「万人の万人に対する闘争」が繰り広げられる状態が自然状態だとする一説で有名な本書。もっとも水田訳では「各人の各人に対する闘争」としているが、こちらの訳の方がホッブスの意図するところをきちんととらえているように思う(万人云々は誰の訳か知らないけど。兆民?)。まずは、この訳者による(想定される)「翻訳」方針とその実行を讃美する。学術的でない一般的な読者にはそこまで不要と思われる「翻訳」の背景や経緯をストイックに事細かく註書し、その上さらに一般的な読者でもストレスなく読み進められる良訳を可能とする頭脳と文章力に対しては感歎しかない。専門家にとってはどのような経緯でその「翻訳」に至ったかを逐次把握できるだけでなく、古典のそれも学術書が一般的読者にもこれほど読み易く提供されている。読者に対して相当な教育的・啓蒙的配慮を払っている良心とそのプロ意識、ホッブズを理解させるための素材と技量を提供し切るという強い意思が全面的に感じられる。本書の内容については、まず第一部で人間存在を、今の言葉でいうところの心理学的手法で徹底的にかつある意味辛辣に善悪二元論的に解体・分解している点が、この後に続く論に対する予想を不穏なものにしている。また、アリストテレスの統治のための貴族/奴隷本性論や倫理学的中庸論さえも批判対象としているし、形而上学的ではない神とその信者も一刀両断している。「これは何を言い出すつもりなんだろう?今読んでいる箇所は、のちの議論の伏線が縦横に張り巡らされているんじゃないか?ちょっと怖い感じがあるな」という漠然とした恐怖心。そこには、今の言葉でいう「大衆・群集」に対するホッブズの辛辣な批判が読み取れることも含まれる。そして、ホッブズの意図しない効果かもしれないが、この怖いもの見たさがわかりやすい文章も相まってどんどん読みすすめさせる。これはもはや、この書の前半は民権論における極めて重要なキャノンであるにもかかわらず物語としての面白ささえ際立っている。加えて、このパートの前半は後のカントの純粋理性に関する議論さえも思い起こさせる。そして、第一部の肝は、自然状態における議論とその自然状態から脱却するためのいくつもの自然法に関する議論である。のちのルソーにつながる議論が展開されていく。第三部・四部は聖俗ふたつのコモンウェルスの関係を論じており、総じて当時のカトリック教会(あわせて英国教会自体も)に対して批判している。じつは、この書の肝はこの教会批判、翻っては100年ほど前の英国教教会成立の正当性を主張しているの点ではないかと思ってしまう。ホッブスが王室の御用学者なのかどうか知らないけど、前半の社会契約論の主張は後半の英国国教教会の正当性を主張するがためのものではないか。けっして人民主権を前面に押し出そうとしたわけでない。その証拠に、社会契約論を論じる際に、君主制、貴族制、民主制の三つを常に併記しているのに君主制を前提としているように思われてならない。また、ホッブスの言っていることに何度も矛盾を感じてしまう。たとえば、キリスト教徒の正当な政治権力者は神からその権力を与えられ、その法律(=命令)には服従しなければならないと論じながら、たとえ合法的な主権者であっても神の命令ではない命令には従うなとする。もっとも、合法的な主権者が神の命令でない命令をするということ自体、ホッブスの主権者の定義ではあり得ない話なのであるが。他に、使徒以降の祭司者や牧者は教える・忠告することが使命で聖書の文言自体は一義的な信仰のよりどころではないとするのに、「聖書諸篇をさがしなさい」というヨハネ福音を当然のように論を張る際の根拠としている点も納得がいかない。そうはいってもなんだかんだで、この国の元禄時代よりも数十年前に社会契約論を論じているのは思想界におけるものすごい功績であることは間違いない。