我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

制作 : 植田 重雄 
  • 岩波書店 (1979年1月16日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003365519

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)の感想・レビュー・書評

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  • 信仰について非常に重要なことを言っているような気はしたが、よく分からないところも多かった。もう一度読みたい。

  • 新書文庫

  • 朝の礼拝の紹介本です。

  • 【前編1 創造原理】
     創造原理でいう授受作用に実存的真理をおき哲学している。著者のマルティン・ブーバーは19世紀末から20世紀にかけて活躍したユダヤ人思想家である。ブーバーの哲学は一言で「対話の哲学」と表現できる。人間を独立した個として考えるのではなく、結ばれる関係性から個を見つめ哲学をした。

     ブーバーの思想は端的に、〈我〉〈汝〉〈それ〉の関わりで語ることができる。〈我〉というのは私自身、または人間一般のことである。私たちが持つことのできる関係性には2通りがある。〈我‐汝〉という関係と、〈我‐それ〉という関係である。〈我‐それ〉というのは客観的な関係、いわゆる科学的、実証的に物事と関わる関係のことを言う。いくらこのように宇宙と関わったとしても、人間の疎外は解決できない。我々は〈我‐汝〉という、対象に自らを投入し、対象を自らの一部のように受け入れる〈我‐汝〉という関係から、宇宙および人生を見つめていく必要性がある。そうすることでなしに、実存的な世界拓けることはない。

     これは非常に宗教的、そして体験的な実存哲学である。それを実感しうる立場はそのように生きた人間に限られるのではないか。それゆえに難解である。しかしこれが一部の人にしか受け入れられないものであるならば、流れ去るだけであるが、ブーバーの思想が今も生き、そしてなお現在であるからこそ見直されているのは、〈我‐汝〉、原理で言うところの「よく授けよく受ける」という関係性の真理を、誰もが感じているゆえだと思う。
     
     またブーバーの思想の中に長い歳月を越え、余計な脂肪をそぎ落とされた澄み渡るようなユダヤの歴史を感じる。この書の表現は深遠であり、隅々まで詩的で美しい。長い年月風雪にさらされ淘汰されつつ、砕けさらさらになったユダヤの城壁が、その砂粒としての離散の運命を越えて、見えない意志により再び結びあわされる、ディアスポラに芽生えた生き方を伝えているようである。。
     どうしてもキリスト教的な思想と対比してしまう。キリスト教がイエスの死という現実を見つめるところから始まる信仰であるがゆえに、生々しい。それに比べユダヤ教は同じ一神教の信仰を持ちつつも、思想は乾いている。乾いているように感じてしまう。キリスト教はイエスの存在を持って、どこまでも人格的な一つの神の存在を強烈に刻みつけるのに反し、ユダヤ教は同じ一つの神を信じつつも、そのイメージには砂漠が入り込み、空の青とオアシスの恵みが映り込む。汎神論的な思想に近接するようにすら感じてしまう。その二つには連続性があり、反目があり、発展があり、補完がある。

     いくつかの角度から見つめるに耐えうる思想であると思う。

  • ユダヤ人哲学思想家、マルティン・ブーバーによる書。実存主義的立場から、宇宙観を対話的な相互関係より始まると説いた。

     我々が自分を考える時、または物事を考える時、<われ>と<なんじ>または<それ>という一般名詞として表すことが出来るが、このそれぞれは、その根源語としての<われ―なんじ>という関係、または<われ―それ>という関係を基本として成り立つ。<われ―なんじ>というのは、相互補完的、補助的な関係で対話的であるのに対し、<われ―それ>というのは相手を利用するような立場、利害関係が生じる立場において成り立つ言葉である。
     昨今は<われ―なんじ>という、自らを与え生かされるような関係が薄れ、相互独立的に利害を前提とした関係<われ―それ>の関係が溢れかえっている。特に人との関係の中にこの<われ―なんじ>の関係を取りもどす必要がある。人間の本来の幸福、創造的な生はそこから始まる。

     要約するとこういう感じだと思う。一言で非常に難解である。ある特殊の宗教的体験、実存的体験を前提としなければ、この書に字面以上の実感を持って理解することは難しいと感じる。表現も深遠であり、隅々まで詩的で美しい。長い年月風雪にさらされ淘汰されつつ、砕けさらさらになったユダヤの城壁が、その砂粒としての離散の運命を越えて、見えない意志により再び結びあわされる、ディアスポラに芽生えた哲学である。
     どうしてもキリスト教的な思想と対比してしまう。キリスト教がイエスの死という現実を見つめるところから始まる信仰であるがゆえに、生々しい。それに比べユダヤ教は同じ一神教の信仰を持ちつつも、思想は乾いている。乾いているように感じてしまう。キリスト教はイエスの存在を持って、どこまでも人格的な一つの神の存在を強烈に刻みつけるのに反し、ユダヤ教は同じ一つの神を信じつつも、そのイメージには砂漠が入り込み、空の青とオアシスの恵みが映り込む。汎神論的な思想に近接するようにすら感じてしまう。その二つには連続性があり、反目があり、発展があり、補完がある。

