本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (329ページ) / ISBN・EAN: 9784003414910
感想・レビュー・書評
-
本書は、マルクス経済学者の著書らしく経済理論を超歴史的で普遍的なものとは捉えず、当然に特殊歴史的なものとする観点から、経済学史を歴史的発展に伴う必然と位置付ける点で特色がある。経済理論といえども、現象の一面を実践的関心に従って切り取って説明したにすぎないのである。つまり、経済学の営みが意味するところを、資本主義の内在的矛盾を認識し、その解消を目指す点に求めたといえる。それゆえ、いわゆる近代経済学をブルジョワ経済学と退けてしまうことをせず、マルクス経済学と同列に位置付けることができた。近代経済学とマルクス経済学の違いは、資本主義の抱える矛盾をその内部で解消できると考えるか、それとも弁証法的にしか解消し得ないと考えるか、と言う点にこそあり、そこにしか違いは存在しない。しかし3巻で論じられるはずであったこの論点は、残念ながら著者の死によって手付かずのまま残されてしまった。
本書における著者の分類では、近代経済学はメンガーに代表される「オーストリア学派」、ワルラス、パレートに代表される「ローザンヌ学派」、マーシャルに代表される「ケンブリッジ学派」に大別され、これらとは別にリカードやスミスは古典学派と位置付けられた。
まず古典学派は商品社会の到来前に観念的な市民社会を想定した上で展開された理論と整理する。すなわち、古典学派の理論が基礎とする社会はもはや封建制ではないが、完全な商品社会でもないのである。著者は特に論証していないのでスミスを引いて確認してみる。
それぞれの商品にはすべて、二つの違った価格があり、相互に無関係なように見えるにもかかわらず、必然的な関連を持っていることがわかるだろう。すなわち自然価格と市場価格である。これらはともに、一定の事情によって規制される。人々が他の種類のものでなくある特定の種類の勤労をするようになったときは、かれらはその仕事によって、それに従事している間自分たちを支えるだけのものを得なければならない。(アダム・スミス『法学講義』岩波文庫284-285ページ)
品物の市場価格は、次の三つのことに依存する。
第一は、その商品に対する需要あるいは必要。……
第二に、その商品が、それの必要に比して豊富か稀少か。……
第三に、需要する人々の貧富。(同288ページ)
もしある商品の市場価格がひじょうに大きく、その労働がひじょうに高い報償を得るとすると、市場には労働が密集し、さらに大きな量が生産され、それは下層の人々にも売られることができる。……なぜなら、それらは非常に安くなるだろうし、それらの自然価格にまで下がるだろうからである。(同290ページ)
つまり、スミスにおいては、商品の価値と自然価格との乖離は商品そのものの性質ではなく、市場の不完全性に求められる。古典派の時代には、商品の物象性は現実となっていなかったのである。
時代が降り、オーストリア学派の直面した社会においては商品の物象化は明白となり、商品に直面する消費者を経済主体として理論を構成する必要があった。そこで導入されたのが効用の概念である。オーストリア学派では、効用を客観的な実在と考える一方、「生産」や「供給」といった客観的な要素を全て与件としてしまった。そのため、効用は個人の消費行動だけでなく、経済活動全体を決定する唯一の変数となってしまった。この背景には社会的分業の進展により、商品の生産を個人の観点から論することが困難となったと言う社会事業がある。スミスの時代には生産に要する労働によって価格と消費が決定していたものが、オーストリア学派の時代には労働によって商品の価値を測ることがそもそも不可能になってしまったという時代的制約があり、経済理論の構成もその制約を大きく受けると言うのが著者の主張である。なるほど一般的にはそのように言えるのかもしれないが、門外漢の私にはその妥当性はわからない。本書も論証はその目的とするところではないので、この骨の折れる作業は後続の研究を待つよりないのであろう(以下の他の学派についても同様である)。
ローザンヌ学派はオーストリア学派を受け継ぎつつも、無差別曲線の導入により商品の交換比率という形で効用を間接的に客観化、数値化することに成功した。これは商品社会の進展により市場のある一時期を切り取って需要供給の均衡状態としてモデル化し、実際の市場の状況と比較することが可能になったためである。単位時間ごとの均衡状態の連続として表すことで、景気の循環法則や経済成長についても表現することが可能となった。しかしローザンヌ学派のモデルは需要と供給だけで自己完結しており、それ以外の要素を所与とせざるを得ないこと、均衡を前提とする限り均衡へ至る過程を表現することができないこと、を著者は強調する。なぜなら、ローザンヌ学派の経済理論は、自動調節機能がある程度働いていた自由経済社会に妥当する理論だったからである。その限りで、現代においても自動調節機能が働いているとみなせる期間を抜き出して分析する分には、有効な理論と言えるであろう。
ケンブリッジ学派は資本の蓄積が進み、労働者が増加したことで労使対立が現実化した段階である。この段階では国家も重要な経済主体となる。そこでは国民所得と厚生が問題となり、やがてケインズの登場によりマクロ経済学が確立していくことになる。特にケインズは当時直面していた恐慌と雇用の問題と取り組むことになった。しかし、当時においてはケインズ経済学はいまだ定式化が不完全であったといえ、本書の記述は散漫で全く整理ができていない。著者自身も十分に咀嚼できていなかったのではないか。
そして、資本主義の矛盾をその体制内で解決することを目指すここまでの学派に、構造的に矛盾の解消が不可能であるとするマルクスが対置される。ところが、マルクス経済学については通りいっぺんの説明に終始し、課題は全て3巻へ先送りされてしまう。結局、著者は問題に正面から取り組むことなく、その生涯を閉じることとなった。大変残念なことである。本書においてはその道筋が、「マルクスは、生産の社会的性質と占有の私的性質との矛盾を、確認することによって、個別経済と社会経済との矛盾をはっきりと暴露していることも、ここに改めて指摘しておくことが必要でしょう」(170-171ページ)と示唆され、後進の我々にこの課題の解決は託された。
本書の締めくくりとして、執筆当時活躍していた経済学者の理論についても紹介されるが、一括して「計量経済学」とまとめられ、しかも「『学派』ではなく、経済学における理論的数量的研究と経験的数量的研究との総合を目指しているところの、経済学研究上の一分野」(315ページ)であるとされ、経済学史上に位置付けることが放棄されてしまった。この点も非常に残念なところである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
計量経済学の章はほとんど意味がない。
杉本栄一の作品
本棚登録 :
感想 :
