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Amazon.co.jp ・本 (544ページ) / ISBN・EAN: 9784003365144
みんなの感想まとめ
存在の意味を問い直す本書は、古代ギリシャ哲学や近代哲学を引き合いに出しながら伝統的な存在論を批判し、特にデカルトの「私は思考する、私は存在する」という命題に挑む内容です。ハイデガーは、デカルトの解釈に...
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
ハイデガーの『存在と時間』は、高校生の倫理・政経の授業でも20世紀の最大の哲学者という勢いで紹介されて、「死への先駆」や「頽落と本来的生」などの強めのワードとその圧高めの顔写真で多くの学生に強い印象を残したはずだ。同時にとても難しい本だという認識を植え付けもした。そして、自分の中でもいつか読んでみたい本のリストの中のとても奥深くにずっとあった本となった。いよいよ自分の人生の残りというものも意識する歳になり、昨年カントの『純粋理性批判』についで、今年はこの『存在と時間』を手に取った。
読み進むうち、もちろん難解な本ではあるのだが、全くもってわけがわからないというものではないなという感覚を持つことができた。浅いながらも、いくつかの副読本にも手伝ってもらい、少なくとも自分なりの解釈を取りながら読み進められる本ではあった。まず、この本を読み始める前に、実はこれが未完の書であることには驚いた。高校のときにはそんな大事なことは教えてもらえなかった。この本が未完であることには相応の意味があると思う。ハイデガー自身が、ここに書かれた内容の少なくともいくばくかは、このままでは成立していないと考えたからに他ならないと考えるべきなのではないだろうか。また本書が、ハイデガーの教授職獲得のために急ぎで仕上げられたこともその一因と言えるだろう。そういった経緯も考えると、一言一句ありがたがって読まずとも、刺さらないところは適切に読み飛ばすべき本のようにも思うことができる。
そのような準備のもとで読み進むと、ハイデガーをより善き本来的な生を生きるための書ではなく、いかにしてわれわれ現存在は現存在となりえたのかということを追求しようとした書として読むべきなのではないかと思いなしてきた。現存在の開示なくして、その死もなく、死への先駆もないのだから、本来的生や頽落などにかかわる人間主義的な意味での実存は二次的なものではないのか。ハイデガー自身がサルトルの実存主義に対して、自分は実存主義ではないと言い切った。晩年にはサイバネティックスに傾倒したことなどからもハイデガー自身もそうであったと言うことも許されるのではないだろうか。
「存在の意味への問いはもっとも一般的でもっとも空虚な問いである。」(段落118)
存在の意味など問うてはならないし、ハイデガー自身も存在の意味など問うてはいない。いかにして存在は現存在のもとこのように存在しうるのかこそが存在の問いとして問われているのだ。
それでは『存在と時間』の可能性の中心とは何だろうか。繰り返しだが、いまや『存在と時間』をいかに生きるべきなのかといった倫理的な本として読むべきではないのだ。これは、感性的なものでも倫理的なものでもなく、徹底的に論理的なものとして読もうとするべきものだというのがいったんの結論となった。徹頭徹尾、いかにして現存在(つまりは人間)は存在可能になるのかを思考した本だとして読むべきなのだ。その観点からこそ時間が絶対的に重要であることを知ることから始まるのだ。
【現存在】
ハイデガーは現存在(=人間)を次のように定義する。
「現存在とは、じぶんの存在においてこの存在へと、理解しながらかかわっている存在者である。このことで、実存の形式的な概念が暗示されている。つまり、現存在は実存するのである。現存在はさらに、そのつど私自身それである存在者である。実存する現存在には(そのつど私の物であること)がぞくしており、このことが本来性と非本来性を可能とする条件となっている。現存在は、このふたつの様態の一方において、あるいはその両者の様態的な無差別にあって、そのつど実存する。(段落152)
現存在のこうした存在規定が、いまやしかし、私たちが世界内存在と名づける存在体制にもとづいてア・プリオリに見てとられ、理解されなければならない。現存在の分析論の正しい着手点は、この体制を解釈することにある。(段落153)」
