プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (436ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420935

感想・レビュー・書評

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  • 略して「プロ倫」と呼ばれる、マックス・ヴェーバーのあまりにも有名な1920年の著作である。
    非常に分厚い本だが、その半分以上は訳者解説と脚注・訳注で占められている。なので、本文自体はそれほどむやみに長いものではない。また、一度その論理を理解してしまえば、決して難解な本ではなく、書かれている内容は、今の時代から見てもとても筋が通っている。

    ヴェーバーは、まず大商工企業を所有する資本家や経営者の中にプロテスタントの割合が非常に多いという事実について、そこにはそれだけの理由があるはずだというところから始める。プロテスタントの教義からくる思考様式や行動原理が、資本主義社会における信者の活動に影響を与えていたはずだ、と。しかしながら、その禁欲的な教義から、強欲さと自由さを旨とする資本主義に有利な特性が果たして生まれてくるのであろうか。ヴェーバーによると、まさしくその通りであり、プロテスタントの家庭や社会における教育によって得られた「精神的特性」が職業選択とその後の職業上の行動規範を決定しているというのである。

    そして結論として、ヴェーバーは、逆説的だが「禁欲的で信仰熱心であることと、他方の資本主義的営利生活に携わることと、この両者は決して対立するものなどではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係にあると考えるべき」と言うのである。なぜか。

    ここで大きな役割を果たすこととなったのが、いわゆるカルヴァンの「予定説」である。カソリック教会による免罪符の発行を批判する論理としても絶大な威力があった予定説だが、その内容は概略すると、崇高である神は人間の世俗の行いよってその決定を変えるようなことはしない、というものであった。これは、敬虔で信仰心が篤い信者にとって、あまりにも論理的であった。そのため、カルヴァン派の信徒は次のような苦悩を持つことになった。

    「地上の生活のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、むしろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において、そうした教説(※予定説)を人びとはどんなにして堪え忍んでいったのだろうか。かならずや信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選ばれているのだろうか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関係を背後におしやってしまったにちがいない」

    ここにおいて、カルヴァンは、善行を積めば救われるという論理から、自ら救われる人間であれば善行を行うことになるはずだ、と因果関係を逆転させるのである。

    「誰もが自分が選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に義務づけることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果であり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ...こうして、ルッターが説いたような、悔い改めて信仰により神に依り頼むとき必ず恩恵が与えられる謙虚な罪人の代わりに、あの資本主義の英雄時代の鋼鉄のようなピュウリタン商人のうちに見られる、また個々の事例ならば今日でも見られるような、あの自己確信にみちた「聖徒」が錬成されてくることになる。いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだ。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ」

    なぜか。そこには、ルッターによる聖書の翻訳で使われた「Beruf」という訳語に含まれる「天職」という意味が重要であった。ドイツ語のBerufや英語に訳された場合のcallingが、原書にはなかった「天職」という意味を含みもつことになったのは、ルッターによる聖書の翻訳に由来しているという指摘は、どこまで真に影響力があったのかはおくとしても、歴史の偶然のひとつでもあり、もしそうであるならば非常に興味深い。

    「労働を自己目的、すなわち>>Beruf<<「天職」と考えるべきだという、あの資本主義の要求にまさしく合致するところの考え方は、このような場合いちばん受け容れられやすく、伝統的慣習を克服する可能性も宗教的教育の結果最大となる」

    天職が神から遣わされたものであるのであれば、それを全うすることが神の意に沿うことにもなる。予定説の下では、神の意なるものが世俗のものに対して影響することがあってはならないものではあるものの、天職を全うすることができるということが逆に自らが選ばれたものであるという確信を持つために強く希求されたのである。

    「正当な利潤を>>Beruf<<「天職」として組織的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名付けるのは、近代資本主義的企業がこの信条のもっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由によるものだ」

    このときまで、利潤の追求を倫理的によきこととするのは、過去のどんな道徳概念にもなかった。そのためには、儲けを得ることが目的ではなく、お金儲けという行動自体が目的となることが必要であった。金儲けが倫理的に奨励される社会である必要があった。インドでも中国でもなく西洋、とくにプロテスタントの国において資本主義が発展することとなった歴史的背景はまさにそこにあるというのだ。

    「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職概念が作り出したものだったのだ」

    さらには、必要であることを超えてより多く儲けることが、神の意志に沿う使命ともなった。その姿勢は資本主義社会における推進力ともいうべき資本蓄積に必要なものであった。

