職業としての政治 (岩波文庫)

制作 : Max Weber  脇 圭平 
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420973

作品紹介・あらすじ

あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。

感想・レビュー・書評

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  • 1919年1月にミュンヘンで行ったマックス・ヴェーバーの講演記録。
    ドイツが第一次世界大戦に敗れて数カ月しか経っていない時期に行われた講演で、この内容もそうした時代性に規定されざるをえない部分が垣間見られるが、その政治と向き合う態度を説く論理は現在にも通じるといえるだろう。いや、むしろこの講演で抽出される政党、ジャーナリスト、政党人、政治姿勢は現在の日本政治を基としているのかと見紛うばかりの様相であり、時代を超えて読まれるべき作品だ。
    中でも、ラスト30ページほどは政治と向き合う姿勢・倫理が論ぜられており、本書を通して最も力説されている部分であるが、巻末解説に丁寧に概観されていて理解もたやすい。
    政治とは権力であり権力は暴力と結びついたものと達観した上で、政治家は情熱・責任感・判断力の資質が特に重要で、目的のために手段を選ばず結果責任を負うために悪魔と手を結ぶこともあるが、「それにもかかわらず!」と言い切る人間のみが政治を「天職」とできるとしている。
    時代に規定された一番の部分をあえて言うならば、ヴェーバーは10年後に敗戦直後のドイツが行き着いた先を見極めた上でもう一度議論したいと述べているが、政治倫理の源泉と発露次第ではその後のドイツ(そして世界)が辿る歴史に結びつくことを考えると、愚衆・愚政治家(心情倫理家)との対置だけでは不十分だったいえるだろう。

  • 1919年1月にヴェーバーがミュンヘンで大学生に対して行った講演を纏めたもの。この時期のドイツは、第一次世界大戦における敗戦の結果、騒然たる革命の雰囲気に包まれていた。すなわち、1918年11月3日のキール軍港の水兵反乱を機に大衆が蜂起、皇帝ヴィルヘルム2世は廃位され、その後ヴァイマール共和国が樹立された(ドイツ革命)。この間には、ロシア革命の再現を狙うスパルタクス団(共産主義者)の蜂起があった。

    「あとがき」によると、「熱烈なナショナリストでもあったヴェーバーにとって祖国の敗北はたしかに大きなショックであったが、それ以上に彼を悲しませ、やり切れない思いに駆り立てたのは、この戦争の結果(敗戦の事実)をあたかも『神の審判』のように受けとり、自虐的な『負目の感情』の中で、ひたすらに『至福千年』の理想を夢み、『革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい謝肉祭』にわれを忘れて陶酔し切っているかにみえる一部の前衛的な学生や知識人の、善意ではあるが独りよがりは『ロマンティシズム』であった」(p117)。こうした思いから、ヴェーバーは政治に身を投じる者の備えるべき資格と覚悟について痛烈な問題提起を行う。

    「あとがき」およびそこでの本書要約(以下)が秀逸。
    「さてヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは『国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である』。政治をおこなう者は、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって『倫理』ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。しかし一切の『政治が権力―その背後には暴力が控えている―というきわめて特殊な手段を用いておこなわれているという事実』は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。主観的にどれほど『高貴な意図』から出たにせよ、それだけでは、おのれの権力行使を倫理的に免責できぬはずである。たしかに行動が虚無におちいらないための内的な支えとして、信念(理想)をもつことは必要である。しかし政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力である以上、『信念』だけではすまされない。キリスト教的絶対倫理(福音の倫理)と相容れない政治の世界に身を投じた者が『魂の救い』まで期待することは許されない。目的と手段の緊張関係は、ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善のみが生ずるといまだに信じている者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない『政治的未熟児』である。指導者のよき動機もしばしばその仲間の、あるいは部下(『人間装置』)の余りに人間的な動機によって裏切られるというのが、政治の現実である。『政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶもの』である。しかもこの悪魔は恐ろしくしつこく老獪である。『もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう』。可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間だけが、政治への『天職』をもつ―こうヴェーバーは結んでいる。」(p118)


