自然認識の限界について・宇宙の七つの謎 (岩波文庫)

制作 : 坂田 徳男 
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  • Amazon.co.jp ・本 (125ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003392317

感想・レビュー・書評

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  • 彼の「我々は知らない、知ることはないであろう。」を長々と解説した書物であるが、正直時代遅れと云わざるをえないであろう。それもそのはず、「力の本生」や「自由意志の期限」などは現在大いに研究されているし、彼の生きた時代はまだ量子力学も研究されていないだろうし、湯川秀樹の中間子理論も発表されていない。まだまだ物理学や素粒子の研究が進んでいないがゆえに、このような結論に至ったのではないか?と考える。そもそもこの時代、宇宙には始まりもなければ終わりもないとする考え方が主流であり、そうであればこうなるであろうと思う。
    彼が今の時代に蘇り、ヒッグス粒子がどうとかいう話を見れば、変節するであろうと思われる。

  • 生理学者レーモン(1818-1896)による講演記録。唯物論が隆盛を極めた19世紀に、機械論的世界観の限界を論じ、不可知論の立場を表明した。

    思想史の上では、中世から近代へかけて、目的論的世界観から機械論的世界観へと、思考枠組が変容したとされている。事象の説明原理として、「目的論」と「機械論」とは如何なる点で対照的であるのか。

    「目的論」は「何故(why)この現象が起こるのか この現象の本質は何(what)なのか i.e.この現象には如何なる意味があるのか=如何なる目的に向かっているのか」と問いを立てる。そして、何らかの形而上学的観念――例えば"神の絶対性"など――によって支えられる或る価値体系のネットワークの中に、当該現象を配置する。それによって、現象は超自然的な本質=意味=価値を付与され、以て「世界は斯く現象せ"ねばならない"のだ」という仕方で事象を説明することになる。

    「機械論」は「如何にして(how)この現象は起こるのか i.e.この現象は如何なる機械論的・力学的作用によって引き起こされるのか」と問いを立てる。このとき、現象の説明の為に形而上学的観念を持ち出すことを禁欲し、現象に超自然的な本質=意味=価値を付与することを断念する。よって、「機械論」では、「why」や「what」の問いが期待するような仕方で事象を説明することはしない。

    力学的世界観では、全ての事象を「物質」とそれに作用する「力」とに還元してしまうことで以て、当該事象が説明されたとする。しかし上で述べたとおり、その前提である物質及び力の「本性(what)」なるものについて問うことは、機械論的世界観と云う機制の内部に於いては、不可能なのである(或いは、機械論云々以前に、力学的世界観の根本的な前提である「物質」と「力」を、力学的世界観の内部にいながら更に分析していくこと自体が、矛盾であるとも云える)。同様に、そもそも何故に物質は運動を始めたのか、とその第一原因(why)を問うことも不可能である。

    人間の意識についても同様である。或る精神活動と脳内物質の状態とが如何に(how)対応しているかについては、幾らでも精密に解明することが可能であろう。しかし、脳内物質の或る一定の配置が何故に(why)精神活動を産み出すのか、という問題を解決することは決してできない。と云うよりも、そもそもそうした問いを立てることが許されていないのだ。

    これが、レーモンの見出した機械論的世界観の限界である。レーモン自身は生理学者として飽くまで機械論的に事象を説明していく立場を堅持しており、超自然主義に逃避することは学問の終わりとまで云っている。だからこそ、機械論の限界にある上述した不可知論を痛切な問題として取り上げたのだろう。

    しかしそもそも「意識を解明する」とは如何なることなのか。如何なる条件を満たした理論が「意識を解明した」ことになるのだろうか。ここには、他の物質から区別される、意識に特有の困難がある。観測者と物質との関係は、観測主体―観測対象と云う機制の中にある。しかし、観測者と意識との関係は、観測者が意識を対象化すること[超越]そのものが 対象とされるべき意識の働きの一部である[内包]、という自己関係的機制の中にある。自己意識の解明の困難の根本は、この自己関係的機制にあると考える。まずは、この自己関係的機制を形式化してその本質を捉えることが肝要なのではないだろうか。

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