社会学の根本概念 (岩波文庫)

制作 : Max Weber  清水 幾太郎 
  • 岩波書店 (1972年1月1日発売)
3.28
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  • Amazon.co.jp ・本 (104ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420966

作品紹介・あらすじ

社会学の泰斗マックス・ヴェーバー(1864‐1920)がその死に先立って社会学上の重要な諸概念を定義的に明らかにしようと試みた論文。宗教、経済、政治、法律などの各領域で社会学的研究を成しとげたヴェーバーの社会学に関する根本的な考え方を知るために貴重な文献である。なだらかな日本語に移した本訳書は初学者にもすすめたい。

社会学の根本概念 (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

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  • えーっと、一言で言うと「全然わかりません」。

    印象に残ったのは「因果関係は飽くまでも仮説的にとどまる」という点かなあ。

    「現実の認識過程は、初めに、経験的観察がいろいろと行われ、その後で、解釈が作られるという過程であった。この解釈が成功しない間は、因果関係を求める私たちの気持は決して満たされることがないであろう。しかし、その半面、観念的に推論された行動の経過を仮定しても、それが或る程度まで実際に起こったという証拠がない限り、法則自身がいかに明確でも、現実の行為の認識にとっては、価値のない観念的構成物ということになるであろう」(p18〜19)

    歴史学は「実際に起こったという証拠」から「法則」や「仮説」を考えるものだと思う。法則だけでは「現実の行為の認識にとっては、価値のない観念的構成物ということになるであろう」というウェーバーの言葉は、歴史学にとっていまだに力を持っている言葉だと思う。

    …まあそもそも、ウェーバーとかに社会科学の方法を学んでる時点で、歴史学はその方法を誤ってきたという声が衣笠のほうから聞こえてきそうだが。

  • 頑張って目を通したが、理解したとは言いにくい。色々と、バックグラウンドが必要に思いました。

  • 【目次】
    はしがき
    第一節 社会学と社会的行為
     一 方法の基礎/二 社会的行為の概念
    第二節 社会的行為の種類
    第三節 社会的関係
    第四節 社会的行為の諸類型――習慣と慣習
    第五節 正当なる秩序の概念
    第六節 正当なる秩序の種類――慣例と法
    第七節 正当なる秩序
    第八節 闘争の概念
    第九節 共同社会関係と利益社会関係
    第一〇節 開放的関係と閉鎖的関係
    第一一節 代表権
    第一二節 団体の概念と種類
    第一三節 団体の秩序
    第一四節 行政秩序と規制秩序
    第一五節 経営、経営団体、任意団体、強制団体
    第一六節 権力と支配
    第一七節 政治団体と宗教政治団体

    訳者注
    訳者の言葉

  • 何年も前に本書を買ったが、難解で手がつけられなかった。改めて熟読するとなんとなく意味がわかるものの判然としない部分も沢山ある。気が向いたら著者の他の作品も読み、本書に記載されている概念の外堀を固めてみたい。

  • ○この本を一言で表すと?
     社会学で使用する語句を解説した本


    ○考えたこと
    ・社会的関係を支配する「正当なる秩序」が慣例と法によって構成され、これに正当な効力を認める理由として、伝統によること、感情的な進行によること、価値合理的であることなどがあることは、ざっくりとした考え方ですが、分かりやすい構成の考え方だなと思いました。

    ・共同社会関係と利益社会関係、開放的関係と閉鎖的関係など、対比してそれぞれが何によって結びついているかを示しているのは分かりやすいなと思いました。


    ○参考にならなかった所、またはつっこみどころ
    ・いきなり社会学の説明が基礎ではないところから始まっていたため、とっつきにくく何が言いたいのかを掴みにくかったです。