    「財産が大きければ大きいほど ... 神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならないという責任感もますます重きを加える」

    市場を通した利潤の追求による営利活動によって経済的発展が得られるという資本主義がどのように可能になったのか。決して贅沢をせず、それでいて富の追求を行う姿勢がどのように生まれたのか。どのようにして必要である以上に過剰な利潤と資本蓄積を追求することが正当化され、人をして突き動かしたのか。
    ルッターの宗教改革がその道を拓いたことは確かだが、ルッター派にはなくカルヴィニズムおよびプロテスタントの諸集団(ゼクテ)にはあったもの、それが「予定説」であり、「予定説」が資本主義社会の発展の源泉としてあったのだというのが本書の重要な結論でもある。

    ヴェーバーは最後に、こう総括する。
    「プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に沿うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ」

    もちろん、プロテスタンティズムの倫理だけが、他でもなく西洋において資本主義を発展させた原因だと言っているわけではない。しかしながら、ヴェーバーの論理は一本筋が通っており、謎解き本を読むような明快さが含まれていて心地よい。例えばフーコーが、『言葉と物』で時代を区切るエピステーメー、『狂気と歴史』で近代における狂気の排除、『監獄の誕生』で生権力の働き、などを解明するのと似た知的満足感を与えてくれる。

    ヴェーバーは本書で解説されたプロテスタンティズムによる資本主義の発展について、「禁欲的節約強制による資本形成」と呼んだ。もしかしたら、他の誰かがそう類推しているのかもしれないが、戦後の日本の高度経済成長についても、「禁欲的節約強制による資本形成」とも呼ぶべき社会的力学が働いていたのかもしれないと想像してみることができるのではないだろうか。戦争で死ぬことなく生き延びたという感覚は、あの戦争での死者に対する罪悪感を持つことにもなったであろうし、救われるためには死者がそのように夢を見ていた日本の発展に尽くすとともに、もはや贅沢をすることが適わぬ死者への心理的な配慮から奢侈的な消費行動を圧殺することとなったのかもしれない。その倫理感覚と似たものとして、資本家だけでなく、地方からの集団就職で職に就いた多くの労働者がそこで就いた職業を自らの天職であるという感覚を持つことがあったのではないだろうか。その天職概念の相似がプロテスタント社会と同じく、日本社会の高度経済成長をもたらす一因でもあったのではないか。また、日本社会における終身雇用形態ができた理由のひとつには、天職概念とも言えるものが影響していなかっただろうか。
    およそ根拠のない戯言のようなものなのかもしれないが、古典で言われたことを汎化して、別の状況においてもその論理を適用してみるというのは、社会学という学問においては、試行的に行われるべきことなのだろうと思うのだ。

    大澤さんの『社会学史』を読んだことをきっかけとして、この本を読んでみたが、改めて社会学や哲学の古典に当たるのもよいなと思うことができた。
    本の形について一言いうと、できれば、こんなに注釈を入れなくてもよいのではないか。おかげで読みづらい。でも、世の中には多くいるであろう(何より自分がその一人だった)興味はあるけど読んだことがないという人にはそれでもぜひ読んでほしい。本書の内容は、そんなに古びていないから。


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    本書を読んだのとほぼ同時期、日経ビジネスオンラインゼミナールに載った「「オレがオレが」が経営者の晩節を汚す」(2019年5月16日)という記事を読んだ。
    https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19nv/00124/00016/
    その主旨は、カルロス・ゴーン氏が、成功した経営者によくみられる私欲によって晩節を汚したことに対して、京セラ、第二電電(DDI)、JAL再生を成功に導いた卓越した経営者と呼ばれる稲盛和夫がなぜそのようにならなかったのかの原因をその講演の内容に見たものだ。一方、その主旨とは別に、そこに『プロ倫』で指摘されたプロテスタンティズムの論理と、図らずも強い相同性が見られたことに強い驚きを覚えた。

    記事の元となる講演は、稲盛氏が2007年5月に東京証券取引所で登壇したものだ。そのときの演題は「なぜ経営に哲学が必要なのか」。記事では、稲盛氏は京セラの上場のときに得ることができたキャピタルゲインを受け取らなかった理由として次のように語ったと書かれている。