われわれは、生まれてからいつかの段階において、現存在ではない世界内存在から現存在になったという各自の歴史的経緯があるのは確実である。なぜなら新生児として生まれ落ちたとき、「じぶんの存在においてこの存在へと、理解しながらかかわっている存在者」ではないことは明白であるからである。そうなるといかにしてわれわれは現存在へとなったのかという問いが問われるべきだろう。それがなくては何も始まらないことも明らかで、それを明らかにすることで現存在の分析が初めて可能となる。
【世界】
『存在と時間』においては存在が含まれる「世界」も厳密に次のように定義される。「世界」は自明ではなく、それだけで単独で自立しているわけでもないが、また同時に独我論的に扱われるべきはないのである。「世界」をどうとらえるのかは、「世界内存在」としての現存在を語るうえでは避けて通ることはできない。
「一 世界は存在的な概念として使用され、その場合には、世界の内部で目のまえに存在しうる存在者の相対を意味している。
二 世界は存在論的な術語として機能して、[その場合には]「一」で名ざした存在者の存在を意味する。さらに「世界」は、存在者の多様なありかたをそのつど包括する領域を示す名称となることがある。たとえば、世界は、数学者の「世界」といった語りかたにあっては、数学の可能的な諸対象の領域とおなじことを意味している。
三 世界はさらにまた、或る[特定の]存在的な意味で理解されうる。その場合には世界はしかし、本質的にいって現存在ではない、世界内部的に出会われる存在者として解されるのではない。なんらかの事実的現存在が「そのうちで」事実的現存在として「生きている」場所であると理解されているのである。世界はここでは、ひとつの全存在論的に実存的な意義を有している。この場合にまた、さまざまな可能性が成立することになる。つまり世界はそこでは、「公共的な」私たちの世界や、「じぶんのもの」である、もっとも身近な(家政的な)周囲世界を意味している。
四 世界は、さいごに世界性という存在論的-実存的概念をしるしづける。世界性そのものは、特殊な「諸世界」が有するそのときどきの構造全体へと変様可能であるけれども、それ自身のうちに世界性一般というア・プリオリなものをふくんでいる。私たちは、世界という表現を術語的には「三」で劃定された意義をあらわすために用いることにする。世界という表現が、最初にあげた意味でときおり使用される場合には、個の意義であることを示すために引用符をつけておくことにしたい。」
【現存在はいかにして可能になるのか】
それでは、現存在はいかにして可能になるのかを問うことが可能となる。このあたりをまず前半で論じているのが、第18節 「適所性と有意義性 -世界の世界性」になるだろう。
「現存在が、じぶんを支持するという様態にあってみずからを先立って理解している<そのうちで>が、存在者を先立って出会わせる<それにもとづいて>にほかならない。じぶんを指示する理解の<そのうちで>は、適所性という存在のしかたにおいて存在者を出会わせる<それにもとづいて>であって、そうした<そのうちで>こそが世界という現象である。<それにもとづいて>現存在が自分を指示するものの構造が、世界の世界性をかたちづくる当のものなのである (段落243)」
ここで「有意義性」や「適所性」といった術語が使われるが、のちにも言及する能動的推論における最適化(最小化)の概念と結びつけて考えることで、理解可能なものに近づくように思われる。
「この有意義的に指示する作用の関連全体を、私たちは有意義性と名づける。有意義性とは、世界の構造、つまり現存在そのものがそのつどすでにそのうちで存在するものの構造をかたちづくるものにほかならない。現存在は、じぶんがこの有意義性と親しんでいることで、存在者が覆いをとって発見されることに対して、それを可能とする存在的な条件であって、そのばあい存在者は、適所性(手もとにあるありかた)という存在のしかたをともなって、なんらかの世界のうちで出会われ、かくてみずからの自体的なありかたにおいて、じぶんを告知することができるのだ。現存在は現存在として、そのつどこのようなものであり、現存在の存在とともに、手もとにあるものの或る関連が、本質からしてすでに覆いをとって発見されて ― 現存在は、現存在が存在しているかぎり、出会われる「世界」へとそのつどじぶんを割りあててしまって ― いる。現存在の存在には、このように割りあててしまっていることが、本質からして帰属しているのである。(段落246)」