    ・「社会」全体を理解するための概念説明というより、「社会」を「団体」としてかなり狭く定義して検討している印象でした。

  • 社会学とはいったいどんな学問なのか。始祖のひとりとして名高いヴェーバーによる根本的定義集。
    まずわたし自身の立場を明らかにしておけば、わたしは規範哲学を学んでいる人間であるため、読みながら規範哲学と社会学の関係性を考えていました。本書では、社会学という学問の基礎たる相対主義、客観的妥当性が目指されている。しかし疑問を感じるのは、私達はみな価値判断を常に行う個人として存在しており、ヴェーバーの示す方法論によってそのような価値判断から逃れることは本当に可能なのかということ。その意味で、社会学的な方法論に従って社会における様々な現象の客観的判断を出来うる限り試みて、ではいかにある「べき」なのか(規範哲学的な問い)を考察することが重要だろうと。社会学と規範哲学は相互補完的なものだと感じた。実際に多くの社会学者は分析したうえで各々の「べき論」を論じていることが多いと思う。だから社会学を学ぶにはまず自身の倫理的基礎をきちんと明らかにしておくことが重要ではないか。
    権力概念。人がいかにして社会に規定されるのか、という権力を考えるうえで、よく言われていることではあるがやはりヴェーバーは目に見える権力を重視している。現代思想の明らかにした権力概念を知っていれば、それが古い権力概念であることはわかるが、しかし法や政治を考察するにあたってヴェーバーがどれほど寄与したのかというのも明らかである。
    最後に。訳者さんがあとがきで書かれていますが、本書は未完成な論文であり、ヴェーバー流の辞書的な記述に留まっている箇所と具体的なことにまで踏み込んでいる箇所とが混在しています。だからちょっと読みにくかったりもするんですが、ポジティブに言えば今後の勉強のなかで辞書的に用いることも出来るのはそんなに悪いことじゃないかと。

  • 難しい。
    私は社会学に関する予備知識はまったくない。そのためか、この本に書かれている言葉に関し、通常思い浮かべる定義と本書の定義(社会学的定義)とが異なることに戸惑いもあるし、読み進めるにあたり、何度も戻り読みしなくてはならなかった。
    また、訳者の言葉の中に、「あまり重要と思われない括弧などを省略し・・・」とあるが、それでも、文としてかなり読みにくく、主語を見失うことも多くなかった(この本特有というよりは訳本に多いと感じるが.自身の読解力のレベルにも起因すると思われる.)。

  • 「ところが、社会学による行為の理解的解釈から見れば、右のような集団は、諸個人の営む特殊な行為の過程および関連にほかならない。なぜなら、私達にとっては、諸個人だけが意味のある方向を含む行為の理解可能な主体であるから」 ー 23ページ

    『プロ倫』を書いた人なので当然といえば当然なのかもしれないが、ウェーバーの着眼はあくまでも個人にあることを再確認した次第。よく比較されるデュルケームは個人というよりは環境とか社会組織のほうにより着目している印象があるけれども、どちらが正しいというよりも、理解するべき事柄によってどちらを強調するべきかは変わるのだろう。

    というかプロテスタントって個人主義的なイメージが強いし、実際慣習や思想体系にも個人主義色の強さがにじみ出ているってよく強調されているけれど、そういった認識の強化に『プロ倫』が貢献したところは少なからずあると思うのだけどどうなんだろう。プロテスタントは現在ではあまりにも分化しすぎていて一般的な特徴を挙げるということがとてもじゃないけど困難になってきている昨今、くしくもウェーバーの挙げた「理念型」という概念とともに、プロテスタントの一般的イメージも保存されているような気がしてならない。

    いやウェーバーほとんど真面目に読んでないしプロテスタントに関しても詳しくないのでマジで小並感なんですけどね!(言い訳)

  • はしがき

    以下に述べる序論的な概念規定は、なければ困るし、あれば必ず抽象的な非現実的なものになってしまう、といっても、私の方法が新しいと主張するつもりは毛頭ない。


    第1節

    つまり、機械のうちで理解可能なのは、手段としてにせよ、単数或いは複数の行為者の念頭にあって行為の方向を定める目的としてにせよ、とにかく機会と人間の行為の関係である。

