種の論理――田辺元哲学選I (岩波文庫)

著者 : 田辺元
制作 : 藤田 正勝 
  • 岩波書店 (2010年10月16日発売)
3.25
  • (0)
  • (1)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
  • 本棚登録 :40
  • レビュー :5
  • Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003369418

種の論理――田辺元哲学選I (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • 田辺元(藤田正勝編)『田辺元哲学選I 種の論理』岩波文庫、読了。本選集は社会的実存の論理を提示する田辺の「社会存在の論理 哲学的社会学試論」、「種の論理と世界図式 絶対媒介の哲学への途」、「種の論理の意味を明にす」の三論文を収録。

    絶対的なものを無媒介に立てる西田的立場を批判し、類、種、個の「媒介」の論理を提案するのが「種の論理」だが、日本人は、どこまで国家に隷属していることに無自覚なのかと暗澹たる気持ちになってしまう。

    種の論理が現実国家の「神性」を根拠づける可能性をはらむと批判したのは南原繁(『国家と宗教』岩波書店、1942年)だが、哲学者こそ、現実には「仮象」に過ぎぬ「国家」や「民族」を絶えず相対化すべきはずなのに、籠絡されていく現実は、決して過去のものではない。

    「応現」の当体としての国家が想定されるが(「絶対の応現的現成」)、これは日本思想史における日本仏教の権力への馴化の問題と連動する。

    福沢諭吉が批判し、その精神を継承した丸山眞男の批判は今いずこ。フーコー以前の世界がそのままつづく現代日本なのか。

    ぐったり。

  • 岩波文庫:青 080/I
    資料ID 2010200651

  • 難しかった。
    まあ考えてみれば当たり前だ。厳密な哲学の論文が簡単な訳がない。
    難しかったのはおれにも原因がある。
    著者は弁証法を徹底させて思考していくのだが、おれが弁証法を(というかヘーゲルを)きちんと学んでないのだ。

    それでも、「種」なるものをおれの言葉で説明すると、こうなる。
    種とは数学でいう集合である。
    個とは集合の要素である。
    類とは集合の全体である。
    そして、要素が集合が特殊化したもののごとく、個とは種が特殊化したものだが、集合論の定理「集合の全体は集合ではない」により、類とは種を特殊化したものではない。
    種を基盤に類を考えるには、種を止揚させないといけない。

    とまあ、そのへんの個種類の関係について弁証法を使い延々と説明している本です。それにしても、これだけ厳密な思考を展開できる哲学者って、やっぱすげえなあ。

  • 西田幾多郎の友人でありライバルであるらしい田辺元の本を読んでみたいなと思っていたら、岩波文庫で次々に出版された。絶妙なタイミング。
    さて、ほとんど予備知識もなく読み始めてみる。全体に西田幾多郎の哲学よりも読みやすく、わかりやすいが、ところどころで納得がいかない。とりわけ最初、「媒介(絶対媒介)」という概念が把握しきれず困惑したが、どうやら彼はヘーゲル的弁証法に則って、止揚(アウフヘーベン)をひたすら目指しているようなのだ。その止揚の過程において「否定即肯定」されていく、前段階の要素を「媒介」と称しているらしい。
    なぜそんなに止揚したがるのかと思ったが、どうやら個・種・類という各段階をつないでゆくのが、この「止揚」の機能だからなのだった。
    「個人」のうちにとどまろうとしない田辺哲学は、西田哲学ともハイデッガー哲学ともちがって、人間社会とか国家を射程におさめる点で新しい。
    けれども、この哲学が侵略戦争をひきおこす全体主義的国家観にまきこまれる危険性を否定できないと観じた。
    編者藤田正勝氏の解説を読むと、田辺は全体主義国家は戦前から否定していたようではあるが、自分の哲学がそういう時代の思潮に対立しえないことを戦時中に悔やんでいたらしい。
    そこで次の『懺悔道としての哲学』に到達する。
    では、次の巻を読み始めよう。

全5件中 1 - 5件を表示

田辺元の作品

種の論理――田辺元哲学選I (岩波文庫)はこんな本です

ツイートする