存在と時間(一) (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003365144

作品紹介・あらすじ

「存在すること」の意味はなにか。-一九二七年、マルティン・ハイデガー(一八八九‐一九七六)は『存在と時間』を発表、鮮烈な問いで哲学界の地形を一変させた。生まれでる思考の彩りをも伝える正確な訳文に、注解・訳注、全体を見通す梗概を付す、画期的新訳。

感想・レビュー・書評

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  • これほど面白い哲学書が他にあるだろうか。ただ、プラトン以降の西洋哲学史や、「現象学」という方法を知らないと、彼のやっていることがなんなのか把握するのは容易ではない。ところで、ハイデガーの書いてることをただ要約して繰り返しただけの注解は要らない気がする。そのせいでやたら分量が増しているのもどうなのか。なにか付け足すにしても、例えば哲学史的な情報を載せてくれたら読者としては得るところがより多かったのでは。あるいはいっそのこと同文庫の対訳詩集シリーズのようにドイツ語原文をそのまま載せるとか。

  • おもろい。
    難しくない文体というのもハイデガーの魅力だが、これは翻訳者の方の努力?

    フッサールの現象学を取り込みながら、存在と存在者と現存在の垣根を立てる。
    世界に気づくことから始めましょう。

  • メモ

    既に読んだことがあるが100分で名著を見た
    タレントのレベルと関西外大准教授のレベルが低い
    特に数学や物理を何も勉強せずに言ってるのが不愉快
    だけど勉強にはなる

    自分について
    本来性
    非本来性

  • 1⃣毎朝10~20分の時間を作って読み進めている。内容は理解できなくてもよい。理解できないことがこの世にあるんだなあ、と毎朝感じることができるのは、とても謙虚になるのである。

    私は、個人的なことをいうと、大学で哲学を学んだ人間なので、まったくチンプンカンプンというわけではない。だから、読みながらなんとなくはわかりながら、でもだいたいでいいや、と思いながら読む。調子のよいときは、無心でハイデガーの言葉を思索する。調子の悪いときは、何かを妄想しながら言葉をすべっていく。

    熊野さんの注解を最初の方はよんでいたけどやめてしまった。原文を読むだけでいいや、と思った。その匂いだけでよい。こういった大哲学書があってそれの空気に触れるというのでよい。なんとなくわくわくするし、それに一ページに一文くらいだけど、わかる言葉もでてくるのであるから。

    『存在と時間』を読む前は、レヴィナスの『全体性と無限』を読んだ。熊野ではなく藤岡訳。大学卒業して以来の哲学の原著をよんだなあ、と思えて感動したのである。一度は読んでみたい哲学書。哲学専攻の学生だったからこそ、その内容についてかじっていながら、読んでいない本がある。『存在と時間』はその一つ。カントの三つの批判書もそう。ヘーゲルの精神現象学。次に目指すのは、ちょっとフランスで、ベルグソンと思っている。

    さて、肝心の本書の内容についてだが、そんなもの要約できるはずがないのであるし、そんな気もないのであるが、レヴィナスを読んだあとにこの『存在と時間』を読むと、「ドイツだなあ!」と思った。レヴィナスのわからなさと、ハイデガーのわからなさは、言語的なちかいなのかもしれない、と思ったり。フランス哲学のわからなさと、ドイツ哲学のわからなさ。

    とはいえ、ハイデガー『存在と時間』は、歴史的名著であるなあ、と思う。歴史の転回点に立った著作である。と、読みながら思う。ということを私みたいなものがわかる、ということは「ちょっと古い」のだが。

    2⃣手にとってみる、という関係、いわゆる道具連関についての箇所を今よんでいるところだが、こういった具体的な考察のところは、ほんとうにおもしろい。197のところである。ハンマーのその成分が鉄でできているか、手で持つところは木であるか、とかではなく、ハンマーは手にもって使用されることが真に存在しているということである。ここらへんは、哲学というものの身近なものを例にして深い洞察を行うという超好例だなあと思う。