世界と現存在の関係を考えるにあたっては、第24節 「現存在の空間性と空間」で次のように語られるが、空間をカントのようにア・プリオリなものとするのではなく、主観と「世界」との関係のうちにア・プリオリ性を見いだす点がハイデガーが『存在と時間』において何を本質的なものとして見ていたのかが示されているのだと思う。
「空間が主観のうちにあるわけでも、世界が空間のうちにあるわけでもない。現存在を構成する世界内存在が空間を開示したかぎりでは、空間はむしろ世界の「内」にある。空間が主観のうちで見いだされるのでもなければ、主観が世界を、「あたかも」世界が一箇の空間のうちに存在しているように観察するのでもない。かえって存在論的に充分に理解された「主観」、つまりは現存在が、或る根源的な意味で空間的なのである。さらに、現存在がすでに記述したような様式にあって空間的であるからこそ、空間はア・プリオリなものとしてじぶんを示す。(段落306)」
そして、第4章の最初において、ハイデガーは主体の誕生について次のように述べている。
「世界の存在論的な解釈は世界内部的に手もとにあるものを通過することになったけれども、そのような解釈が先だって置かれたのは、現存在はその日常性において ― 現存在はその日常性について不断に主題でありつづける ― 、一般になんらかの世界の内で存在しているばかりではなく、或る優先的な存在のしかたで世界へとかかわっているからである。現存在はさしあたりたいていは、じぶんの世界に気をとられている。世界の内で没入しているこうした存在のしかたと、かくてまたその根底にある内存在一般とによって、私たちがいま跡づけようとしている現象が本質的に規定されているのである。その現象を私たちは、日常性において現存在であるのはだれか、という問いを手にしながら追跡しよう。現存在のいっさいの存在構造、したがってこの<だれ>という問いに答える現象もまた、現存在の存在の様式である。そうした様式の存在論的な特徴づけは、実存論的な特徴づけなのだ。かくして必要となるのは、この問いに正しく着手することであり、さらには、現存在の日常性という現象的な圏域をよりひろく視界にもたらすはずのみちゆきを、あらかじめ素描しておくことにほかならない。追及は、<だれ>への問いがそれによって答えられる現象へと向かう方向でなされなければならない。その場合みちびかれることになるのは現存在の構造なのであり、その構造は世界内存在と同等に根源的なものである。共同存在と共同現存在がそれである。この存在のしかたのうちに日常的な自己存在という様態がもとづいているのであって、その自己存在を解明することで、日常性における「主体」と名づけてよいものが見てとられるようになる。<ひと>こそがそれにほかならない。(段落312)」
【現存在分析と自由エネルギー原理】
いかにして現存在は可能になったのかということの答えの一部としてカール・フリストンらが提唱する自由エネルギー原理だとすると、その理論(能動的推論や予測する脳)とハイデガーが『存在と時間』で比較をするのはひとつの読み方として十分に「あり」だと思われる。
ほぼ最後に近い第79節「現存在の時間性と、時間についての配慮的な気づかい」に自由エネルギー原理にもとづく能動的推論とのつながりを見ることができるのである。ハイデガーが「気づかい」について、「予期的に保有しながら現在化する」と書くときに、能動的予測の原理の知識から見ると自身の生成モデルに対して予測誤差を最小化することで認識の世界モデルを構築し更新する現存在のありかたを別の言い方で述べていると解釈することが十分に可能なのである。現存在の存在は気づかいだと、されるとき、生物の行動が世界のモデルとのサプライズを最小化するために行われているとする能動的推論の重要な帰結との整合性をそこに見ることが可能とも言える。