    周知のように、個人の行為は、自分が空間的に密集した群集の中にいるだけで強い影響を受けるもので、これは群集的行為であって、例えば、G・ル・ボンの著書のような群集心理学的研究の対象になっている。



    第4節

    単なる慣習の持つ安定性というのは、主として、周囲の多くの人たちの行為が現実に慣習の存続に関心を持ち、それに従った態度を取っているため、自分の行為を慣習に従わせない人間は不適切な行為を行う結果になり、大小の不便や不利益を蒙らざるを得なくなるということから来ている。


    第8節 闘争の概念
     行為が、単数或いは複数の相手の抵抗を排して自分の意志を貫徹しようという意図へ向けられているような社会的関係は、「闘争」と呼ばれる。現実の移り的暴力行為を内容とせぬ闘争手段は、「平和的」闘争手段と呼ばれる。平和的闘争が、他の人々も同様に得ようとする利益に対して自己の支配権を確立しようとする平和的形式の努力であれば、これは「競争」と呼ばれる。競争の目的および手段が或る秩序に従っている場合は、「ルールのある競争」と呼ばれる。諸個人や諸類型の間で生存或いは残存のチャンスをめぐって行われる、闘争的意図という意味を欠いた潜在的な生存競争は、「淘汰」と呼ばれる。個人の一生におけるチャンスが問題であれば、「社会的淘汰」と呼ばれ、遺伝的素質の残存のチャンスが問題であれば、「生物的淘汰」と呼ばれる。

    第一項 相手の生命を狙って、何一つ闘争のルールを守らぬ残虐な闘争があるかと思えば、慣例というルールに従った騎士たちの闘争(フォントノアの戦闘に当って、伝令が、「イギリス軍諸君、最初に撃ち給え」と叫んだという)や、ルールに従った闘争的遊戯(スポーツ)があるし、女性に取り入ろうとする求婚者たちの滅茶苦茶な競争や、交換における利益をめぐって市場の秩序に従って行われる競争的闘争があるかと思えば、ルールに従った芸術上のコンクールや選挙戦があり、それらの間にはむすうの段階が存在する。暴力的闘争特有の手段の性質を考え、その使用から生ずる社会学的結果の特殊性を考えれば、暴力的闘争を概念的に区別するのは当然のことである。

    第二項 すべて類型的かつ大量的に行われる闘争や競争では、いろいろの決定的な偶然とか運命とかがあるにしろ、結局、平均的に見て、闘争の勝利に不可欠な個人的性質を多く持つ人間が選び出されえる結果に落ち着くものである。その性質というのが、腕力や非良心的な狡さに優れていることか、知能的能力や声量や煽動のテクニックに優れていることか、上司や図に乗った大衆への追従に長じていることか、独創的能力や社会適応能力に優れていることか、異常とも見える性質や大衆的平均と異ならぬ性質が豊かであることか―それは、闘争や競争の条件によって決定されることで、この条件の中には、個人および大衆のありとあらゆる性質に加えて、闘争行動が―伝統的にせよ、価値合理的にせよ、目的合理的にせよ―従う諸秩序も含まれる。それらのすべてが社会的淘汰のチャンスに影響を与えるのである。しかし、すべての社会的淘汰が、私のいう「闘争」であるとは限らない。むしろ、社会的淘汰というのは、差当り、行動の或る類型、従って、時には個人的資質の或る類型が、或る社会的関係(恋人、夫、代議士、官吏、現場監督、社長、立派な企業家など)における成功の可能性が大きいという意味に過ぎない。この社会的に選び出される可能性が闘争によって実現されるか否か、更に、この可能性がその類型の生物的な残存の可能性を増すか、それとも、その逆か、これらの点については、社会的淘汰そのものは何も主張するものではない。
     現実に競争が行われる場合に限っては、私は「闘争」を問題にしようと思う。従来のあらゆる経験に徴して、事実上、闘争を排除し得ないのは、淘汰という意味の場合だけであり、また、原理上、闘争を排除し得ないのは、生物的淘汰という意味の場合だけである。それを完全に排除する方法が案出されないために、淘汰は永遠のものなのである。非常に厳格な規定を含む平和主義的秩序でも、精々、闘争手段、闘争目標、闘争方法に規制を加えて、その一部を排除しようとするに過ぎない。すなわち、残された闘争手段が、(公然たる)競争における勝利を生むことになるし、また、競争が排除されたと想像しても―ユートピア的理論的には可能であろうが―生存および残存のチャンスをめぐる(潜在的)淘汰における勝利を生むことになり、遺伝的素質としてにせよ、教育の結果としてにせよ、この残された闘争手段を駆使する人間に有利に働くのである。こうして、社会的淘汰は、経験的な意味で闘争の排除を阻止し、生物的淘汰は、原理的な意味で闘争の排除を阻止する。

