ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青639-2)
- 岩波書店 (1967年4月16日発売)
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感想 : 181件
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Amazon.co.jp ・本 (276ページ) / ISBN・EAN: 9784003363928
みんなの感想まとめ
深い哲学的思索を展開する本書は、ニーチェの思想を通じて「神は死んだ」後の人間の生き方を問いかけます。独特の語り口で難解なテーマを扱い、読者は時に疲れながらも、その中に潜む真理への探求に引き込まれていき...
感想・レビュー・書評
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独特の語り口で難解な論を展開していく本。読んで疲れた。途中から癖になるが、また疲れて、を繰り返していた。
真理への追究、「神は死んだ」後の我々の生きる道に対するニーチェの考えは示されているのだと感じた。自らがいかに高みに向かうか、が問われる。
なお、女性に対する考えは現代には合わないのだろうなと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これは最後の解説を先に読むことをオススメする。訳者による名解説になっている。
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以前、『道徳の系譜』やらニーチェ解説本やらを読んでいたときは、個人的に「魂の救済」をテーマに読書をしていたので、やたらキリスト教を否定するニーチェの良さがよくわかっていなかった。ニーチェの思想で弱者を救えるかよ、と。
本書を読んでわかったことは、ニーチェの思想は決して「強者の論理」というわけではない、ということ。
むしろニーチェは弱い人間が強くなるための思考法を提示しているのであって、「超人」思想を説く主人公のツァラトゥストラでさえ、理想的な強い人間(=超人)には完全にはなりきれていないと思わせる箇所があった。
「俺のように強い人間になれ」というよりも「俺と一緒に強い人間になろう」と言われているような気がした。
ニーチェの超人思想を社会論的に発展させたのがオルテガの大衆批判だと思っている。
ニーチェの超人思想には「他者とのかかわり」という視点が無視ないし軽視されている点がいかにも玉に瑕という観もなくはない。
が、やはり「超人になろうとする意志」は個人の心の中に留めておくのが無難な気がする。
「私はいまや超人であるぞ」と認定できるのは自分自身のほかにない。
加えて、大衆批判は「自己言及のパラドクス」の危険を常に孕んでいる。
「そしてわたし自身も仮想してあなたがたのなかに坐っていよう。――そしておたがいに姿を見せないでおこう。これがすなわち、わたしの最期の処世の術である」(p252)
冒頭に「だれにも読めるが、だれにも読めない書物」とあるとおり、文章自体は平易だが書かれている内容は難解極まりない。
半分も理解できたかわからないが、読むたびに違った発見がありそうな気がする。
時間をおいて再読するのが楽しみな本、ということで!
下巻に続く -
上巻を読むのに2ヶ月かかってしまった。(前からわかっていたことだが、)このような本を理解するには、時間をかけて読んでは個々の印象が薄れてしまうから、寧ろ短時間に集中して読み、それを繰り返さなければならないと思った。…そういう訳であまり内容は理解できていないのだが、それでも少しでも理解してみたいと思わせてくれる本ではあった。何度でも読み返したい。詳しい感想は、(書けそうなら)下巻を読破してから。
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ニーチェの文体を初めて読んだ。詩的な文章になかなか翻弄されたが、中程まで読んだ頃には段々とそのリズムが心地よくなっていった。
言っていることは正直よく分からないが、私の乏しいキリスト教の知識と当時の時代背景を考えながら、ニーチェの語る哲学に想いを馳せてみた。
ユダヤ教の価値観が飽和して、惰性的に割礼の有無だけで信仰を判断するようになってしまった世の中でキリスト教が生まれた。ニーチェのツァラトゥストラは、その後のキリスト教の価値観が飽和した社会においてまた先祖返り的にゾロアスターの名を用いて、キリスト教の負の部分を払拭したいと考えたのではないか。などと考えながら読んだが、ニーチェ研究の書などもっと詳しく読んでみたいと思う。
さて、頑張って下巻も読破しよう……… -
高校の倫理を一通り受けて、興味が出たニーチェの代表作ということで読み始めた。解釈が難しい文章で、一ヶ月かけて、ちまちま読んだが、全然頭に残っていない。所々高校の授業で出てきた思想が出てきて読みやすくなったものの、全体を通して何を言いたいのかさっぱり。。
こういう書評は低レベルであることは心得ているが、これからこの本を読もうと思っている同志に向けて警鐘の意味を込めて書いた。
ニーチェの入門書を読んでからまた読み直そうと思う。 -
ニーチェの鋭さの中に少しの狂気も感じる。
人生生きることは、悩むことに過ぎないとある者は言うが、それなら人生をたんに悩むだけになるように用いたらどうだ!
死の説教者が、他人の人生をおのれの贈物の鎖でもってますます束縛するとは何事か!