     「『半導体が勃興していくには、ある人間が必要だった。たまたまそれが「稲盛和夫」であっただけで、ほかの存在が「稲盛和夫」と同じ才能を持っていれば、その人が代行していてもよかったはずだ。 私が一介のサラリーマンであってもおかしくはない』
     つまり我々が生きている社会は、壮大なドラマだと思うのです。劇場です。その劇場で、たまたま私は京セラという会社をつくる役割を担い、京セラという会社の社長を演じることになった。ただし、それは『稲盛和夫』である必要はなく、そういう役割を演じられる人がいればよい。たまたま、私であっただけなのです。
     今日は主役を演じているけれど、明日の劇では別の人が主役を演じてもよい。にもかかわらず『オレが、オレが』と言っている。それこそが、自分のエゴが増大していく元になるように思うのです。
     自分の才能は、世のため人のため、社会のために使えといって、たまたま天が私という存在に与えたのです。その才能を自分のために使ったのでは、バチが当たります。エゴを増大させていっては身の破滅だと思った私は、それからエゴと闘う人生を歩いてきました」

    ここに、プロテスタントが信じた「天職」の概念をそのまま見ることができるのではないか。
    先の講演を稲盛氏は次のように締めたという。

     「私たちは心の中に、良心という自分とエゴという自分を同居させているのです。ピュアな真我と卑しい自我が同居しているのが、人間の心なのです。お釈迦さまは、人間とはスタボン(頑迷)で、少しでも手入れを怠ると欲にまみれると知っていますから、『足るを知りなさい』とおっしゃった。『オレがオレが』『もっともっと』と際限もない欲望を膨らませてはいけないのです」

    稲盛氏は一時仏門に入ったことでも知られている。現世の欲に踊らされるのではなく、あえてそれを拒絶し、天より与えられた役割を全うする、という思いが、ビジネスの成功を結果として約束することとなった。稲盛氏は、盛和会という形で、その思想と成功を拡げていった。そこにはよい意味での宗教との相似を見ることができるのである。稲盛哲学と言われるものと、プロテスタンティズムとその双方の資本主義社会における成功の裏にある論理的相同性を見るに、マックス・ヴェバーの慧眼に眼が眩む思いがした。それとともに、社会学というものの面白さは、まさにこういうところにあるのだと感じたのである。

  • (2015.06.15読了)(2002.03.23購入)
    「世界を変えた10冊の本」池上彰著、でこの本が取り上げられていたし、他でも取り上げられたりするので、読んでおくことにしました。
    読んでみたけど、まったく内容が把握できませんでした。解説を読んでも、お手上げです。
    プロテスタンティズムの倫理というのが題名に入っているので、プロテスタントという言葉が文章の中にでてくるだろうと思うのですが、ほとんど出てきませんでした。(見直してみると、頭の方には、割と出ていますね。後半にはあまり出てきません。)
    出てくるのは、カルヴィニズムとか、ピュウリタンとか、ルッターなどです。
    これらは、プロテスタントに対立するものだと思って読んでいたのですが、逆だったようです。これらが、プロテスタントだったようです。キリスト教の宗派に関する常識が皆無だったようです。プロテスタントに対立するのはカトリックなのですね。
    『新約聖書』『旧約聖書』を読んだからと言って、キリスト教についてわかるわけではないということなんでしょう。現実の宗教は、教会にあるのであって、『聖書』にあるわけではないということでしょう。『聖書』には、儀式や作法について書いてあるわけではありません。
    「プロテスタンティズムの倫理」も『聖書』には、書いてないことなのでしょう。書いてあるなら、プロテスタントもカトリックの関係ないでしょう。

    【目次】
    訳者序文
    文庫版への序
    著者序言
    第一章 問題
     一 信仰と社会層分化
     二 資本主義の「精神」
     三 ルッターの天職観念―研究の課題
    第二章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
     一 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
     二 禁欲と資本主義精神
    訳者解説
    主要索引

