職業としての政治 (岩波文庫 白209-7)

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  • 岩波書店 (1980年3月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (128ページ) / ISBN・EAN: 9784003420973

みんなの感想まとめ

政治の本質を深く掘り下げるこの作品は、権力と暴力の関係性を鋭く指摘し、政治家に求められる資質や倫理について考察しています。著者は、政治が持つ暗い側面を明らかにしながらも、その中で情熱や責任感を持つ者こ...

感想・レビュー・書評

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  • 職業としての政治
    著:ヴェーバー,M.(マックス)
    訳:脇 圭平
    紙版
    岩波文庫 白209-7

    マックス ヴェーバーは、19世紀から20世紀にかけてのドイツの社会学者であり、本書は、1919年1月28日にミュンヘン大学での講義をまとめたものです。本書は章立てがなく単一の構成になっています。
    流れとしていくつかのブロックに分かれていると感じましたがあっておりますでしょうか。

    気になったのは以下です。

    <政治とは何か>

    ・国家、または、その指導に影響を与えようとする行為 が本書の対象である

    ・政治的な団体とは、国家であり、近代的の先駆となった団体である

    ・全ての国家は暴力の上に基礎づけられている

    ・国家とは、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である
     国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められない

    ・公務員の活動範囲を規定するものが、権力の配分・維持・変動に関する利害関心である
    ・政治を行う者は権力を求める
      ①権力を別の目的のための手段として追求するか
      ②権力を「それ自体のために」、つまり、権力自体がもたらす優越感を満喫するために追求するか
     のどちらかである

    <権威と行政機構>

    ・支配の内的な正当化、つまり、正当性の根拠とは、原則として3つある
     ①伝統的支配:ある習俗がはるか昔から通用しており、しかも、これを守り続けようとする態度が習慣的にとられることによって神聖化した場合。家父長、領主など
     ②カリスマ的支配:ある個人に備わった非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導的資質に対する、人格的な帰依と信頼に基づく支配
     ③合法性支配:制定放棄の妥当性に対する信念と、合理的に作られた規則に依拠した客観的な権限に基づいた支配。法規の命ずる義務の履行と言う形で行われる

    ・現実における政治権力闘争は、どこまでも、政治家個人の力だけで、できるものではない。
     決定的に重要なのは、彼らの手足となって働く補助手段の方である

    ・どんな支配機構も、継続的行政を行うためには、2つの条件が必要である
     ①人的な行政スタッフ
     ②物的な行政手段
     の2つである

    ・権力者の側で、人的行政スタッフを自分で所有するか、行政スタッフが行政手段から切り離されているか
     ①物的行政手段の全部ないし、一部が、権力者に仕える行政スタッフの手に直接握られている場合
     ②今日の国家のように、行政スタッフ、つまり事務完了と行政労働者の物的行政手段からの分離が完全になされている場合
     である

    <職業政治家とは>

    ・副次的政治家とは、召集があって初めて動き出す枢密院の顧問官や、諮問機関のメンバー、会期中しか政治をしない代議士など

    ・金持ちの職業政治家だと、自分の政治上の仕事に対する報酬を直接求めなくてするが、財産がないと否でも応でも報酬を求めざるをえなくなる

    ・指導者とその部下が、金権制的でなく方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによって、その人の定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要である

    <政治家の助言者と官吏>

    ・オリエントでは、スルタンになるべく政治の結果に対する個人的責任を負わせないため、「大宰相」という独特なタイプの政治家が作り出された

    ・政治的に利用できる階層とは
    ①聖職者
    ②文人
    ③宮廷貴族
    ④小貴族、貴紳
    ⑤法律家

    ・専門官吏はデマゴーグではないし、本来の目的からいってデマゴーグであってはならない
    ・その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、「行政」を、しかも何よりも非党派的になすべきである
    ・少なくとも建前としては、官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである

    <選挙と政党の組織化>

    ・智訪韓の選挙協定の可能性、全国の広汎な層の商人をうけた統一的な綱領と、広く全国にわたった統一的な宣伝活動の効力、こういったものに対する代議士の関心が原動力になって、政党の組織が進んでくる

    ・有休の職員はまだ本部にしかおらず、地方支部を指揮するのはいつの場合も、「名士」である
     この名士は日頃からの顔を体面を保つため、この仕事をひきうけた院外の「名望家」たちで、元代議士の政治的名望家総とならんで幅を利かせていた