そうした連中は、人生からの脱出を説教するとともに、自らも立ち去ってくれることを私は望む!と。
女は謎、だが謎を解く鍵は一つ、それは妊娠。
女にとって男は一つの手段である。目的は常に子供。「わたしは超人を生みたい」ということでありなさい!と。
男性は危険と遊戯を求める。だから、女性をもっとも危険な玩具として求める。
男性は戦いのために教育され、女性は戦士である男性の休養のために教育されなければならない。それ以外一切は、愚劣。
男性の幸福は「われは欲する」
女性の幸福は「かれが欲する」
女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見出さなければならない。
と。
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ツァラトゥストラは保険が効く本だ。
「読んでもよくわからなかった」というのは、ある意味でこの本に対する褒め言葉ともなっている風潮があるのではないか。
そんな悪しき風潮のために、「読んでもよくわからないだろうな」を前提にして読む者もいる。そして読み終わった後、彼らは「よくわからなかった」とニヤケ笑うのだ!
ああ吐き気!
彼らは中途半端な教養主義という一つの意志を持って生きているのだ!
彼らは、この本によって彼らのような人間、自分自身が批判されていることにも気づけてはいないのだ!
彼らが真に欲していたのは、「ツァラトゥストラを読んだことがある」という経験だけだったのだ!
しかしそれに何の意味があるか?
これは単純に年をとることが決して人を大人にはしないことと同じである。
わるい空気だ!わるい空気だ!
エリート主義的思想に侵された大学生も、薄っぺらい教養主義に意志を見出す人間も、一掃されるべきだ!
この本は箴言という形をあえて取った。
しかしその小説風な物語のせいで、中途半端に日本語が頭に入って来てしまうのだ!
言語の内実を知らずとも、表面をなぞることは彼らにはできてしまったのだ!
このせいで彼らのほのかな矜持が保たれてしまったと言えるだろう!
そして「ツァラトゥストラ」を読んだことがない相手に、「ツァラトゥストラを読んだけど、マジでわからなかったわ」と汚い薄ら笑いを浮かべるのだ!
もう沢山だ!もう沢山だ! -
全体的に寓意を軸とした、ツァラトゥストラの成長物語とでもいうべき「お話」なのですが、このお話自体がなかなか読み解くのが難しい。一度解説を先に読んだり、入門本(最近はYouTubeなどの解説もいいものがあります)に目を通してから本編を読む方がはるかにわかりやすいでしょう。
上巻は有名な「神は死んだ」ことから始まり、その間隙を埋めるためにこれまた有名な「超人」へと、人間を克服して至らないとならないことが説かれます。永遠回帰の概念は上巻では伏線的に顔を出しますが、これは第3章以降の下巻での言及となります。
この「ツァラトゥストラ」は細かくテーマごとにセクション分けがされていますが、ツァラトゥストラ自身の葛藤や進化をストーリーとして時系列的に追う形になっているため、やはり上巻から通して読まないと真意は掴めないかなと思います。ファスト映画の如くキーワードだけ知れれば良いというような書物ではないので、上述のような簡易解説本・動画などから入ったとしても、通読しなければ著者の思想の根っこの部分には触れることは難しいです。 -
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自ら善悪を判断(創造)し、苦しいことは幸福として受け取り、それを自ら超克せよ。→これが上巻を超要約した感じはこんなんかなーー。
・今我々が立っている大地に目を向けろ(「神は死んだ」)
・自分自身を喜ばせることをしろ、そうすれば人を悲しませたりすることはなくなる
・人間は平等でもなく、平等になるべきでもない→超人への愛があるから。最高の戦いをして、自己自信を超えて高みを目指さないといけない。意志がとても重要(真理への意志、力への意志)。
・善悪は自分自身で自分自身を繰り返し彫刻しなければならず、また善悪において創造者とならなければならない者は、まずは破壊者となってもろもろの価値を壊さなければならない。→最高の善意には、最高の悪意が必要になる。こうした最高の善意こそ創造的な善意 -
本書では、著者ニーチェの哲学や根本思想が散りばめている。著者の作品を読むのは初めてであり、注釈も全くなかったため難解であった。神は死んだという象徴的な言葉を残した著者であるが、本書ではその思想について物語形式で詳しく書かれている。しかし、正直なところ本書のほとんどを理解できなかった。比喩的な表現が多いため、イマジネーション能力が必要とされる。巻末にある解説を読んで初めて、本書の面白さを感じたといっても過言ではない。しかし、本書を通して哲学は興味深いと再確認したので、これから簡単な入門書を読んで哲学を学んでいきたいと思う。
