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Amazon.co.jp ・本 (296ページ) / ISBN・EAN: 9784003380529
みんなの感想まとめ
自伝的要素と哲学的な考察が交錯するこの書は、アウグスティヌスの信仰の獲得過程を深く掘り下げています。特に下巻では、幸福や真理についての探求が展開され、読者は「いかに生きるべきか」という問いを考えるきっ...
感想・レビュー・書評
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アウグスティヌス
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。ローマ帝国末期に、北アフリカのカルタゴで活動したキリスト教の教父。アウグスティヌスはローマ帝国の属州、北アフリカのヌミディアの出身でカルタゴで学んだ。父は異教徒、母は熱心なキリスト教徒であったが、青年時代の彼は、一時若い奴隷の女性と結婚したり、マニ教の教義に惹かれたりして信仰に悩んだ。384年、ミラノに行きアンブロシウスの説教を聞き、また新プラトン主義の哲学に触れて思索を深め、キリスト教に回心した。アフリカにもどり、ヒッポの司教として、マニ教などの異教やキリスト教の異端との論争を通じて、次第にカトリック教会としてのキリスト教理論をうち立てていった。カルタゴでの青年期の素行やマニ教への入信を告白し、キリスト教への回心の経緯をつづった『告白』(400年ごろ)は、古代キリスト教文学の傑作とされ、後世に大きな影響を与えた。また、西ローマ帝国の衰退という現実の中でカトリック教会のあり方を論じた『神の国』(426年)は、カトリック教会の存在意義を明らかにし、中世キリスト教思想の基盤となった。430年、ヴァンダル人の王ガイセリックがカルタゴに侵入、ヒッポを包囲する中で、75歳で病死した。
「時間とは何であろうか。 そんなわけで、あなたが時間そのものを造りたもうたのであるから、あなたが何物をも造りたまわなかったような時(間)は、なかったのである。あなたは不変でありたもうから、どんな時間もあなたとともに永遠ではない。しかし、もし時間が不変であるならば、時間ではないであろう。 いったい、時間とは何であろうか。誰がそれをすらすらと簡単に説明できるであろうか。誰がそれを言葉に表わすために、少なくとも、思考によって捉えることができるであろうか。しかし、私たちは会話の際に何を時間ほど、親しい分りきったものとして話すであろうか。たしかに、私たちは時間について語るとき、それを理解しているし、ほかの人がそれについて語るのを聞くときでも理解する。それでは、時間とは何であろうか。誰も私に尋ねなければ、私は知っている。尋ねる人に説明しようとすると、私は知らない。けれども、私はこれだけのことは知っていると断言することができる。すなわち、何物も過ぎ去らなければ、過去の時間はないであろうし、何物も到来しなければ、未来の時間もないであろうし、また何物も存在しなければ、現在の時間もないであろう。 では、あの二つの時間、過去と未来は、過去はもはやないし、未来はまだないのであるから、どうして存在するのであろうか。他方、現在もつねに現前して過去へ移って行かなければ、もはや時間ではなくて永遠であろう。したがって、もし現在が過去へ移って行くという理由によって、時間であることになるならば、私たちはまたどうして、存在しなくなることが、存在することの原因であるようなものを存在すると言うのであろうか。すなわち、私たちは正当に、時間が存在するのは、ただ存在しないことへ向うからである、と言えるであろうか。」
—『告白(下)』アウグスティヌス著
「主よ、私の心は私のこの途方に暮れた生活のなかで、あなたの聖書の御言葉に打たれて、はなはだ困惑している。人間は知性が欠乏すると、きまって口数が多くなるが、探求は発見より口やかましいし、要求は獲得より手間どるし、叩き求める((『マタイ伝』七の七)手は受け取る手より骨が折れるからである。私たちは約束を得ている。誰がその約束を破るであろうか。「もし神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに反対するであろうか」(『ロマ書』八の三一)。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。尋ねよ、そうすれば見出すであろう。叩け、そうすれば、あなたがたのために開かれるであろう。すべて求める人は与えられ、尋ねる人は見出し、叩く人は開かれるからである」(『マタイ伝』七の七 ~八)。これがあなたの約束である。真理が約束するとき、誰が欺かれることを恐れるであろうか。」
—『告白(下)』アウグスティヌス著