    【印象的な内容】
    ◆政治とは、国家とは
    「政治とは何か。これは非常に広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。」p8
    「『すべての国家は暴力の上に基礎づけられている』。トロツキーは例のブレスト―リトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。もし手段としての暴力行為とまったく縁のない社会組織しか存在しないとしたら、それこそ『国家』の概念は消滅し、このような特殊な意味で『無政府状態』と呼んでよいような事態が出現していたに違いない。」p9
    「国家とは、ある一定の領域の内部で―この『領域』という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である…国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への『権利』の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有な現象である。」p9
    「だから、われわれにとって政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。」p10
    「政治をおこなう者は権力を求める。その場合、権力を別の目的(高邁な目的または利己的な目的)のための手段として追求するか、それとも権力を「それ自体のために」、つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追求するか、そのどちらかである。」p10

    ◆支配の三類型 p11
    ①伝統的支配 古い型の家父長や家産領主
    ②カリスマ的支配 予言者、人民投票的支配者、偉大なデマゴーグや政党指導者
    ③「合法性」による支配 近代的な国家公務員、その点で類似した権力の担い手

    ◆補助手段(行政スタッフ)
    政治指導者にとっては、彼らの手足となって働く「補助手段」が決定的に重要 p13
    その連帯関係を支える究極的・決定的な基礎は、物質的な報酬と社会的名誉 p14

    ◆近代国家の成立
    「近代国家とは、ある領域の内部で、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタルト的な支配団体であるということ。そしてこの独占の目的を達成するため、そこでの物的な運営手段は国家の指導者の手に集められ、その反面、かつてこれらの手段を固有の権利として掌握していた自立的で身分的な役職者は根こそぎ収奪され、後者に代わって国家みずからが、その頂点に位置するようになったということ。」p18
    ※アンシュタルト=意思と無関係に所属が義務付けられ、法秩序に基づく人間団体

    ◆職業政治家
    「同じく政治を職業とするといっても、二つの道がある。政治『のために』生きるか、それとも政治『によって』生きるか、そのどちらかである。…政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治『によって』生きる者であり、そうでない者は政治『のために』ということになる。ひとがこういった経済的な意味で政治『のために』生きることができるためには、…前提が必要である。つまり当人が…政治から得られる収入に経済的に依存しないですむこと、ずばり言えば、恒産があるか、でなければ私生活の面で充分な収入の得られるような地位にあるか、そのどちらかが必要である。…しかし財産があるだけでも不充分で、それに加えて、経済的に『余裕のある』こと、すなわち収入を得るために、自分の労働力や思考の全部か大部分を、絶えず働かせなくてもすむことが必要である。このような意味で無条件に余裕があるのはレンテ生活者、つまり純然たる不労所得者である。」p21
    「国家や政党の指導が、(経済的な意味で)政治によってではなく、もっぱら政治のために生きる人によっておこなわれる場合、政治指導者層の人的補充はどうしても『金権制的』におこなわれるようになる。…経験的にいって、資産家の場合には、自分の生活の経済的『安全』に対する配慮が―意識的・無意識的に―生活全体の方向を決める主眼点となっている。…要するに私の言いたいのは、政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要だということである。」p24

    ◆政党間の争い
    「政党間のすべての争いは本質的な目標をめぐる争いだけでなく、とりわけまた、官職任命権をめぐる争いでもある。…官職への割り込みで後れをとることは、政党にとって、本質的な目標にそむいた行動をとることよりも、もっと手痛い打撃と考えられている。」p26

    ◆近代的な官吏
    「長期間にわたる準備教育によってエキスパートとして専門的に鍛えられ、高度の精神労働者になった近代的な官吏は、他方で、みずからの廉直の証しとして培われた高い身分的な誇りをもっている。もし彼らにこの誇りがなかったら、恐るべき腐敗と鼻持ちならぬ俗物根性という危険が、運命としてわれわれの頭上にのしかかり、それによって、国家機構の純技術的な能率性(経済に対するこのような国家機構の重要性は、とくに社会化の進展につれて絶えず高まり、今後もますます高まっていくであろう)までが脅かされることになろう。」p27

