社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫 白209-2)

  • 岩波書店 (1998年8月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (358ページ) / ISBN・EAN: 9784003420928

みんなの感想まとめ

社会科学における客観性と価値判断の関係を探求する本書は、読者に対して自らの価値観を自覚し、事実を客観的に認識することの重要性を教えてくれます。著者は、社会現象の本質を抽象的な概念「理念型」を通じて論理...

感想・レビュー・書評

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  • 補訳者の働きが見事。一番重要なキーワード「理念型」についても、提示された「理想気体」とのアナロジーが本当に見事で、かつ、概念の理解を易しくしてくれる。

    それにしても幾度となくうならされる。大変な本。

    ===(以下、論旨)===

    社会政策と科学の結びつけ(関係)について、問題の所在を指摘する。まずは「存在(sein)」と「当為(sollen)」の分離の必要性のこと。
    経験科学が論じ得るのはせいぜい前者。後者、つまり価値の妥当性を評価するのは科学ではなく信仰であり、そこには「価値秩序の神々の争い」がある。
    個別問題において"さえ"、特定の目的の自明性は薄れるのだから、実践的な個別問題の解決のための一義的規範・原理など、存在しえない!
    だから、自分が念頭に置く「究極最高の価値基準」がいかなるものか(どこで悟性に、どこに感情に訴えているのか)を、常に鋭く明示する必要がある。
    但し、「問題」性を見出す瞬間に、それへの関心という形で、主観的見方が元になってしまう、という危険がある。では、社会科学的認識(研究領域)とは、どう画定されるされるのか?(我々の追求する心理の客観的「妥当」とは?)

    われわれの科学は、"ひとつの"特定の観点のもと、歴史解釈を得ようと努め、"ひとつの"部分像ないし予備労作を提供するもの。
    だから、一元論的「唯物史観」――例えば経済学において、「経済的動因から演繹できないものは"すべて"、まさに"それゆえ"、科学上"意義のない"『偶然』として取り扱われるか、判別しがたいほどに拡張されて、なにほどか外的手段に結びついている人間の利害関心が、ことごとく当の概念のなかに引き入れられる」ようなもの――は、断固拒否すべきなのだ。
    文化生活ないし社会現象の分析にあって、特定の「一面的」観点を"ぬきにした"、端的に「客観的な」科学的分析といったものは、"およそありえない"!

    個別問題の認識において、「法則」なんかでなく、「独自の布置連関」が大切。だが"比較"は有意義で、そのための"手段"としてのみ、法則・要因の確定は必要だ
    (但し、最も普遍的な法則は無価値で、特殊化された固有観点から!
    自然科学等では普遍法則の発見こそ志向されるが、社会科学ではそうもいかない)。
    そこで、"理念型"――実在の特定要素を、"思考の上で"高めてくれる、一つのユートピア的性格をもつし思想像――を提案したい。これは、理想や規範とは異なり、純然たる理念上の極限概念であり、その構成は目的でなく手段。
    もっとも、社会はつねにゆれ動くものであり、各概念は暫定性・不確実性をもつため、つねにこれに追いつこうと「総合原理の探求」を志向すると共に、抽象と具体の行き来により、「概念の意義の限界」を指摘し批判することこそ、社会科学の役割である。

  • 昔読んだ本

  • 対象が「何であるか」と「何であるべきか」を区別するように。「何であるべきか」は価値判断。自分の価値観を自覚し、それに捉われずに事実を認識するように。価値から自由であれ。人は主観的であることを自覚し、なるべく客観的であるように心がけよ。特定の価値に基づいて物事を見ていないか、認識が一面的でないか、常に自問せよ▼ある対象に反対だからと言って非難の感情を抱いたり、賛成だからといって称賛の感情を抱くな。人々が非難したり称賛している事実を観察し、その行動の背景にある規則や社会の仕組みを明らかにするのが社会科学。

    社会現象の本質的な特徴を示す抽象的な概念。混沌とした複雑で多様な社会現象の中から本質的特徴を抽出して論理的な説明を加えたもの。これを使って現実を探索する。これを現実に当てはめると、ズレが出てくる。どうズレているかを調べることで、現実はどうなっているのか知ることができる。現実とのズレを探り出し、より鋭く現実を認識できる▼あらかじめ設定した型に現実を押し込めることで理解する類型とは異なる。

