- 本 ・本 (152ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003364413
感想・レビュー・書評
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エーリッヒ・フロム『愛するということ』を図書館で借りた時に、ふと目にしたので一緒に借りてみた。まず解説を読んでみたところ、著者の「友人」とされる女性との関係について延々書かれていてうんざりしたが、本文をぱらぱらめくってみると、「貨幣というのは、純粋な力である唯一の文化的構成物である。それは、実態を伴うことをやめて、飽くまでも単なるシンボルである」なんてあり、おっ?と気になる。そもそも女性「友人」との関係というよりも、どんな人なんだろうと検索すると、なんと「ゲオルグ・ジンメル」ではないですか!
ゲオルグと言われて初めて気がついた、彼はミヒャエル・エンデが唱えた「老いるお金」のアイディア主だった。『エンデの遺言』を読んで以来、ゲオルグ本人の著作もそのうち読んでみようと思ってすっかり忘れていた頃に、別の形でまた出会った。
本書自体は、「断想」とある通り、twitterに向いていそうな短文による思想が並んでいる。そのそれぞれから、その背景にある思想をどのように読むかというのは、全く読者次第でもありそう。ぱっと開いて出てきた短文について、思いを巡らすという読み方でも楽しめそう。本を手にすると、まず「はじめに」と「解説」を読んでしまうけど、本書については「解説」は必要だったのかな?愛の断想は、その先入観によってうまく読める自信が今のところはまだない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日々の断想の方がよかった。
書いてあることは結構すんなりと腑に落ちる。 -
141.失ったら困ったことになるもの、其れを如何に多く平気で失っているか、を考えたとき誰でも驚くに違いない。しかし、失ったら本当に大変な取り返しのつかぬ、文字通り困ったことになるもの、其れをいかに少ししか持っていないか、と考えたときさらに驚くに違いない。
目的が、意味が、意義が、充実が、
本当の何かではないにしろ、
見失いやすい人の生 -
折々思うことを言葉に。
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ジンメルの人柄がその文体に滲み出ているような、清水幾太郎の名訳。
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哲学者・社会学者ジンメル(1858-1918)のアフォリズム集。
「愛の断想」
愛とは生殖という外的な目的から解放されたそれ自体を目的とするものであると説く(1,5)。愛を知る人にとっては、他者との関係という自己を超越した事態が自己に内在する(10)、という指摘は興味深い。愛の本質的不可能性について(34)も、共感できる。シニシストは自己の優越性を仮構せんとして相手に対して超越的な高さを保って対象化するという機制でしか他者と接することができず i.e. 自己の超越的な優越性が失われるのを恐れるあまり対象をそれそのものとして真に受容することができず、ただ愛を知る者のみが対象を対象に即してその全体性を感得できるのだ(43)、という点は僕が考えてきたこととそのまま一致する。
「日々の断想」
合理主義・実証主義・要素還元主義に対する批判・ペシミズム(13,122,153)、芸術を批評するシニシストに対する批判(106)、主観と客観との関係に見出される「超越の内在化」という機制についての考察(14,17,18,20)、悲劇に底流する矛盾ついての考察(147)などが興味深かった。更に、真に精神の高みに立つ人間は理想の実現可能性がなくとも理想への信頼を捨てずにいるとする(49)、人生の下らなさを超越するにはそれを認識しそれに絶望するしかないと説く(58)、最高の処世術は妥協することなく適応することと説く(72)、教育という営みに自律の強制という矛盾を見る(109)なども印象的。
このように興味を惹く警句も多々散見されるが、全体としては、実存の深さにまで沈潜する者が湛えている生に対する苦さのようなものが余り感じられず、自分自身と彼の言葉との間に距離を覚えた。彼が思索した時代による制約か。ドイツ語による哲学に特有の、過度に抽象的な文言も少々厄介だ。 -
事実は断想とは異なる。しかし、事実を現前なる事実として探求するためには断想の力に依存せねばならない。
二人でいる時の方が孤独である。なぜなら,別々であり,「向き合っており」,他人であるから。 二人の孤独 -
理論社会学の授業で紹介されて読んでみた。まだ読みやすい。
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これは
ジンメルの作品