    ●良心的(54頁)
    労働者の「良心的であること」のなさが、資本主義の発達を妨げる主要な原因の一つとなっていたし、今日でもある程度そうだ。資本主義には、訓練のない「自由意志」の実行者たちは労働者として役立たないし、また、およそ厚顔な態度に終始する実業家も役に立たない。
    ●簡素な生活(65頁)
    人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなく、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。
    ●神のために(152頁)
    人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在するのであって、あらゆる出来事はひたすらいと高き神の自己栄化の手段として意味を持つにすぎない。
    ●神の栄光(293頁)
    明白に啓示された神の意志によれば、神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけだ。したがって時間の浪費が、なかでも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。
    ●労働(304頁)
    「ひとは生きるために労働するだけでなく、労働するために生きているのだ。労働の必要がなくなれば、苦しく思うか、あるいは寝込んでしまうだろう。」
    ●神のために(310頁)
    肉の欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるのはよいことなのだ。
    ●ピュウリタン(331頁)
    ピュウリタンは劇場を排斥したし、また、愛慾的なものや裸体などをあらゆるところから一切閉め出してしまったが、こうなると文学においても芸術においても過激な主張は止まるところを知らなかった。

    ☆関連図書(既読)
    「日本資本主義の精神」山本七平著、光文社、1979.11.05
    「職業としての学問」ウェーバー著・尾高邦雄訳、岩波文庫、1936.07.15
    「職業としての政治」マックス・ヴェーバー著・脇圭平訳、岩波文庫、1980.03.17
    (2015年6月16日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(1864‐1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点を画す。旧版を全面改訳して一層読みやすく理解しやすくするとともに懇切な解説を付した。

  • 「宗教改革は人間生活に対する教会の支配を排除したのではなく、従来とは別の形態による支配に変えた」というのがMウェバーの信仰と社会層分化における考えである。
    従来とは別の支配とは、本書で論じられるプロテスタンティズムに他ならず、特にカルヴァン派を中心とした改革派を指す。

    改革派の資本主義の精神は、純粋に「適応の産物」として論じられる。
    貨幣獲得が「天職」として経済的合理性を与えられた世界観における当然の帰結と結論づけられるのである。
    カルヴィニズムで有名なのは「予定説」である。以下に一部を抜粋する。

    「神の至高の導きを推し量ろうとしても無意味であるとともに、神の至上性を侵す事になる」
    「人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な意志を人間の干渉によって動かしうるとみなすことになり、あり得べからざる思想なのだ」

    この考えの延長上にキリストについての解釈が存在する。

    「キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、彼のために神は永遠の昔からキリストの贖罪の死を定めていた」

    この「予定説」であるが、カルヴァン派の信徒たちは自分たちが選ばれている人間かそうでないか、常に不安な状態に陥る。そのため信徒は救いの確信を自らがつくりだすという技術的手段によって救いについての不安を取り除くといった行動に出るのである。
    救いに対する疑念は悪魔の誘惑とされるため、一心不乱に労働に勤しむのであった。
    その場合、職業には道徳的基準・生産する財・収益性が重要であった。

    ちなみに、この考え方は当時から批判が多かったらしい。イギリスのジョン・ミルトンは「たとえ地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」と言い放ったという。

    キリスト教敬虔派が来世の確信を得るための禁欲的な戦いを続けるのとは違い、カルヴァン派は現世にあるままで救いの悦びを味わおうとする方向に傾く。
    そしてこの感情の高揚が激しい場合、信仰は端的にヒステリー的性格をおびるようになる。感覚的な宗教的恍惚状態と「神を離れた状態」として感じられる精神的虚脱状態との交替によっておよそ冷静なピューリタンとは思えない正反対の結果を呼び起こすという。
    この宗教的神秘体験は、「懺悔の苦闘の後に到達する突然の回心」と定義づけられ、神の恩寵獲得のための合理的企図の対象とされ、後には恩恵貴族主義につながる。

    Mウェバーは、これら一連のカルヴィニズムの流れについて、以下のように結論づけた。
    「世界を呪術から開放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためにあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの開放の過程は、ここに完結をみたのだった」


    最後にルターの「天職」及び「予定説」に至ったプロセスは以下の考え方によるという。
    「ルターは歴史的な客観的秩序は神の意思の発現だと考え、後には人間生活の個々の過程のうちにも神の摂理を強調するようになった。
    神の摂理は、聖慮(みこころ)という思想に照応し、各人の具体的な職業は神の導きによって与えられたものであるという考えに至る。
    ルターは宗教的原理と職業労働との結合により、新たな原理基礎をうちたてたのである」

