存在と時間(二) (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003365151

作品紹介・あらすじ

「存在」の意味を根底から問い直した、二〇世紀最大の哲学書。本巻では、「世界内存在」としての「現存性」の基礎的分析の一環として、「共同存在」である「ひと」のあり方に注目。「不安」「気づかい」「実在性」などを手がかりに、現存性の全体構造、真理の存在に迫る。画期的新訳。

感想・レビュー・書評

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  • 相変わらず面白い。
    真っ当なことしか書いてないなハイデガー先生。
    現存在にとっての「恐れ」は特によかった。
    恐怖の対象を開示させる、それこそが確かな実存への一歩となる。
    岩波文庫は巻数が多くて嫌になっちゃう。

  • 1⃣第二冊を読んでいる。もう終盤に入ってきたが、一度ここに何か書いておこうと思う。この本について、書くことは非常に難しい。その内容が難しいからだ。自分の言葉でかみ砕くことがむずかしい。ただ、原文のかたいままを、くだけずに、大きい塊を、飲み込んでいる。
     それで、声に出して読んでいくことで精いっぱいなのであるが、この第二冊目は、それでいて、なんとなく感覚として理解しながら読んでいるところがある。
     その感覚とは一体何かというと、「共同存在」について、共同存在として生きていることについて説明されていることが、自分にとって当てはめてみると、確かにそうだ、というふうに感じることができるということだ。
    私は、私一人で生きているわけではなく、常に他者へと開かれていて、社会的に生きている。それが「共同存在」であるという意味であるが、これはわかりみが深い。わかりみが深いというか、そのように考えた方が、日々の生き方でつじつまがあう、ということがある。というのも、逆に、私が私だけのために生きていると、居心地の悪さを感じてしまう、ということがある。エゴイスティックに生きる、ということ、ができないのである。そして、そういう風に生きる、ということも、一つの他者からの指示にすぎない、ということがある、と自分の人生を振り返って思うのである。
     この『存在と時間』という本を読んでいる、ということだって、いったい「なんのために」、ということだ。それが何の意味があるの?と常に問いているし問われている。自分の勉強のために。考え方を変えるために。それが一体なんの意味があるのか。読んでいるとおもしろい。その都度読まれていることの意味が納得されてたのしいのだ。とはいえ、それはまったく無意味なのではないであろうか。そのようにも思えてくる。考えると意味がなくなるように思える。そこに「不安」が生じる。問題は、それが〈ひと〉の役に立つものであるかどうかである。このようなブクログに「空談」として書くことによって〈ひと〉に読まれていることによる有意義性を獲得する。あなたはこれを「好奇心」によって読む。私は私だけでいるのではない。部屋でこの本を読んで理解することは自分の中に閉じこもっていることではない。それも世界の内で存在することと他ではないのである。
     このようなハイデガーの分析は、哲学自体の考察ではないにしろ、日常の上で使える、と思うところがある。例えば、英語の勉強について、それを家で自分だけでやるのではなく、誰か人と一緒にやること、で違ったことになるだろう。英語の文法の構造や、発音を知る、というような、自分を「本」の前にいる「眼」として、捉えるのではなく、世界の内にいる「全身」としてとらえれば、英語の勉強法も変わってくるだろう。インターネットで「誰か」に発信する。「誰か」に添削してもらう。ということで、人とのコミュニケーションにおいて何かをすることでスキルアップしていくだろう。「スキル」というのは人に「役立つ」ものであるからだ。
     例えば、勉強法として、「インプット」と「アウトプット」という考え方があるが、これは、人間をその人単体として捉えているので不備があるだろう。例えば、インプットを、「教えてもらう」こと、アウトプットを「教える」こと、とすると、話はちがってくるはずだ。そこには師と弟子、という二人の人間関係が現れてくる。それは単体同士のやり取りとは違う。また、外国語を習得するのに一番いいのは、恋人をつくること、と世俗のことばがあるが、それもこの人間関係の中で、勉強することによる効果を表している。もっともそうなると「勉強」ということを越えてくるはずだ。「勉強」とは何かの役にたつためのものである。ここでは、それ自体が目的なのである。それ自体が役立つものとして、「仕事」なのだ。 というわけで、勉強を勉強として捉えず、それ自体を役立つものとして捉えればよい。
     とはいえ、その「仕事」がいったい何の意味があるのだろうか?と問われることはなおあり得るだろう。そのような役立ちをもって消えるような「不安」ではなく、もっと究極的な「虚無」があるのではないか。そう問いていったのは、哲学の歴史としては、レヴィナスがいるだろう。「人は呪われた労働をスポーツに変えることができる」。と彼はいった。何かの役に立つ、その何かであるところの「他者」が探求されることになるだろう。そして「絶対の他」が見いだされるだろう。そのことによって、きっと「生きる意味」は確立される。そしてそれは決して自分のためではない。人は他人のために生きるために生まれてきた、ということになる。それは現代の常識を根底から覆すことになるだろう。生まれて固有の「人権」というのは無いことになるからだ。人は生まれもって「平等」などということはない。しかし、これは『存在と時間』の範囲を超えている。とはいえ、本書から出発した大きな歴史の渦であることは間違いない。
    また日本では西田幾多郎がいるであろう。彼の「純粋経験」は、「不安」を感じる以前の経験だ。役立つとか、何か意味があるとか考える以前の「自覚」である。これは後に「行為的直観」と呼ばれる。また、彼の弟子である西谷啓治が「空」と言う仏教の概念を借りた言葉で探求していくことになるだろう。「不安」を感じる基盤の「虚無」は、「空」と積極的に名付けられることで、根本の気分である「不安」は、もっとちがう気分になりえるのではないか。それがどのようなものか私は知らないが、「不安」が青年特有の気質だと一般的に言われるとしたら、空の上での気分は、もっと成熟した老年のあっけらかんとした「さとり」のようなものに近いのではないか、と推測される。