「現存在は、その存在者の存在においてこの存在自身が問題である存在者として実存する。その本質からしてみずから自身に先んじて現存在は、じぶん自身に対するたんなる事後的な考察のすべてに先だって、その存在可能へとみずから投企してしまっている。投企にあって現存在は、被投的なものとして露呈されている。なげこまれて、「世界」に引きわたされながら現存在は、配慮的に気づかいつつ「世界」へと頽落しているのである。 気づかいとして、つまり頽落しながら被投的な投企という統一において実存するものとして、現存在という存在者は<現>として開示されている。他者たちと共同存在しつつこの存在者は、なんらかの平均的に解釈されたありかたに身を置いており、その解釈されたありかたは語りのなかで分節化され、ことばのうちで言表されている。世界内存在はみずからをすでにつねに言表してしまっており、世界内部的に出会われる存在者のもとで存在することとして世界内存在は、配慮的に気づかわれたもの自身に言及したり、それを論じあったりすることのうちでみずからを不断に言表する。目くばりによって理解する配慮的な気づかいは時間性にもとづいている。しかも、予期的に保有しながら現在化するという様態における時間性にもとづいているのである。配慮的に気づかいながら勘定し計画し、用意し予防するはたらきとして、目くばりによって理解する配慮的気づかいは -音声として聴かれるにせよ聴かれないにせよ - つねにすでにつぎのように語っているのだ。すなわち、「そのときには」 - あれが起こるべきだが、「そのまえに」 - これが決着しているべきだし、「いまは」 -「あのときには」失敗して取りのがしたことが取りかえされるべきである、ということなのである。
「そのときには」にあって配慮的な気づかいは予期しながら、「あのときには」においては保有しながら、「いまは」のなかでは現在化しつつみずからを言表している。「そのときには」のうちには、多くのばあい非明示的にであれ、「いまはまだない」がふくまれている。すなわち、「そのときには」は、予期し保有しながら、もしくは予期し忘却しつつ、現在化することにあって語られているのである。「あのときには」によって保有が、予期しながら現在化することとして語られる。「そのときには」と「あのときには」は、「いまは」という観点においてともに理解されているのだ。いいかえるなら、現在化するはたらきは特有の重みを有していることになる。たしかに現在化はつねに、予期と保有との統一にあって時間化する。 予期と保有が予期することのない忘却に変様しているとしても、そのことにかわりはない。予期することのない忘却という様態においては、時間性は現在のなかに巻きこまれて、この現在が現在化しつつことさらに「いまや、いまや」と語るのである。配慮的なきづかいがもっとも身近なものとして予期するものは、「いますぐに」において語りかけられ、さしあたり手の届くようになったもの、あるいは喪われたものは、「たったいま」にあって語りかけられる。「あのときには」のなかで言表されている保有の地平は「以前には」であり、さまざまな「そのときには」にとっての地平は「以後には」(「将来は」)であって、さまざまな「いまは」に対する地平は「今日は」なのである。
あらゆる「そのときには」は他方そのものとして「~するであろうそのときは」であり、「あのときには」のすべては「~したあのときには」であって、いっさいの「いまは」は「~するいまは」である。「いまは」「あのときは」および「そのときには」という、一見したところ自明なこういった関連構造を時間に刻み目を入れる可能性と名づけよう。 そのさい、そのように時刻化することが事実的に暦のうえでの「日づけ」を考慮して遂行されているかどうかは、まだまったく措いておかなければならない。そういった「日づけ」を欠いていても、「いまは」「そのときには」ならびに「あのときには」は、多かれすくなかれ一定の時刻化をそなえているのである。時刻化が規定されていないありかたにとどまっていても、そのことは時刻化可能性の構造が欠落しているとか、あるいは偶然的であるとかいったことを語っているのではない。(段落1176-1178)」
この第79節の「いま」や「あのとき」、「そのとき」などの使われ方は、ハイデガーがいかにして自由エネルギー原理による能動的推論の内容を表現しようとして苦慮した結果としての表現として見ると『存在と時間』の新しい読みとして成立すると自分は考えている。何より『存在と時間』によって解明をしようとするものと能動的推論が解明しようとするものはある領域で広く一致すると思われるので、それは至極当然のことのように思われるのだ。
【最後に、『存在と時間』の可能性の中心について】
『存在と時間』の可能性の中心として、いかにして現存在(=人間/自己意識をもった存在)が可能となったのかという課題への取り組みを見て、カール・フリストンらが提唱し、現在では比較的広く受け入れられつつある自由エネルギー原理/能動的推論/予測する脳を予見する洞察をそこに見るということを『存在と時間』においてすることができた。それが唯一の正しい読みであるわけは当然ないが、ひとつの読み方として十分に成立するのではないかと思っている。