    ◆専門官吏と「政治的」官吏 p28、32
    アメリカ 1883年、ペンドルトン法(連邦公務員法)
         猟官制(スポイルズ・システム)から実績主義・資格任用制(メリット・システム)へ
    イギリス 議院内閣制から情実任用へ

    ◆政党政治
    「政党による政治の運営とは、とりもなおさず利害関係者が政治を運営するということ」p39

    ◆官吏と政治家の違い
    「生粋の官吏は…その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、『行政』を―しかも何よりも非党派的に―なすべきである。…官吏である以上、『憤りも偏見もなく』職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的におこなわざるをえない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情―つまり憤りと偏見―は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。」p40
    「官吏にとっては、自分の上級官庁が、―自分の意見具申にもかかわらず―自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に―あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように―執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。」p41

    ◆政治と利害関係者
    「地域と仕事の範囲の点で、地方的な小行政地区のレヴェルを超えたかなり大きな政治団体において、権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる。すなわち、政治生活(つまり政治権力への参加)にとくに関心をもつ比較的少数の人たちが、自由勧誘という方法で部下を調達し、自分や子分を候補者に立て、資金を集め、票集めに乗り出すようになる。…この利害関係者による運営は現実の問題として、有権者を政治上の能動分子と受動分子とに分けることを意味する」p48

    ◆政治家の資質【情熱・責任感・判断力】
    「政治家にとっては、情熱―責任感―判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり『事柄』への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね『不毛な興奮』と呼んでいた、例の精神態度のことではない。インテリ、とくにロシアのインテリ(もちろん全部ではない!)のある種のタイプに見られた―ジンメルの言葉がぴったりな―態度、また現在『革命』という誇らしげな名前で飾り立てられたこの乱痴気騒ぎの中で、ドイツのインテリの間でも幅をきかせているあの精神態度。そんなものはむなしく消えていく『知的道化師のロマンティシズム』であり、仕事に対する一切の責任を欠いた態度である。実際、どんなに純粋に感じられた情熱であっても、単なる情熱だけでは充分でない。情熱は、それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規律となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力―これは政治家の決定的な心理的資質である―が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。『距離を失ってしまうこと』はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。…もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為であるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる。しかし、距離への習熟―あらゆる意味での―がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を『不毛な興奮に酔った』単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。政治的『人格』の『強靭さ』とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。」p77
    「だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離―この場合、自分自身に対する距離―にとって不倶戴天の敵である。」p79
    「政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ―それといつも同一ではないが、しばしば重なって現われる―無責任な態度の二種類にしぼられる」p80

    ◆戦後の品位
    「戦争が済んだ後でその勝利者が、自分のほうが正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じ(=騎士道精神に反する)である。あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら―戦争が社会構造によって起こったというのに―戦後になって『責任者』を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。『われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任―これが肝心な点―にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか』と。これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。」p83
    「国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能である。しかしそれはいわゆる『倫理』(自己弁護の『倫理』)によっては絶対不可能で、この場合の『倫理』とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが『倫理』はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは―もしそんなものがあるとすれば―こういう態度のことである。」p84

    ◆「心情倫理」と「責任倫理」 p89
    心情倫理 「キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる」
    責任倫理 「(予見しうる)結果の責任を負うべきだ」