  •  本書を初めて読んだのはもう30年近く前のこと。少しは自分も成長したから感じるところに違いもあるだろう、と思ったが読後感は当時とほとんど変わらないものだった。すごく「綺麗」で「強い」本だ、という印象。しかも、一旦興奮が覚めた後には「しかしこれで本当に説明になっているのだろうか?」という、疑いの残響が尾を引くあの感じもまた甦ってきたのだ。

     確かに美しい。神の思し召す「合理的」な目的に沿うよう勤労し禁欲すべし、というプロテスタンティズムの規範すなわち「目的」が、いつの間にかその規範自体の作動を強化するself drivenな起動力──すなわち「原因」となっているという「不合理」。目的と原因の転倒のみならず、理性が不合理の創出の起点となっているというメビウス的な循環が、強い目眩を引き起こす。この構造はそして堅強だ。合理性を超越したものは、そして超越しているからこそ、「正し」くはなくとも「強い」。この美しくも強い論理構造に、誰もが魅せられるのだと思う。
     また、ヴェーバーが、利潤の追求が単なる寛容の対象ではなく「天職/ベルーフ」として積極的に称揚されるまでに至ったかという「非合理性」の根拠について明らかにしていることについても、もちろん僕などが疑うべきところはない。世俗外禁欲が宗教改革で世俗内に転写された際、信者の生活全般における「行為主義」、世俗内部での清潔な職業生活が要求された。とりわけ脱呪術化を推し進め、「恩恵による選び」すなわち「予定説」を提唱したカルヴァン派においては、恩恵を得るべく神の意思たる「合理性」に沿った「世俗内禁欲」が要求された──

     ここまではわかる(何となく)。しかし、そのようにして予定説が設定したゲームを、プロテスタントたちが嬉々として受け入れたことの「非合理性」──そのオリジンとなる精神構造については明快に示されているものの──が、どのようなロジックでもたらされたのかについては、ヴェーバーは殆ど論ずることなく放置しているように見えるのだ。

     昨年読んだ大澤真幸「社会学史」でのヴェーバーの段でもそれは感じた。そこでは「ニューカム・パラドックス」というゲーム理論的な枠組みを用いて、神の全知性を前提に置くとプロテスタントは禁欲を選択せざるを得ない、という結論が導かれていた。美しい説明だった。一見非合理と見えるものがプロテスタントたちには合理的なのだ、と。
     しかしそこで説明されているのはプロテスタンティズム内部の合理性であって、外部から見たそれではない。プロテスタントたちは、恩恵の有無が予定されてしまっているにもかかわらず禁欲と勤労が強要されるという「無理ゲー」の内部になぜ留まったのか、どうして外部に出て利得表上の最高得点を得ようとしなかったのかについては、結局触れられていないのだ。ここが僕が読後に覚えたあの不快な残響の原因なのだと思う。
     
     ただそもそも、ヴェーバーの意図はそのような「合理性/非合理性」を詳らかに分解するようなことにあったのではないのかもしれない。そのことは結び近くの注釈における「近代文化の特徴的なものを全部プロテスタンティズムの合理主義から論理的に演繹するというような、明快な『構図』」を作り上げること」が本意ではない、という本心の吐露からも窺うことができる。我々はただ、資本主義の「エートス」が生じた過程が、我々が考えているほどには理屈と整合的ではなかったということに思い至るだけで十分なのかもしれない。思えば資本主義経済なんて理屈に合わないことばかりだ。頑健だと思っていた象の背中が意外に頼りないことを知るだけでも、旅の安全には十分に役立つ。
     また、この「すごくよくわかった感じはするけど、よく考えてみるとわからないものが残る」という読後感が、本書が1世紀の永きに亘り読み継がれている理由の一つなのではないかとも思う。完璧にわかってしまってはつまらない。少し考えなければならないことが残されているのがいいのだ。

