学校と社会 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1957年7月25日発売)
3.52
  • (22)
  • (41)
  • (75)
  • (5)
  • (2)
本棚登録 : 860
感想 : 47
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (188ページ) / ISBN・EAN: 9784003365229

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 著者、ジョン・デューイは、ウィキペディアによると、次のような方です。

    ---引用開始

    ジョン・デューイ(英語: John Dewey, 1859年10月20日 - 1952年6月1日)は、アメリカ合衆国の哲学者。チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。また米国では機能主義心理学に貢献したことでも知られている。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だった。

    ---引用終了


    で、本作の内容は、BOOKデータベースによると、次のとおり。

    ---引用開始

    学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む「小社会」でなければならない。このような観点からデューイ(1859-1952)は、伝統的な学校教育に大胆な批判を加えた。自ら創始したシカゴ大学付属小学校での体験から生まれた本書が、戦後わが国の教育改革に及ぼした影響ははかり知れない。

    ---引用終了


    なお、本書以外でデューイが語った言葉として、印象的なのは、

    「教育は、人間性を、その神々しい完成の域へと高めるための手段である」

  •  デューイ教育学への入門として『学校と社会』はおすすめですが、教育学そのものへの入門としては、『教育原論』(特に第7章)から入り、『民主主義と教育』もいっしょに揃えて購入して読むはじめるのがよいと思います。ブクログのレビューをぜひ参考にしてください。『教育原論』の「全体の構成図」(p.120)をデューイ全体の見取り図に、また『学校と社会』からつくった2つの図(pp.126-127)を横に置いてみるとわかりやすいと思います。
      『教育原論』 https://booklog.jp/users/lifedevelop2020/archives/1/4623081842
      『民主主義と教育』 https://booklog.jp/users/lifedevelop2020/archives/1/4003365232

     さて、『学校と社会』ですが、岩波文庫版を推しているのは、安いのと訳が正確だからです。文章は古いですが、これに慣れると、少し古い本が読めるようになります。英語原文はネットで無料ですぐ読めるので、わかりにくいにところは英語と照らして読むとよいでしょう。小学校の概要を扱った章が訳されていませんが、それは他の訳本で補ってください。
     力がつく勉強のしかたは、全段落に章ごとに番号を振ります(79ページ2行目が段落がかわっていますが、著作集ではつながっているので、つなげて、79ページ後ろから5行目の段落が⑮になります)。ノートの左に、段落ごとにキーワードを中心に書いてあることをまとめます。対応するノート右側に、自分の疑問や感想、何が問題にされているかなど書いていきます。ゼミでやる場合は、担当部分のノートをレジュメにまとめて報告する形になります。
     著作名が、『学校と社会』になっていますが、『子どもたちと(学校と社会)と自然』にとらえてください。子どものとらえ方(子ども観)の変革が(今でも)新しいのです。
     はじめの3つの章は、デューイスクールの寄付を募るためにおこなった3回の講演です。。後の章は必要な雑誌論文をつけたものです。「フレーベルの教育原理」が〈子どもから〉の発想を引き継いでいるのがわかりやすいと思います。ある意味、幼稚園・保育園の教育原理を小学校に延長しているのです。「初等教育の心理学」「仕事の心理学」「注意の発達」は、心理学の話のようですが、ここを新しい子どものとらえ方だと思って読むと、前の3章がくっきり理解できると思います。哲学的子ども観から科学的子ども観に踏み出している。今の心理学の目から見ると、素朴・古いと感じられるでしょう。現代心理学からの批判は必要です。ただし、哲学から教育学、心理学を分化・専門化しはじめた人こそデューイなのです。『心理学』という著作もあります(ウィリアム・ジェームズに酷評されて落ち込んだらしい)。日本の大学でも、心理学はもともと文学部にあってだんだん自立して外に出て行ったのです。100年以上の心理学に最も学ぶべきは、『子どもたちと(学校と社会)と自然』のように、教育や社会とのつながりを意識して進められたところです。
     いま、子どもの発達に合わせた(adapted)、楽で楽しい教育保育を考えるとき、その発想の出発はここにあるのです。その新教育運動は、いまも継続している、いや、新型コロナの緊急事態のただなかでまた力強く進もうとしているのです。
     もどって第3章「教育の浪費」はカリキュラム論です。新学習指導要領のもと、「社会に開かれた教育課程」「カリキュラム・マネジメント」が中心スローガンですが、それと対比して読むとデューイのすごさが実感できると思います。休校中、子どもたちは何かを見、何かを考え、問いを持ち、そして何かをはじめています。この〈芽〉を見逃さないこと。ここにコロナ明けの新しい教育・学校・園が生まれる希望があります。この〈芽〉を〈中心〉にするというのが『学校と社会』にまさしく今学べることだと思います。
     休校中、いまこそぜひ読んで、感想などレビューに書いてください。20200427

