新訳 キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫 青808-1)
- 岩波書店 (1955年12月20日発売)
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感想 : 40件
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Amazon.co.jp ・本 (122ページ) / ISBN・EAN: 9784003380819
みんなの感想まとめ
信仰と自由、そして奉仕の関係を深く探求する本書は、ルターの思想を通じてキリスト教の本質に迫ります。著者は、信仰による「内的自由」と愛による「外的奉仕」の二つの軸を提示し、自由とは他人の評価や律法に縛ら...
感想・レビュー・書評
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世界史や倫理の本ででルターの言行は学んだつもりだったが、本人の書いた本を読むと見えてなかった部分がいかに多いか気づくことができた。断片的な理解だったキリスト教の深部にも触れたような、自由と近代的な意味が全てではないのだなという感覚になった。
ルターの主張は、信仰による「内的自由」と、愛による「外的奉仕」という二つの軸があるように思う。
まず、人は信仰によってのみ義とされる(神に受け入れられる)と説く。つまり、カソリックが重視してきた儀式や善行ではなく、キリストの恵みを信じる心こそが人を自由にするという。この自由とは、律法や他人の評価に縛られず、神との直接の関係に生きる自由のことだ。しかしその自由は「放縦」ではない。信仰によって救われた者は、感謝と愛により自発的に隣人に仕えるようになる。以下の言葉が象徴的だ。
「キリスト者は誰にも従属しない最も自由な主人であり、同時にすべてに仕える最も忠実な僕である。」
自由と服従、信仰と行為は矛盾しない。内面では完全に自由でありながら、外面では愛のゆえに自らを捧げる。この「自由の中の奉仕」こそが、ルターのいう真のキリスト者の姿と読めた。
ルターのいう「自由」という言葉が現代とはかなり異なる意味を帯びている。いまの社会では自由とは「他人から干渉されないこと」とされがちだが、ルターの自由は神との関係において他人に仕える力を得ること。つまり、内面の確信があるからこそ外に開かれる。これは宗教的文脈を超えて、倫理や社会の根源にも響くといえる。
また、「善い行いは善い人を作らない」という言葉も興味深い。現代の「見せかけの善意」や「パフォーマンス的な倫理」への痛烈な警鐘にもなりうる。信仰を「動機の純粋さ」と置き換えれば、これは政治やメディアにも通じる話なのかもしれない。先に来るのは外形的な正しさより、内面的な誠実さという視点はよい。表層的な善意が評価されやすい現代にも必要な点だろう。
また、ルターが「自由」と「従属」という矛盾を避けようとせず、むしろその緊張に意味を見出しているのも意義深い。彼にとって自由とは、孤立や自己完結ではなく、むしろ関係の中に深まっていくのだろう。近代的個人主義とはだいぶ見方が異なるが、この方が成熟した自由の姿なのでは?という感覚が残った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
プロテスタントにとっては基本的なことばかりだが、あらためて読むと自分が少し変えられた気がした。日々の祈りにおいても、目の前の事のみを祈るのではなく、変らぬ十字架の救いに感謝を捧げようと思わされた。とても影響力のある本だと思った。
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ルターはとにかく、人は「律法の行い」によってではなく「信仰」によって義(ただしい)とされ救われるということを、それに関する様々な誤解を具体的なただしながら丁寧に説明していく。そしてまたその説明の中で、当時のカトリック教会がイエスの時代のユダヤ教徒たちと同じ過ちを犯していることを控えめながら指摘していく。
本書は、宗教改革における歴史的役割を確認するためだけでなく、現代において「ローマの信徒への手紙」をただしく読むための手引きとしても有用であると感じた。 -
キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する下僕であって、何人にも従属する。
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この本が有名
な、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しな
い」と、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」と
いう二つのテーゼで始まることは有名である。外から内ではなく、内から外へ、とい
うルターの信仰観が明らかにされている。エラスムスは人間本性において直接的に自
由を見る傾向があるが、ルターは自由を「奴隷」や「罪」という反対概念との弁証法
的な関係で捉えるのである。
全般的に、このテーゼの展開に終始しており、ルターの他の多くの著作に見
られるような、具体的な対象を持った批判や論駁などは見当たらない。しかしそれゆ
えに、現代に至るまで多くの信仰者によって読み継がれてくるような、普遍性を持ち
えたのであろう。福音主義キリスト者が常に立ち返るべき中心的事柄が凝縮されてい
る書物である。
