ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫 白124-1)
- 岩波書店 (1974年3月18日発売)
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感想 : 20件
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Amazon.co.jp ・本 (189ページ) / ISBN・EAN: 9784003412411
みんなの感想まとめ
人間の本質や社会のあり方について深く考察した一編。著者は「政治的開放」と「人間的解放」を対比し、単なる政治的自由の先にある真の人間的解放の重要性を説いています。この作品では、19世紀のユダヤ人の状況を...
感想・レビュー・書評
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マルクス最初期の論文2選。マルクスは「共産党宣言」しか読んだことがなく、読破できるか不安であったが、引き込まれるように読み込んでしまった。
・ユダヤ人問題によせて
「政治的開放」と「人間的解放」を対置し、人間的解放による人間の本質の復帰を説いた一編。
近代市民社会革命において、人間は政治的解放を成した。それは封建制を打破したが、利己主義が蔓延する市民社会を解放し、国家に属する「公民」と利己的な「市民」への人間の分裂を招くものであった。その上、市民>公民と見做され、普遍的利害に関わる公民が現実感のないものとされた。
その為、人間は、政治的解放に留まらない人間的解放に取り組まねばならない。それにより、人間は自己の利益と他者の利益を共に気遣う「類的存在」に至ることが出来る、というのがマルクスの主張である。
マルクスの人間観や、市民社会の利己主義は貨幣を神として崇拝する「疎外」の状態に置かれているとする見方に深く共感した。
・ヘーゲル法哲学批判序説
「宗教は民衆の阿片」という著名な一節で知られる一編。宗教は現実的な幸福を幻想的な幸福に転化したものであり、現実の改革によって宗教は死滅するという論には非常に説得力がある。この二編からは、マルクスがあくまで現実の社会改革に強い意欲を持っていたことを窺わせる。
また、プロレタリアートという社会矛盾が体現化された存在の解放こそが、社会の解放に繋がるという主張は、後のマルクスの共産主義への萌芽を感じさせるものである。
私の最も好きな一節は、「批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。」である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「ユダヤ人問題によせて」ではユダヤ人の置かれた状況を通じて、19世紀の国家のありかたを提言するものとなっています。また、プロレタリア革命という思想を創造する前のマルクスの思想を知る手がかりでもあります。
当時のドイツはヘーゲルの国家観を理想としつつも、政治的社会的に統一から隔たった状況にありました。特に領邦の各所に生活するユダヤ人は統一の妨げの代表的な存在だったことでしょう。
本書でマルクスから批判されているブルーノは、ユダヤ人の脱ユダヤ教の必要性を説いています。キリスト教者も同様に宗教を棄揚することで、国家を近代的な中性国家にさせようとしています。
マルクスは反対にアメリカの例を挙げ、各人が多様な宗教を信奉しながら、中性国家を創造する可能性を説明します。そして宗教に限らず、財産や、身分、教養、職業などの特殊性の存在と、普遍的存在としての国家を世界に並置します。
これは明瞭に国家と市民社会の別を意識するが故のことです。マルクスは市民社会を利己主義の領域、万人の万人に対する戦いの領域と考え、宗教を含めた様々な特殊性を詰め込みます。
ここまではいかにも優等生的ですが、以降が面白い。その市民社会の領域が商売や貨幣が重きをなしていることで、いかにもユダヤ的であるというのです。ついには、ユダヤ人の解放は、ユダヤ教からの人類の解放だと明言します。また、最後にもう一度、ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放であるとも。後の資本主義社会への批判の萌芽が、ユダヤ教と絡めて見られることは興味深い事実ではないでしょうか。 -
共産主義における経済体制を確立する以前のマルクスが、民族や文化について分析した一冊。特にヘーゲル法哲学批判序説は、マルクスが公に自身の名を用いて書いた初めての論文だ。
