ってるにすぎない。
    だから自分は視点は多いが、自分の考えは持ち合わせてない人間だったと深く反省した。

    読書とはまず行動し、行き詰まった時に初めて行うことであると、この本から学んだ。
    まずは自分で物事を考えてから、行き詰まった時に読書をしてみようと思う。

    古典を読めというのは、おそらく真理が書いてあるからだと思う。
    現代の本は、昔の考えから派生して書かれた本であり、根本原理が書いてあるわけではない。
    なぜこのような考えに至ったのか?と考えた時、古典読むことは必然的だと思う。

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