    ・この名望家仲間の支配、とくに代議士支配の牧歌的状態と鋭い対照をなしているが、近代的政党組織である
     これを生み出したのは、民主制、普通選挙権、大衆獲得と大衆組織の必要、指導における最高度の統一性と
    極めて、厳しい党規律の発達である。
    ・名望家支配と代議士による操縦は終わりを告げ、院外の「本職」の政治家が、経営を握るようになる

    ・凡庸な人間から成り立っている政党の抽象的な綱領のためだけでなく、ある一人の人間のために献身的に働いているのだという満足感、すべての指導者資質にみられるこの「カリスマ的」要素、が彼らの精神的な動機の必つである

    ・すべての権力は、党の頂点に立つ少数者の手に、最後には一人の手に集中されることになった

    <職業政治家に求められる資質>

    ・精神的な防備のない人間、自分自身に向かって正しい答えの出せない人間はこういう職業に手をださぬがいい
     この職業には、どんな場合でも重大な誘惑がつきまとい、また絶えず失望をなめさせるからである

    ・個人的な前提条件とは
    ①権力感情:形式的にはたいした地位にない職業政治家でも、自分は今、他人を動かしているのだ、彼らに対する権力にあずかっているのだという意識、感情によって日常生活の枠を超えてしまったような昂揚的な気分になれるものである
    ②情熱、責任感、判断力:精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、すなわち、事物と人間に対して、距離を置いて見ることが必要である

    ・政治の領域における大罪とは
    ①仕事に本質に即しない態度
    ②無責任な態度
     権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシズム、要するに、純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させゆがめるものはない

    ・国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害だけは断じて許さない

    ・マタイ伝26章 「剣をとる者は剣によって滅ぶ」

    <政治家の義務>

    ・一切の文書、とりわけ自国に不利な文書もすべて公表し、この一方的な公表について、一方的無条件的に結果を考えずに罪の告白をなすべきだ

    ・ここに決定的な問題がある
     まず我々が銘記しなければならないのは、倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に2つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ
     すなわち、心情倫理的の方向づけれている場合と、責任倫理的に方向づけられている場合があるとことである

    ・現状は違う。現在どのグループが表面上勝利をえていようと、いま我々の前にあるのは、花咲き乱れる夏の初めではなう、差し当たっては凍てついた暗く厳しい極北の夜である

    目次

    職業としての政治
    訳注
    あとがき

    ISBN:9784003420973
    出版社:岩波書店
    判型:文庫
    ページ数:128ページ
    定価:520円(本体)
    1980年03月17日第1刷
    2002年04月15日第39刷

  • 100ページ程度であるが、読み切るのに非常に時間がかかった。今の自分には必要のない本であったかもしれない。
    内容については「あとがき」に端的にまとめてある。それは本書を読まないと面白さに欠けると思う。

    最近耳にした、「政治屋」という言葉がなんとなく思い浮かんだ。政治の本質は権力と暴力性にある。
    「政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。
    さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。」p94


    「もう数年戦争が続いて革命が起こるのと、いますぐ講和して革命が来ないのと、どちらを選ぶかとなれば、われわれはもう数年戦争の方を選ぶ」p91

    上記は革命的社会主義者たちが戦争の最中に宣言した原則である。
    今の平和な“日本”ならば「講和して革命が起こる」を選択したい。

  • 1919年1月にミュンヘンで行ったマックス・ヴェーバーの講演記録。
    ドイツが第一次世界大戦に敗れて数カ月しか経っていない時期に行われた講演で、この内容もそうした時代性に規定されざるをえない部分が垣間見られるが、その政治と向き合う態度を説く論理は現在にも通じるといえるだろう。いや、むしろこの講演で抽出される政党、ジャーナリスト、政党人、政治姿勢は現在の日本政治を基としているのかと見紛うばかりの様相であり、時代を超えて読まれるべき作品だ。
    中でも、ラスト30ページほどは政治と向き合う姿勢・倫理が論ぜられており、本書を通して最も力説されている部分であるが、巻末解説に丁寧に概観されていて理解もたやすい。
    政治とは権力であり権力は暴力と結びついたものと達観した上で、政治家は情熱・責任感・判断力の資質が特に重要で、目的のために手段を選ばず結果責任を負うために悪魔と手を結ぶこともあるが、「それにもかかわらず!」と言い切る人間のみが政治を「天職」とできるとしている。
    時代に規定された一番の部分をあえて言うならば、ヴェーバーは10年後に敗戦直後のドイツが行き着いた先を見極めた上でもう一度議論したいと述べているが、政治倫理の源泉と発露次第ではその後のドイツ(そして世界)が辿る歴史に結びつくことを考えると、愚衆・愚政治家(心情倫理家)との対置だけでは不十分だったいえるだろう。

