経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

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  • / ISBN・EAN: 9784003412503

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  • カール・マルクス(1818-1883)が、既存の古典派経済学に対する体系的な批判を通して近代ブルジョア社会=資本主義経済システムの解明を試みた最初の著作、1859年(ダーウィン『種の起源』が出版されたのと同年)。マルクスは『経済学批判』を「一五年間にわたる研究の成果であり、したがって僕の生涯の最良の時代の成果」(「マルクスからラサールへ 一八五八年一一月一二日」、p279)であると述べている。

    『経済学批判』第一分冊及びその続刊において計画されていた構想(「資本」「土地所有」「賃労働」「国家」「外国貿易」「世界市場」からなる全六部構成)は未完に終わるが、この著作がのちの『資本論』への端緒をなす。『経済学批判』の内容は『資本論』第一巻「資本の生産過程」第一篇「商品と貨幣」に要約される。

    『資本論』第一巻では『経済学批判』にある経済理論の歴史に関する記述は省略されている。エンゲルスはマルクスが残した経済学説史に関する草稿を『資本論』第四巻にまとまる予定であったが果たされず、エンゲルスの死後にカウツキーの編集によって『剰余価値学説史』(1905-10年)として刊行された。

    なお、マルクスによる『経済学批判』『経済学批判序説』『経済学批判要綱』はそれぞれ別の著作物。1857-58年に執筆された未完草稿群が『経済学批判要綱』(Grundrisse)。そのうちの序説(Einleitung)部分が『経済学批判序説』(1857年)であり、『経済学批判』に附録として収められている。そしてこの『経済学批判』(1859年)が『資本論』(第一巻は1867年)へと繋がっていく。

    上述のように、マルクスは『経済学批判』で商品や貨幣を考察するにあたって既存の膨大な経済学説史を参照しており、それらを詳細に批判検討する作業を通して独自の理論を構築していこうとしている。この点が経済学の基礎知識が不十分な初心者にとってはマルクスを読むうえでの障壁となるが、しかしそもそもこれは学問の正統的な方法なのであって、読者は以下のマルクスの言葉を噛みしめるしかない。

    「学問には平坦な大道はない、そして、学問のけわしい小径をよじのぼるさいの疲れをいとわないひとだけが、その輝やかしい頂上に到達するみこみをもっているのだ」(『資本論』フランス語版への序言、p356)

    □ 構成

     序言(Vorwort)
     第一部 資本について
      第一篇 資本一般
       第一章 商品
       第二章 貨幣または単純流通
     附録一
      エンゲルスによる『経済学批判』への書評
      マルクスによる『経済学批判』についての手紙
      経済学批判序説(1857年)
     附録二
      マルクスによる「準備ノート」
      カウツキーによる各版への序文

    □ 「唯物史観の公式」

    マルクスが社会を捉える視座の特徴は、その歴史性と革命性にあると云える。

    ・歴史的契機

    マルクスは、ヘーゲル哲学を批判的に検討することを通して、自身の研究の方法論を打ち立てていく。ヘーゲル哲学の特徴は、事象をその歴史的な展開過程の内において捉えようとする点にある。「ヘーゲルの考え方をほかのすべての哲学者のそれから判然と区別するものは、その根底にある巨大な歴史的感覚であった。・・・。かれは、歴史のなかに発展を、内面的な連関を証明しようとした最初のひとであった、・・・」(エンゲルス、p263)。「ここに歴史というものが初めて真に哲学の中心課題として登場してきたということができよう」(岩崎武雄『西洋哲学史』p235)。

    ヘーゲル哲学の研究を通して、マルクスは、「社会を歴史性のうちに捉える」という視座を獲得する。ただし、ヘーゲル流の観念論的に転倒した歴史観(歴史を絶対精神の自己実現の過程として形而上学的に捉え、個々の事象はその過程の内に位置付けられる限りにおいてのみ意味付けられる)を逆転させて、唯物論的な歴史観(社会の歴史的な展開は、その物資的条件=経済的生産関係によって規定される)を打ち立てる。則ち、マルクスの唯物史観においては、社会は歴史性のうちに捉えられ、かつその歴史は物質的条件によって展開するものとしてみなされる。

    「わたくしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるべきものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって「ブルジョア社会」という名のもとに総括しているが、そういう関係にねざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学にもとめなければならない、ということであった」(「序言」p12)。

    「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、その上に、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(「序言」p13)。