「物体的質料は少なくとも「見分けがつかず混沌としていたもの」として存在するために、あなたから何を受けるに値したであろうか。あなたが造りたもうたゆえでなければ、それさえありえないだろうからである。したがって、それは存在しなかったのであるから、あなたから存在を受けるに値することもありえなかったのである。また、造られたばかりの霊的被造物は、少なくともあなたに似ない、深淵に似た闇としてただようために、あなたから何を受けるに値したであろうか。おのれが造られるもとになった同じ御言葉によって、その御言葉へ向けられ、それによって照らされて、あなたに等しい形相に、等しくはないけれども、ふさわしい光となったからではないか。なぜなら、物体にとって存在することと美しくあることとは同一ではない――さもなければ、醜いことはありえないだろう――ように、創造された霊にとって、生きることと賢く生きることとは同一ではないからである。さもなければ、それは不変に賢いであろう。しかし、霊にとって、あなたのほうへ振り向くことによって得た光を、あなたに背くことによって失って、深淵に似た暗い生へ転落しないように、いつも「あなたにすがることは、善いことである」(『詩篇』七三の二八)」
—『告白(下)』アウグスティヌス著
「私は人々が自分自身のなかにある三位を考えることを願う。自分自身のなかにある三位は、あの三位一体とははるかに異なっているが、しかし私は人々が奮い立って、両者がどんなにかけ離れているかを吟味して感得するために、この三位を知らせる。さて、私の言う三位とは、存在と認識と意志である。私は存在するし、知っているし、欲するからである。私は知ることも欲することもしながら存在し、私が存在して欲することを知り、私が存在して知ることを欲する。それゆえ、この三位において、生命が一つの生命、一つの精神、一つの実有でありながら、いかに不可分であるかを、最後に区別がいかに不可分でありながらやはり区別であるかを見ることができる人は見るがよい。たしかに、この三位は自己の前にある。自己に注意し、それを見て私に語るがよい。」
—『告白(下)』アウグスティヌス著
「その間、かれはカルタゴでの修学を終えたのち、一時、タガステに帰って教え、またふたたびカルタコに出て修辞学の学校を開いたが、アリストテレスの書を読み、当時の天文学的知識にも通じるにつれて、マニ教の合理的世界説明と称するものに疑いをいだきはじめた。ことに、マニ教の有名な学者ファウストゥスとの面接にすべての問題の解決を期待したが、それも裏切られた。この学者と会った三八三年の秋、カルタゴの学生の粗暴にたえられなくなっていたアウグスティヌスは、帝国の首都に大きな名声を求め、母にもいつわってローマに渡った。しかし、この地によせていた期待もむなしく、かれがそこで出会ったのは病気と貧困であった。たまたま、帝国の北都ミラノからローマの市長シンマクスへ修辞学の教授の選任を求めてきたが、アウグスティヌスは、力量を認められてそれに選ばれ、赴任した。かれは、なおマニ教の信者ではあったが、かつての情熱はしだいに冷えて、一時、アカデミア派の懐疑論に傾いていた。マニ教の迷妄から脱出するためには、すべてを疑ってみることが必要であったのである。」
—『告白(下)』アウグスティヌス著
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2019.6.27
11巻の時間についでが面白かった。
ちょうどほぼ日の養老孟司と池谷裕二の対談を読んでいて、記憶と時間について面白い話をされていたので、自分の中でリンクした。
睡眠導入剤としても最適。 -
時間論が面白い。
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カテゴリ:図書館企画展示
2016年度第3回図書館企画展示
「大学生に読んでほしい本」 第2弾!
本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。
山田庄太郎講師(哲学科)からのおすすめ図書を展示しています。
展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。
開催期間:2016年7月19日(火) ~ 2016年9月16日(金)
開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース
アウグスティヌスの著作『告白』は全部で13巻から成る書物ですが、岩波文庫版では上巻に1-9巻が、下巻に10-13巻が収録されています。自伝的な記述が中心であった1-9巻に対し、10-13巻では哲学的、神学的な考察が展開されます。10巻23章の「幸福な生活は真理を喜ぶことなのである」という一節は、いかに生きるべきかという問題に対する探求の出発点として語られる言葉です。幸福とは何か、真理とは何か。一つの生き方としての哲学の姿をここに見つけることが出来るでしょう。 -
朝の礼拝で紹介された本です。
【紙の本】金城学院大学図書館の検索はこちら↓
https://opc.kinjo-u.ac.jp/ -
烏兎の庭 第二部 雑評 3.30.05
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto02/bunsho/conan21.html -
上巻まで読んで放置してたのをようやく読了。
下巻半ばまでは、上巻から引き続いてアウグスティヌスがいかにして信仰を得たのか思索を深めてきたのかを語る信仰告白。