    第三項 もちろん、生存および残存のチャンスのために行われる諸個人間の闘争と社会的諸関係の間の闘争や淘汰とは区別せねばならぬ。後者のような概念は、比喩的な意味でなければ使うことは出来ない。なぜなら、言うまでもなく、「関係」というのは、或る意味内容を含む人間行為としてのみ存在するのであるから。それゆえ、諸関係の間の淘汰や闘争というのは、時間の経過に伴って、或る行為が他の行為―同じ人間の行為でも、他の人間の行為でも―によって駆逐されるという意味である。これは、いろいろな方法で可能になる。(一)人間の行為は、或る具体的な社会的関係、すなわち、一般に或る秩序に従った社会的関係、換言すれば、その意味内容に応じた過程を辿る行為、それを阻止することを意識的に狙うことがあり、また、その成立や存続を妨害するよう場合である。例えば、戦争や革命によって国家を、残酷な弾圧によって反乱を、警察力によって萎妾を、法的保護の停止や処罰によって暴利取引を妨害するような場合である。更に、或る種の関係の存続を援助することによって故意に他の種の関係に不利な影響を与えることを意識的に狙うことがある。個人も、結合した諸個人も、右のような目的を持つことが可能である。(二)しかし、また、社会的行為の過程と、そこに働く各種の条件とから、意外な副作用的結果が生まれ、そのために、或る具体的な、或る性質の関係―というのは、必ず、それに対応する行為を意味する―の存続や成立のチャンスが減ることもある。何か変化が起る場合は、あらゆる自然的および文化的な条件が或る働きをして、各種の社会的諸関係の間で―例えば、諸国家の間で―淘汰が行なわれ、強者―適者という意味の―が勝利を収めるなどと言いたければ言ってもよい。ただ、次の諸点を忘れてはならない。第一に、この謂わゆる「淘汰」は、社会的意味でも、生物的意味でも、人類類型の淘汰とは関係がないということ、第二に、或る種類の社会的関係の存続を認めながら、他の社会的関係の存在を認めなかった原因は、具体的ケースについて研究する必要があるということ、第三に、これらの原因は多様なので、それを一つの言葉で表現するのは適切とは思われないということ。一つの言葉で表現すると、どうしても、経験的研究の中へ勝手な評価を持ち込む危険が生まれる。とりわけ、具体的ケースについて見れば主として純粋個人的な条件における成功、その意味で偶然の成功であるのに、これを理論的に弁明すれるという危険が生まれるものである。近年、そういう例は腐るほどある。或る特殊な性質を持つ具体的な社会的関係が純粋具体的な原因によって排除されることがよくあるが、それだけでは、その社会的関係の一般的な適応性が否定されたことにはならないからである。

  • ヴェーバーの死後に出版された「経済と社会」の巻頭論文を訳出したもの。原著で30ページ、本書でも100ページ足らずと小著ながら社会学に関するヴェーバーの根本的な考えを理解する上でとても重要な著作である。社会学に関して、法や宗教、政治、はたまた闘争にいたるまで、各領域の概念を定義的に明らかにしようとしている。

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