    エンゲルスによれば、この唯物史観の発見によって社会科学は学として成立することとなった。「・・・、いいかえれば歴史にあらわれるすべての社会的および国家的諸関係、すべての宗教制度および法律制度、すべての理論的見解は、それに応ずるそれぞれの時代の物質的な生活諸条件が理解され、かつ前者がこれらの物質的諸条件からみちびきだされる場合にだけ、理解されうる、という命題は、・・・、すべての歴史科学(自然科学でないすべての科学は歴史科学である)にとっても、ひとつの革命的発見であった」(エンゲルス、p256ー257)。

    ブルジョア社会は、現実には或る特定の「歴史」的な過程において一時的に現れているだけの「歴史」的存在に過ぎないにもかかわらず、自らを永遠不変の「自然」物であるかの如く規定しようとする。則ち、自らの「歴史」性を隠蔽しその「自然」性を僭称する。これはイデオロギーの機能そのものであると云える。そしてそれは政治的な機能である。このようなブルジョア・イデオロギーは、ブルジョア社会という当該の社会関係によって利益を得ている特定集団たるブルジョア階級が自らの私益を維持するための詭弁――特定階級の私益に従属する恣意的な動機を隠蔽して、さもそれが歴史を超越した普遍的なものであるかのごとく僭称する詭弁――でしかない。唯物史観は、こうしたイデオロギー批判にとっても有効な視座を与える。それは、「自然」性に隠蔽された「歴史」性を見出すこと、普遍性によって偽装された恣意性を暴露すること。

    ・革命的契機

    ヘーゲル哲学から受け継いだ歴史性が、マルクスの思想のもう一つの特徴である革命性を導き出す。社会が歴史的なものであり、歴史は生成過程の内にある以上、社会は常に変革の可能性に開かれている。ただし、その変革の要因は、政治や思想などの観念的なものではなく、生産力と生産関係との間に生じる矛盾という物質的経済的なものである。

    「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる、法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである」(「序言」p13ー14)。

    次の記述には、終末論(歴史にはその終末=目的があるとする目的論的歴史観の一種、eschatology)的な歴史観が読み取れる。則ち、人間社会の歴史は、階級闘争の歴史であり、"最終戦争"としてのブルジョア階級とプロレタリア階級との闘争を経て、共産主義社会の到来を以てその終末とする。これは、キリスト教(人類の歴史は、キリスト復活と最後の審判による世界の救済を以てその終末とする)ならびにヘーゲル歴史哲学(人間理性の歴史は、絶対精神の自己実現を以てその終末とする)に見出される進歩主義的な歴史観と同型であると云える。

    「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである」(「序言」p14ー15)。

    なお、マルクスは、芸術も経済的な下部構造に規定される上部構造であると論じている。ただし、芸術性の高さと物質的発展の度合とは必ずしも比例関係にはないとも述べている。

    「ギリシャ人の空想の、したがってギリシャ《芸術》の根底をなしていた、自然にたいする考え方や社会的関係にたいする考え方は、Selfaktors《自動紡績機》や鉄道や機関車や電信とともにありうべきものであろうか。ヴァルカン〔鍛冶の神〕はロバーツ商会にたいして、ジュピターは避雷針にたいして、ヘルメス〔商業の神〕はクレディ・モビリエ〔動産銀行〕にたいして、どこに生き残るであろうか。すべての神話は、想像のなかで、また想像によって自然力を克服したり、支配したり形成したりする、だからそれらの神話は、自然力にたいする現実の支配とともに消えうせる。ファーマ〔風聞の女神〕は、印刷所街とならんでどうなるであろうか。ギリシャ芸術は、ギリシャ神話を、いいかえれば自然と社会的形態そのものが、すでに、民族の空想によって無意識のうちに芸術的な仕方で加工されていることを前提している。・・・。・・・、アキレスは火薬と弾丸とともにありうるであろうか? あるいはまた、一般にイリアードは、印刷道具や印刷機械とともにありうるであろうか。歌謡や伝説やミューズの神は、印刷機の締め木の出現とともに必然的になくなり、したがって叙事詩の必須な条件は消滅するのではなかろうか」(「経済学批判序説」p327ー328)。

    □ 価値形態論と貨幣の形成

    資本主義経済に特有の存在物としての「商品」の分析を通して、その価値形態と交換過程を記述し、以てあらゆる価値の尺度たる特別な商品としての「貨幣」が要請されることを弁証する。

    ① 資本主義経済のもとでは、富は「巨大な商品の集積」として現れる。そのため、まず「商品」の分析が、ブルジョア経済学批判の最初の課題となる。「一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる」(p21)。「経済学は商品をもって、つまり生産物が、・・・、たがいに交換される契機をもって、はじまる」(エンゲルス、p226)