    ウェーバー『客観性』1904

    *********************
    〇我々を拘束する規範や理想をつきとめ、そこから実践のための処方箋を導き出すことは、経験科学の課題ではない。p.29
    〇具体的な価値判断に表れる価値規準を当人に意識させることは、価値判断の科学的な取り扱いが、思弁の領域に踏み込まずになしうる最後のこと。p.35
    〇経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできない。p.35

  • 1段から 客観性、妥当性について
    40段あたりから 理念型について
    60段あたりから 結論

    科学における客観性は、おのれの価値に基づいた主観的な要素を排除することが出来ない。にもかかわらず、その根拠とする価値に対してなんらかの信仰をもっている。価値と経験(事実)の区別を前提とした上で、社会科学とは、時代によって変わっていくが、その時代のおよその概念「理念型」でもって、たえず更新していく作業といえるのではないか。

    「理念型」は完全なものではないし、価値から自由になることもできない。その時代の価値の中で、「理念型」を「使用」(印象的な表現だったため)することでしか妥当性を保証することはできない。

    また、実在と理論(実在には到達しないもの)の反転の危険性を指摘している。マルクスを例に、現実が理論に従属することはありえないとする。理論は目的ではなく、「手段」であると。

  • 力量不足によりぼんやりと、非常にぼんやりとしか理解できなかった。
    解説がわかりやすい。(解説がなかったら理解は不可能だったであろう)

  • 読み直したさ:★☆☆
    理念型は意義ある連関を分析するための手段である。
    〈感想〉
    社会科学について勉強し慣れていないため,頭の切り替えができるまで読むのが苦しかった。仲正・ウェーバーを読むをサラッと読んでから読んだが,あらためて仲正本を読み直したい。
    解説は読んだ方がいいのだろうか。

  • [ 内容 ]
    今世紀初頭、社会科学に巨大な業績をのこしたヴェーバーが、社会科学の方法論について論じた記念碑的論文(1904)。
    認識理想としての「価値自由」と方法概念としての「理念型」を定式化し、後世に大きな影響を与えた。
    本文の理解を助けるための付録3篇、詳細な解説・注、索引を付す。
    旧版『社会科学方法論』の補訳新版。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 非常に難しい本。何度か読んでいるがまだよく理解できていない。カーの『歴史とは何か』、内田義彦の『読書と社会科学』などに通じている内容だと思う。

  • 事実認識と当為認識は如何にして分離し得るか。-ヴェーバーはそれを自分の認識が徹頭徹尾、主観的な認識であることを自覚すること、そしてそれを明示することだ、と言う。そうすることで主観的な認識は客観性によって担保される、言い換えると、認識を事実認識へと高めることができる、と考えた。つまり、それは自己を他者化すること、他者に対して自己を啓くことである。

  • 世界に起こる出来事がいかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事がいかに完全に研究されつくしても、そこからその出来事の意味を読み取ることはできず、かえって意味そのものを創造することができなければならない。つまり世界観とは決して経験的知識の進歩の産物であり、したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の産物ではないものである。したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想はどの時代にも、もっぱら他の理想との闘争を通して実現されるほかはなくその際、他の理想が他人にとって神聖なのはわれわれの理想がわれわれにとって神聖なおとまったく同等である。

  • マックスヴェーバーの社会科学入門的な著作であり、名作として知られる。

    本書は社会科学における意義とその目的・方法について言及している。
    「社会科学本来の任務は、具体的な歴史関連の文化意識の認識に仕えることこそが究極の目的で、絶えず新しい観点や概念構成を追い求めるようなことではない」という、社会を観察する立場を貫いて論じている。

    本書の中で、社会科学の本質的な任務について書かれた一文がある。
    “社会科学の本質的な任務とは、理念を解明して精神的に理解させる事である”

    では、なぜ理念を解明することが重要なのか?
    マックスヴェーバーは、20世紀初頭(1905年に書かれている)の世界を次のように認識している
    「認識の木の実を喰った一文化期の宿命として、他の理念が他人にとって神聖なのは、われわれの理想がわれわれにとって神聖なのとまったく同等である。それゆえわれわれを揺り動かす最高の理想は、どの時代にも他の理想との闘争を通して実現されるほかはない」