自由エネルギー原理は、いかにして能動的推論がうまく動作し、学習によりその精度を高め、高次の行動まで適用できるのかを説明してくれる。しかしながら、それでもなおいかにして人間が意識と主観を獲得するのかは示してくれない。『存在と時間』について、ひとりの優れた思想家がそのことを究めようとして取り組んだ結果であるのであれば、さらにその先の射程をとらえているとしても驚くことではない。能動的推論によってはいまだ捉えられないのは、現存在がいかにして自己意識をもち、主観性をもつのかという点であるが、まさにそれこそが『存在と時間』が取り組み、解明しようとしたことに他ならない。われわれは、ハイデガーの思考に大いなるヒントを求めるべきではないのか。ここではその先まで行くことはできないのではあるが、それこそがハイデガーの可能性の中心と思うのである。
古典であるが、意外な読み方を発見することができて十分に楽しめた。いろいろな読み方を可能とすること、それこそが古典の条件だとあらためて認識することができた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
20世紀前半ドイツの哲学者、ハイデガー。
本著の主題は、「存在の意味への問いをあらためて設定すること」である。
この巻では、古代ギリシャ哲学やカント、デカルトを引き、伝統的な存在論を辿りその批判を行う。
後半特に、デカルト批判を通じてその「私は思考する、私は存在する」を破壊すると称されている。
この巻を読む限りでは、ハイデガーはデカルトの世界の解釈について途中までは同意している。
しかし、デカルトが、古代ギリシャ哲学同様「存在」という言葉の定義を確定せず、「創造者(神)と被造物(人間)」について同義にしているというということの批判から、自身の論を展開していると読んだ。
また、途中の「適所全体性」の話では全体主義的な議論も垣間見られたが(注解では「存外カント的」と説明されている)、
それは今後、「世界全体から見た適所性」と「存在の属性」の相克、と展開するのではないかと思われる。
そうでなければ、哲学にならない。
非常に深遠な議論のようにも読めるが、一方で、人間の肉体と精神、社会と個人、など卑近なテーマと読めるようなところもあった。
時代によるものなのか、あるいはハイデガーが比喩表現に優れているためか、カントと比較すると身近な話題のようにも感じる。
二巻以降がどのように展開するのか興味が惹かれる。
『純粋理性批判』で馴染んだ?熊野純彦氏の訳であるが、「手元にあるもの」「目くばり」「世界のうちで出会われる」など、ひらがな使いの独特な言い回しが出てくる。
逐一注解が入っているが、直訳と差がないところも多く、失礼だがあまり意味を感じなくなって訳文だけを読み進めた。
個人的には、独特な熊野訳に自分の言葉で注解をつけながら読むのが面白いと思う。
解説はないが、巻末に、空間論の背景としてフッサールやカッシーラーなど19~20世紀の著書が紹介されており、この『存在と時間』と並行して読みたいものがいくつも見つかった。
そして何より、デカルトの影響力の大きさがうかがえる。
ハイデガーだけでなく、先人に当たるカントやヴィーコにも批判されたが、少なくとも批判せずにはいられないほどの影響力があったということはわかる。
まずはそのデカルトの著書こそ読むべきだと感じた。 -
これほど面白い哲学書が他にあるだろうか。ただ、プラトン以降の西洋哲学史や、「現象学」という方法を知らないと、彼のやっていることがなんなのか把握するのは容易ではない。ところで、ハイデガーの書いてることをただ要約して繰り返しただけの注解は要らない気がする。そのせいでやたら分量が増しているのもどうなのか。なにか付け足すにしても、例えば哲学史的な情報を載せてくれたら読者としては得るところがより多かったのでは。あるいはいっそのこと同文庫の対訳詩集シリーズのようにドイツ語原文をそのまま載せるとか。
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大学生の頃に読んだが、難解でよくわからなかった。フッサールの現象学などの知識がないと理解が難しいようなので、また別の機会にチャレンジしたい。
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おもろい。
難しくない文体というのもハイデガーの魅力だが、これは翻訳者の方の努力?
