- Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003365519
感想・レビュー・書評
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友達が絶賛していて、さらに別の友達が「ブーバー知ってる?」って聞いてきたので、これは読んでみなくてはと思った。
最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわかるだろう。
”根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる”
”根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない”
いきなりなんのことだろうなのだが、これを読み進めていくと、〈なんじ〉の世界が開けてくる。対象とするのではない。関係性なのだ。
『我と汝』の第一部は初めて読むとむずかしいが、一回『我と汝』と『対話』を読み終わった後、再度読むといいと思う。
ブーバーはユダヤ教系宗教学者でユダヤ教を主として書いているので、「神」という表現がでてくるが、どうしてどうして真宗に通じるものを感じざるを得ない。そこはナチュラルな脳内変換で読み進められる。
仏教に関しても知識がある。ユダヤ教、キリスト教、仏教を対比させている部分もあった。
これ以上引用はできない。なぜなら気になったところがほぼ毎ページで付箋で本がふっさふさだからだ。
仏教徒である自分が読んでもどうしようもなく惹きつけられるものがある。きっと様々な宗教のバックグラウンドを持つ人が読んでもそうなんじゃないだろうか。そう思うと、宗教というものの深いところにあるものって、みんな似通っているのではないだろうかということを考えさせられる。
『対話』もいい。
自分は相手と『対話』しているか。〈われーなんじ〉で対話をするということ。この本を読むこと自体が対話なんだ。一行一行に引き込まれる。深く深く入っていくことをイメージした。根源的な関係性。相手ではない。
読み進む喜びは西田幾多郎の『善の研究』以上だった。
これは、何度でも読める。そして何度でも気づかせられる。
読み進めるうちに、これはあのことを、ここはあの法話で言っていることではないか。どんどん自分の中で何かがつながっていく。情報量が多くなって前に進めない。流して読んでも感じるものがあるけれど、普通に読むといろいろ考え出してしまう。思考じゃない。気がつくことがとまらない。
それぞれの宗教の、求道の軌跡がこの本の中で蘇るような瞬間があると思う。ああ、あのことはこれであったかと。そんな感じがする本だ。
「言葉」で真如の世界との関係性を語ろうとしている。むずかしいけれど、こんなにいろいろなものを自分の中に沸き立つものを発見できるのかと思う。
とにかく、読んで、『我と汝』、『対話』を知って欲しい。
大絶賛。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
半年かけて読みました。
孤高の宗教哲学者ブーバーによれば、世界は人間のとる態度によって〈われ-なんじ〉〈われ-それ〉の二つとなるということです。
言ってることがはじめは分からないかもしれませんが、
じっくるかけて読むと次第に自分のなかに開かれてくるものがあるかと思います。
〈なんじ〉はほかならぬ〈私〉に問いかけているのかもしれません。 -
再読。「我と汝」(1923)の最も素晴らしい部分は最初の第1章に凝縮されている。テーマを応用的に拡大した第2章、究極的な「汝」としてキリスト教的「神」との関係性を問うた第3章は私にはあまり面白くはなかった。
第1章において、ブーバーは<われ—それ/彼/彼女>という関係に対し、<われ—汝>という関係の特異さを訴える。社会において<われーそれ>の世界観のみに溺れてしまい、結果的に孤独や虚無感に陥ってしまうという考え方は、確かに説得力がある。<われー汝>という関係性は確かに比類のないものだ。
「他者」「自己」という用語にだけ頼っていると、なるほど、<われ—汝>という視点を見失いかねない。インターネットのコミュニケーションをおおざっぱに「偽物のコミュニケーション」と私は断じたが、たしかにそこではコミュニケーションがすべて「情報」に変換されるだけなので、ブーバーの言う<われ—汝>の真の関係性にはなかなか至らないだろう。
ブーバーによると、<われー汝>の対話においては、しばしば言葉さえ無用になってしまうのだ。
そして、この存在論的対面によって、はじめて「われ」は生まれてくる。
「<われ>は<なんじ>と関係にはいることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。すべて真の生とは出合いである。」(P.19)
実はこの辺は奇しくも、西田幾多郎が「私と汝」で書いていることと一致している。
「私が汝を見ることによって私であり、汝は私を見ることによって汝である。」(岩波文庫『西田幾多郎哲学論文集Ⅰ』P333)
自己なるものが出発するその根源に、<われー汝>という関係性が先んじて存在するわけである。
しかし、<汝>はどこにいるか? 私は久しく<汝>を見失い、他者を<それ>としか認識せず、<対話>することを忘れてしまっているようだ。 -
難しかったが、思い付いたことなどをつらつらと。
p39.<われーなんじ>は、我と汝がそれぞれ糸のようだと仮定すると、2色の糸が格子状に編み込まれている布のようなものという理解で良いだろうか。糸の色により違いはあれど、便宜上この布を2種類の糸にほどくことはできない、そういうものだと。
p68.他者性を自らに取り入れることによって「共同体での仲間トリガー」が発動し、安定した安心感と所属感が得られるようになるのかもしれないな。そのための作法が、汝への問いかけということだろうか?