  • マックス・ウェーバーは、プロイセンで19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した社会学者です。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が有名です。

    この本は、彼の死の前年ミュンヘン大学で行われた講義をまとめたものです。視点がやや狭くて大変恐縮ながら、政治家として必要とされる倫理について論じた以下の点が、特に印象に残りました。

    「情熱は、それが仕事への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家を作り出す」

    ウェーバーはこの下りで、政治家の重要な資質として、責任を引き受けることを行動規範とすることを挙げています。

    政治を論じた本書ではあるものの、組織の中で上に立つポジションであれば、ウェーバーのこの言葉の重みを感ぜざるを得ないところかもしれません。

    責任を伴わない情熱は、「そんなものはむなしく消えていく知的道化師のロマンティシズム」と断ぜらせているあたり、ウェーバーの政治家に対する視線は、当時の動乱の時代、大変厳しいものであったろうことが、察せられます。

  • 政治というものを成立させる構造、求められる資質。
    後ろ暗い、というといいすぎかもしれないが政治の美しくない部分、権力と不可分であることやある種の暴力の起点であることなどを暴きつつ、それでも突き進むものこそが政治家としての天分を与えられたもの。
    美しい表面を掬い上げ政治家を志す者には相当耳が痛いのではないだろうか。

    こういった政治の本質については、政治に関わらないものにも広く教育を与えたほうがよいのではないかと感じた。市井の人間が理想に描く政治と肌感覚で受け取る政治の乖離の正体は、ここに描かれているように思えてならない。

  • 『立花隆の書棚』の中で、本書を読んだ人と読んでいない人とでは圧倒的な差があるといったようなことが書かれていたため、それならばと読んでみることにした。(対象は政治家だったかな)
    私のレベルでは差を出せるほどの読み込みは到底不可能であることは読み始めてすぐに悟ったが、それでも印象的な箇所はいくつかあった。
    特に、心情倫理と責任倫理の記述を読み、昨今は、いかに結果に対する責任などそっちのけで、心情倫理に基づいて声高に叫んでいる人のなんと多いことか!と妙に納得した。

  • 政治屋(politician)は次の選挙を考える。政治家(statesman)は次の世代を考える。ジェイムズ・フリーマン・クラークClarke(1810-1888) ※アメリカの神学者

    国家とは空間的に限定された排他的な支配領域をもち、そこに定住する人間の統一体。ゲオルク・イェリネックJellinek『一般国家学』1900

    ※ドイツ、第1世界大戦に敗北。キール軍港の水兵反乱、ヴィルヘルム2退位、エーベルト臨時政府(1918)

    政治とは政治団体と国家の指導に影響を与えようとする行為。政治活動とは権力の配分・維持・変動にかかわる活動。権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力▼国家とは一定の領域内で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体▼政治家は党派ごとに権力をめぐる闘争を行うが、官僚(行政スタッフ)はあくまで非党派的に偏りなく仕事をする。政治家はその責任を一人で負うが、官僚は上の命令を自分の信条と関係なしに誠実・正確に実行する。官僚に向いてる人は、政治家には向かない(p.47)。政治家は情熱と責任感、判断力が求められる(p.89)。虚栄心・自己陶酔のために権力を求めるのはダメ。権力のために権力を求めるのはダメ▼自分の行為の結果に責任をもたない官僚が力を増大させれば、議会の力が弱体化してしまう。そこで民主的に強力な指導者を選出し、そのカリスマ性により官僚の力を制約する必要がある▼ドイツの大統領に強大な権限を与える。ドイツ人はイギリス人ほど民主政治に馴れておらず、議会と内閣が対立したときに調停する大統領が必要。ヴェーバーWeber『職業としての政治』1919

    国家とはある地域的に限定された共同社会で社会秩序を維持する団体。秩序を維持するため、政府は法に基づいて強制権力を付与される。マッキーヴァー『近代国家』1926

    政治家になるような人間は自尊心が低い。政治家になれば、権力や特権が手に入る。自らの低い自尊心を埋め合わせるために政治に没頭する。公共利益を掲げているが、その背後には私的な動機がある。ハロルド・ラスウェル『権力と人間』1930

