死に至る病 (岩波文庫 青635-3)

  • 岩波書店 (1957年6月5日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (236ページ) / ISBN・EAN: 9784003363539

みんなの感想まとめ

人生の苦しみや絶望について深く掘り下げた内容で、特に「死に至る病とは絶望のことである」というテーマが印象的です。著者は、信仰や人間の心理に関する分析を通じて、絶望する人々の姿を鋭く描写しています。具体...

感想・レビュー・書評

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  • 【心に定規があったとしたら】

    私には、むずかしすぎた……。
    かろうじて目で文章は追えるものの、書いてあることがさっぱりわからないまま読了(涙目)。
    『死に至る病』という書名と、冒頭に掲げられた「死に至る病とは絶望のことである。」という文章から、人生に苦しむ人への処方箋のような内容を期待して読みはじめたけれど、甘かった。

    おそらくこの本の核心と思われるキリスト教信仰や人間の心理の分析はほぼほぼわからずでしたが、具体例としてあげられる絶望する人間のありようが、「こういう人、いる!」の連続で、キルケゴールの人間観察力の鋭さが印象に残りました。
    それから、ふとした瞬間に、心に残る言葉に出会えるのが、古典の良いところ。

    「自己が何に対して自己であるかというその相手方が、いつも自己を量る尺度である。そして質的にそれの尺度であるところのものは、倫理的にはそれの目標である。」

    例えばこうありたい、という目標があったとしても、心の中の評価軸、定規の単位が目標と異なっていたらちぐはぐだし、意図していない方向にひっぱられてしまうこともあるだろうなあ、と。
    現実におもねるでもない、はねつけるでもない、そんな尺度をいつか私ももつことができるだろうか、と思いつつ、読み終えた一冊でした。

  • 市民革命・産業革命が進む中、人々は自覚のあるなしに関わらず、人間中心の近代的なものの見方を身につけつつあった。キルケゴールは、そうした近代のものの見方にとらわれることなく、信仰へ飛躍しなければ、自らが本当に生きるということにはならないと説き、それに対してニーチェは、信仰にも近代的なものの見方にもとらわれるな、と説いているように思われる。本書は全編、信仰への飛躍を妨げるメンタリティを彼独特の仕方で分類整理し、その有り様を執拗に描き出そうとする。とても読みにくい。そして最後には、言葉で説明できるようなものは、信仰ではないというようなことも言う。やっかいではあるが、様々なメンタリティの描写には見るべきものがある。

  • 実存主義の創設者と言われる哲学者キェルケゴールの主著。

    死に至る病とは、要するに絶望(死にたくても死ねない状態)のことで、これを解決するには信仰しかないとのこと。

    読み始めて、早速このような難解な書を読むためにはどうすれば良いかという問題に直面したので、無理矢理にでも自分自身の問題に置き換えるという方法で読み進めた。

    まずは第一編の以下の冒頭は「自己」に別の言葉を入れることで、読者各々の実存(生きるとはどういうことか)を取り出すことが可能だと思った。

    「人間とは精神である。精神とは〇〇である。〇〇とは〇〇自身に関係するところの関係である」

    (私は〇〇に「運命」や「笑い」を当てはめて読み進めてみた)

    また、絶望は以下の4パターンに区分されるとのことだが、自身はどれに当てはまるか考えながら読んだ。

    ※念のためパターンを記載しますが、これだけでは意味不明。

    ①無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。
    ②有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。
    ③可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。  
    ④必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。

    私は③だったが、③は現実を生きておらず夢想ばかりしている人向けである。

    夢想している人間が現実に戻ってくる時に現実に必然性を持ち合わせていなければ、生きることができず、また夢想へと向かうのである。

    最後に最も重要だと思うことは、本著を書いた当のキェルケゴールが絶望していたということである。

    彼の父親は子供達は若くして死ぬと信じており、キェルケゴールに「可愛そうな子よ、お前はやがて絶望のなかに陥る」と言い放ち、幼く柔らかい心に呪いをかけた。
    (実際に7人兄弟の5人は早死にし、1人は精神病で入院した、キェルケゴールは街中で倒れ死ぬ)