    マックスヴェーバーにとって理念とは究極の公理に近づく方法であり、神々の黄昏を理解するための道ともいえる。それゆえ理念を解明することの意義を神秘的な表現を使って描いている。
    「あの最高の価値理念から分かれ出てくる光は、時を貫いて流転していく膨大な出来事の混沌のなかから、たえず交替していく一有限部分をとらえてそのときどきに降り注ぐのである」

    本書が非常に難解に思われるのは、一般の人々に向けて書かれた論文ではないからかもしれない。本書に書かれた内容は「雑誌アルヒーフ」の傾向(立場)を示したもので、当時の思想家や政治運動家に向けて書かれたという特性はあると思う。
    それゆえ、核心については理解されている前提で書かれているのではないか。本書が婉曲的な表現で書かれていると思われがちな問題がここにあるように感じた。
    例えば、本書冒頭にでてくる文章だが、
    「われわれは意欲された目的の達成が、予見出来る出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを犠牲にするかという問いに答えることができる」

    マックスヴェーバーたちの意欲された目的というのは、本書では明示されていない。思考実験の結果、出来事の連鎖によって得られた結論に関しても然り。
    マックスウェバーが社会科学によって達成されるべき “何か”について明確わかってくると、本書に対する印象も変わるのだろうなとは思う。

  • ヴェーバーはやっぱりかっこいい
    価値理念同士を科学的に否定し合うことはできない、ということをこの本で学んだ
    解説がついているのもありがたいが、段落によっていい解説と納得できない解説がある、依って立つ価値理念の違いである

    科学は現実を写真のように一面的に写し取ることしかできない——すなわち理性は現実界を目にすることができない——という意訳はゆるされるだろうか。そういうところでヴェーバーはニヒリストのような気がしていたが、職業としての学問なんかを読んでいると、マルクスのように日々の市民生活の中で真実に辿り着こうとしている、そのうえでヴェーバーはザッヘということに着目しているところが真面目な彼らしいと思う

  • 三浦展氏の座右の書。

  • 社会科学における認識の客観性はいかにして信憑性を得て、いかにして妥当性を得るのか。社会科学における客観性は、当該のものの「重要度」を誰もが理解できることを指し、その理念型の構築こそが肝要である。理念型を構築するためには、概念を用いる。概念とは用語や意味ではなく物事、現象の定義である。よって、客観性とは、概念の布置連関の総体を指す。

    すっごい、難しい本を簡単に要約するとこんな感じ。だけど、ウェーバーが措定する客観性は、概念の同定をあまりにも主観に依存しすぎている。社会政策を推進する駆動力とすると日和見的になってしまうのではないか。

  • 買ったのは一年と半年前、授業の先生が「難しいが読んでみなさい」という趣旨の発言をしたために勢いで買って読んでみたが、その時は全くわけがわからない状態で今日まで我が本棚で長い眠りについておられた、いわば眠れる獅子である。

    だが今秋、構成員3名からなるヴェーバー小研究会なるものを主宰したために封印を解き手にとった。やはり一回の通読では理解できない、僕の頭では。だがヴェーバー知識は昔よりは蓄えたので完全に読めないわけではなかった。情熱と想像力をもって、何度も臨むのであります。

  • 少しづつ近代について勉強していこうということで読む
    なんでこういう学者先生の訳本というのはこうも読みにくいのだろう
    まあ正確を期すためにはどうしてもこうしなくてはいけないというのも理解できなくはないのだけれども

    読んで思ったことは
    討論番組や昔のしゃべり場、または国会放送を見ていて感じた違和感を難しく言った本だなあ、と
    というかこれくらいの時代の思想がきっと現在を生きている自分の思考様式にも影響を与えていて、その源流となる文章がこの本に当たるのかも知れないなあ、と
    多分、これ以外にも似たようなことを言った本や文章はあると思うけど

