生物から見た世界 (岩波文庫)

制作 : Jakob von Uexk¨ull  日高 敏隆  羽田 節子 
  • 岩波書店
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レビュー : 94
  • Amazon.co.jp ・本 (166ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003394311

作品紹介・あらすじ

甲虫の羽音とチョウの舞う、花咲く野原へ出かけよう。生物たちが独自の知覚と行動でつくりだす"環世界"の多様さ。この本は動物の感覚から知覚へ、行動への作用を探り、生き物の世界像を知る旅にいざなう。行動は刺激に対する物理反応ではなく、環世界あってのものだと唱えた最初の人ユクスキュルの、今なお新鮮な科学の古典。

感想・レビュー・書評

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  • ちょっと思い浮かべてみてほしい。
    ごくごく普通のリビング・ダイニングがあるとする。
    テーブルには皿とコップがある。天井からはペンダントライトがぶら下がっている。部屋の一方にはソファと肘掛け椅子がある。別の一方には書き物机と丸い回転椅子がある。奥には本棚だ。
    人にはダイニングチェアもソファも丸椅子も「座るもの」として捉えられる。皿とコップは食器、床は歩く場所、本棚は読書と関連するもの。
    同じ光景が犬にとってはどうだろう。皿はおいしいものをのせるものでお裾分けがあるかもしれないから「食べ物」の範疇だ。足つきの椅子は飛び乗って座ることも出来る、座る道具だ。ソファは寝やすいからちょっと上等の座るもの。だが丸椅子はまったく別のグループだ。飛び乗ろうとしてもくるくる回ってしまうから、こんなもの、「いす」とは関係ない。ダイニングテーブルも書き物机も等しく意味のないもの。本棚も無意味。単なる「背景」と一緒である。
    蠅だったらどうだろう。彼にとってはここで意味のあるものは、皿とライトしかない。他の情報は区別できず、また区別することに意味もない。
    人・犬・蠅が同時に同じ光景を見ていても、三者がそこから抽出してくる情報はずいぶん異なるものになる。

    ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは19世紀から20世紀にかけて生きた、生物学者・哲学者である。若い頃は異端でありすぎたためか、大学に属することなく、フリーで研究を続けた。60歳を過ぎた頃、ようやく名誉教授としてハンブルク大学に迎えられる。ローレンツなどの動物行動学者やあるいは哲学者に影響を与えた人物である。
    本書は彼の思想のエッセンスを短い14章にまとめたもので、冊子に近い薄さである。だが含まれるイメージは多様で刺激に満ちている。
    目からウロコが落ちる、世界がまったく違って見える、といささか大げさな言葉を当ててもよいほどだ。

    動物はそれぞれ、違う知覚体系を持ち、同じ環境にあっても、見ている部分はまったく異なり、別の「環世界」を持っているというのがユクスキュルの主張である。
    本書でもっともよく引用される挿話はおそらく、ダニの事例だろう。森に住むダニは視覚も聴覚も持たない。通りかかる動物の汗に含まれる酪酸を感知し、木から飛び降りて動物の体温を感じたら、皮膚の毛のない部分に移動し、食い込んで血を吸う。ここには嗅覚と温度感知と触覚しかない。木々の緑も小鳥のさえずりもダニには関係がない。しかしそのことを豊かさがないと言うのは的外れだろう。彼らはそうして生きてきたし、またそうして生き続けていくのだ。

    ユクスキュルが使った「ウムヴェルトUmwelt」という言葉に「環世界」という訳語を当てたのは、本書の訳者であり、著名な動物行動学者である日高敏隆である。主体を取り巻くものを指すのだが、客観的な「環境」そのものを指すというよりは、主体が認識する「世界」であり、主観的なものである。イメージとしては、それぞれの主体が、周囲にそれぞれのシャボン玉を持っているようなものだ。シャボン玉は主体の見えるもの・感じ取れるものを囲い込む。主体が移動するとともにシャボン玉も移動する。

    彼の思想は、純粋に、動物行動学としても役に立つ見方だろう。あるいは動物福祉を考える際の参考にもなろう。またさらに、自分の感覚とは何か、自分の感覚が捉える世界とはどれほど確固としたものかという哲学的な広がりも持ちうる。

