自由論 (岩波文庫 白 116-6)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003411667

作品紹介・あらすじ

イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミル(1806‐73)の代表的著作。言論の自由をはじめ、社会生活における個人の自由について論じ、個人の自由の不可侵性を明らかにする。政府干渉の増大に対する警告など今日なお示唆を与えられるところ多く、本書をおいて自由主義を語ることはできないといわれる不朽の古典。

感想・レビュー・書評

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  • 社会が個人の自由に干渉する際、道徳や慣習が判断基準となるが、これは多数派の定めた基準に過ぎず、不当に干渉される原因となっている。



    個人の自由に干渉する事が正当となるのは、その干渉が自衛を目的としている場合だけ。



    社会全体の利益を考えると、国や多数派の安定を守るために個人を抑圧するのではなく、より自発的な個人を発展させる事。



    個人に与えられる3つの自由領域

    1.思想の自由

    2.嗜好と目的追求の自由

    3.団結の自由



    ある一つの問題に対して意見が対立し、世論や政府が権力を使って、少数派の意見を禁じようとしている場合に考えられる3つのケース。

    1.規制された意見が正しかった場合(少数派が正しい場合)

    人は周囲や尊敬している人が皆同じ意見である時に、自分の意見が完全に正しいと感じる。この無条件に信頼してしまう事を「無謬性の仮定」と言う。しかし、「世間」というものは社会のほんの一部でしかなく、人と同じくらい間違いを犯しやすい。そして、異端と見なされた意見が排除される傾向になると、人々は異端とみなされる事を恐れ、大胆に考え抜く事を控える。結果的に、国民全体の知識欲が低下し、真理の探究が滞り、その社会は衰退する。

    2.規制された意見が間違っている場合(多数派が正しい場合)

    本当に正しい意見であっても、あらゆる可能性を考えた上で十分に議論されなくなると、人はその意見の決まり文句だけを覚え、重要な意味を忘れる。事の本質を理解せぬまま、やがてあらゆる知恵や知識が形骸化され、実生活に役立てられない。

    3.どちらも一部が正しい場合

    日常で最も多いケース。物事は多面的であるが故に、論争で調整するしかない。多様性を認める事で健全な状態を維持する事ができる。



    人類の知性の発展の為には、思想と言論の自由が必要。



    人は自らの力を発揮する為に、考えて行動する事で成長する。それが多様であるからこそ個性なのであり、個々人があらゆる方向に成長する事で新しい発想が生まれ、ひいては国の発展へと導く。



    強者も弱者も同じように権利を尊重しあい、全ての人々の幸福が守られてこそ真の良き社会と言える。



    個人の自由の原則は、判断能力が成熟した大人でなければ適用できない。



    相手を思いやるが故の「善意の専制」も、個人の判断能力を奪い、主体性を失わせてしまう。

  • 個人でも国家でも、人の思想や行動について干渉せず、周囲の人間に危害を与えない範囲で自由にさせておくのが、社会や個人の精神、能力の発達のためによい。
    自己の信仰や思想が尊重されるべきなら、他者の信仰や思想も尊重するべきである。
    後半では、教育についても語られている。
    国家が教育内容に介入することは、国家にとって都合の良い思想や偏った知識を持つ国民を育てることになると。