    ② 個々の商品は「使用価値(=人間の欲望の対象であるということ)」と「交換価値(=他の商品と交換可能であるということ)」との二重性の内に把握されねばならない。「使用価値であるということは、商品にとっては不可欠な前提だと思われるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定であるように思われる。・・・。直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台である」(p22)。「交換価値は、さしあたり、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。・・・。だから、諸商品は、その自然的な実在の仕方とはまったく無関係に、またそれらが使用価値として満足させる欲望の特殊な性質にもかかわりなく、それぞれ一定の量においてはあいひとしく、交換によってたがいに置きかえられ、等価物として通用し、こうしてその多様な外観にもかかわらず、同じひとつのものを表示しているのである」(p23)。

    ③ 商品の交換価値は、それを生産するために投入される労働の量、則ち抽象的労働時間によって比較計量される。「商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる」(p25)。「交換価値としては、あらゆる商品は一定量の凝固した労働時間にほかならない」(p26)。「交換価値を生みだす労働が、一般的等価物としての諸商品の同質性のうちに実現されるのにたいして、合目的的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的かつ同質な労働であるが、使用価値を生みだす労働は、形態と素材のことなるにしたがって無限にことなった労働様式にわかれる具体的な特定の労働である」(p34)。

    ④ あらゆる商品を、そこに対象化されている抽象的労働時間=交換価値として量的に表示し、それによって諸商品を相互に計量可能・比較可能たらしめるもの、諸商品の交換価値の尺度として要請されるものが「貨幣」である。貨幣による諸商品の交換価値の量的表示が「価格」である。「・・・、すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは特定の排他的な一商品としての諸商品の交換価値――それが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものにおいて形成する、諸商品の交換価値の結晶である。だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でおたがいにとっての使用価値となるのであるが、他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない」(p52)。※ここでの「規定性」概念は、「下向法・上向法」と関連づけることで理解できるだろう。

    ⑤ 交換価値の尺度として要請されたに過ぎなかった貨幣は、あらゆる商品と交換可能な「諸商品の神」へと転倒する。「このようにすべての商品はただ表象された貨幣にほかならないのであるから、貨幣が唯一の現実的な商品である。・・・。使用価値の面からいえば、どの商品も、特定の欲望にたいする関連を通じて、ただ素材的な富の一要因を、つまり富のただ個別化された面だけを表現するにすぎない。しかし貨幣は、どんな欲望の対象にも直接転化することができ、その限りではどんな欲望でもみたすものである。貨幣は、その無垢の金属性のなかに、商品世界でくりひろげられているいっさいの素材的な富を封じこんでいる。こうして、・・・、金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的な富の物質的代表物なのである。それは、・・・《すべてのものの要約》(ボアギュベール)であり、社会的富の総括である。同時にまたそれは、形態からいえば一般的労働の直接の化身であり、内容からいえばすべての現実的労働の精髄である。それは個体としての一般的富である。・・・。それ[貨幣]は奴隷から主人になる。それはただの下働きから諸商品の神となるのである」(p160ー161)。

    ⑥ 貨幣の転倒が流通の転倒を惹き起こす。通常は「買うために売る」という流通「W→G→W'(自分が所有する商品を売り、貨幣を得て、自分が欲しい別の商品を買う)」が、「売るために買う」という流通「G→W→G'(貨幣を投じて、労働力という特殊な商品を買い、それが生み出す剰余価値を搾取することで、より多くの貨幣を得る)」へと転倒する。このとき貨幣は「資本」へと転化する。「資本」は自己増殖する価値であり、自己増殖を自己目的化した無限運動のうちに現われることになる。このダイナミズムが資本主義の本質となる。この事態を論じるのに必要な「労働力」「剰余価値」「労賃」「搾取」等についての考察は、『資本論』「第一部 第二篇」以降に論述されることになるだろう。

    □ 物象化論

    ブルジョア社会では、人と人との関係が物と物との関係として現われているということ。則ち、個人は、生産者・消費者として他者と社会関係を結んでいるようにみえるが、実は個人の労働によって交換価値 (=他の商品との交換可能性)を付与された商品が他者の商品と交換されることによって初めて社会的存在たり得ている、ということ。

    「最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人々の労働が、同質的な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。だから交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある」(p31-32)

    「ひとつの社会的生産関係が、諸個人の外部に存在する一対象〔貨幣〕として表示され、またかれらがその社会生活の生産過程においてとりむすぶ一定の諸関連が、ひとつの物の特殊な属性として表示されるということ、このような顚倒と、想像的ではなくて、散文的でリアルな神秘化とが、交換価値をうみだす労働のすべての社会的形態を性格づけている」(p53)。