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「神は死んだ」――神の死を伝えるために、彼は下界へと降りていく。そして、彼は大衆から蔑まれののしられる。彼が、彼らの抱く善に反しているという一点において彼は排斥される。やがて、彼は大衆へと神の死や、超人へと至る道程を語ることをやめて、旅の道連れを捜し求める。
「誰にでも読めるが誰にも読めない書物」
恐らくはニーチェの思想によって、深い構成を経ずにしてつづられたある種の純文学であるのではないか?それによって、この著書はまるで得体の知れぬものと成り果てている。
「愛の中には常に幾分の狂気が在る。しかし、狂気の中には常にまた幾分かの理性が在る」――キリスト教の教えからはまるで考えられない理屈であるくせに、この言葉は真理をついている、いや、真理をついていると思わせるだけのなにかを背後に持ちえている。
彼は、善、徳、悪、様々な言葉へと観念的に追求している。しかし、その際に彼の言葉はあまりにも平易なのだ。哲学書だと思わせぬくらいの平易な言葉で、しかし、誰よりも難解な内容を描いているという逆説。彼の怒りの矛先が向けられるのは、彼が度々絶望するのは、キリスト教徒が抱く「絶対的な価値観」なのではないか、彼はその価値観に疑義を呈しては、嘆き悲しみ、内省を重ねている。
彼が説くのは、恐らくは一つのことだ。その一つのことをうまく言葉にするのは困難であるが、しかし、彼は様々なその一つによって様々な事柄を批判していく、それにおっておぼろげに見えてくる彼の考え方の根幹とは――「神の死」なのだろうか。絶対的な存在、真理が死ぬ時点で、耐えず批判が生じ、我々のものの尺度は一つでは測りきれなくなる。彼は隣人すらも批判する。「隣人はあなたにたかる毒蠅なのだ、だから、孤独になりなさい」と彼は説く。
「孤独は長い間、1かける1だが、それが長い間には、2になってくる」――ニーチェ。わたしとわたしとの対話。そして、さらに第三者の存在。コルクの浮子。
「人は神にはなれないが、超人にはなれる」「神は死んだ。人に、同情したがために死んだ」「原罪を持っていると思うことこそが原罪なのだ」「救い主はもし私くらい歳を経ていたらならば、間違いなくその考え方を変えたであろう」――この言葉はもはや凄まじすぎる。彼の超克精神は凄まじい。また、彼は、更に、一部の終盤にて弟子たちと決別している。それは、弟子たちは彼の考えの受け売りを持っているだけであり、彼を信仰している存在に過ぎないからだ。彼らは自ら彼の考えを持たねばならず、また、友を失うという悲劇を彼自身も経験しなければならなかった。しかし、それは再会を誓う別離なのである。
「力への意思とは、ありとあるものを思考可能としようとすることであり、力の意思こそが真理への意思の正体なのだ」――ここでは批判される、力への意思だがこれはやがて肯定的に捉えられていくらしい。
「善と悪とは絶えず、自らを超克していくことである」「常に自分で自分を超克していかねばならない」――絶えず繰り返されるのはこの内容。
二番目に好きなひとと結婚するべし、というのは、実は女性だけではなく男性にも当たる言葉なのかもしれない。これは単に二番目っていう意味よりは、むしろ、一緒にいて身を滅ぼしたくなるくらい好きなひとと一緒にいて破滅するよりは、遠くからそのひとを思いなさいってことなのかもしれない。逆に一緒にいて破滅する気配がないならば、それはたぶん、二番目に好きなひとなのだ。一番目と出会っていないというだけであって。それは真理に近しいのかもしれない。「愛と破滅は表裏一体」とはニーチェもよく言ったものだ。
ツァラトゥストラの上巻の内容としては、自己を超克していくための徹底したニヒリズムが語られている。繰り返される自己否定、更に自己否定。規制的な価値に縛られ盲人と化している人々との間に軽蔑され彼は孤独になりながらもやがて彼の仲間を得る。仲間を得、更に離別して彼は孤独へと至り、仲間たちもそれぞれの思索を得ようとする。彼らはまた再会し、そして、また離れる。第一部における離別は、彼のためであり仲間たちのためであったが、第二部における離別は人間のためだ。彼は序説においておよその人間に見切りをつけてしまったわけだが、それではいけないと二部の終わりにて彼の中の内なる彼によって啓示を受け、泣く泣く再度孤独へと落ちていく。平易な言葉で難解に綴られる哲学書と文学の両方の性質を持ちうる突然変異的な本著が訴えているのはしかし、酷く一貫している。絶対的な価値観の否定し、自己を超克する。だが、自己はまた自己という殻に埋もれる。つまり、超克は絶えず行われなければならない。そして、絶対がない以上、終着は見えない。彼は終着を神ではなくて超人だと定義づけている。しかし、絶対はないのだ。真理を彼は否定している。第三部以降の展開がいくらか気になるところではある。彼はとうとう超人になるのか、破滅して死ぬのか、一般大衆=彼が軽蔑していた存在すらをも味方につけてしまうのか、はたまた、弟子にとってかわられてしまうのか。終わりなどない。彼は宗教者ではないのだ。彼はあくまで一つの路を説くだけだ。しかし、それは絶対ではない以上、弟子たちはそれぞれの路を開かねばならず、彼らはあくまで、自己の考えを持った結果として身を寄せているというだけに過ぎない。永遠の思索。しかし、その永遠の思索こそが力への意思であり、権力を求める意思であり、我々を縛り付ける正体である。とはいえ、気力的に下巻を読むのは日をしばし空けよう。
