- 岩波書店 (1982年10月18日発売)
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感想 : 144件
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Amazon.co.jp ・本 (122ページ) / ISBN・EAN: 9784003366110
みんなの感想まとめ
弓術を通じて「無」とは何かを探求する若きドイツの哲学者の姿が描かれています。日本の伝統的な師弟関係の中で、彼は疑問を投げかけ、師匠との真摯な対話を重ねることで、精神的な成長を遂げていく様子が印象的です...
感想・レビュー・書評
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購入して「未読のまま」長年(十数年)本棚にあったうちの1冊。(2010年 第40刷発行)
「旧い本を、ちゃんと1回読んでから断捨離しよう」計画の一環として。
娘が中高の部活で弓道をやっていた頃に、私が買った本。
どうせ娘は読まないに決まっているので渡しもせず、自分が読むつもりで買った。
そして私自身も全く読んでいなかった。
(そうこうするうちに、当の娘は大学ではアーチェリーに転向したので、益々積読となった)
う〜ん。
肝心なオイゲン・ヘリゲルさんなる方の本文(ドイツに帰ってからの講演原稿らしい)は、読みづらく、わかりにくく、思いっきり飛ばし読み。
むしろ後半の翻訳者等が書かれた方をしっかり読んだ。
当時の翻訳者の文章も普通にわかりやすかったので、本文がわかりにくかったのは翻訳のせいではないのだろう。
ところで、弓道場は神棚を祀っていて(娘の学校には弓道場が無かったので神棚は無かったが)、神様にお尻を向けちゃいけないから左利きの人でも弓道の構えはみんな身体が同じ向き、つまり右手で引くと娘に教わった。(アーチェリーは自由)
しかし、本書では一言も「神道」という文言は出てこなかった。
「仏教」「禅」という言葉のみ。
オイゲン氏も師も周りの方も、明治・大正・昭和初期の頃の方々。
だからと言って、その後、弓道が仏教→神道に変わったなどということはあり得ないだろう。
ちょっと疑問が湧いたが、私は素人だし、その辺のことはもう追究しなくていいかな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本人は何でも「道」にしてしまう。
茶道、華道、へたすればラーメン道、とか。
道、とはなんだろうか。ざっくり、ストイックに突き詰めて無我の境地に至る、みたいなことだと日本人なら感覚的に理解できる。
その中でも、弓道(弓術)というととくに何か神秘の香りがする。
ここに合理の権化のようなドイツの哲学者が挑戦した記録。
「・・・私が弓術を習得しようとした本来の問題に、先生はここでとうとう触れるに至ったが、私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、『無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか』と尋ねた。すると先生の答はこうである。
『あなたの代りにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内に向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい』
ーーー先生はこの深い集中に到達する仕方を教えた」(pp34-35)
弓の稽古を通じて、この若きドイツの哲学者の思索は、「無」とは何か、という(東洋的)心理に徐々に接近していく。
趣深いのは、日本だと師匠の指導に口をはさむなんてことはなかなかできないものだが、著者はガンガン自分の疑問を先生にぶつける。先生は当惑しながらも多くの文献に当たり、ときにはドイツ語も片言使いながら真摯に受け答える。
この師匠と弟子との対話の真摯さに深く胸を打たれた。 -
ヘリゲル氏が書いてるとこより、後半の日本の方が書いてるところが読みやすかったけど、色々と感心する内容だ。
ネットなんかで「〜の方法」みたいなのが検索すれば出てくる世の中になったからこそ
「いや、もう感じるしかないんやで」みたいな、弓を極めるみたいな経験って大事なのかもしれない。 -
弓のような人を殺す武器にもなるものと仏教(禅)とが同じ地平で論じられるのか。
訳者の柴田治三郎はもっともなことを言っている。
鷲田清一著『つかふ』に引用されていたので読んでみた。
まだ《使用の過剰》がよく理解できていない。 -
弓道の奥深さ
無心の難しさ -
弓道をやってみたくなった
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それが撃ってる、弓を