  • 「伝統的な学校へは〜子どもは精神を家へおいてくる。〜子どもの精神は具体的な事物に打ち込まれている具体的なものである。具体的な事象が学校生活の中に入ってこない限り、子どもはその精神を持ってくることはできない」p.85
    デューイは、ダーウィンの『種の起源』から大いに影響を受けている。教育はもともと哲学を専攻していた彼にとって、人間の精神と行動との関係を見たり、個人と社会の関係を個体と環境の相互作用という視点から検証できる実験室のようなものであった。
    彼の道具主義は「すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境の相互作用、環境を統制する努力から生まれる」というもので、哲学はパンピーが日常生活の問題を解明する方法になるべきだと説いている
    デューイは、1920年代に世界各国(中国・ロシア・トルコなど)を訪れ、個人-社会の相互作用における究極の決定者は、個人(そして個人の精神)だとしていたものが、社会に力点が移るようになる。さらにアメリカの永遠の繁栄が終わり、社会の変化に応じて教育も変化を迫られた(あとがき)

  • デューイの本はいつか読みたいと思っていたのですが、ようやく機会があり本書を手に取ってみました。1915年に出版された本ですからすでに100年以上たつわけですが、あまり時代の違いは感じませんでした。むしろ米国という国の違いでよみづらさを感じたくらいです。講演録を本にしているということで、全体的に読みやすかったですが、やはり当時の米国の文脈(講演当時に米国ではどんな教育が当然と思われていて、どんな試みが行われていたか)をある程度理解している必要があると思います。その意味では巻末の解説がそれを理解する助けになりましたので、先に読んでもよいかもしれません。

    デューイは学校に以下の2つの役割を求めます(以下、解説内の文章を参照)。「第1に、学校は暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、そのなかで子供たちが興味にあふれて活動的な社会生活を営む小社会にならなければならない」。「第2に、この小社会は、たんにそこで子供たちの自発的な活動が行われる小社会であるばかりではなく、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなければならない」の2つです。この思想は米国だけでなく日本にも大きな影響を与えたとのことですが、解説を読む限り、1つ目の目的は達成されたが、2つ目については達成されたとは言えないとのこと(そこの解釈が正しいのかは私にはわかりませんが)。

    しかし私はこの2つの役割以上に印象に残った点がありました。それは、デューイの学校に対する「実験的なマインドセット」です。デューイは学校が実験の場であるべきだと明言しています。つまり新しい試みを導入する、子供への影響を見て効果の有無を検証する、次に違うアプローチをする・・・ということで、悪く言うと子供を実験対象にしていることになりますが、デューイはそれこそが唯一の教育の進歩の道筋だと確信しているようでした。この信念は極めて反権威的であり、未来志向であります。企業でいえば過去の習慣にとらわれず、新たな試みをする起業家精神にもつながりますが(エジソンと実験が切っても切れないことは当然のように)、私はデューイのこの進歩的(あるいは当時からするとかなり革新的)な姿勢に大変感銘を受けました。アメリカが様々な分野でここまで世界をリードしてきたのは、やはりこのマインドセットにあるのではないかと改めて感じました。

  • 社会と教育の結合。
    大事なことが書かれていることはわかった。
    何度か読み返そうと思う。

  • 前半
    現状の学校は、社会から切り離されているが、それでは真の学びには繋がらない。
    知識を詰め込むだけ詰め込む、受け身の教育ではなく、子どもが生活していく中に学びを見出すべきであって、子どもの活動の中に学びを見出すべき。
    学校と社会を分離させてはいけない。