    またキェルケゴールは突然に愛していたレギーネとの婚約を破棄し、レギーネは思い留まるように彼に泣きついたが、結果絶縁した。

    そして怠慢なデンマーク教会に改革を求め、教会闘争中に道ばたで倒れて42歳で死んだ。

    元来の自意識、父親の呪い、愛する人との絶縁、腐敗した教会。彼はこの絶望から救われたのだろうか。幸せだったのであろうか。

    少なくとも彼は自殺していない。精神病で寝床に伏してもいない。(それは決して悪いことではないが)

    彼は背後に存在する絶望を決して人生に連れて行こうとせずに、むしろ周り右して、信仰とその知性を持ってして絶望に突進しに行った。

    その凄まじい程の衝突は意図せず、キリスト教から実存主義を生んだ。(キリストが意図せず、ユダヤ教からキリスト教を生んだように)

    ここで、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えらない軽さ」の言葉を引用したい。

    「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」

    「絶望は形態であり、幸福は内容であった」という現象もあり得るのではないか。そして、その幸福とは「生き抜いた幸せ」ではないだろうか。(キェルケゴールはそれを信仰と呼ぶだろう)

    読者の私自身、物心ついた頃から現在に至るまで希死念慮と友達だが、そういう意味ではキェルケゴールは絶望の大先輩である。

    しかし、私は知性も信仰もない。
    どうすれば良いのだろうか。

    ただ、確かに分かっていることは自分より遥かに絶望した人間が、この世界には間違いなく存在したということである。

    それが分かっただけでも、だいぶ良い。

    ★追記
    本書には次のような文章が出てくる。
    「罪は無知である。これが周知のようにソクラテス的な定義である。」

    無知は罪?ソクラテス、こんなこと言っていたっけ?と調べてみると、案の定キェルケゴールのお手製だった。やってるな、キェルケゴール(笑)

  • 有名な古典ということで手に取っては見たものの、全然頭に入って来ず、手も足も出ず、序盤以降は斜め読み、拾い読みでギブアップ。

    P27
    絶望していないということは、絶望的でありうるという可能性を否定したことでなければならない。

    P28
    絶望は可能性として人間そのもののうちにひそんでいるのである。

    P30
    絶望者は彼の絶望している各瞬間に絶望を自分に招き寄せているのである。

    P290 解説
    死に至る病というとややもするといわゆる死病すなわちそれで死んでしまう病気のように解されがちであるけれども、(中略)それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病の謂いなのである。

    デンマーク語の原題『Sygdommen Til Doden』は、死ぬ迄続く病気、というニュアンスのもよう。

  • 再読。あまりにも有名なこのタイトルと「死に至る病とは絶望のことである」というフレーズ。正直、もうこの一行、というか「第一編 死に至る病とは絶望のことである。」という前半部分のこのタイトル、これだけですべて説明終わっていいんじゃないかと思う。

    Q「死に至る病?それって何?」
    A「それは絶望です!」

    ・・・というだけでも十分世界中の中2が共感、そして感嘆させられると思う。「死に至る病とは絶望のことである」という一言に集約された意味を、人はそれぞれ勝手に想像し解釈し、それで答えは出てしまうしそれで正解だと思うので、それ以降の文章は蛇足だとすら・・・。

    なんて言ったら怒られそうだけど、まあそれでも第一編のほうはまだ理解できるし、なるほどと思う部分もたくさんありました。

    ただ「第二編 絶望は罪である。」になるともう、全然わからない。そもそもサブタイトルが「教化と覚醒とを目的とする一つのキリスト教的=心理学的論述」云々となっており、つまりすべてキリスト教徒前提でのお話。信仰心のない人間にはちょっと当てはまらない事例が多すぎてどうもこうも。