    現在では当たり前とされていることが、ひとつひとつ検証されて、論として組み立てられてきたことなんだなと思った。

  • 西欧らしく「自由万歳!人間は自由でなければならない!」と熱く語る書物だと思っていたが、流石は末永く読まれる大作といった感じで現代の我々にも当てはまる有益な示唆が得られた。文章としては自由とは何か、 人々が求めるところの真理とは何か、宗教が与える影響はどんなものかという流れになっており、それぞれ具に根拠を挙げながら述べられている。心理について語る文章を見てみると、真理は反駁されるべくしてあるものであり、そうでないものは大衆を騙す空疎な虚構と同じだとあり、むしろ真理はそれと真反対の論理とかけあわせて見なければならないとしている。しかも、真理は完全ではなく一部分ずつ存在しており、一つのものだけが真理ではなく、それらを吟味して取捨選択していくことが大切としている。そして、一つのものだけが真理として追い求められやすい典型例としてキリスト教があげられている。キリスト教はそれ自体が真理として語られ、それ以外の一切の干渉が許されていないものであるが、それであるがゆえに支配者にとって有益なものしか付け加えられない格好の餌食になっていたのだ。そのため、真理のためには取捨選択できる超人(ニーチェの言葉を借りるのであれば)によって論駁されなければならないのである。それと似たような文脈で、自由のためには自由は規制されなければならないとしており、最後の締めくくりでは政府の干渉が反対される原因として個人の活躍の可能性の縮小があるとして挙げられていたが、政府が縮小すると官僚くらいしか門戸が開かれず、それこそ個人の活躍ができなくなるものだとミルは指摘している。

    ただ、これらの内容から、私たちは小さな政府の功罪を読み解くことができる。たしかに政府の過干渉は専制君主制のそれの要因になりうるが、現在の小さな政府はその権力の配分と利用方法を誤ったように思える。個人がもっと活躍できる環境づくりが政府としてなされればいいのになと思った。

  • 現代的で古臭さを感じない内容に驚く。
    日本語は少し古臭いが。

    第二章 言論の自由
    「一般に承認されている意見に対して抗議する人々(中略)が、もしも存在するならば、われわれはその抗議に対して感謝し、われわれの心を開いて彼らの言葉を傾聴しようではないか。」(93頁)

    第三章 個性
    「人々が悪い行為を為すのは、彼の欲望が強力であるからではなく、彼の良心が弱いからである。」(121頁)

    「現代においては、一般的なものへ順応しない(中略)という実例だけでも、即ち、慣習に膝を屈することを拒否するというだけでも、そのこと自体が一つの貢献なのである。」(135頁)

    第四章 政治体制(社会の権威)

  • 【内容】
    個人の自由。その擁護と意義。
    本書の焦点は社会的自由であり、意志の自由(自由意志)ではありません。
    まず議論の前段階として第1章で社会的自由の変遷に触れつつ本書の概要を示し、議論の限定により問題を浮彫にする第2-3章では思想の自由とその実現であるところの個性を扱い、最後に第4-5章で社会による圧力や実際的な問題に多く絡めた議論をして終わり。

    【類別】
    哲学、政治学、社会学、経済学に関連。
    功利主義(実利主義)及び古典的自由主義、西洋哲学の立場から。

    【源流】
    A・d・トクヴィル、W・v・フンボルト、J・ベンサム。
    一部、対置し示されるのはA・コント。

    【着目】
    多数者の暴虐(多数派の専制)、思想及び表現の自由、危害原理、愚行権、多様性、個性の養成、教育、公共の福祉に関する議論を含みます。
    宗教や一部啓蒙的思想に踏みこむ箇所もありますが、少なくとも前者についてはその構造を抽出しつつ例として扱っているためさほど違和感を覚えないのではないでしょうか。キリスト教が多く取りあげられるので、それに対する俯瞰的あるいは分析的な読み方をお奨めします。
    また、訳注が頁231-271と充実し且つ平易な表現で述べられているため、本文を読みづらく感じはするもののそれでも読みすすめたい人には訳注へ軸足の置かれた読み方をお奨めします。

    【備考】
    このレビューは第61刷に基づいています。
    率直に述べますと、本書の翻訳について拙さを感じる点が多少ありました。ただし原文を確認していないので、本書の訳文に限った問題であるとは断言しません。ともあれ古い訳を読みたいわけでないならば本書はお薦めしません。

  • 扱っている話題が幅広く、見識の広さを感じさせる。しかし、楽観的な人間観がどうしても気になる。啓蒙が必要であるという議論の背後には、啓蒙というのは成功裏に成し遂げることができるものであり、また同時に、それは万人にとって幸福を与えるものなのだ、とした前提がある。これは本当なのだろうか。彼自身、文明化については疑念を提示しているが、これは啓蒙自体にも提起し得るものではなかろうか。