    子どもの活動
    →子どもが興味を持って行う活動
    このことから子どもの興味に沿った、実践的な活動を通して学びを行うべきであり、学校や教師、教材はこれを適切な学びへと誘導するための適切な手段を用意すべきである。

    子どもの興味に沿う教育を行うことで、主体的な学び、真の学びとなる。そこに対して、そんなことをしてしまったら学びが散漫してしまうなどという意見があるが、そこを誘導し、適切な学びを与えるのが学校現場の役割のはず、、、


    感想
    子どもの主体的な学びのもと、実践的な子どもの活動に沿った学びができるとしたら子ども自身もわくわくしながら学べるのではと思った。ただ、学びが散漫してしまうという意見もわかる。正直、誘導し、適切な学びへもっていくことができる指導員や教材も現時点で僅かであると思う。

    中盤
    学校と社会が分断されているように、学校の中でも組織が分断され、教科が分断されている。これは課題である。
    幼稚園、小学校、中学校、高校、大学までの流れがうまく作用するべきだが、できてきた過程の違いによってある部分で分離してしまっている。

    学ぶ教科も本来、繋がりを持てるはずである。
    例えば料理をする中で、もちろん家庭科を学び、沸騰の温度は?と考えると理科を学び、昔の伝統的な料理を行う時、歴史を学ぶことができる。
    このように一つの教科を単一的に考えるのではなく、他方の学びがあるのに現状の教育ではなっていない。

    感想
    たしかに生活していく中で、一つのことから多方面の学びが生まれてくる。いろんなものをむずびつけられたらいいと思う。現にそう行っている小学校も日本にはあった。例えば牛の世話をする中で、牛の世話をするためにいくら必要なのか数学的学びを、牛を世話する中で生物的学びを、感想を書かせ国語的学びを、、、、でも十分な満遍なく教育ができているのかは疑問。

    後半
    わけわからんかった


  • 個人的に「知識と経験の結びつき」と「勉強することの目的の明示」がないと学習意欲だけでなく、好奇心も生まれてこないと思っている。

    本書のタイトルは「学校(知識)と社会(経験)」とも解釈でき、自分の考えに妥当性を見出す事ができた。

    「高度に抽象的なことを、日常的な経験にたよることなしに、どうして子どもにしめしてやることができるものか」とは、まさにこのこと。

    台所からだって地理学、物理学、植物学も何でも学べる!

  • “子どもの立場からみて、学校における大きな浪費は、子どもが学校のそとで得る経験を学校そのものの内部でじゅうぶんに、自由に利用することがさっぱりできないことから生ずる。”
    なんかここ、わかる。自分が小学生の頃、知識とか知恵と、学校で学ぶことは繋がってなかったから。

  • 読書会で仲間と読んだ。たくさんメモをとった。学校とは何か。色褪せない名作。

    学校の内部における子どもたちの生活および発達にたいして学校がいかなる関係を有するかについて考察してみたい
    教室 すべてはものを聴くためにつくられたかものである
    机がきちんとならべられている伝統的な学校教室から暗示を受けるもうひとつのことは、できるだけ多数の子供をとりあつかうために、つまりは子どもたちを個々のものの集合体としてひとまとめにとりあつかうために、すべてがあんばいされていること
    旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は、子供たちの態度を受動的にすること、子供たちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることを明らかにするために幾分誇張して述べてきた
    重力の中心が子供たち以外にあると言う一言に尽きる。重力の中心が教師、教科書その他どこであろうと良いが、とにかく子供自身の直接の本能と活動以外のところにある。それで行くなら、子供の生活はあまり問題にはならない。
    今や我々の教育に到来しつある変革は、重力の中心の移動である。
    子供が太陽となり、その周囲を教育の諸諸の営みが回転する。子供が中心であり、この中心の周りに所々の営みが組織される。