    経済で重要な区別は利益になるか利益にならないか。芸術で重要な区別は美しいか醜いか。道徳で重要な区別は正しいか正しくないか。政治で重要な区別は味方なのか敵なのか。政治的敵は、道徳的に悪である必要はないし、美的に醜い必要もない(p.22)。敵と味方は、隠喩・象徴の話法ではなく、私的な感情や心理的表現ではない。規範的な対立でもない。政治とは異なる考えをもつ人々の間で妥協し、均衡を生み出す行為ではない▼政治とは異質な敵をはっきりさせ、同質の友の範囲を確定するもの。自由主義は「敵」を単なる競争相手、単なる討論の反対者へ解消しようとする。しかし、敵と味方の区別という不愉快なことに沈黙したり、敵は存在しないかのように振る舞おうとしても、諸国民が敵と味方に分かれて対立している現実を否定できない(p.124)。この敵と味方の区別が極端になればなるほど、政治的になる▼政治的統一の本質は、統一の内部で極端な味方と敵の対立状態を排除する点にある(p.125)。国家はあらゆる政治的決定を独占することで、国家内の和平をもたらそうとする。カール・シュミットSchmitt『政治的なものの概念』1932
    〇マルクスは、地上の多くのブルジョアジーを唯一のブルジョアジーに、地上の多くのプロレタリアートを唯一のプロレタリアートにまとめ上げ、強力な味方と敵のグループ分けを創り出すことで、世界市場のあらゆる闘争を、唯一の最終的闘争に集約しようとした(p.87)。

    政治とは一定の支配単位内の諸利害を、権力を参加させつつ調停する活動。バーナード・クリックCrick『政治の弁証』1962

    政治に固有の性質はいかなる時・場所でも、相反する価値・感情を含んでいること。二つの顔をもったヤヌス(門戸の守護神・ローマ神話)のイメージこそ国家の象徴であり、政治の現実を表すもの。モーリス・デュベルジェ(1917-2014)

    政治とは、多くの人々の間で正当とされる方法で紛争を調停・和解させること。バーナード・クリックCrick『政治とは何か/現代政治学入門』1987

  • 1919年1月にヴェーバーがミュンヘンで大学生に対して行った講演を纏めたもの。この時期のドイツは、第一次世界大戦における敗戦の結果、騒然たる革命の雰囲気に包まれていた。すなわち、1918年11月3日のキール軍港の水兵反乱を機に大衆が蜂起、皇帝ヴィルヘルム2世は廃位され、その後ヴァイマール共和国が樹立された(ドイツ革命)。この間には、ロシア革命の再現を狙うスパルタクス団(共産主義者)の蜂起があった。

    「あとがき」によると、「熱烈なナショナリストでもあったヴェーバーにとって祖国の敗北はたしかに大きなショックであったが、それ以上に彼を悲しませ、やり切れない思いに駆り立てたのは、この戦争の結果(敗戦の事実)をあたかも『神の審判』のように受けとり、自虐的な『負目の感情』の中で、ひたすらに『至福千年』の理想を夢み、『革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい謝肉祭』にわれを忘れて陶酔し切っているかにみえる一部の前衛的な学生や知識人の、善意ではあるが独りよがりは『ロマンティシズム』であった」(p117)。こうした思いから、ヴェーバーは政治に身を投じる者の備えるべき資格と覚悟について痛烈な問題提起を行う。

    「あとがき」およびそこでの本書要約(以下)が秀逸。
    「さてヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは『国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である』。政治をおこなう者は、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって『倫理』ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。しかし一切の『政治が権力―その背後には暴力が控えている―というきわめて特殊な手段を用いておこなわれているという事実』は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。主観的にどれほど『高貴な意図』から出たにせよ、それだけでは、おのれの権力行使を倫理的に免責できぬはずである。たしかに行動が虚無におちいらないための内的な支えとして、信念(理想)をもつことは必要である。しかし政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力である以上、『信念』だけではすまされない。キリスト教的絶対倫理(福音の倫理)と相容れない政治の世界に身を投じた者が『魂の救い』まで期待することは許されない。目的と手段の緊張関係は、ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善のみが生ずるといまだに信じている者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない『政治的未熟児』である。指導者のよき動機もしばしばその仲間の、あるいは部下(『人間装置』)の余りに人間的な動機によって裏切られるというのが、政治の現実である。『政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶもの』である。しかもこの悪魔は恐ろしくしつこく老獪である。『もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう』。可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間だけが、政治への『天職』をもつ―こうヴェーバーは結んでいる。」(p118)