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奇特なドイツ人哲学者が奇跡的に弓術を志し貴重な師匠に出逢い、その体験を帰国後講演したものを邦訳した奇書。この薄い文庫本の存在そのものが本書でも何回も繰り返される「非有の有」みたいに感じられます。堅牢な論理を背景に持つ学者が神秘的合一に魅入られ精神修養に立ち向かい理解より体感を重視する過程に煩悶していく様子が明瞭な言語で綴られていきます。哲学者のドイツ語を昭和初期の重々しい翻訳している文体もこの本の「らしさ」なのかも。しかも作者、星飛雄馬のようにまっすぐに悶え苦しんでいるし。ページ数の割に非常に濃厚で深淵です。戦前の武道を通したドイツ人の「Discover Japan」は今のわれわれにとっても日本をもう一度、知るきっかけになると思います。例えば6年後に行われるスポーツの祭典オリンピックにむけてわれわれは「的を狙わずに自分自身を狙いなさい。」にみたいなプレゼンテーションを世界に向けてできるのでしょうか?理屈関係なく何かに打ち込みたくなる熱い読書でした。
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"am grössten" 薄いけど深い本。「弓は的を射るものである。的が目的物である。射るからには、その目的物に当てることを考えなければならない。弓は意識的に(absichtlich)射るものであるはずだ。」と考える西洋哲学者が「当てようと思わない射、当てようとしない離れ、すなわち意識的ではない(unabsichtlich)射がある」ということを実体験から実証していく話。
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【推薦文】
ドイツ人著者オイゲン・ヘリゲルは弓術を通して日本文化を学んでいく。技巧よりも精神を重んじる武道の姿勢に戸惑いながらも、五年間に及ぶ辛抱強い修行の末に日本文化の一端に触れる。異文化理解の難しさを感じさせる本書は、多文化社会の現代人こそ読むべき一冊だ。
(推薦者:機械物理工学専攻 M2)
日本を日本人が学ぶとき、国外の方の叙述の方が圧倒的にわかりやすいことがある。30分あれば読めるこの本もそんな一冊で、弓術を通して日本的「精神」が言葉にされていく。ドイツ人哲学者が感じた大正期の日本。いきいきとしたその描写の中に、きっと新たな発見があるはずです。
(推薦者:地球惑星科学科 B2)
【配架場所】
大岡山: B1F-文庫・新書 080/Ia/661 -
ドイツから来た哲学の研究者が、東洋思想に少しでも近づくため、日本の弓道の師範に弟子入りした。禅ともつながる、ひとつの知としての弓術。思考、判断を旨とするドイツから来た弟子の知を、弓道の名人は捨てるようにと指導する。この弓術指南には、西洋哲学と日本の武道、2つのあまりに異なる知の衝突を、とても切実で、実際的な形で見ることができる。
西洋知とはつまり「疑」であり、東洋知とは「信」であると見ることもできるんだな。南無阿弥陀仏の気配を聞いた気がした。
そして、この師範から免許を授かり、友情を築いたドイツからの訪問者を、僕は羨ましく思った。 -
良い結果を生むために動作(過程)があるとする外国人、正しい動作(過程)からこそ良い結果が生まれるとする日本人
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「対話のない社会」で紹介されていた一冊。ドイツから日本にやって来て、知らない民族の精神性、その心の内をしりたいと弓術の世界に足を踏み入れたその時点で、すでに対話は始まっていたのだ。
かつての体験から否とせず、受け入れた師匠の方もまた対話を拒まなかったと言えるのだろう。
この対話性があればこそ、無我の境地、宇宙との一体感といった感覚に到達しうるのではないか。悟りはひとりでは開けない。 -
2025.6.14(土)
柳宗悦の著書に登場したヘリゲルが気になったため手に取った。「禅」って簡単に言う現代だけどそんなもんじゃなさそうだ。無我を体験してみたい。 -
弓道は習ったことも触れたこともないけれど最近「無作為」に関心があり手に取った。結果とても良かった。
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【総評】
- 日本の「禅」の思想を知ろうとしたドイツ人の手記
- 阿波先生との師弟の絆も良い
- ヘイゲルの徹底した姿勢が素晴らしい。見習わなくては
- 子供や若者に読んでもらいたい作品
【Question】目的
- どのように「禅」を体得することができるのか?
【Answer】
- 無意識で操作を行えるほど、ひたすらに型を叩き込み、結果を意識せずにそれを行う
【Why?】なぜ弓術と禅が関係あるのか?
- 弓術の根底に禅の思想がある
- そもそも日本人の根底に仏教、禅がある
- 弓術は、神秘的合一(ウーニオミスチカ)を行うための方法として、弓と矢を用いているにすぎない
- スポーツとは一線を画す
【What?】弓術と禅の共通点は?
- 両者は神秘的合一を果たすための方法である
- 「意識しない」ということさえ意識しない、「無」になるため方法という点
【How?】どのように活かしていくか?
- まずは型を叩き込む
- 結果を意識せずに一つ一つの動作に集中する -
弓道経験者として興味深く読めた
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著者がドイツに帰国してからの講演原稿であり、興味深い記録であるとともに、「新版への訳者後記」でヘリゲル氏の生涯についても書かれており、一連の書物の理解に役立った。
柴田治三郎の作品
