悲劇の誕生 (岩波文庫 青 639-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (265ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003363911

作品紹介・あらすじ

ニーチェ(1844‐1900)の処女作。ギリシャ文明の明朗さや力強さの底に「強さのペシミズム」を見たニーチェは、ギリシャ悲劇の成立とその盛衰を、アポロ的とディオニュソス的という対立概念によって説いた。そしてワーグナーの楽劇を、現代ドイツ精神の復興、「悲劇の再生」として謳歌する。この書でニーチェは、早くも論理の世界を超えた詩人の顔をのぞかせる。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀ドイツの思想家ニーチェ(1844-1900)の初期作品、1872年(ただし「自己批評の試み」は1886年)。

    本書においてニーチェは、ショーペンハウアーの影響下で独自の美的形而上学を構築し、それを下敷きにして、古代ギリシアが生みだしたアッティカ悲劇の文化史的意義を再解釈する(悲劇の誕生)。しかしギリシア悲劇の美的な精神性はソクラテスに始まる知性偏重の合理主義によって失われてしまったとして古代から19世紀までを射程に含む文化批判を展開し(悲劇の死)、ついに現代ドイツの音楽家ワーグナーによってギリシア悲劇の精神が再生されるにいたる(悲劇の再生)、と論を進めていく。

    ニーチェの主要著作は次の通り。

    1872『悲劇の誕生』
    1876『反時代的考察』
    1878『人間的、あまりに人間的』
    1881『曙光』
    1882『悦ばしき知識』
    1885『ツァラトゥストラ』
    1886『善悪の彼岸』
    1887『道徳の系譜』
    1888『偶像の黄昏』『反キリスト者』
    1901『力への意志』(遺稿集)

    □ 美的形而上学 

    本書で最も興味深いのは、議論全体の土台となっているニーチェの美的形而上学である。その根本命題は、「生存と世界は美的現象としてのみ是認される」(p219)という一文によって要約される。ニーチェは、一切の現象の背後に、「美的な意志」とでも呼ぶべき或る形而上学的な実体を措く。この「美的な意志」は、論理的(真偽)、道徳的(善悪)な裁断に先立って働くものとされる。生と世界とは、この「美的な意志」と結びつけられる限りにおいて、その意味を認められることになる。つまり、生と世界とは、根源的には、真偽や善悪といった区別が発動される以前の、前言語的な混沌の真っ只中に投げ出されている、ということになる。では、この「美的な意志」とは何か。

    世界は、それ自体としては、いかなる形而上学的意味秩序をも前提としていない、いかなる合理的整序も為されていない、ひとつの端的な混沌としてある。しかし、こうした端的な事実性としての世界の無意味、無秩序、不条理、矛盾によって、人間は自分自身という存在の無根拠性を突きつけられ、強烈な存在論的不安に襲われることになる。そこで人間理性は、ただただ人間側の自己都合から、抽象的普遍的な概念を仮構し、それを駆使して諸個物を同値類の束で括っていきながら混沌としての世界を分節化していくことで、人間にとってheimlichな意味連関を構築していく。このように諸事物を人間中心的に整序していくことで、人間は世界を人間化、有意味化、秩序化していく。

    ニーチェは、世界が一切の人間的な意味を受けつけない端的な混沌としてあるという事態をディオニュソス的なるものと名付け、この端的な事実性としての世界の無秩序性に対する反抗として人間が理性を以て合理的秩序を構築しようとする志向をアポロン的なるものと名付ける。そして、このアポロン的志向に対して世界が混沌としての自らの姿を端的な事実性として改めて人間に突きつけることで人間による意味秩序の無根拠性を暴露し人間化された世界を無秩序へと引き戻そうとする志向もまた、ディオニュソス的なるものと呼ばれる。ディオニュソス的なるものとアポロン的なるものとの相克、世界の無秩序と人間の秩序との相克が、「美的な意志」の実相である。ニーチェによれば、人間の生はこの「美的な意志」の現象であり、それ以外のいかなる規定にも従属しないものとされる。

