- Amazon.co.jp ・本 (390ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003364338
感想・レビュー・書評
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人が見ている世界はあくまで主観であって、それが客観的な世界と一致しているとはかぎらない。夢かもしれない。錯覚かもしれない。主観と客観が一致していることを証明する方法はない。ただ、少なくとも人は目の前の世界を実際にそこにあると「確信」はしている。人がこの「確信」を持てるのはなぜか。人は自分の視点(主観)があると同時に、他人にも他人の視点があることに気付く。自分が観ている世界と他人が見ている世界が同じものだと思えることができれば、目の前の世界は実際にそこにあると人は「確信」できる。エトムント・フッサールHusserl『デカルト的省察』1929
日常生活で、私たちは「他人も自分と同じように物事を見ている」との想定に立って行動している。日常生活の世界は、自分だけの世界(主観)ではないし、他人だけの世界(他人の主観)でもない、他人と共有された世界(間主観)。アルフレッド・シュッツSchutz『現象学的社会学』1976詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今まさに経験している意識の流れを、できる限り予断を挟まず記述しようとする。それが実は、いかに面倒臭さく、いかにややこしいことなのか。この本を時速約10頁でとにかく読み通してみて、なんとなく分かった気がした。読むのは大変だったが、普段の自分にはない頭の働かせ方ができて、それはそれでおもしろかった。
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ライプニッツ著作集補完の為に読了。「言葉」に何故説明が必要か良く判った書物です。素朴さから始まりより根源的な素朴さに辿り着こうとする。そんな内容。
本書は第四省察までが「我」論で、第五省察になり「他者」論となる間主観性が提示されます。 -
現象学の古典。どのような径路を辿って現象学という考え方が生まれたのか。その問いの視角と内容はいかなるものかを理解できる一冊。
端的にいえば、それまでの哲学で考えられてきたような「物自体」が、自分から独立に存在しているという考え方を放棄せよ、という主張。自分が認識しているものは、そしてしうるものは、すべて自分のもつ志向的な意識の働きがもたらすものだ、ということを証明するところまでで話が終わる。ハイデガーがこれよりもよりクリアに問題を整理し、構造を明らかにしたので、フッサールはどうも軽視されがちだが、やはりその問題構造や哲学的基底となりうるわけというのは、フッサールを読んでこそわかるなぁ、と感じた次第。
間主観性や志向性など基本的で重要な概念も説明される。
本書は、注も充実しており、索引もあり、長さも短いので読みやすい一冊に仕立てられている。 -
今もなお読み直している本。部分的に理解できていないからうんうん唸りながら読んで、気が付いたら、半分も意味が分からないままページが終わってた事が記憶に新しい。全部理解できるまで読み直す予定。よって詳細はかけません。
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後期フッサールによる現象学解説。発生的現象学。
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終了しました。
次は、メルロ=ポンティです。
(2015年09月05日)
ハイデガーが終わったので、
次はこれです。
(2015年07月20日)
銀座に行く用事があったので、
途中、教文館に寄って購入しました。
(2015年02月03日) -
デカルト的省察 フッサール著浜渦辰二訳
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初フッサール。ライプニッツのモナド論が結構言及されていてちょっとびっくり。末尾近くの一文が、哲学書に似つかわしくない美しい響きを奏でていてはっとさせられた。曰く、"世界を普遍的な自己省察において取りもどすために、まず世界を判断停止(エポケー)によって失わねばならない"。そして、どなたか学識ある方が一日も早く『間主観性の現象学』を翻訳してくれることを切に願う。
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フッサール晩年の主著。デカルトの精神の復権を唱えつつ、「間主観性」を現象学的に問題化し解明しようとした、デカルトの自我論を乗り越えようとする試みである。間主観性や周囲世界、そして生活世界論の端緒など、『危機』や『イデーンⅡ』にもつながる問題が様々な形で現れる。まとまった著作ではあるが、ここで取り上げられた諸問題はこの著作で体系的に解決されているとは言えず、開かれたままになっていると思える。