下巻の後半は、ぐっと趣きが変わって神学論の様相になる。有名な時間論に関する章もここにあって、下巻の焦点はこちら。ここでの主語は当然に「あなた」=神であるのだけど、その論理の組み立て方、展開の仕方はギリシア哲学のようというか、ギリシア哲学そのもの。その気になれば神様を除いても議論が成立しそうな勢い。
こうした論の運びは、アウグスティヌスが修辞学を修めているていることに依ることが多いいのだろう。キリスト教がローマ帝国内に広まる一方で、ギリシアの文化がローマ帝国に承継され息づいていた時代だからこその文章と言えるかもしれない。ちょうど「告白」が書かれた前後にローマ帝国が分裂し、100年もすれば西ローマ帝国が滅亡、暗黒時代が始まる。神学的な普遍性とともに、そうした独特な時代の感覚が非常におもしろく、そこもまた名著たる所以かもしれない。 -
読み終わって、はーと息をつきました。やはり上巻の前半がいちばん、勉強するための読書としてはおもしろかったように思います。どうも下巻に行くにつれ感情的な文章が目立つので、クリスチャンでない身からすると、すこしついていけない部分がありました。なんというか、思い込みの激しい彼女みたいに感じてしまう部分があり……。先に入門書を読んでおいてよかったです。
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レポート課題につき。
正直、これだけ読んでもよくわからんです。
難しいですねー。
あとがき及び解説書あわせ読んでようやく、でした。
けど、そういうかたちで真面目に読むと非常に面白い。
キリスト教における神の概念に対する誤解が少しは解けた気がします。 -
「時間とは何か、誰も私に問わないならば、私は知っている。だが、誰かに問われて説明しようとすると、分からなくなる。」という彼の言葉は時間の不思議さを巧く言い当てています。下巻の時間論は短いですが、非常に優れたものと言えるでしょう。
時間は、宇宙や世界にあまねく存在する変化や運動、我々自身の体験や意識の流れ、あるいは時計といったものと、どのような関係にあるのか。
変化や運動が全く存在しなければ、時間も存在しないのではないか。いや、変化や運動が止まっても時間は流れるのではないか。
アウグスティヌスはこうした問題に真正面から取り組みました。そして、「もうない」過去、「今ある」現在、「まだない」未来という三つの「時間様相」の本性を問いただし、記憶、知覚、予期という「心の働き」によって時間を解明しました。 -
アウグスティヌスの代表的著作の後半。10巻から13巻までを収める本書は、上巻(1巻~9巻)とはがらりとその雰囲気を変えてきます。この中では、高度に形而上的な論が成されており、被造物であるところの人間とはいかなる存在か、そして創造主とはどのような存在であり、どのように私たち被造物を創造したのかというテーマが扱われています。その内容はどれも緻密で、1500年以上前に書かれたものとは思えないほど鋭い洞察に満ちており、私は最後のページをめくるまで目を瞠りっぱなしでした。
10章では自身の精神について深く掘り下げ、感覚、知覚、記憶、情念などについて注意深く観察していきます。それは、現代の心理学を学んだ私から見ても、驚くほどに的確な指摘ばかりです。11章では、「創世記」1章の記述を元に、過去・現在・未来という時間について考察します。私たちがその中で過ごすと考えられている時間とは、それぞれ記憶、知覚、期待という魂(=こころの内的過程)の産物に過ぎないという結論は、私にもすさまじい説得性を持って伝わってきました。つづく12章も、同じく創世記から天地の創造について考察し、存在と無、善と無という2つの軸を提示します。神はその2つの軸において「完全なる善・存在」という極に位置し、人間は無とのちょうど中間に位置する、という主張は、一見大雑把に見えながら、実は個々の人の本性を繊細に捉えているようで、なんだか不思議な魅力が感じられます。そして13章では、12章を引き継ぐ形で論をさらにすすめ、創世記の比喩的解釈を行いながら、神、キリスト者、そして異教徒について考察します。
全体として、迷いのない確固たる記述を貫くアウグスティヌスですが、しかしその論考の要所要所で、神への祈りと賛美とを記しています。その記述に出会うたび、著者のひたむきなその姿に心を打たれる気がしました。「完全な」存在と善とを持たず、代わりに時間という制約を与えられた人間としての著者が、それゆえ一心に「永遠」かつ「完全に」善で「完全な」存在である神を求める。しかし「永遠」そして「完全さ」というまさにこの点が、神と人間との決定的な違いの存在を著者に結論付けさせる。本書で描かれる神と人との関係は、謙虚さと自信とが同居した文体とあいまって、なんともいえない厳かさを備えているように感じられます。服部英次郎訳。
(2008年11月入手・2009年10月読了) -
斜め読みしかしていない。どんな人に薦めればよいのだろうか。賢察を乞う。
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