    ◆政治家に求められること
    「無差別的な愛の論理を貫いていけば『悪しき者にも力もて抵抗うな』となるが、政治家にはこれと逆に、悪しき者には力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する」p87
    「最後に真実を述べる義務の問題がある。絶対倫理にとってこれは無条件のものである。つまり一切の文書、とりわけ自国に不利な文書もすべて公表し、この一方的な公表に基づいて、一方的、無条件的に、結果を考えずに罪の告白をなすべきだ、というのがそこから引き出された結論である。しかし、政治家なら、真実はこうした方法によっては結局明らかにされず、激情の濫用や暴発によって確実に蔽われてしまうということ、そうではなく、中立の第三者による周到で計画的な真実の確認作業、これだけが有効で、それ以外のどんな方法も、これを用いた国民に対して、数十年かかっても取り返しのつかないような結果をもたらす、という事実に気づくはずである。ところが『結果』などおよそ問題にしないのが、この絶対倫理である。」p88
    「政治にとって決定的な手段は暴力である。」p91
    「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」p94
    「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。」p99

    ◆結び
    「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければなかない。いや指導者であるだけでなく、―はなはだ素朴な意味での―英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ。」p105

  • 難しかった。何度か読まないとわからなそうなので,また読もう。

  • 一読しただけでは理解できず線を引き引き読み返した。背景であるドイツ革命も知らなかった。自分なりにまとめると「政治は暴力をともなう点が特殊なので職業政治家たるもの単に貴い理想を掲げるだけではダメで悪魔の力を駆使した上で政治の結果に責任を持つことが責務である」。なるほどそうだと思う。ただし政治家そのものは簡単に退場させられるので、むしろ政党やより中長期的には国民にもこの「責任倫理」が必要と思った。 

    全体を通して大阪の橋下さんのイメージがわく。 
    「弁護士が重要な意味をもったのは決して偶然ではない」 
    「本気で腐敗を退治しようとする場合、人民投票で選ばれ、自分の役所を自主的に編成する権限をもった強力な市長が出てくる」

  • 『立花隆の書棚』の中で、本書を読んだ人と読んでいない人とでは圧倒的な差があるといったようなことが書かれていたため、それならばと読んでみることにした。(対象は政治家だったかな)
    私のレベルでは差を出せるほどの読み込みは到底不可能であることは読み始めてすぐに悟ったが、それでも印象的な箇所はいくつかあった。
    特に、心情倫理と責任倫理の記述を読み、昨今は、いかに結果に対する責任などそっちのけで、心情倫理に基づいて声高に叫んでいる人のなんと多いことか!と妙に納得した。

  • (2014.12.12読了)(2013.01.24購入)
    衆議院が解散し、総選挙期間中なので、「政治」について考えてみようと、読んでみました。
    残念ながらよくわかりませんでした。マックス・ヴェーバーが1919年1月に行った講演をまとめたものということです。
    政治とは何であるかについて「あとがき」から引用しておきましょう。
    「ヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは「国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」。政治を行うものは、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって「倫理」ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。」(118頁)

    【目次】
    職業としての政治
    訳注
    あとがき  脇圭平

    ●国家(9頁)
    国家とは、ある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である
    ●権力(10頁)
    政治をおこなう者は権力を求める。その場合、権力を別の目的(高邁な目的又は利己的な目的)のための手段として追及するか、それとも権力を「それ自体のために」、つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追究するか、そのどちらかである。
    ●ジャーナリスト(43頁)
    ジャーナリストの責任のほうが学者よりはるかに大きく、責任感の点でも、誠実なジャーナリストになると、平均的に見て学者にいささかも劣るものではなく、―戦争の経験からも分かるように―勝ってさえいるということ、この点もほとんど完全に無視されている。
    ●政治家(76頁)
    資産状態からいって、政治「によって」生きることを余儀なくされた人の場合、恐らく今後も次のようなコースが選択の対象となるであろう。典型的な直線コースとしてはジャーナリズムか政党職員のポスト。そうでなければ、労働組合・商業会議所・農業会議所・手工業会議所・労働会議所・使用者団体といった利益代表のポスト、あるいは地方自治体の適当な地位。
    ●資質(77頁)
    政治家にとっては、情熱・責任感・判断力の三つの資質が特に重要であるといえよう。
    ●政治行為の結果(81頁)
    政治行為の最終結果が、往々にして、いや決まって、当初の意図とひどく喰い違い、しばしば正反対なものになる、というのは全く事実で一切の歴史の根本的事実である。
    ●暴力行使(97頁)
    人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。
    ●偉大な達人(100頁)
    無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは、ナザレの生まれであれ(キリスト)、アッシジの生まれ(聖フランチェスコ)、インドの王城の出であれ(仏陀)、暴力という政治の手段は用いはしなかった。
    ●政治(105頁)
    政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。