    「しかし、主観が芸術家であるかぎり、その主観はすでに個人的意志から解放されているものなのであり、真に実在するただ一つの主観がそれを通じて仮象における自己の救済を祝福するといったいわば媒体になってしまっているのだ。〔略〕、われわれはあの芸術世界の本当の創造者でもない〔略〕。芸術世界の真の創造者にとっては、われわれがすでに形象であり、芸術的投影であるということ、われわれはこの創造主のつくり給うた芸術品であるという意味において、われわれの最高の尊厳を持つということだ。――なぜなら、美的現象としてだけ、生存と世界は永遠に是認されているからである」(p63)。

    □ ディオニュソス的なるもの/アポロン的なるもの

    「ディオニュソス的なるもの/アポロン的なるもの」の対立は、「生成/存在」、「混沌/秩序」、「差異/同一性」、「非合理性/合理性」、「物自体/現象」、「意志/理性」、「陶酔/夢」、「音楽/造形」、「個物/概念」、「多/一」、「動的/静的」、「解体/構築」、「不定/固定」、「主意主義/主知主義」、「没入/孤立」、「連続的/不連続的」、「自他融合/自他分離」などの対立へと敷衍することができる。

    アポロンとは、自己同一性、個体化、自他分離など、合理的な「区別」という志向の象徴である。個体化の原理は、人間をはじめとする存在者に対して、自らを他から区別されたものとして在らしめるべく、個体としての限界、分、節度を守ることを要求する。そのため、「汝自身を知れ」(アポロンの神託)という自己認識が重要となる。こうした「区別」によって有象無象の混沌たる世界は概念的に整序され、人間にとって理解可能なものとなり、世界と生は人間的な意味を付与されるにいたる。

    「見渡すかぎりはてもなく、山なす波が咆哮しながら起伏する荒れ狂う海の上で、舟人がか弱い小舟に身を託して坐っているように、個々の人間は苦患の世界のただ中に、個体化の原理を支えとし、これに信頼をおいて、平然と坐っているのである」(p33)。

    それに対して、ディオニュソスとは、自己放棄、没入、自他融合など、非合理的な「混淆」という志向の象徴である。これは、区別、同一性、定義、意味、抽象、普遍、カテゴリー化、肯定、否定、限定、順序、分類といった、アポロンに象徴される合理的な操作の無化を意味する。

    しかし、このディオニュソス的な自他融合は、抽象的な概念によって常に「何者か」として断片化され「本来的なありのままの自己」から疎外されていると感じている人間にとっては、自らの全体性を取り戻し、世界および他者との透明な関係を回復する契機でもある。つまり、断片化された人間にとっては、ディオニュソス的「混淆」こそが世界と生の本来的な在り方であり、アポロン的「区別」は歪曲された偽りの姿であるとされる。こうして、ディオニュソスは生の肯定を象徴するものとして捉えられるようになると同時に、アポロン的な個体化の状態はディオニュソス的な生の全体性を阻害するものとして批判の対象となる。ここでディオニュソス的なるものは、「生の全体性」の象徴として、非合理的であるがゆえに歓喜をもたらすものであるとされる。

    「ここに暗示されていることは、ディオニュソス本来の苦悩であるこの八つ裂きは、地・水・火・風の変化に同じであり、従ってわれわれは個体化の状態をすべての苦悩の源泉・根底として、それ自体非難すべきこととして見なければならない、ということだ」(p101)。

    「一つである自然が多数の個体に分裂せざるをえないことを、自然は歎いているかのようである」(p40)。

    「〔根拠律が破れた場合と〕同じように、個体化の原理が破れると、人間の、否、自然の、最も内面の根底から、歓喜あふれる恍惚感がわきあがるものだが、上に述べた〔根拠律が破れた場合に感じる〕戦慄的恐怖にこの歓喜あふれる恍惚を加えるとき、われわれはディオニュソス的なものの本質に一瞥を投ずることになるのだ。〔略〕。ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結びあわされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである」(p34-35)。

    こうして、「すべて現存するものは一つであるという根本認識」、「個体化を禍の根源とみる見方」(p102)を構成要素にもつニーチェの美的形而上学において、芸術はディオニュソス的「生への意志」を具現化するものとして位置付けられる。則ち、「芸術は個体化の呪縛を破りうるというよろこばしい希望であり、合一が復活される予感である」(p102)。