  • 存在と時間(二) (岩波文庫)
    (和書)2013年08月31日 13:39
    ハイデガー 岩波書店 2013年6月15日


    『存在と時間』二巻目(全四巻)

    木村敏がハイデガーの『存在と時間』について書いていたのを思い出した。実存主義とアナキズムを学として成立させようという試み。それが現象学なのかもしれない。他の本も読んで研究する必要を感じる。

    先ず思うのは人間の格差を解消しそれを学として捉えようという姿勢である。それが現存在を考える究極の目標である。その姿勢はアナキズムを学として成立させようとすることである。その姿勢はキルケゴールに見ることができ、木村敏がハイデガーとキルケゴールから統合失調症と捉えようという姿勢を理解できる。

    統合失調症は格差の論理ではなく格差を解消することによって真理(普遍的命題)を見ようとする姿勢である。統合失調症と実存主義、アナキズムが関係してくる所以がそこにある。木村敏がキルケゴールやハイデガーから考える理由を理解できる。

    哲学の根幹がそこにあるということである。

  • 第2巻は、第25節からです。

  • 岩波ブックセンターで購入しました。
    (2014年2月13日)

    読み始めました。
    (2014年4月11日)

    第四章の第二七節
    「日常的な自己存在<ひと>」は、
    すさまじいですね。翻弄されます。
    「ハイデガー、やばいっす」
    (2014年4月23日)

    読み終えました。
    (2014年9月7日)

  • 梗概2 は1と違って、結構難儀。

  • (一)(二)を読み終え、(三)を読み中であるがここまでの感想をここに記しておくことにする。何せ最終巻の(四)は12月に発刊予定らしいので。

    前半。これからどこへ向かうのか、どの程度の距離なのかが予想しにくく、呼吸がし難かったほどである。果てしない。読み進めていくうちに、ハイデガー自身もその辺りの見通しはついていないのだろうな、と感じたわけだが。
    何が明らかになればいいか、何について分析してゆくべきかについての問題や伏線が散りばめられていく。
    当たり前、自明なこととして私たち大人が見過ごして受け入れていることにこそメスを入れる。「なぜ“ある”のか?」「“ある”とは?」と疑問を投げかける。ハイデガーのみならず、多くの哲学者は童心を抱えたままなのだろう。詩人の多くもそんな気がする。

    (二)に突入したあたりからようやくその全容が見えてくる。「こういう感じなのね」という感覚知が私の中に立ち上がってきた。
    一文一文の意味は理解しがたいのであるが、それでも読み進めることで総合的に「わかる」ようになりはじめる。繰り返し主語になる語がある。ハイデガーの文体に慣れ始める。ある語のハイデガー的な使い方とその含意、機微を次第に掴めるようになってくる。長大な本、文章にはそういう傾向があるなとも思い至る。一を聞いて十を知る、とはなかなかいかないな。

    折り返しの三巻からは少し別のアプローチが始まる。おわり、死、未済、全体性の話題。『存在と時間』の“時間”側の領域に突入したようだ。

    ※※
    肯定の表現のみならず、否定的な説明をも駆使している。ある特定の事物がAであることを主張する場合、それではないこと、つまり「Bではないこと」をも付記する。たとえ読者がBであると誤解する可能性が小さくても、である。
    これがあまりに繰り返されると説明過多になる。だからと言ってこれが少ないと軽薄な言説になってしまうことだろう。

    具体例を挙げるケースが少ないため、その例証が強く印象に残る。道具としての存在における「ハンマー」。全体性とおわり、完成のあたりでは「月」の満ち欠けや、「果実」の未熟、完熟を例示していた。

    つくづく感じるのは哲学の面白さと役に立たなさ。
    役に立たないからこそ、哲学は哲学なのだろうし、それだけで面白い。
    哲学者はたいてい気難しい顔をしているけれども、私には愉快で痛快にも思える。語弊を恐れずに言うとお笑い芸人と同一視している。

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