    キリストより先に生まれたソクラテスの意見のほうが、無神論者にはずっと理解しやすい。結果、最終的にこの本は哲学というより「キリスト教入信のすすめ」みたいになっちゃうのでちょっと微妙な気持ちに。

  • かなり、難しかった。
    しかし、しっかり論理立てられていて筆者の意見がよくわかり、納得できた。

  • 翻訳されたものとはいえど、哲学者の書いた哲学書そのものである為、読み進めるにはそれなりの時間を要すると思った方がいい。哲学研究者などの専門家でもない限りは、キルケゴール哲学の解説書または入門書を読んでおけば十分なように思う。

  • 正直な話、もう一人翻訳者を挟みたいくらい何言ってるのかよくわからない所が多かった。
    絶望していると思っているが筆者のいう絶望に全く当てはまらないどころか絶望状態に酔ってるだけの人に対する皮肉っぷりはぶっ飛ばしててすがすがしくもある。
    要は敬虔なクリスチャンが、真に神を信じていないようなファッションクリスチャン❨牧師も含む❩に対して思ってる諸々鬱憤なんかを書いているという気もしないでもない。というのが個人的な感想。

  • むかし読んだ。たぶん。いや、たしかに目は通した。根拠のない甘ったれた希死念慮から逃げきるために藁をもつかむ思いだった。死が答えではない、という事だけは本能的に分かっていたので、いろんな宗教に答えを求めていた時期。仏教に人の致死率は100%だよね、とサクッと言われて「そうだけどさ、ひゃー」という気分で。イスラム教にはあなたの生存率は神のみぞ知るよね、と言われて「そうだけどさ、ひゃー」となって。そしてキリスト教関連(キリスト教では自殺を宗教として禁じてる)の本書、、、ケムに巻かれた(笑)。とりあえずめっちゃ頭の良い過去の哲学者たちがこんなに真剣に考え尽くして資料残しているんだから、バカな自分が何考えてもだから何なのさー、っていう諦めはついた。人には絶対に勧めない本だけど、必要なひとが必要なときに出会ってしまう未来永劫に必要な本だろうと勝手に思う。

    ちなみに星2つなのは、自分の苦しみを考えるヒマがあったら生きることを考えよ、苦しんでる誰かを支えることを考えよ、と世界中のヒーローたちが悪と戦っている姿をいつも見せてくれているから、だ。しかし世界中の誰も信じられないとき、(それは自分自身を信じられないのと同義だが)この本に出会えたならば、それはなにか大きな力が投げた最後の蜘蛛の糸だと信じ怯まず掴んでいいと思う。

  • 難しすぎて読み終えることができませんでした。
    原文で読む方がわかりやすいと思う。

  • キルケゴールを解説書などではなく、直接読むのは初めてだが、その信仰に身震いした。この歳まで読まずに来たことを悔やむ。つくづく読書は若いうちからはまるべきだ。これまで人生の何分の一かを損した気持ちになった。ただ私のラッキーは聖書に馴染み生きてきたことだ。多くの日本人にとって難解な書と思うが、聖書のバックグラウンドがあることで一文字一文字が沁みるように入ってくる。文体そのものは一見古いが、キルケゴールの言葉運びそのものは、要点が分かりやすく、それをさらに砕いていくのでとても読みやすい。

    人間の最初の姿は絶望である。神の前に犯した罪の故にエデンを追い出されて必ず死ぬものとされた人の姿は絶望そのものである。人は可愛い赤ん坊すらも死を抱えて生まれてくる。これだけなら絶望せずにいられようか。キルケゴールの言う死に至る病とはこの絶望のうちに生きる人間そのものであるが、しかし同時に(歴史的時間差はあれど)永遠の命の希望と赦し、救いをもたらすために人となった神が元からおり、その神と離れた状態を指して、さらに踏み込んで病として様々な表現で絶望を説明する。これが第一部である。日本にはキリスト教の神はないからそんな絶望は関係ないと感じる読者も多いだろう。そのような「絶望」の姿も第一部にはしっかりと書かれているからよく読まれたし。