    「というのもこの〔ディオニュソス的〕芸術は、個体化の原理のいわば背後にあって全能の力をふるっている意志を表現するものであり、いっさいの現象の彼方に、いっさいの破滅にもかかわらず生きている永遠の生命を表現するものだからだ」(p154-155)。

    以上より、「美的な意志」の相反する二つの志向において、ディオニュソス的「生への意志」のほうがアポロン的「合理性」よりも優位に置かれることになる。しかし注意すべきは、ここにいたって、ディオニュソス的なるものとアポロン的なるものとが概念的に区別され、さらには位階化されてしまっているという点であり、その意味で反ディオニュソス的な形而上学が完成してしまったということになる。これは、理性や合理主義を批判し、言語以前という仕方で位相化される感性的なるものを特権化しようと企てるロマン主義、非合理主義がとる典型的な論理構制であり、またそれらが等しく内包している自己矛盾でもある。

    □ ギリシア悲劇の本質

    しかし、人間は理性によって言語を操作することで自己と世界との関係を構築していく存在である以上、アポロン的「区別」を排してディオニュソス的「混淆」に身を投じるだけでは、一切を飲み込み無化する混沌のうちに自己を喪失してしまうのみである。つまり、ディオニュソス的なるものとアポロン的なるものとは、後者に対する前者の優位を維持しながらも、相互に協働し合うことが求められる。ここに、アポロン的なるものにも一定の積極的な役割が与えられることになる。則ち、世界の根底にあるディオニュソス的混沌(根源的一者)のうちに、混沌という事態それ自体によって促されながら、アポロン的な個体化の原理が作動して仮象が立ち現れ、こうしたアポロン的形象化を通して却って混沌としての根源的一者を受け止めることが可能となる。これが、ニーチェのいう「根源的一者の自己救済」の意味するところではないか。

    「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象を必要とする」(p50)。

    「個体を生み出すということで、根源的一者が永遠に追求する目標、すなわち仮象による自己救済が実現されるのだ。アポロは崇高な身振りで、苦悶の全世界がどんなに必要であるかを、われわれに示す。苦悶の世界があればこそ、個々の人間は救済の幻影を生み出すように迫られるのであり、そういう幻影が描き出された上は、それをひたすら眺めて、大海原のただ中でも、動揺する小舟の上に泰然と坐っておれるからである」(p52、ちくま学芸文庫版『悲劇の誕生』p50を参照して一部改変)。

    アポロン的「区別」の作用は、ディオニュソス的混沌に或る形を付与する。しかし、それは決して、アポロン的なるものがディオニュソス的なるものを屈服させ、ディオニュソス的混沌がアポロン的個体(抽象的概念)へと引き下げられることを意味しない。アポロン的「区別」のもとでもディオニュソス的「混淆」は背後から強力に作用し続けているのであって、ついにディオニュソス的「混淆」はアポロン的個体をしてアポロン的個体の無限遠なるディオニュソス的混沌を語らせるにいたる。

    「すなわち、最も本質的な点で、例のアポロ的幻惑は突き破られており、破壊せられているということだ。〔略〕ドラマは全体として、いっさいのアポロ的芸術作用の彼岸にあるひとつの作用を達成しているのである。悲劇の総体的作用においては、ディオニュソス的なものがふたたび優位を獲得する。悲劇は、アポロ的芸術の領域からは決してひびいてこないようなひびきで終わるのだ。〔略〕このディオニュソス的作用の強力なことは、結局においてはアポロ的ドラマもディオニュソス的知恵をもって語りはじめ、自分自身ならびにそのアポロ的可視性を否定するような領域へ、アポロ的ドラマを追いこむことがあるくらいなのである。〔略〕。すなわち、ディオニュソスはアポロの言葉を語り、アポロも最後にはディオニュソスの言葉を語るのである」(p200-201)。

    「悲劇的神話は、ただ、アポロ的芸術手段によるディオニュソス的知恵の具象化として理解されなければならない。悲劇的神話は現象の世界をその限界まで導いていく。この限界において現象の世界は自分自身を否定し、ふたたび真実唯一の実在のふところへ逃げ帰ろうとする。そこで現象の世界は、イゾルデに唱和して、自分の形而上学的な白鳥の歌を歌いはじめるように思われるのだ。 歓喜の海の/さかまく高潮のうちに、/香気の波の/高鳴るひびきのうちに、/世界のいぶきの/吹きかよう万有のうちに――/溺れ――沈むよ――/知らぬまに――ああ、無上のよろこび!」(p203-204)。