  • すごく難しかった。

  • すべての人は他人の自由を侵害しない限り、望むことを何でもする自由がある。国家は他人による自由の侵害から各人を守り、共同体を外国の侵略から守る役割のみをもち、それ以上の権力行使は認められない。ハーバート・スペンサーSpencer『Social Statics』1850

    自由とは人間の独創性と多様性が最大限に発揮できること。価値観の画一化は個性の発展を妨げる。個性が発展しないと社会全体にもマイナス。異なる意見を十分に自由に比較でもしない限り、意見の一致は望ましいものではない。全人類が同一の意見をもっていて、ただ一人が反対の意見を持っている場合でも、その一人を沈黙させるのは不当。一人の権力者が全人類を沈黙させるのが不当であるのと同じ。封じ込めた意見のほうが正しいかもしれない。「自分こそ正しい」という考えは馬鹿げていて根拠がなく、あらゆる進歩の過程で最も頑固な障害となる。▼他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の邪魔をしない限りにおいて、私たちは自分の幸福を追求する自由を持つ。幸福は人それぞれ異なる。他人に自分の幸福を強いるよりも、互いに相手の幸福に口出ししない方が得るところが大きい。相手が愚かなことをしているとき、止めたほうがいいよ、と保護者のように干渉するのもダメ。相手を自分の型にはめようとすべきでない。▼民主主義において、人民の意志は多数者の意志であり、それは他の一部を抑圧するかもしれない。多数者による専制。個性を封殺し、多数者の考えに従うことを強要する。社会の画一化の圧力から個人を守るべき。改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。なぜなら、それは改革を欲しない民衆にそれを強制するかもしれないから。▼政治に参加することで人々は公共について学ぶ。政治参加は教育効果がある。できるだけ多くの人が政治参加を通じて公共を学ぶべきなので、参政権を女性にも拡大すべき。ミルMill『自由論』1859

    多数者である労働者の利益が、金持ちの利益を犠牲にする形で統治に反映されるのはよくない。多数者(労働者たち)による専制は避けたい。▼階級間の利益の根強い対立は克服が難しい。一方、意見の対立は優秀な資質をもつ少数の知的な人が理性的に対話すれば合意できる。▼支持者の数に比例して、少数派の党も代表される仕組みにする。労働者の多い選挙区で労働者が支持する候補者ばかりが勝つのを防ぐ。多数者(労働者)だけでなく、少数者(金持ち)も選ばれやすくする。▼教育ある有権者には2票以上の投票権を与える。知識や知性に優れた人の影響力が高くなり、無教育な労働者が自分たちの利益を追求しにくくなる。なお、生活保護者や文字の読めない者に選挙権を与えるべきでない。▼個人の自由を守るための政治体制。国民全体の利益を十分に考慮できる政治体制が仮に存在しても、それは望ましいものではない。過保護になりすぎ、個人の自治能力を減退させ、個人の自由を制限してしまうから。ミルMill『代議制論』1861

    他人から干渉されることなく、自分のしたいことをする。こうした消極的な自由をまずは保障すべき。一方、自分は自分の主人であり、他人に支配されるのではなく自分で自分を統治する、という積極的な自由もある。自ら主体的に決定する自由。自律としての自由。しかし、こうした積極的な自由は社会全体が目指すべき理想・「何に価値があるか」の強制が入り込みかねない。単一の価値を達成することが、自己の統治(真の自由)である、と主張し始める。権力の決定への服従を強制する。積極的な自由は多数者による専制・全体主義への隷属につながる。人間の価値は多様であり、単一の価値に昇華できない。他人に干渉・強制されずに行為できる自由(消極的な自由)こそ、まず保障されるべき。アイザイア・バーリンBerlin『自由論』1969 ※ラトビア出身。OX。

  • 819円購入2010-06-04

  • 2011/01/26

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