    人間と他の動物種が同じ環境にいるときであっても、人間が見ている世界と他の動物種が見ている世界は明らかに違う。
    それはつまり、環境からのインプット(環境をどう捉えるか)も、それに対するアウトプット(環境にどう反応するか)も異なるということである。
    我々が「見て」いながら「それとは認識していない」世界。
    いやはや世界は広く、深く、そして多様であるのだ。

  • これは科学哲学ならぬ生物哲学とでも言えば良いのだろうか。いわゆる「客観的な世界」というのは人間の環世界が形成させたものであって、イヌにはイヌの受容器官に基づく環世界が形成されているし、ハエはハエの受容器官に基づいた環世界の中で生きている。そして環世界を異にする生物同士は、決して同じ時間と空間を共有している訳ではないのだ。内容は造語がやや目立つものの、説明はシンプルで図説も豊富。読書が持つ役割の一つに読み手の世界観を広げるというのがあるけど、これほどまでに自らの世界観を広げてくれる本は他に無いと言っていい。

  • 最初から難しい単語でグイグイくるからついていくのがやっとだったけど、この本を読まなければこの視点には全く気がつかなかった。驚きと感動。

  • 人間にとって見えて認識している環境(世界、空間)と、生き物から見て認識しているそれとの間には甚だしい乖離がある。その理由は主体にとって価値や意味があるものが異なり、センサーの役目をする器官も異なるからという理由を説明した古典的な名著。
    序章と一章は最初は理解できなくて読み飛ばしてもよいです。二章から後ろは短編なので好きなところから読むと取っつきやすい。あとで序章と一章を読めばなるほどと書いてある意義が納得できました。

  • 「このクラゲの環世界ではいつも同じ鐘の音が鳴り響き、それが生命のリズムを支配している。その他の刺激はすべて遮断されている。」
    本書の中で最も印象に残った一節。中島らもの短編に植物状態の少年の心の中に超能力者が入り込む、という話があったのを思い出した。

  • 「確実さは豊かさより重要なのである。」
    ベタの環世界ではあらゆる運動過程は高速撮影のようにゆっくり進み、カタツムリの環世界ではあらゆる運動過程は高速で進行する。
    「つけまわす敵の知覚世界に昆虫の静止した姿というものがないのであれば、昆虫は死んだふりをすることによって、その敵の知覚世界から確実に抜け落ちてしまい、敵が探しても見つかるはずがないのである。」
    「イタヤガイの目は色でも形でもなく、もっぱら、敵の速度にちょうど合致した運動速度にセットされている。」
    設計という観点から動物の生命現象を整理することによって、目的という幻想を捨てる必要がある。
    「本能は、個体を超えた自然の設計というものを否定するためにもちだされる窮余の産物にすぎない。」
    「われわれは自分の環世界の対象物で行うあらゆる行為について作用像を築きあげており、それを〜知覚像と不可避的にしっかり結びつけるので、その対象物はその意味をわれわれに知らせる新たな特性を獲得する。これを簡単に作用トーンと呼ぶことにしよう。」
    「われわれが作用トーンを考慮に入れたときはじめて、環世界は動物にとってわれわれが驚嘆するような大きな確実性を獲得する。ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別できるといってよいだろう。」
    新しい体験をするごとに、新しい作用トーンを持った新しい知覚像がつくられる。(このような学習のプロセスそのものが自然の設計の一部であると考えることもできるのでは)
    探索トーンはヤドカリやヒキガエルといった単純な生物にも存在する。彼らの行動に主観も入っていることの一つの例証。
    探索トーン、なじみの道、なわばりといった主観的産物は、主体の個人的体験が繰り返されるにつれ形成される。
    環境の客観的な現実は、必ず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものは存在しないのにある作用トーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になる。
    「いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない。」
    「「環世界」とは、その主体が意味を与えて構築した世界である」