    この弁証法的ともいえるディオニュソス的なるものとアポロン的なるものとの協働を要約すると、次のようになる。①ディオニュソス的なるものに促されて、アポロン的なるものが生み出される。②ディオニュソス的なるものの強力な作用によって、アポロン的なるものはその極限まで駆動させられる。③アポロン的なるものは自らの極限においてついに自己否定にいたり、そこでディオニュソス的なるものを表現することで、ディオニュソス的なるものへ回帰する。

    ディオニュソス的なるものとアポロン的なるものという相矛盾する二つの志向の相克を通して、世界と生のディオニュソス的な実相を描くこと。則ち、世界がディオニュソス的混沌としてあるというこの端的な事実性を、そしてこのディオニュソス的混沌としての世界において苦悩する人間の生を、あくまでアポロン的形象化を通して、アポロン的形象化の極限において到来するアポロン的なるものの自己否定において、示すこと。ここに、ニーチェはギリシア悲劇の本質を見出す。世界が人間にとって無意味であるということ。世界は人間性を超え出ているということ。世界は人間にとってunheimlichであるということ。人間は世界のそのありのままの混沌と不条理をただ受苦するしかないということ。則ち、世界が根本的に非人間的であるということ。こうした世界と人間とのあいだの端的な事実性に表現を与えることで、悲劇は、人間が世界において被る苦悩を是認する。

    なお、「ディオニュソス的なるもの/アポロン的なるもの」という相矛盾するものの緊張関係から身を引き離し、世界と生の問題を論理と知識でもって解明可能なものとみなす楽天的態度が、ニーチェのいうソクラテス主義であり、この知性万能主義によってギリシア悲劇の美意識は滅ぼされた。これがニーチェのソクラテス批判である。

    □ 自己意識は世界の無意味性を導く

    世界が人間にとって無意味であるということは、世界の側の端的な事実であると同時に、人間の側の事情からも導出することができる。

    プロメテウス伝説に見られるように、人間は、個体化の原理を打ち破り、個体としての限界、分、節度を度外視して、自己に対する一切の規定を超越しようとせずにはおれない。そもそも、個体化の原理から要請される自己認識のうちに、こうした自己否定、自己超越の機制が予め内在しているといえる。なぜなら、自己認識のためには自己意識で以て自己を対象化することが求められるが、このとき既に自己は自己の境界を超越論的に超え出てしまっているのであって、そこにおいて自己は常に自己否定、自己超越の可能性に開かれているのだから。このように、アポロン的なるもののうちに、予めアポロン的なるものの否定が内在している。

    言語以前の自他未分離なディオニュソス的混沌から、言語というアポロン的作用によって世界が分節化され自己が析出し、にもかからず人間は自己の限界、分、節度、則ち自己同一性に自閉していることに飽き足らず、このアポロン的作用の過剰としての自己意識に促されて自己否定、自己超越を志向し、個体化された自己そのものの無限の対象化を遂行することで、ついに自己そのものの解体へと向かい、しかもその行き着く先はもはや原初のディオニュソス的な混沌であるとすらいえないのかもしれない。ここには、不定態としての人間の実存の在り方が端的に現れている。

    以上より、人間は、世界のうちに居場所をもつことができず、世界において何者かであることができず、世界から引き剥がされてしまっているがゆえに、世界の部外者として世界を不条理なものとみてしまうことになる。これが、人間の側から導かれた、世界が人間にとって無意味であるという事態であり、人間が宿命的に抱え込む「無理」に他ならない。それは、人間が自己意識を備えているということの別表現である。

    □ 悲劇は実存の苦悩を是認する

    ディオニュソス的なるものは、「世界の不条理」の象徴として、非合理的であるがゆえに苦悩を惹き起こすものであるとされる。しかしまた同時に、ディオニュソス的なるものは、「生の全体性」の象徴として、非合理的であるがゆえに歓喜をもたらすものとされるのであった。このように、ディオニュソス的なるものは、人間に対して苦悩と歓喜の両義性をもっている。では、なぜ苦悩は歓喜と結びつけられ得るのか。