    「経済学は商品をもって、つまり生産物が、・・・、たがいに交換される契機をもって、はじまる。交換にはいりこむ生産物は商品である。しかし生産物が商品であるのは、ただ、生産物という物に、二人の人物またはふたつの共同体のあいだの関係が、・・・、むすびつくことによってである。・・・。・・・、経済学がとりあつかうのは、物ではなくて、人と人のあいだの関係であり、結局は階級と階級とのあいだの関係であるということ、しかしこの関係は、常に物にむすびつけられていて、物としてあらわれるということ、・・・」(エンゲルス、p226)

    □ 下向法・上向法

    マルクスが『経済学批判』『資本論』において採る学問方法論。ヘーゲル弁証法を批判的に継承したもの。『経済学批判序説』「三 経済学の方法」にて詳述される。下向法とは、「直接的なもの」「無規定的なもの」から出発して「抽象的なもの(概念)」を獲得していく分析的方法のこと。上向法とは、「抽象的なもの(概念)」を媒介として「無規定的なもの」から「具体的なもの」を構成していく総合的方法のこと。まず下向法によって、予め直接的なものとして与えられている混沌とした無秩序の個物群から概念を抽象化する。上向法は、下向法によって得られた抽象概念を無規定的な個物群に再帰的に適用することで、個物群を或る具体的な内実=規定性を具えたものとして把握する。こうして、無規定的でばらばらであった個物群が、豊かな内実を伴った具体物の整序された体系として再構成されることで、理論的に把握されることになる。直接的なものは、概念に媒介されることによって、理解可能な具体物となる。

    「第一の道[下向法]では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道[上向法]では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産にみちびかれる」(「経済学批判序説」p313)。

    経済学における下向法・上向法の具体的な適用例として、「人口」「労働」「商品」の理論的把握を挙げている。

    「そこで、もしわたくしが人口からはじめるすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそうたちいって規定することによって、わたくしは分析的にだんだんとより単純な概念にたっするであろう、つまりわたくしは、表象された具体的なものからますます稀薄な・・・《一般的なもの》にすすんでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうであろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたくしは、ふたたび人口に到達するであろう、しかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連とをもつ豊富な総体としての人口である」(「経済学批判序説」p312)。

    「富をうむ活動のどんな規定性をもすてさったのはアダム・スミスの巨大な進歩であった。――製造業労働でも商業労働でも農業労働でもないが、しかしそのどれでもあるような労働そのもの。富を創造する活動の抽象的一般性[労働]とともに、こんどはまた、富として規定される対象の一般性[商品?]、生産物一般、もしくは、やはり労働一般ではあるがしかし過去の対象化された労働としての労働一般〔というカテゴリーが生じてきた〕」(「経済学批判序説」p317ー318)。

    以下の記述は、具体物に与えられている規定性「これは○○である」とは他の規定の可能性の否定のことである、とするヘーゲルやスピノザの発想を想起させる。

    「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、・・・」(「経済学批判序説」p312ー313)。



    「こんなにかねのない状態で、かつて「貨幣」について書かれたことがあるとは、僕にはとても信じられない」(「マルクスからエンゲルスへ 《一八五九年》一月二一日」、p282)。

  • マルクスによる古典派経済学批判の本であり、
    古典派理論に則った形で批判されているため論点が分かりやすい

  • マルクスがとんでもなく碩学であること、それはよくわかる本である。内容については、予め知っていたこともあるのであまり他言を要しないが、商品には交換価値と使用価値の二種類があることは、古代ギリシアのアリストテレスから存在していたこと、また貨幣が金銀であり得ていることも同様に古代ギリシアから検討されていたこと、それがよく分かる。それ以外の人でも、彼より以前の経済学者や財政学者が貨幣の顕れについて検討しており、マルクスの学説が彼のオリジナルではないこと、また金科玉条ではないことは、当たり前であると考えられる。

    彼は金の裏付けを持たない、強制通用力を約された国家紙幣(政府紙幣)についても検討しているが、取るに足らないとして排斥している。しかし経済人類学者のポラニーは、かなり昔から政府紙幣のような存在を研究し見出しているので、「資本主義は人為的なもの」と見なすかどうかが、マルクスとポラニーの分かれ目であるといえよう。

  • ¥105

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著者プロフィール

カール・マルクス(Karl Marx):1818-83年。ドイツの経済学者・哲学者・革命家。科学的社会主義の創始者。ヘーゲル左派として出発し、エンゲルスとともにドイツ古典哲学を批判的に摂取して弁証法的唯物論、史的唯物論の理論に到達。これを基礎に、イギリス古典経済学およびフランス社会主義の科学的、革命的伝統を継承して科学的社会主義を完成した。また、共産主義者同盟に参加、のち第一インターナショナルを創立した。著書に『資本論』『哲学の貧困』『共産党宣言』など。


「2024年 『資本論 第一巻 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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