     なお近代社会学の嚆矢として名高い本書ではあるものの、意外なことにここでは「社会」という言葉が今日的な意味ではほとんど使われていないことに気づく。代わりに「外物」というあまり馴染みのない言葉が出てくる。ヴェーバーは先験的に個人と独立して存在する「社会」なるものをほとんど認めていないと見え、専ら自我の働きに焦点を当てその総体を分析の対象とし、その他の残余はまとめて「外物」という素っ気無い言葉に押し込めそれで良しとしているのだ。同じく近代社会学の祖といわれ、個人より先に社会を(積極的な)「物として」扱うべしとしたデュルケームとは小気味良いほどの対照をなしている。資本主義の起動力の源泉を、貨幣や法などの既成システムに求めるのではなく、西洋近代に成立した個人の心性に見るところが、社会を個々の自我の集積と見るヴェーバーならではの視点なのだろう。
     しかし少なくとも、例えばその行為が全て個人に帰属していたカトリシズムとの対比において、カルヴィニストの個人には帰せられない行為による恩恵の獲得期待、すなわち「組織にまで高められた行為主義」が資本主義と整合的な態度を決定づけたことの考察においては、間違いなくヴェーバーには「社会」とその後呼ばれる複合的で多面的な対象が見えていたはずだと思う。

     30年前は注釈は殆ど飛ばして読んだが、注釈部分に意外にハッとするようなコメントが隠れていたりすることに今回気がついた。全く油断のならない本だと思う。

  • 入学前に読んで、なんとなし、「そうなのか」、と言う感じで飲みこんだ気でおりましたが、とんでもない。あの時は、わからないということの意味を、わかるということの意味を、まったく分かっていなかった。エレジー。
    今回縁あって、ウェーバーの研究者である鈴木宗徳先生のゼミに参加。約2カ月にわたって本書を輪読した。
    ウェーバーはとにかくアツい男である。「閉塞感(本文で「殻」と)」を許さず、「閉塞感とは何か」を問い正す。本書では当時の資本主義世界の雰囲気を「今の資本主義はぬるくなっとるけど!もとはプロテスタントの洗礼された生活から生まれたものなのだ!彼らは目的合理的だったのだ!」と、今の≪非宗教的な≫資本主義の方が、どこか『宗教っぽい』との見解を示す。
    そして、「閉塞感」とは閉塞感を決めてかかることに原因があるのであり、それがなにか「わかった」時点で負けなのであり、じゃあどうしたらいいのかと言うところで、「あとは自分で考えろ!」ということなのだ。
    どうしたら『宗教っぽく』なくなるのかということを、宗教に問う。なんとも、ロックである。これと同じようなエッセンスを持ってる日本の哲学者で言ったら・・・矢沢栄吉とイチローさんですかね!という持論を持つに至った。宗徳先生は笑ってくれた。
    法政大学で開かれた国際シンポでウェーバー研究の超代表的な存在である折原浩先生と話す機会があった。なにひとつ学問的な話はしてないのだが、とにかく「熱くなれ!」と熱く語られた。ということは、つまりそういうことなのである。そこから先は言葉にならない、してはいけない。とにかく熱い「何か」なのだ。しかし語らねばならない。何かを示さねば動き出しもしない。その矛盾の向こうにこそ、目的地はある!そして!ビールをついでもらった!嗚呼!乾杯!
    僕が宗教っぽくなくなる日は、遠い。

  • 難しくて読みきれず、流し読みプラス訳者解説を読むにとどまった
    またいつか再挑戦したい

  • 資本主義の背景には、しっかりプロテスタンティズムの倫理があるという話。日本の商人道に通じる。

  • 一章は面白く読んだが、二章にはいってキリスト教の色いろな宗派や人物が出てきて詰んだ。でもそこを我慢するとまた面白くなった。禁欲が資本主義の精神に繋がったという逆説はとにかく緻密で説得力があり、こんな社会で生きてゆくには読んでおくべきだと感じる。

  • 現代ではプロテスタンティズムの精神は失われ、それが結果として作り上げることになった資本主義のみが残ってしまった。初期プロテスタントは決して近代資本主義を形成することを意図しなかったこと、スポーツ、遊戯に喩えられるような、営利活動に邁進する人類が歴史の頂点に立っているという自惚れに対する著者の批判?が印象に残った。

  • 【再読】初めてこの本を読んだのは大学2年生の時。日本語なのに最初から最後まで何が書いてあるかさっぱりわからなくて辛かった。“一冊の本を理解するためにはその本を読むだけでは十分でない”ということを教えてくれた転機となる本。以来、「自分がどの程度まで来たか」ということを確かめるために、繰り返し読んでいる。今回は「どこがわかってどこがわからないか」がはっきりしたのでそれだけでも大収穫ではなかろうか(笑)宗教改革にまつわる理解が圧倒的に乏しく、でも受容のプロセスと近代資本主義の精神は大分掴めるようになったみたい。

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著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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