    理想的な家庭 
    両親が聡明で、子供のために最善のものを見分ける必要なものを与える能力を持っているような理想的な家庭がここにある。そこでは、おそらく子供は家族の間の世間話やその家族のしきたりを通して学んでいるに違いない。家族の間でかわされる談話の中には子供にとって興味もあり、価値もある節々があるだろう。子供は色々と発言し、質問が行われ、様々な話題が語り合われ、かくして、子供は不断に学習する。子供はかれの経験を語り、その考え違いは訂正される。さらに、子供は、家庭のいろいろな仕事に参加し、それによって勤勉、秩序、及び他人の権利と思想を尊重することの習慣が養われ、そして自己の活動を家庭全体の利害に従属させるという基本的な習慣も得られる。
     
    復唱
    言語とは思想を表現する手段
    四つの興味 談話、探究、構成、芸術的表現
    これらこそ自然の資源であり、投資されざる資本であって、子供の活動的な成長はこれらの興味を働かせることにかかっている
    言語は、自己の経験を他に語り、他の経験を自己のものとしようとする子どもの社会的欲求、それに基づいてはじめて真実が伝達される事実や力との接触をつうじて不断に導かれるところのこの社会的欲求の自然の結果として、相互に関連した仕方で教えることができる
    学校は子どもが実際に生活する場所であり、子どもがそれをたのしみとし、またそれ自体のために意義をみいだすような生活体験をあたえる場所であることが望ましいというべきであろう
    われわれは子どもとともに生活しよう。
    教養とは、想像力が、屈伸性において、範囲において、感入の度合いにおいて成長して、ついに個々人の営む生活が自然の生活と社会の生活によって滲透されるにいたるような、そのような想像力の成長のことをいう
    自然と社会とが教室のなかに生かされるとき、学習の諸諸の形式と道具とが経験の本質に従属させられるとき、はじめてこのことがそのとおりになる機会が生まれるであろう
    教養ということが民主主義の合言葉となるであろう

  • ヒイヒイ言いながら読了。
    一度は読んでおきたかった。

    社会のあり方や教育の動向など、ディティールは違えど刺さる言葉はあった。

  • けっきょく今の教育現場で言われてることがデューイの焼き回しであるならば,教育改革論にさほど意味はなく,教育なんてものも社会のあり方の表出に過ぎない,それを単独で変えようとしても無理な話なのではないだろうか

  • デューイの思想を理解できた。
    何章か理解できない部分もあった。
    現在の教育に求められていることをデューイはすでに提唱していたのかと思うと改めてすごい。

  • NDC 371

  • 教育学の見果てぬ夢。前世紀の幕開けに、アメリカを代表する哲学者は、民主的な社会の建設を、何よりもまず教育に託した。原著の初版は1900年。
    (選定年度:2018~)

  • 原題:The School and Society (1899)
    著者:John Dewey(1859-1952)
    訳者:宮原 誠一[みやはら・せいいち] (1909-1978)
     ※この本の日本語訳が4種類ある。

    【書誌情報】
    価格:本体720円+税
    通し番号:青652-2
    刊行日:1957/07/01
    ISBN:9784003365229
    版型:文庫

    デューイが人間精神の発達を研究しようとして,シカゴ実験室小学校で試みた教育のリポートである.彼は学校を小社会と考え,学校外の社会生活との関連に留意し,子どもの自発的な活動を評価して,権威主義に安住していた伝統的な学校教育を排撃した.本書が戦後わが国の教育改革に与えた影響は大きい.
    https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b270795.html

    【簡易目次】
    訳者序(一九五七年春 東京 訳者) [003-004]
    目次 [005-006]
    献辞 [008]
    出版社の序文 [009]
    著者の序文 [011-012]
    第二版への著者の序文(一九一五年七月 ニューヨーク市 J・D) [013]

    第一章 学校と、社会の進歩 017
    第二章 学校と、子どもの生活 045
    第三章 教育における浪費 079
    第四章 初等教育の心理学 113
    第五章 フレーベルの教育原理 139
    第六章 仕事の心理 159
    第七章 注意の発達 169
    第八章 初等教育における歴史科の目的 183

    解説 [195-219]


    【抜き書き】

    p. 94
    >>
    これまで私は、子どもが日常のありふれたやりかたで獲得するところの経験が学校にもちこまれてそこで利用されると同時に、子どもが学校で学ぶことがらが日常生活にもちかえられて応用され、かくして学校を、互いに孤立する諸部分の複合体ではなくて、一つの有機的な全体であるようなものたらしめるためには、学校を生活とどういう工合にむすびつけたらよいかを、あきらかにしようと努めてきたのである。
    <<

  • 今の学校って、デューイに影響されている!