    世界が何の理由もなく投げつけてくる不条理な運命に、人間は敗北していく。しかし、そもそも人間という存在自体が、世界にとっての部外者であり、世界のどこにいても居場所がない、どこにいても「無理」があってしっくりこない、自分の本当の寝床を探しながらここでもないそこでもないと彷徨する以外にない、どこにも行き着くべき場所をもたない、そんな宿命的な「無理」を抱えた故郷喪失者であるとするならば、世界の不条理に対する人間の敗北は、人間のこの根源的な「無理」を人間自身が宿命として受け容れるということであり、それによって「無理」からくる苦悩が解消されていくこと意味するのであって、それは確かに歓喜をもたらすものであるに違いない。

    先に示した通り、世界が不条理であるという事態が、実存という人間の在り方に根本的に関わっているものであるとするならば、この世界と人間とのあいだの端的な事実性に表現を与えることで、悲劇は、実存の苦悩を、ひいては実存という人間の在り方そのものを、是認する。

    □ 自己批評の試み

    ニーチェは、例えば「道徳外の意味における真理と虚偽について」などに見られるように、世界に意味があるかという問題を、世界の側の形而上学的な問題として問うのではなく、世界に意味を求めてしまう人間の側の自己都合の問題へと帰着させた。この点で、客観の側の問題を主観の側の問題へと帰着させたカントのコペルニクス的転回と似ている。

    しかし、『悲劇の誕生』当時のニーチェは、まだ形而上学的な問題設定から完全に脱却していたわけではなかった。『ツァラトゥストラ』後に書かれた「自己批評の試み」は、この点を自己批判する。則ち、『悲劇の誕生』は、ディオニュソス的なるものとアポロン的なるものとを二項対立的に措定し、前者こそあるべき姿であるとするロマン主義であった、と。

    そもそも、先に述べたとおり、アポロン的なるもののうちには、自己否定、自己超越を志向するディオニュソス的なるものの契機が予め内在しているのであって、その意味ではディオニュソス的なるものの一元論とすることが可能である。さらにいえば、わざわざディオニュソス的なるものなどという形而上学的な実体を措定しなくとも、世界が無意味で不条理で非人間的であるという端的な事実性のみで事足りる。そう考えれば、最初から形而上学など必要なかったということになる。

    自らの『ツァラトゥストラ』を引用しながら、ニーチェは訴える。そうした無用の形而上学になど依存せず、そこから自らを解放して、世界の無意味さをただ端的に生きよ、と。それが生の歓びである、と。

    「君たちはまず此岸の慰めの芸術を学ぶべきだろう、――若い友人たちよ、君たちがあくまでペシミストにとどまる気なら、笑うことを学ぶべきなのだ。おそらく君たちはその結果、笑う者として、いつかはすべての形而上学的慰めなんか悪魔にくれてやることになろう――形而上学なんかまっ先にだ! あるいは、ツァラトゥストラと呼ばれるディオニュソス的怪物の言葉でいうなら、こうだ――〔略〕。笑うことを、わたしは神聖だと宣言した。君たち、より高い人間よ、わたしから学べ――笑うことを!」(p23-24「自己批評の試み」)。

  • 再読。ニーチェは「善悪の彼岸」と「この人をみよ」くらいは読んだはずなのだけど、本棚にはこれしか残っていなかった。なんかあちこちにラインが引いてあるのだけど、若かりし自分が何を思ってそこにラインを引いたのか20数年後の自分には理解できないという(苦笑)ニーチェ自身も20代の頃に書いた本で、のちに付け加えた序文では自己評価イマイチとなっているので、これは若いうちに読んだほうが共感できる本なのかもしれない。

    ざっくり概要としては、ギリシア悲劇の「誕生」とその「衰退」さらに現代(ニーチェの時代のドイツ)における「再生」について、有名な「アポロ的」と「ディオニュソス的」という二面から解明する、という感じかな。