フッサールの現象学を取り込みながら、存在と存在者と現存在の垣根を立てる。
世界に気づくことから始めましょう。 -
メモ
既に読んだことがあるが100分で名著を見た
タレントのレベルと関西外大准教授のレベルが低い
特に数学や物理を何も勉強せずに言ってるのが不愉快
だけど勉強にはなる
自分について
本来性
非本来性 -
もっとわかりやすい哲学者でさえ理解ができないのにハイデガーのこの書籍が理解できるはずがないと改めて感じる。
存在について考えたことがなかった。
空がある。空気がある。自分がある。このあると言う存在についてどこが境目なのかなぜあると理解できるのかそれに関してもっともっと時間をかけて考えていきたい。
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ジャンル:リベラルアーツ
出版社:岩波書店 出版社ページへ
定価:1,452円(税込)
出版日:2013年04月16日
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ハイデガー(Martin Heidegger)
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flier要約
https://www.flierinc.com/summary/3043 -
存在するとはどういうことか
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「哲学徒によるハイデガー『存在と時間』熊野純彦訳,岩波書店,2013.の読み方のお勧め」
を書きました.
https://bit.ly/3oi4P8j
途中から¥300ですけど少なくともそれ以上の価値はあると思います.ぜひ. -
存在と時間(一) (岩波文庫)
(和書)2013年08月27日 15:05
ハイデガー 岩波書店 2013年4月17日
ハイデガー「存在と時間」の新訳。
旧訳は読みましたが実存主義やアナキズムについて全く知らず、通読だけしました。最近は勉強もしてみまして、その哲学的な価値を知るようになってきました。同じハイデガー「現象学の根本問題」をこの前読みその後この新訳を見つけた時は「存在と時間」を再読する時宜を得た感じがしました。
哲学は格差とその解消の問題に集約されるように感じます。愛国者やエリート、選民思想としての宗教は格差の申し子です。それに対しアナキズムや宗教批判は格差の解消を目指します。実存主義はそういったアナキズム・宗教批判を現象学という学として捉えることを射程にしていると思います。
それは相対性理論と量子論の関係にも言えることです。神の視点は格差を正当化するのかそれとも格差を解消する哲学としありえるのか。それが哲学的に最も重要になる理由です。
この新訳はかなり気に入りました。今は二巻までしか出ていませんので取り敢えずそれを読みます。続巻が楽しみです。 -
『存在と時間』の意図は存在論的なもので、「存在」の理解をめざすものであって、人間の理解をめざすものではない、という点である。人間は、たとえ「存在」の問題を自らに課す唯一のものであるにしても、他の数ある存在者の中の一つにすぎない。ハイデガーはしたがって、二次的なものとしてしか、彼の企てのための――確かにそれだけがただ一つ可能なことだが――手段としてしか、人間存在に関心を抱かないのである。
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文章全体はわかりやすいような訳だけれども、キータームの訳語は語義をかみくだきすぎてターム的な意味としてとりにくいことがある。
例えばこれまでは「了解」としてきた語を「理解」としたり。
訳の難しさが「哲学」の狭い門を作り出してきたのは事実だろうけれども、かみ砕きすぎというのもまた問題なんだなという例になった。 -
何種類か、「存在と時間」を読んだけれどこの新しい訳はすんなりと入って来る。
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感想は全巻を読み終えてから。
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最初に概要がまとめて書かれ、段落の切れ目ごとにもそこまでのまとめが書かれているのが助かります。特に段落の切れ目のまとめでは、元のドイツ語が丁寧に括弧書きされていますから、原書の横に置くには最適です。まだ200ページも読めていませんが、原・渡邊訳とは少しずつ違う言葉に翻訳されている単語に若干の戸惑いがあります。早く完結して、最終巻に収録予定の索引が欲しいところです。
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新訳が出るのですね。
これは、買おう。
(2013年4月22日)
駅前の書店で買いました。
(2014年1月24日)
読み始めました。
(2014年2月13日)
なんだか、すごいですね。
進んだり、戻ったりしながら、読んでいます。
(2014年3月5日)
私だったら、目の前にある道具の話から書き始めるだろうな、
と感じながら、読んでいます。
(2014年3月27日)
これは、「恋愛」の話だなと思いながら、
第1巻を読み終えました。
(2014年3月10日)
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