  • 教育関係者がよい古典と進めていたので読んでみた。52年前に訳されたもの。言葉自体は理解できるが、読解力がなくイメージできないところもあったりで読みづらかった。

    本を通して出てきたのは「学校と生活を関連させよ」ということ。能動的な座学の聴講を否定。ただただ記憶するのでなく自分の今いる社会、生活との関連を考えるべきこと。問題と解答を暗記するのでなく、自分自身の問題をもち考察していく習慣をもつこと。

    これらは今の時代でも必要だし課題。

  • 図書館で借りた本。
    問題解決型教育の原点を知りたくて読んだ。

    モンテッソーリとかも同じ方向を向いていると思う。
    教育を、カリキュラムとして生活とかけ離れたものにせず、日常生活から発生する色々なことを通して行うべきとするもの。
    日常から学ぶことは多い。

    でも、問題解決型教育としてとりくんだ数学の実践では、デューイが主張しているような生徒の姿は見られない。
    やっぱり、単一教科で行うのはムリなんじゃない?と思う。
    文科省から提示された指導要領もかなり無視することになるし。
    中学校数学でやるんだったら、学力テストの範囲が〜とかってなるし。
    切り取って一部で行うものじゃなく、やるんだったら学校全体・教科全体として取り組まなきゃいけないと思う。

    向いている方向はわかるけど、一公務員としての私が切り取って実践するのは難しいなぁ。
    でも、生徒の必然性に寄り添う感覚はちょっとわかった。

  • 「進化論という観念の影響をうけて、精神は個人的な、独占的な所有物ではなくて、人類の努力と思想の所産を代表するものであるという考え、…」(p.117)

    メンデルの法則は基本的性質は代々伝えられると言い、進化論は環境によって変化すると言い、生物学者が「遺伝子」について色々と悩んでいた頃?ピアジェとヴィゴツキーが登場する前夜.電子が見つかり,量子力学が生み出されつつある瞬間.そして一次大戦に突入してゆく空気.

    人類が世界の見方を変えるのは,様々な分野で相互作用し,ほぼ同時にやって来る

  • 久しぶりに読んだが、ここからプラグマティズムという理論をすぐ理解することは簡単であろうか?

全39件中 1 - 20件を表示

著者プロフィール

合衆国バーモント州バーリントン市生まれ。父親は食料品販売会社を経営。バーモント大学卒業後、高校教師を数年務める。ジョンズ・ホプキンズ大学院に進み、徹底したヘーゲル主義者として哲学者の道を歩み始める。教育学・心理学の研究を深めるなかで観念論を脱却する。教師として赴任したミシガン大学で1歳年上の学部生アリス・チップマンと出会い、1886年に結婚。同年、哲学科助教授に昇進する。招聘されたシカゴ大学で哲学科と教育学科の主任教授を兼任。実験学校=付属小学校の創設を主導したが、校長アリスの処遇をめぐる対立から妻と共に退職。翌1905年、コロンビア大学哲学科教授に就任。05~06年、アメリカ哲学会会長。19~21年、日本・中国に滞在。第1次大戦後、戦争禁止=違法化運動に参加。24年・28年大統領選挙で第三党候補者を支持。27年、アリス夫人逝去。翌年、ソヴィエト・ロシア教育事情視察団に加わり肯定的な印象記を残すが、体制の官僚化・全体主義への傾斜に疑問を深め、修正した。29年、独立政治行動連盟の初代会長。38年、モスクワ裁判検証・調査委員会の委員長に就任し、レオン・トロツキーの反革命容疑無罪を立証する。翌年、文化自由委員会の委員長。全体主義批判はソ連邦にもおよび国内左派の猛反発を招く。第二次大戦に反ファシズムを掲げて参戦したルーズヴェルト大統領を支持する。46年、ロバータ・ローウィツ・グラントと再婚。90歳を超えても旺盛な執筆活動は衰えなかったが、52年6月、肺炎で亡くなった。

「2024年 『デューイが見た大正期の日本と中国』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ジョン・デューイの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×