しかし私が注目したいのは前者のユダヤ人問題に寄せての方。ユダヤというだけで学者になれなかったり、社会的に大成できなかったりした天才は過去多く存在する。ドイツならばケルゼン、フロイト、ジンメルなどが最たる例だろうか。マルクスが批判・分析したかったのは、そうした当時のユダヤ人差別の風潮がどこから来たもので、これからどこへ向かうのか、そしてどうそれを解釈し修正すべきなのかという点に終始しているように見える。彼自身ユダヤ人であることから考えると、純粋に、学問的な意味を除いてでも読むべき匿名論文だと思う。 -
19世紀初頭から中期にかけてドイツではヘーゲルの『法の哲学』の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」が広く風説されたされていた。時代は変節する。
ベルリン大学でブルーノー・バウアー中心の「ドクトル・クラブ」に参加したマルクスは青年ヘーゲル派の人々と問題意識を共有し、学位を得て哲学教授への道を進もうとしたが、1840年にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が亡くなり、新国王四世が即位すると自由主義的な人々ね期待を裏切って「昔の骨化した臣僕国家」に逆戻りする。このような状況でマルクスは大学に職を得ることを断念し、1842年にライン州ケルンで発行された『ライン新聞』は、彼の参加により新聞は青年ヘーゲル学派の根拠地と化した。『ヘーゲル法哲学批判』の冒頭、ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされており、宗教の批判はあらゆる批判の前提だ。と、述べている。
『ユダヤ人問題によせて』はマルクスの、バウアー著『ユダヤ人問題』(ブラウンシュヴァイク、1843年)、同じく『現代ユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力』、ゲオルク・ヘルヴェーク編『スイスからの二一ボーゲン(チューリッヒおよびヴィンタートゥール、1883年、五六〜七一頁所収)』に、対する答えである。
キリスト教国は、ただ特権だけを認知している。ユダヤ人がキリスト教国家から解放されたいならは、彼らはキリスト教国家がその宗教的偏見を棄て去ることを要求していることになる。ドイツ社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人と言うものは有り得ないことになる。ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。 -
私たちは「宗教はアヘン」と聞くと、何やら宗教が人々を狂わせるかのような意味で受け取りがちです。ですがそういうことを言わんがためにマルクスは「宗教はアヘン」と述べたわけではないのでした。
「宗教はアヘン」という言葉は僧侶である私にとって非常に厳しいものがありました。なぜマルクスはそのように語ったのか、何を意図して語っていたのかを知れたことはとても大きな経験となりました。 -
初期マルクスの思想が収録されており、これがのちに執筆する『資本論』へと繋がる。本書は資本主義の分析ではなく、人間がいかなる手段で、資本家や国家から解放されるべきかを入念に考察した本である。その命題に対して、マルクスはプロレタリアートによる革命の必要性を説く。それが本書の結論である。
マルクスは生涯をかけて資本主義社会を分析し、その思想を書物にまとめた。本書は分析本というよりは、革命によって資本主義社会を打倒しようと強く訴えた本だという印象を受けた。 -
ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説
(和書)2008年10月29日 18:37
1974 岩波書店 カール・マルクス, 城塚 登
ヘーゲル法哲学批判序説・抜粋
「宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えでもって終る。したがって、人間が貶められ、隷属させられ、見捨てられ、蔑視された存在となっているような一切の諸関係 - 畜犬税の提案にさいして、或るフランス人が「あわれな犬よ、おまえたちを人間並みにしようというのだ!」と叫んだ言葉でもっともみごとに描きだされているような諸関係 - をくつがえせという無条件的命令をもって終るのである。」
上記抜粋は「ユダヤ人問題によせて」・「ヘーゲル法哲学批判序説」の両方に共通して言えることだと思う。
マルクスからルーゲへ・抜粋
「・・とはいえ、われわれが独断的に世界を予想しようとせずに、かえって古い世界の批判のなかからはじめて新しい世界を見いだそうとしていることは、まさにまたこの新しい方向づけをもつ動きの長所なのです。・・」
長池講義(http://web.nagaike-lecture.com/)で柄谷行人が超越論的仮象・事前の立場・統整的理念と言ってる姿勢なのかと思う。マルクスを読む前に柄谷行人からマルクスを読んでしまったので当然見方がこうなってしまうのです。