追記。解説を読み、自分の解釈が少し不安になってきたが、しかし、誰かが下した解釈が絶対だなんてことはありえず、自分は自分の解釈を持てばいいのだと思う。誰かが下した解釈を持つということはつまり、追従しているだけに過ぎなくて、それはニーチェの言う超人の路を断念したことになりはしないか?なので、個人的にはニーチェをニヒリストでありロマンチストであり、ナルシストであると肯定的な意味合いで定義する。個人的にニーチェは好きだ。思考はくるくると回り続けるだけかもしれないが、回れば回るほどに必ずなにかが集積されていく。それが悪く働くこともあるかもしれないが、自己との対話による強烈な自己否定と自己肯定の精神があれば、必ず自分なりの終着にたどりつけそうな気がするのである。 -
筆者独特の文体のなかに思想が結実されていた。超人思想の登場とともに、超人に対しての「おしまいの人間」や「小さな人間」へのニーチェの大いなる軽蔑が現れており、痛快であった。この文体に関して、彼が自らのことを「詩人」と言っていたことは興味深い。
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ニーチェ 「 ツァラトゥストラ はこう言った 」上巻は キリスト教世界の価値観を批判し、超人という新しい価値観を創造。
時間概念も少し入ってきて永遠回帰につながる感じ。面白い。岩波文庫なのに 注釈が なくても読める。比喩の意味に迷う時もあるが、何となく 意味は理解できる
女性や戦争については 現代感覚とズレはある
蛇=永遠回帰の知恵の象徴
鷲=知恵を身につけた超人の象徴
太陽=超人〜人間は他人の幸福を妬むが 太陽は妬みを克服
「人間は克服されなければならない或物である」
ツァラトゥストラ「人間は 動物から超人へ わたる一本の網」
*この網は 超人へいたる希望の橋
*そこそこの幸福、理性、道徳に自分を軽蔑すること
*末人=軽蔑すべき おしまいの人間〜教養に満足している人間
*ツァラトゥストラ=永遠回帰を教える人
人間の精神の変化〜駱駝→獅子→幼な子
*駱駝=高みを目指す修行者〜駱駝は楽→駱駝は自己を無にして他者の命令に従う
*獅子=他人に従う自分を嫌がり、命令する竜(キリスト教の神)に飛びかかる→獅子の否定力は 自由を切り拓く
*幼な子=創造には 幼な子のような 無垢の肯定力が必要→獅子が幼な子に変身して初めて 人は自分の意志を意志する
人は戦いの備えがあって初めて 平和が可能になる
永遠回帰=運命を味方にする
*人間を過去の復讐心から解放するため
*自分の不幸を他人のせいにしないため
*いつか誰かが救ってくれる他人任せにならないため
永遠回帰のステップ
1.私はこれまでの人生を何度も繰り返し生きる(永遠回帰)と考える→この現実からの逃げ道は どこにもないことになる
2.永遠回帰を 喜んで欲する→永遠回帰を消化し 超人になる
永遠回帰=無神論的宗教
*世界は同一の状態を永遠に反復している
*世界は始まりも終わりもなく、目的も意味もない。ただ存在しているだけ
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特に性別について語る部分では現代人の感覚からするとクソみたいな言説がある。原文自体、徹頭徹尾論理的に書かれている文章ではなくノリでガーッと書かれているように見えた。名著なので読まねばと思っていたが少し幻滅。例え話にすることで逆に分からなくなってる。過剰な難解さを後世の人々がもてはやした結果の遺物のようにも見えた。解説を読むと、聖書の表現を多分にパロっていながら、神は死んだと主張するエッジの効いた内容になっている模様。ニーチェはその思想を筋の通ったものとして正確に伝えることを意図しているわけではなく、解釈の余地を残す芸術寄りの作品を残したかったように思えた。
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視点がミクロでありマクロでもあるという気づきがあった。読後感はニーチェの他の作品よりも鬱屈とした部分がなく、舞台設定もあって旧約聖書を読んだような感覚。ところでタイトルは「かく語りき」であってほしい。
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正直難しい。
自分に当てはめて捉えると、今の自分がニヒリズムにあり、末人であり、超人を目指すべきということかな?
具体的に何を伝えたいのか…今の私には難解だった。 -
難しい
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フリードリヒ・ニーチェの作品