     ブーバーは<われ―なんじ>の関係の根源を、神と人間との関係とした。そして人間同士の関係は、擬似的な神との関係であると。愛を受け交わす瞬間の実感、我々の生はそこから始まると。

  • ユダヤ系の哲学者であるマルティン・ブーバーの著作です。ここで彼は『世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる』と説き、疎外された現代社会の人間像を浮き彫りにします。

    僕は本書を佐藤優氏経由で知りました。古典的な哲学書であり、ユダヤ教哲学者マルティン・ブーバーの代表作でございます。僕は本書を1ヶ月半かかって最後のページまで読み進めましたが、内容はものすごく詩的かつ抽象的な文体で、正直なところわかったようなわからないような…とそういった複雑な感情を抱きつつ、この記事を書いております。

    彼によると世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる。この箇所を佐藤優氏の著作を読んで興味を持ち、自分と相手を対等の相手とみなし、関係を構築しようとするのを『我と汝』と表現しそれとは対照的にその対象を『モノ』としてみなし、利用する関係を『我とそれ』と表現し、現代社会の持つ『疎外』について考察したことについてはこれまた見事だなと、ここだけはどうにかついていけたような気がいたしました。

    そして、〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる。ということを、そのまま恋愛に置き換えると『愛』とは『我』と『汝』の間にある感情である。そういっていた意味がなんとなくわかりかけたような気がいたします。『我とそれ』もしくは『我と汝』というのは人間関係を見つめる上で、非常に便利な考え方ですので、ブーバーの哲学についての解説書を今後読みつつ、彼の思想に関する理解を深めていけたら、とそんなことを考えております。

  • 『ぼくらの頭脳の鍛え方』
    文庫&新書百冊(佐藤優選)115
    思想・哲学・宗教

  • 「真の宗教の対話の時代は始まっている。---相手を現実に見つめることもせず、呼びかけもしないあの見せかけの対話ではなくて、確信から確信への真の対話、胸襟を開いた人格から人格への真の対話である。真の共同体はこのようにしてようやく現われる。それはすべての宗教に見出され、いわゆる信仰の同一内容のそれではなく、状況と不安と待望の共同体である。」(p.183)→「真の・・・対話の時代は始まっている。・・・。真の共同体はこのようにして(真の対話によって=角田注)ようやく現われる。」のであり、その真の共同体とはもはや宗教、民族、言語などの「同一内容のそれ」ではない。異なる宗教、異なる民族、異なる言語間の真の対話による多様性を包含した真の共同体である。

  • 半年かけて読みました。

    孤高の宗教哲学者ブーバーによれば、世界は人間のとる態度によって〈われ-なんじ〉〈われ-それ〉の二つとなるということです。

    言ってることがはじめは分からないかもしれませんが、
    じっくるかけて読むと次第に自分のなかに開かれてくるものがあるかと思います。

    〈なんじ〉はほかならぬ〈私〉に問いかけているのかもしれません。

  • 再読。「我と汝」(1923)の最も素晴らしい部分は最初の第1章に凝縮されている。テーマを応用的に拡大した第2章、究極的な「汝」としてキリスト教的「神」との関係性を問うた第3章は私にはあまり面白くはなかった。
     第1章において、ブーバーは<われ—それ/彼/彼女>という関係に対し、<われ—汝>という関係の特異さを訴える。社会において<われーそれ>の世界観のみに溺れてしまい、結果的に孤独や虚無感に陥ってしまうという考え方は、確かに説得力がある。<われー汝>という関係性は確かに比類のないものだ。
    「他者」「自己」という用語にだけ頼っていると、なるほど、<われ—汝>という視点を見失いかねない。インターネットのコミュニケーションをおおざっぱに「偽物のコミュニケーション」と私は断じたが、たしかにそこではコミュニケーションがすべて「情報」に変換されるだけなので、ブーバーの言う<われ—汝>の真の関係性にはなかなか至らないだろう。
     ブーバーによると、<われー汝>の対話においては、しばしば言葉さえ無用になってしまうのだ。
     そして、この存在論的対面によって、はじめて「われ」は生まれてくる。

    「<われ>は<なんじ>と関係にはいることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。すべて真の生とは出合いである。」(P.19)

     実はこの辺は奇しくも、西田幾多郎が「私と汝」で書いていることと一致している。

    「私が汝を見ることによって私であり、汝は私を見ることによって汝である。」(岩波文庫『西田幾多郎哲学論文集Ⅰ』P333)

     自己なるものが出発するその根源に、<われー汝>という関係性が先んじて存在するわけである。
     しかし、<汝>はどこにいるか? 私は久しく<汝>を見失い、他者を<それ>としか認識せず、<対話>することを忘れてしまっているようだ。

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