最近マルクスを読み出して何冊か読んでいるのですが、パズルのピースを当てはめるようにキーワードが出てくるので面白いです。
とても面白く読めました。資本論は一回読んだけどよく分からなかった。その後、経済学批判を読んだ時は面白く読めたので資本論も再読してみようかと思っています。 -
「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。」(p.71)から始まるヘーゲル法哲学批判序説は、執拗に、人間の頭を押さえつける宗教、社会の批判を敢行する。それは、人間が国家を、社会的結合を創り、維持しているにもかかわらず、当の国家、当の社会的結合のために個人は存在するかのようにそれらは錯覚させ、その最たるものが宗教だからだ。ゆえに、マルクスは次のように言う。「批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身の中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。」(p.73) 夢も慰めもない鎖(『資本論』においてそれは貨幣であり、資本)をふりほどくこと、言い換えると、人間の自由を確保すること(自己を原因とすること)、これこそがマルクスの倫理観である。そしてそれは、哲学、政治、経済とさまざまな領域に論及したマルクスが終生変えなかった姿勢である。人間が迷夢から醒めるまでマルクスは読まれ続けるであろうし、読まねばならない。
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『ぼくらの頭脳の鍛え方』
文庫&新書百冊(佐藤優選)152
国家・政治・社会 -
知識が足りなくて理解できなかったことのほうが多いけど、刺激的だ。
国に当てはまることは、個人や家族のあり方にも当てはまるのかな。 -
「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」「1843年の交換書簡」を収録。市民社会と政治社会の分離を鋭く指摘した「ユダヤ人問題によせて」、ヘーゲル批判に依拠しつつ、プロレタリアートの史的意義を明確にした「ヘーゲル法哲学批判序説」。いずれも、マルクスの優れた実際的・哲学的理論を示すものである。
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非常に感銘を受けた本であった。
政治的解放とは何か、宗教的解放とは何か、それに対するマルクスの考えである。
「本来のキリスト教国家とは、国家が無神論で、民主的な国家がキリスト教国家である。」という言辞には、恐れいった。宗教に対して政治的な態度を取る国家が、キリスト教国家らしいのである。まあ、手段として国家を用いなければならないわけではないから、ということらしい。
また「1843年の交換書簡」でも、「専制とは非人間化された人間の思想」であるとマルクスは語っている。確かに人間の止揚や宗教の止揚とを唱えたマルクスらしいとも。
「建前上は参政権に対する政治的要件が撤廃されたとしても、私的には残る。そして政治的国家はそれを根拠として動く。」というのは、まことに今もなお適用できる。勿論財産的にすべての人間が平等でなければならない、とは今すぐに云わないが、何が滋賀の手段によって解決せられるべきだとは思うが・・・。
これがプロレタリア革命に依る共産主義社会の実現に向かう理論となるのであろう。
マルクスの文章は(約の問題もあるのかも知れないが)、大変読みづらいので、字面を追ってめくっていけば、跡から理解できることもある。
この本は解説で非常に分かりやすい内容の説明を行っている。これによって理解が深まる(ような気がする)。 -
自問自答形式の文体は、マルクスの好きなスタイルであろうか。
訳文でも、「マルクス独特の言い回し」に触れることのできる一冊。 -
宗教は阿片っていうのは、この論文。
ユダヤ人問題によせての方がクール。
ヘーゲル法~では、プロレタリアートによる革命というものを前面に押し出していて、これをいかに成し遂げていくかということが、マルクスの課題になったのかなという印象を受けました。 -
バウアーに対する批判という位置づけのユダヤ人問題によせて、ではあるけど、私にとっては徹底した無神論者の立場からキリスト教および、ユダヤ教を批判したバウアーの存在というのは、非常に興味深く感じた。
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¥105
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著者プロフィール
カール・マルクスの作品