p86.<われーそれ>の究極の体現者であるナポレオン、彼と同じように<それ>で応えようとする世界の独裁者たち。一方でそれに歯向かい、批判を繰り返す人々も結局のところ<それ>の体現者になってしまっている気がするな。
分断された世界の行く末はいかなるものかな。多様性の考え方も一端分類した上でそれらを余すところなく認める…となってしまえば、結局のところ<われーそれ>の世界を助長するに等しいのではなかろうか。
p124.「この世界における個々の真の関係は、排他的である。それゆえ、関係を持たなかった他のものはすべて、その関係にはいり込もうとし、排除されたことにたいして、報復を企てる。」
排除されたゆえに排除する。引きこもりや不登校の本質はこの辺にあるか?「はいり込もうとし」ってのが良く分からんな。引きこもりとして社会に入り込むってことか? -
マルティン・ブーバーを読むのは初めてである。
消化しきるどころか、頭に入ったのかどうかも怪しい。ところどころ引き込まれる言説があっても、理性と悟性とかそんな話なのかな?なんて生半可な知識に思いが出てきて気づけばわけがわからなくなってしまう。ゆっくり落ち着いて読むべき本だったのだろう、読み方をしくじった。そして、また熟読しなければならない本に出逢ってしまった。
私がこの著者を知ったのは、日野原重明先生がこの著者に影響を受けた話(日野原重明, 『いのちの使い方【新版】』, 小学館(2017))が印象に残っていたからだ。生きること、年を重ねることに希望を持つこと、他者を尊重し自分を高めていくことを人々に伝え、自ら実践した日野原先生に影響を与えた著者の思想に興味があった。
加えて、渡邊二郎先生も、まさにこの「我と汝」に触れていた。(渡邊二郎, 『人生の哲学』, 角川書店(2020); 放送大学教育振興会(1998))問題に即して広い視野を与える視点としてこのような文献を出してくるというのは、慧眼というほかない。
著者の主張と思想は、日野原先生、渡邊先生の本で触れられていた以上の見識を得られていない。またじっくり読んで、考えることにする。
追記:
猫と対話するところが気に入った -
我と汝・対話
(和書)2009年03月04日 19:17
1979 岩波書店 マルティン・ブーバー, 植田 重雄
「我と汝・対話」はとても興味深く読むことが出来ました。諸関係を浮き出させ、それを超えようするとはどういうことかを見事に指摘しているように感じました。そう言う意味で宗教の批判(マルクス)とも言えるし全く独自に追求しているところが凄い。孤独について共同体についてなどそれを「我と汝}の関係性によって見事に批判しています。吃驚するぐらい良書でした。 -
マーティンブーバー。
われとなんじ
われとそれ
われとなんじは関係背の世界を成り立たせ、絶対的な全存在を持って語られる。経験は、われとそれに属する。つまりは、それと同じわれであるから、繋がりを絶ってしまっているもの。世界は2つある。そして、人間の態度は根言語=ベーシックワーズの二重性に基づく。 -
信仰について非常に重要なことを言っているような気はしたが、よく分からないところも多かった。もう一度読みたい。
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新書文庫
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朝の礼拝の紹介本です。
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