    ○アポロ的:造形芸術、叙事詩、現象の模倣、静、個人的、内向的
    ○ディオニュソス的:音楽、叙情詩、意思の模倣、動、集団共有、開放的

    部分的にこちらの解釈も混じってますが、アポロとディオニュソスの対比はとても面白いし解りやすい。ただ結論だけ言っちゃうと、ニーチェはあらゆる芸術の中で「音楽」が一番素晴らしいと思っており、古代ギリシャの演劇におけるコロス(合唱隊)の一種であるディテュランボスが悲劇の発生源であり、現代における「再生」っていうのはまあオペラのことなんですよね。で、最終的に、ワーグナー万歳、ドイツ精神万歳みたいな結論になっちゃうので、なんというか、ワーグナーのオペラ聞いてテンションあがっちゃってワーグナーとドイツ精神称えるためにこれ書いたの?と思うとちょっと微妙な気持ちに。まあ芸術論なんだけど、ちょっと極端というか、突っ走りすぎというか。一回落ち着こうか、みたいな。

    個人的にはディオニュソス的熱狂、集団で音楽や動きを共有することでなんかテンションあがっちゃう!の一番わかりやすい例は日本の「盆踊り」ではないかと思います(笑)

    あと論点ずれちゃうけど、序文でニーチェの言う「ひょっとしたら、悲劇は快感から生まれたのではないか?」という部分を拡大すると、個人的には、悲劇の誕生ということを発生源ではなく人間の心理の側からも読み解いてほしかったというか、なぜ人間は悲劇を愛するのか?悲劇を欲するのか?ということへの興味があります。日本人はとくに「可哀想」で「泣ける」話が好きだけど、めでたしめでたし、じゃない終わりを好む心理って、なんなんだろうなあ。

  • 「君たちはまず此岸の慰めの芸術を学ぶべきだろう、――若い友人たちよ、君たちがあくまでもペシミストにとどまる気なら、笑うことを学ぶべきなのだ。」(28)

    ――

    ニーチェの処女作。
    ギリシャ悲劇を主題材とした芸術・音楽論。

    ギリシャ悲劇・芸術の本質を、造形芸術である「アポロ的なもの」と非造形的な芸術(音楽)である「ディオニュソス的なもの」の対立・二重性から解釈している。悲劇の誕生は、生と死の耐え難い苦痛を癒やすためのディオニュソス的な音楽・陶酔であり、そこに美しい仮象であるアポロ的な夢が覆いかぶさり、芸術として結実していた。しかし「ソクラテス」に象徴される過度な理性主義・理知主義・科学的認識あるいは「精神」が、ディオニュソス的な悲劇を殺したのだ――というのがニーチェの論旨と思われる。

    ニーチェ思想の萌芽を感じる書物。確かにこの本が「論文」として提出されていたのであれば、アカデミックな領域からは黙殺されるだろうなぁという印象。哲学者というよりは思想家、文献学者というよりは詩人に近しいニーチェ「らしさ」が、若き28歳のニーチェからも滲み出ている。文章からニーチェのエネルギーが伝わってくるかのよう。

    造形芸術と非造形的な音楽芸術との対比論は、レッシングの『ラオコオン』における造形芸術と文学との対比論ともパラレルで、芸術・美学的に重要なテーマだと思う。民謡において、「詞がメロディーを模倣しようとしてぎこちなくなっている」といった指摘は興味深かった。歌が志向しているのは言葉や詩ではなく、メロディーのほうなのだ。

    この時のニーチェはギリシャ悲劇の仮面を「ぶかっこうな」小道具、造形的な仮象にすぎないものと捉えているきらいがあるが、演劇や儀礼における仮面・マスクは、演者が「自己」から忘我・離脱し、超越的存在や芸術表現と一致するための重要なファクターでもあるわけで、その意味でディオニュソス的恍惚との関連は無視できないのではないか、という点は個人的に指摘しておきたい。