    ☆関連図書(既読)
    「日本改造計画」小沢一郎著、講談社、1993.05.20
    「総理の資質とは何か」佐伯啓思著、小学館文庫、2002.06.01
    「美しい国へ」安倍晋三著、文春新書、2006.07.20
    「大臣 増補版」菅直人著、岩波新書、2009.12.18
    「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの」菅伸子著、幻冬舎新書、2010.07.20
    「職業としての学問」ウェーバー著・尾高邦雄訳、岩波文庫、1936.07.15
    (2014年12月13日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。

  • 実は少し前に手に取り、その時は問題意識がピンとこなかったので読みかけて放置していた本だったのだが、上記のカール・シュミット的立場(一般意志を情念的で無意識的なものとして規定し、肯定すること)が後年のドイツで浮上したことを念頭におけば、ウェーバーが何を危惧していたかはありありと浮かんできた。
     分量として九割は「いかにして政治的権力は獲得されるか」という点について、時間軸ではギリシャから近代、地理的には西洋から中国に至るまでの各々の実例を挙げながら解釈しているが、主張は残り一割の99~106ページに凝縮されているような気がしてくる。表紙に引かれているように「あらゆる政治的原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。」この説明が九割の部分である。「そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な要求をつきつけずにはいられない。」ここが肝要の一割だったのではないか。
     東やシュミットが主張するように政治は理知だけでは動かないのは事実かもしれない。だからこそ政治が情念のみにとらわれ暴走する可能性を非常に危惧し、重い倫理を突きつけたのがウェーバーなのかもしれない。

  • 政治とは何か?国家とは。1919年に書かれたものとは思えぬほど現代にも言い当てはまることが多く、普遍的な政治家や国家の抱える命題を述べている。

    ジャーナリストについても述べているがまたこれも非常に言い当てている。

    現在、日本では政治と金の問題で大きく政治が揺れているが、まさにこの書に書かれているように政治家は自分の内部にありふれた人間的な敵<虚栄心>を克服していかなければいけない。

  • 「どんな事態に直面しても「それでもなお」と言い切る自信のある者だけが、政治への天職を持つ」。20世紀の古典にして、「君主論」と並び称される政治学の名著。1919年という、第一次世界大戦の敗戦により混乱の極みにあったドイツで書かれた本書は、アメリカやイギリスの例を出しながら、理想の政治とは、理想の政治家とはを語る。100年前に書かれたとは思えないほど、新鮮な驚きと、本質を突いた至言に満ちた一冊。古典を読む面白さは、無駄を削ぎ落としたシンプルさにあると思う。

  • なかなか勉強になった。国家とはなんぞや。それを運営する政治家とは。という。いろんなタイプの政治家がいて、いろんなタイプの国家がある。その運営システムとそこで現れる政治家、官僚の姿を語っている。アメリカ型の国家運営の性格と変遷などは客観的で面白かった。こういうことももっと語られていかないといけないなと思う。政治をする時の倫理などもあり、面白く読み終えた。

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著者プロフィール

マックス・ヴェーバー(Max Weber)
1864年4月21日 - 1920年6月14日
ドイツの政治学者・社会学者・経済学者。社会学における重要な概念、方法論を築く。
西欧近代文明の根本原理に「合理性」があり、文明の発展を「現世の呪術からの解放」の系譜として考察した論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を記す。これが代表作の一つとなる。
ほか、講演『職業としての学問』『職業としての政治』がまとめられ、広く世に読まれている。

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