    総じて読んで良かった

    以下、自分なりのまとめ

     この本は著者が参加していた、当時盛り上がっていた「労働運動」を含むあらゆる社会政策に関して「科学的な態度」で批判していくという雑誌の態度を表明するための文章である
     では、その態度とは何か
     社会科学というものは現象そのものを(無限に豊饒な個々の現象を全て汲みつくすことなどできることではないという点で)説明することはできないし、また説明していると標榜している社会科学は、それはすでに科学的態度を失っているし、この雑誌はそのような態度を断固として否定する
     誰かがある現象について語る際には、どうしてもその誰かが(意識的・無意識的に)とっている立場が、視点に影響を与える
     つまり、現象の説明材料を恣意的に選んでしまう
     重要なことは現象を説明し尽くすことができない、ということではなくて、そのことに無自覚的(或いは自覚的)なままで、かくいう現象は「そうあるべきものだ」、とか、「そういうものである」と言ってしまうことだ
     だから、「科学的な論」と言って、「~べき論」とかそういうことを言う際には、その自分自身の価値基準を明確にしたうえで、論を展開するべきだ
     しかし、この雑誌では「~べき論」のような個人の価値理念に踏み込むことはしない
     なぜならそれは科学的な態度ではないからであり、科学的態度に基づいてこの雑誌ができることは、ある政策の政策実行可能性と施行した場合のあらゆる(正負や意図しないことも含めた)影響を、述べることだけだ
     そこから先の判断に関しては、決定者の価値判断に委ねられる

     あと大事な言葉として「理念型」というのが挙げられる
     これは、社会科学の態度ではなく方法論の話で、乱暴に要約すると

     一つの現象について考える際、自分が説明に使おうと考えているいくつかの説明体系や論理を、思考実験として究極まで突き詰めていくとどうなるのか、その説明体系や論理の究極型を「理念型」と呼ぼう、というもの

     方法論としては、この理念型と実際の現象を比較することで、現象の洞察をより鋭く行えるのではないか、というもの

     ただ、この理念型を使う際には、自分がどんな立場でどのような考え方を採用しようとしているのか、常に厳しく把握していなければいけない
     そういう意味でも、この雑誌における科学的態度というものは、重要である





    要らない言葉が多いし必要な言葉がなかったりすかもしれないけど、概ねこんな感じの内容だったと思う
     

  •  とても素晴らしい本であった。
     価値自由―価値からの自由、価値への自由。
     特に「理念型」について。社会科学の分析装置である概念は、研究者が独自に作りだしたものであり、現実の実在と一致するようなものではなく、また模写されるものではなく、それによって現実が秩序づけられるような、あくまで人間の側の、超越論的な概念装置なのである。そして、作り出される分析装置としての「理念型」的概念は、
    あくまで研究者の「価値理念」から、すなわち研究者の超越論的規範から作り出されるのであり、決して現実と一致するとかしないとかではなく、また一致するからその概念が「それ自体」として実在しているといったようなことではないのだ。
     超越論的概念、すなわち理念は、思考の秩序付けのための、加速器のようなものであり、その性質ゆえ、それを目指していくところの実践的理想として機能しやすい、という点もかなりすばらしい観点である。
     社会科学は、自然科学のように、それによって現実を「演繹」することのできるような究極の「法則性」を見つけ出すことを目指しているのではない。そういった法則性はあくまで社会科学の単なる手段であり、社会科学の目標は、現実現象を超越論的概念によって切り出し、因果的に秩序づけ、それを他の人々に主観的に「理解させ」るところにある。
     カント的思考をあくまで貫き、人間の限界を自覚した上で、理性の越権を抑えつつ、それでもなおわれわれに可能な「科学」としての方法をウェーバーはこの本によって説いた。
     なお、仮説の実証的確証のための方法は詳しく書かれてなかったので、もっと社会科学の方法について、より知っていきたいと思った。ウェーバーは天才だ。
     何がやりたいのかいまいち納得のいかなかった「社会科学」であったが、この本でかなり好きになり、もっと社会科学について詳しく知りたいと思うようになった。
     これは今年読んだ中でベスト5に入る本だろう。図書館で買ったのだが、購入し座右の銘として置いておいてもよかったくらいだ。非常に感動した。
     2008.10.26-28.

  • from kawaguchi

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