  • 合唱が悲劇そのものであったとする予想外な結論に、ただただ驚くばかりである。

    私は悲劇を含めた戯曲というのは、言葉と間に入るナレーションだと思っていたので、たいへんにショックを受けている。

    その一方で、ニーチェの作品としては、処女作だけに、言葉の毒が弱いと思った。

    アポロとディオニュソスという二つの神を作ったのは意味があって、二項対立させやすいという面もあったと思う。このように二項対立させることで単純化させやすいと思った。

    西田幾多郎がニーチェの影響を受けていると、解説にあったので、納得した。どうも似ているところがあったものだから。

  • あとになってワーグナーと決別したニーチェは処女作である本書を悔やむことになる。後代の歴史を知っているわたしたちにしてみればドイツ民族称揚がいかにもナチス好みだったろうところの方に注意が向くけれど。
    21世紀に改めて本書を取り上げる視点は、ニーチェが真っ向から攻撃したソクラテス主義~科学主義、ニーチェが回避した経済主義、この二つからひとは自由たり得るかという問いかけだ。ニーチェ以後とはこの難題の尖鋭・肥大の歴史であるにすぎないかもしれない。
    そしてフーコーにも受け継がれた芸術(美)的人生という問題になるのだが、今のわたしたちにとってのアートのギャップこそ時代的深刻さとして考えこまずにはいられない。
    アポロ的造形芸術、デュオニソス的悲劇、その源泉としての音楽。科学と経済に厳然と対峙し凌駕する音楽。つまりそれは神話である。
    そのような音楽への旅。現代のニーチェ探訪は改めてそこからだ。わたしたちにはわたしたちの神々がいるはずなのである。

  • ニーチェというと思想詩的文体や、中期著作の預言の書みたいなアフォリズム集的な構成のために、あまりに文学的で抽象的思索や体系的思索を嫌った「詩人哲学者」イメージが一般的である。しかしながら、処女作にあたるこの作品は、秩序だった文章構成になっていて論理的に書かれており読みやすい。とはいえあくまでもニーチェの中ではという意味で、巻末の秋山英夫の解説にも〈これはもはや文献「学者」の操作ではない、詩人ニーチェの「創作」である。〜中略〜ニーチェはこの本で「詩人」として、デビューした〉とかかれている。じゃあもう赤帯分類でいいじゃんね。
    若きニーチェはワーグナー、そしてショウペンハウアに心酔していたらしいので、形而上学的根拠はショウペンハウアに依拠しているし、ギリシャ古典論を展開しておきながらもワーグナー論みたいになっている。
    なので本書において語られる、かの有名な「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」という対立概念も、ショウペンハウアの『意志と表象としての世界』を読んでないとピンと来ない。まぁワーグナーは聴いたことなくてもいいと思うけど。
    後のニーチェは、ショウペンハウア哲学からの脱却、あるいは克服への意思を強め、さらにいろいろあってワーグナーもディスるようになり、最終的にはショウペンハウアどころか、形而上学そのものの価値を否定するに至るのではあるが、それはまだ先の話である。
    とはいえ、本来孕んでいる無秩序と矛盾を直視しないのは一種の弱さであると、自己欺瞞を認めない姿勢や、あくまでも強さのペシニズムを模索している点などには共通点を見出せる気がする。それにニーチェの思索はギリシア古典から始まったのかと思うと興味深いですよね。ニーチェを読むなら何がいいかときかれたら、まずはこの本からだと思うのです。76点。

  • ニーチェの著作の中ではまだまともな論文調を保っている作品。
    歴史学から追い出された問題作とされますが、なんともドラマチック、ロマンチックな作品。

  • 高校生のころに、「ツァラトゥストラはこう言った」などを読んで、なぜか、ニーチェが言うことが理解できた気がしていたのですが、今、30年以上が経って、このニーチェの処女作を読んでみて、その熱にうなされたようなある意味、理路がはっきりしない文脈に、「理解できた」感を得られませんでした。これはなんなのか?今更ながら、改めて、読み直しが必要だと思いました。

  • 読み通すには根気がいる。独断的持論が展開され、論旨の繰り返しには辟易させられる。ギリシャ芸術をアポロ的なものとディオニュソス的なものとの対立軸で両者が絡み合いながら発展する過程で悲劇の誕生を論じている。直観的理解を阻むかのように難解な表現が煙に巻く。著者の高揚感と反するように冷めた眼で読み進めることになる。

  • デュオニュソスとアポロ、ソクラテスがキーワード。
    詩的な叙述。芸術と悲劇を巡って、生きる根源、文化の根源に迫った作品。字が小さかったが、グイグイと引き込まれた。木田元氏が、「反哲学」=ニーチェと喝破した、片鱗が見えた。特に前半。仏教についての肯定的な言及もあった。キリスト教への排撃は激しい。

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