    第二部は絶望が神と人を分断するところの罪に置き換えられて述べられていく。罪とは一般に思われている徳の反対としての罪ではない。時々発露し人に迷惑をかけるような罪のことでもない。信仰の反対を罪という。永遠の命にに至る、神が私をあなたを赦したがっているという事実に抗うこと、罪とは行為ではなく状態のことである。

    実存主義とはこの書が起点になったと説明されるが、人が死から命に移されていることのリアリティのように思う。

    なぜキリスト教は嘘くさく人に伝わるのだろうと思うことがある。キルケゴールの言葉は爽快だ。それはキリスト教界がキリスト教を擁護するからだ。神による実存から自身と真実を切り離し外側に回って擁護するのだ。それは第二のユダである。ユダは接吻から裏切るのだと。

  • 自分の内面と徹底的に向き合うみたいなところの真剣さがすごかった。の対象がキリスト教の神であるところはかなり正統派(保守派?)な感じがするけれど。
    自己意識との葛藤、どう自己意識を高めても私たちは、一人のただの人間で、不完全性から逃れられることはない、けどだからと言って、それを止めてしまうんじゃなくて、絶望を極めつつも、自分の意識と向き合い続けようとすることこそが、まさに弁証法的な生き方―彼の場合は、罪を贖う唯一の生き方―なんだ、ということを言っているのかと理解する。それには、信じること、とにかく絶望に負けない希望みたいなものの存在が必要ということにもなる。

    ちょっと違うと思うけれど、理想と現実のギャップ、みたいな似たような葛藤はみんな今もあると思うし、それをじゃあどうやって受け入れて、自分自身と付き合っていくか、みたいなところがあると思った。

    でも個人的には、内面に陥りすぎると、社会との接点というか、現実の物質的な部分が見えなくなりそうなので、バランス大事と思った。いろんな思想や信仰を持つ人とどう社会を作っていくか、という部分もめちゃ大事やと思うし。
    分かったような感想書いてますが、まあそう簡単には理解できない部分がありました。

  • 死に至る病=絶望として、
    キリスト教の観点から徹底して絶望を見つめる。
    絶望が罪であるということ、
    その罪がキリスト教にある原罪と関係があることなど、
    深い考察が行き渡っている。
    僕らが口にする絶望という言葉が、
    どれだけ多面性を帯びているか、
    それを知るだけで、暗闇に目が慣れていくように、
    絶望を冷静に見渡せるようになれるとも思う。

  • 難解でした。

    まぁ絶望が原因であると…。

    簡単な解説がありがたかったです。
    https://diamond.jp/articles/-/205853

  • あまり明るい気分になれる内容ではないですが、気分が塞ぎ込んでいるときに読むと、状況を客観視できるのでモヤモヤしたものが整理され、少し楽になれるかもしれない。昼間ではなく、夜にじっくりと読める本だと思います。

  • 死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。
    最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわからない。結論から言うと、最初の数ページは飛ばして読むでも大丈夫だった。そして絶望の類型のあたりから意味がわかってくる。
    絶望の先にある唯一の救済はキリスト教の信仰にある、という点で相容れないものはあるけれど。貴賎や行動でなく、自分に対する自分自身の認識、意識によって絶望のランク分けがされるという(解説によると実存主義の始まりだという)考え方、現在の自分に対する現実逃避や思考停止こそがもっとも絶望的で、罪なのだという考え方には我が身を思わず振り返りました。キルケゴールの理想は、青年期にあるのかしら。感受性豊かで想像力を持ち、常に意識を高くもっていたいものです。