    たしか訳者の熊野純彦は『レヴィナス入門』において、事物の捉え方の特徴として、ハイデガーは「手」である、と言っていた。そして、フッサールは「目」、レヴィナスは「口」だと。これなどなかなかわかりやすい譬えだと思う。ちなみに、西田幾多郎は、真実在とは、喉が渇いたとき飲む一杯の水だ、とどこかで言ったそうな。これだけ見るとレヴィナスに近いような気もする。

    さて、ハンマーの例のような身近なところを低空飛行しているのであるが、私の疑問としては、それがいったい「存在論的差異」とかの難しい言葉といったいどういう関係があるのか、ということだ。なぜ「存在の問い」と「ハンマーを握る」こととが関係すつのか。これはおそらく、ハンマーを外的に客観的に観て認識しているだけならば、それは握って使用する関係にはない。それはなぜなら、存在への問いをしていないような主観から捉えられているからだ。それが自我コギトと呼ばれているものだ。でも自我が存在への問いという底抜けである場合、それはハンマーを握って使用している。その時、自我はただの安定した自我ではなく、他へと開かれているのである。ハンマーを握っているとき、それは「考える我」ではない。ある種、「無我夢中」なのである。そこまではハイデガーは語っていない。とはいえ、私の実感に照らすとそういう表現になる。

    しかし、個人的なことを言うと、この『存在と時間』を読む前に一時間瞑想をしている。すると、「手もとにあるありかた」が真実在であるのでは、到底ない、と感じる。むしろ、「手放されて去る去りかた」が真実在である、と感覚する。

    3⃣第一冊を読み終わる。後半につれてどんどんとおもしろくなっていく。「空間性」について、おもしろくて、「おもしろい!」と叫んでしまった。どのようなことなのか、言葉にして、うまくかみ砕くことはできないのであるが、とにかくおもしろい。主観によって客観を認識する、という単純な構図、では、空間とは延長にすぎない。これはデカルトの打ち出したことだ。その主観とは抽象的なものにすぎず、じつは主観は世界の内部に存在している。つまり身体性をもっている。だれもが世界の内に身体を持って存在しているのだ。

    それゆえ、現存在と存在者との関係の構図は、線と線で測られるような線分ではなく、「近さ」として言い表される。この近さがおもしろい。ずーっとこのことについて延々と語っているのが、西洋哲学の知性の粘り強さを感じさせて、圧倒される。眼鏡はつけていると距離的には近いと思われるが、それはまったく遠い、とかいう例えもおもしろい。「通り」について、それが靴と接地していることで近さを持っているがそんなことは考慮にいれない。つまり、「近さ」とは「配慮的に気づか」っている相手との隔たりのことなのである。

    後半から、声を出して読むようにしている。読み飛ばすことがないように、声にだして、その論理的な文章の、論理的な道行きを、味わおうとすることにした。一冊目を読み終えて、河原を歩いていると、接近している台風の風に、秋の草が激しく揺れているのを見ていると、それが存在者として、世界内の存在者として、ある近さをもって私には触れられるような気がした。それは単なる道具連関であるか。20世紀最大の哲学書はまだ始まったばかりであり、20世紀の哲学もまだ終わってはいない。