  • 機械論的な生物学とは違うとの主張だが、なにがどう新しいのかなかなかわからなかった。それどころか、ユクスキュルの主張している内容こそ機械論的とすら思える。
    読み進めてわかってきたのは、ものすごく乱暴かつ単純にしてしまうならこれは情報処理の話だってこと。環世界という言葉のためとても文学的で印象だけど、やってることは生物を情報処理システムとして捉えるということなんじゃないか。だから、情報の処理とフィードバックによる系といなれば現代の感覚的には非常に機械論的に映る。知覚時間の話なんてユクスキュルが映画フィルムの例を出しているようにサンプリングレートそのもの。知覚器官が違うなら取得できる情報も違うし、取得できない情報は主観的には存在しないに等しくて、そうして世界も違うなんて当たり前じゃん、と思えてしまう。
    原著が書かれたころは情報なんて概念はまともなかっただろうし、あったとしても人口に膾炙していたとは思えない(原著は1934年で、シャノンの論文や
    ワトソン=クリックの発見は1950年前後のはずなのでそれと比べてもだいぶ早い)。だから情報の概念を用いることなく情報の話をしようとするからこういう回りくどいことになるし、情報というものに慣れた現代人にはぴんとこない。本人も情報の話をしている意識は当然なかったんだろう。
    そうした時代にこんな考察を進めたというのは先進的だし、これがあったからこそオートポイエーシスみたいな議論も生まれたんだろうし、(ハイデガーが援用したという要因は大きいとは言え)哲学思想にも大きく影響あたえたんだろうなどと思う。。。。のだけど生物学は全く詳しくないし、ネットで見ても環世界と情報の関係に関する言及は見当たらないので、もしかしたらすごい誤読してるかもしらん。

  • 「暇と退屈の倫理学」の中で「環世界論」が紹介されていて、興味を持ったので読んでみました。160ページ程度の短い本で、挿絵も豊富で読みやすい本でした。

    人間が見ている世界と、他の動物が見ている世界は、根本的に違う、ということを、具体的な実験事例、観察事例を挙げて説明しています。

    よく似たようなことを、漠然と思っていたことがあったのですが、その考えについて、一つのまとまったパッケージとしてこの本と出会えたのはとてもよかったと思います。

    私が考えていたのは、自分が有する感覚(五感とかいわれる感覚など)の一部がそもそも存在しないとき、世界はどう感じられるのか?とか、通常の人間が持たない、まったく新しい「感覚」があったとしたら、そのとき世界はどのように感じられるのだろうか?ということ。
    本書は多分に前者について整理した本だと感じました。

    また、本書を読んで、「意識」とは何かを環世界の観点から語るとどうなるのだろう?とか、「アフォーダンス」と組み合わせて考えるとどうなのだろう?とか、いろいろ連想が広がっていきました。

    良い本です。

  • ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』の中で重要な書物として詳しく言及されていたこの本、ユクスキュル『生物から見た世界』は、1934年に一般向けに易しく書かれた自然科学書だが、これは凄い本だった。この薄さで、人によっては世界観をまるで変えてしまうほどの衝撃がある。
    たとえば森に住むマダニには眼も味覚もないが、木の上で待ち伏せ、下を通るほ乳類の皮膚腺から出る酪酸の匂いを感知すると飛び降りて暖かな皮膚の部分まで進み、血を吸う。
    下に獲物のほ乳類が通るまで、なんと18年も待っている場合があるという。
    このダニにとって、とりあえず酪酸の匂い以外のものは、世界に存在しない。人間が動物たちと「同じ世界」に住んでいると思い込んでいるのは単なる幻想であり、空間も時間も、それぞれの動物の主観により限定された環境世界(環世界=Umwelt)によって生み出されているものにすぎず、それは決して共有された、包括的なものではない。
    「主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された例え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。」(p.50)
    こんなことを発言する自然科学者がほかにいただろうか?
    ユクスキュルはさらに、動物それぞれの種に限らず、同じ人間であっても、生活習慣や経験などに応じて、個人個人によって「環世界」が異なることをも示唆している。
    この驚くべき直観は、たとえばグッドマン『世界制作の方法』の「ヴァージョン」にも通じる。
    世界は無数に存在し、それが一つしかないという幻想は、単に「話が通じやすくするため」なのだ。
    「生きた主体なしには空間も時間もありえない。」(p.24)
    これは恐るべき思考へといざなう、小さな、しかし素晴らしい書物だ。必読。

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