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「自由」と一言で言っても、仏教的自由とキリスト教的自由とは意味が異なる。
「表現の自由」とか「自由主義経済」とかいう場合は、これは欧米からもたらされた概念なので、もちろんキリスト教的自由をさす。
だから、キリスト教の発想を理解しなければ、ビジネスも政治も世界に取り残されることになる。日本では最近世界に通用するイノベーションが生まれないと言われるけれど、それはここに原因があるのではないかと思う。
クリスマスに読む本としては最適だったと思う。
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人自身による影響以上に、人に影響を与えうるのは、その人自身の思想である。
イエスの生き方以上に、イエスの思想こそにより多くの示唆が含まれいる。 -
当時、ルターが宗教改革の時に何を目指したのか何を言いたかったのかが凝縮されていて、前提と提案、その広がりと受容、いろんな意味で興味深く読むことが出来た。ここでいうルターの言っていることは信仰に求められる真髄のようにも思える。何かに向かって誠を尽くそうとする人の姿が垣間見れられた。また聖書を読む時にその理解の助けとしたい。
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自分がキリスト教徒ではないのと、翻訳が読みにくいのとであまり頭に入って来なかった。
聖書を読んでいたらもう少し入り込めたかも知れない。
ただ、ルターの宗教に対する真面目で熱い想いが伝わってきた。 -
宗教改革者ルターの著書を読んだことがなかったので、読んでみました。訳が古くなっているように感じますが、宗教改革に燃えた熱情が伝わってきます。
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〈信仰〉と〈愛〉について
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ルターは『キリスト者の自由』で、次の二つの命題を両立させようとしている。①キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であり、何人にも従属しない。②キリスト者は、すべてのものに奉仕するしもべであり、何人にも従属する。
ルターは、人間が内的・霊的と外的・肉体的性質を具えていると捉えた上で、この問題を取り組んでいる。ルターの確信によれば、キリスト者を義にするのは、行いではなく、信仰である。キリスト者は、すべての戒めと律法から解放されており、この意味で自由である。また、キリスト者はすべて、キリストとともに王・祭司であり、霊的には、信仰を通して万物の上に立つ。霊的・内面的にはこのように自由である一方、キリスト者は外面的ないし身体的には、いずれの人にも従属し、また、肉体の不従順な意志を制御するために行いが必要となる。 -
キリスト教の本来の姿がとても明確にわかる。
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宗教改革の立役者、ルターの代表著書。宗教改革的な攻撃的著作を記したあと、キリスト者の本質的な信仰のあり方を優しく表したルター。信仰の表し方は時代的な物を感じますが、その純粋さは素晴らしい。個人的には聖書への序言の方が面白く読めました。時代的著作。
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自分にとって、大事な本。
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自由・奉仕・義・信仰・行い・霊的・身体的・善・悪・隣人愛、それぞれの関係をちゃんと理解するのは骨が折れる。
真宗に見られる霊性がこの概念に近いことを改めて実感。謙虚さがにじみ出てる『歎異抄』の方が、ごりごりしてる『キリスト者の自由』より好き。 -
マルティン・ルターが形骸化し腐敗したカトリックの在り方に対して批判をした書。
わずか30節の薄いものであるが、キリスト教の信仰の根本を示している極めて重要な主著。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」
「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
という二つの命題から始まり、ひたすら外的なものではなく、
信仰の重要さが説かれる。
「信仰のみ」と言われるように、ひたすら信仰、信仰である。
最後に、キリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活することと説き、真の霊的なキリスト教的な自由を示す。
「神だ神だ」「キリスト以外救いはない」などというプロテスタントの教会の言っていることの原点はここにあったのかと納得させられました。 -
神の前に義とされる行いは内面に発するものでなければならず、信仰に因らなければ発することはない、という思想が明快かつ簡潔に書かれている。
そこに到るきっかけは誰にも与えられている、という意味で性善説なわけだが、それが人間の本性である仁によるものとする儒教に対し、信仰を通して神を介したかたちでなければ発露されえないとするところが興味深い。
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マルティン・ルターの作品