    3⃣存在への問いを忘却しているところから読み始めて、だんだんと読み進めていくと、その問いについて思い出し始めるということになるので、最初のまえがきや、第一節のはじめりなどは、もやがかかっているのである。今回、第三冊の終盤まで読み進めてから、再び読みかえすと、その「存在の問い」について、あああのことか、というふうに思い出すことができる。
    二回目を読むにあたって、ドイツ語原文と照らし合わせながら読むことにしているが、すべては無理なので、重要と思われる箇所、自分にとって琴線に触れるかしょを抜いて照らし合わせることにしている。それをするにあたって、この訳書にある、注解というのは、非常に役に立つ。ハイデガーの用語についていちいちドイツ語を載せてくれているからである。これをみるだけでも、ドイツ語との参照になるだろう。verstehen理解することとvertständnis了解のちがいなど、ドイツ語がないと、区別して判断するのがむずかしいだろう。
    存在について「理解」はできないが、「了解」はしている。これを「事実」という。つまり「あのこと」のことである。では、どのことなのか。そのような問いを徹底的に分析していく。その掘り起こし方がその深さが尋常じゃないこれはやはり20世紀最大の哲学書だな。ばくぜんと考えている「存在の謎」っていうもの徹底的に考え抜いてやる。それが、仙人が世を捨てて個人的におこなうのではなく、ひろく一般に理解できるように論理的な学として行われたのであるから、「おそろしい」と言ってしまいたい。それは、読むにつれ、だんだんと、わかってくればくるほど、えげつない本であることが、みえてくる。に、におうぞ、この本。

  • もっとわかりやすい哲学者でさえ理解ができないのにハイデガーのこの書籍が理解できるはずがないと改めて感じる。

    存在について考えたことがなかった。
    空がある。空気がある。自分がある。このあると言う存在についてどこが境目なのかなぜあると理解できるのかそれに関してもっともっと時間をかけて考えていきたい。

    ====
    ジャンル:リベラルアーツ
    出版社:岩波書店 出版社ページへ
    定価:1,452円(税込)
    出版日:2013年04月16日

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    ハイデガー(Martin Heidegger)

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    flier要約
    https://www.flierinc.com/summary/3043

  • 存在するとはどういうことか

  • 「哲学徒によるハイデガー『存在と時間』熊野純彦訳,岩波書店,2013.の読み方のお勧め」
    を書きました.
    https://bit.ly/3oi4P8j

    途中から¥300ですけど少なくともそれ以上の価値はあると思います.ぜひ.

  • 存在と時間(一) (岩波文庫)
    (和書)2013年08月27日 15:05
    ハイデガー 岩波書店 2013年4月17日


    ハイデガー「存在と時間」の新訳。

    旧訳は読みましたが実存主義やアナキズムについて全く知らず、通読だけしました。最近は勉強もしてみまして、その哲学的な価値を知るようになってきました。同じハイデガー「現象学の根本問題」をこの前読みその後この新訳を見つけた時は「存在と時間」を再読する時宜を得た感じがしました。

    哲学は格差とその解消の問題に集約されるように感じます。愛国者やエリート、選民思想としての宗教は格差の申し子です。それに対しアナキズムや宗教批判は格差の解消を目指します。実存主義はそういったアナキズム・宗教批判を現象学という学として捉えることを射程にしていると思います。

    それは相対性理論と量子論の関係にも言えることです。神の視点は格差を正当化するのかそれとも格差を解消する哲学としありえるのか。それが哲学的に最も重要になる理由です。

    この新訳はかなり気に入りました。今は二巻までしか出ていませんので取り敢えずそれを読みます。続巻が楽しみです。

  • 『存在と時間』の意図は存在論的なもので、「存在」の理解をめざすものであって、人間の理解をめざすものではない、という点である。人間は、たとえ「存在」の問題を自らに課す唯一のものであるにしても、他の数ある存在者の中の一つにすぎない。ハイデガーはしたがって、二次的なものとしてしか、彼の企てのための――確かにそれだけがただ一つ可能なことだが――手段としてしか、人間存在に関心を抱かないのである。

  • 文章全体はわかりやすいような訳だけれども、キータームの訳語は語義をかみくだきすぎてターム的な意味としてとりにくいことがある。
    例えばこれまでは「了解」としてきた語を「理解」としたり。
    訳の難しさが「哲学」の狭い門を作り出してきたのは事実だろうけれども、かみ砕きすぎというのもまた問題なんだなという例になった。

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