  • キルケゴールが何故評価されたのか分からない。哲学とは突き詰めれば、既に気付きを得た人にとっては、その真理を回りくどく、その哲学者の生きた時代と宗教的価値観で説明を試みる部分があるから、難解なクセに、歴史的意義以外の収穫が全く無いなんて事も有りうる。まして150年も前の概念である。クセのある哲学者と対面して話を聞くという行為は、現代人同士でも難しいし、ましてタイムスリップしてその時代の外国の哲学者の発言など、簡単なわけはない。だからこそ、大学の文学部やらで研究に用いるには良いが、読書としてはオススメしない。読書が嫌いになる危険性もあるだろう。キルケゴールの哲学を体系的に理解したいなら、インターネットなどで解説がある。衒学的な目的か学問的意図がないならば、インターネットで充分である。

    私はこの事を再確認するために、苦い薬でも飲み込むように、頭に文章を一思いに通過させたのである。

    • Keitoさん
      易しいことを書くのと、易しく書くといふのは違ふことです。生きること死ぬこととは、あまりに当たり前すぎて、かへつて易しく書くことが難しい難解な...
      易しいことを書くのと、易しく書くといふのは違ふことです。生きること死ぬこととは、あまりに当たり前すぎて、かへつて易しく書くことが難しい難解なものなのです。
      生きること死ぬこととはそれほどまでに難しいものです。それをたやすく理解できると思ふのは、驕りです。これこそ、彼のいふ躓きであり罪であるのです。
      あなたのいふ歴史的意義とはなんですか。哲学とは、歴史的意義を超えたところにある真理です。時代や歴史に左右されるものならば、なぜ彼のことばは、著作は翻訳されうるのでせうか。彼は「存在する」といふ古今東西すべてを貫く事象の普遍性に絶望したひとです。「存在する」といふことの驚きを知った病人です。
      読書の意義とは、彼のさうした思考の里程標を辿り、生きること死ぬことを自ら考へることにあるのであつて、彼が何を考へたかは本当のものを読み、考へる人間にはまるで興味がないのです。哲学とは、他人の考へを体系的に理解することではありません。大学の学問としての哲学科と「哲学する」といふことの違ひはここにあります。むしろ衒学的な、学問的な人間こそ、他人の情報を参照にすべきであつて、ものを考へる人間には、他人の考へなど邪魔で仕方ないはずです。自分の生死をなぜ他人に考へてもらうのでせう。今一度、理性的に判断してください。
      2018/04/17
    • ふるえるワカメちゃんさん
      Keitoさんのコメントに心を動かされました。ネタにされがちな本書を、まったく理解できないくせにいつまでも手放すことができなかった迷える自分...
      Keitoさんのコメントに心を動かされました。ネタにされがちな本書を、まったく理解できないくせにいつまでも手放すことができなかった迷える自分の救いになりました。
      2022/11/30
  • 逆説とは思想の情熱であり、逆説をもたない思想家は情熱をもたぬ恋人、そしてすべての情熱は自身の破滅を欲する、ゆえに理性もまたその極致において。
    理性には理解不能な逆説それ自体、逆説が存在するというそのこと自体が、この人にとっては「神」なのである。いや神と「言いたい」のである。神と人とはあくまでも別ものであるべきだという根強い思い込み、じつはそれこそが信仰なのだと言うべきだろう。
    ──池田晶子『人生は愉快だ』

  • 過去課題本。文句なしの名著だが。キリスト教に興味のない人や、キリスト教に悪イメージを持っている人には、無意味な本でもある。

  • 難しかった…。かろうじて活字を追えたという感じ。数年後に読み返して多少理解できればいいな…。哲学書的なものと思っていたけど実際は宗教色が強くて、キリスト教的予備知識がないと理解できないし、キリスト教徒的感覚がないと共感できないんじゃないかと思った。所々に出てくる恋愛での例え話がおもしろかった。

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著者プロフィール

中央大学法科大学院教授

「2008年 『刑法総論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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