  • 難しかった。何度か読まないとわからなそうなので,また読もう。

  • 一読しただけでは理解できず線を引き引き読み返した。背景であるドイツ革命も知らなかった。自分なりにまとめると「政治は暴力をともなう点が特殊なので職業政治家たるもの単に貴い理想を掲げるだけではダメで悪魔の力を駆使した上で政治の結果に責任を持つことが責務である」。なるほどそうだと思う。ただし政治家そのものは簡単に退場させられるので、むしろ政党やより中長期的には国民にもこの「責任倫理」が必要と思った。 

    全体を通して大阪の橋下さんのイメージがわく。 
    「弁護士が重要な意味をもったのは決して偶然ではない」 
    「本気で腐敗を退治しようとする場合、人民投票で選ばれ、自分の役所を自主的に編成する権限をもった強力な市長が出てくる」

  • (2014.12.12読了)(2013.01.24購入)
    衆議院が解散し、総選挙期間中なので、「政治」について考えてみようと、読んでみました。
    残念ながらよくわかりませんでした。マックス・ヴェーバーが1919年1月に行った講演をまとめたものということです。
    政治とは何であるかについて「あとがき」から引用しておきましょう。
    「ヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは「国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」。政治を行うものは、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって「倫理」ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。」(118頁)

    【目次】
    職業としての政治
    訳注
    あとがき  脇圭平

    ●国家(9頁)
    国家とは、ある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である
    ●権力(10頁)
    政治をおこなう者は権力を求める。その場合、権力を別の目的(高邁な目的又は利己的な目的)のための手段として追及するか、それとも権力を「それ自体のために」、つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追究するか、そのどちらかである。
    ●ジャーナリスト(43頁)
    ジャーナリストの責任のほうが学者よりはるかに大きく、責任感の点でも、誠実なジャーナリストになると、平均的に見て学者にいささかも劣るものではなく、―戦争の経験からも分かるように―勝ってさえいるということ、この点もほとんど完全に無視されている。
    ●政治家(76頁)
    資産状態からいって、政治「によって」生きることを余儀なくされた人の場合、恐らく今後も次のようなコースが選択の対象となるであろう。典型的な直線コースとしてはジャーナリズムか政党職員のポスト。そうでなければ、労働組合・商業会議所・農業会議所・手工業会議所・労働会議所・使用者団体といった利益代表のポスト、あるいは地方自治体の適当な地位。
    ●資質(77頁)
    政治家にとっては、情熱・責任感・判断力の三つの資質が特に重要であるといえよう。
    ●政治行為の結果(81頁)
    政治行為の最終結果が、往々にして、いや決まって、当初の意図とひどく喰い違い、しばしば正反対なものになる、というのは全く事実で一切の歴史の根本的事実である。
    ●暴力行使(97頁)
    人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。
    ●偉大な達人(100頁)
    無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは、ナザレの生まれであれ(キリスト)、アッシジの生まれ(聖フランチェスコ)、インドの王城の出であれ(仏陀)、暴力という政治の手段は用いはしなかった。
    ●政治(105頁)
    政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。

    ☆関連図書(既読)
    「日本改造計画」小沢一郎著、講談社、1993.05.20
    「総理の資質とは何か」佐伯啓思著、小学館文庫、2002.06.01
    「美しい国へ」安倍晋三著、文春新書、2006.07.20
    「大臣 増補版」菅直人著、岩波新書、2009.12.18
    「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの」菅伸子著、幻冬舎新書、2010.07.20
    「職業としての学問」ウェーバー著・尾高邦雄訳、岩波文庫、1936.07.15
    (2014年12月13日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。

  • 実は少し前に手に取り、その時は問題意識がピンとこなかったので読みかけて放置していた本だったのだが、上記のカール・シュミット的立場(一般意志を情念的で無意識的なものとして規定し、肯定すること)が後年のドイツで浮上したことを念頭におけば、ウェーバーが何を危惧していたかはありありと浮かんできた。
     分量として九割は「いかにして政治的権力は獲得されるか」という点について、時間軸ではギリシャから近代、地理的には西洋から中国に至るまでの各々の実例を挙げながら解釈しているが、主張は残り一割の99~106ページに凝縮されているような気がしてくる。表紙に引かれているように「あらゆる政治的原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。」この説明が九割の部分である。「そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な要求をつきつけずにはいられない。」ここが肝要の一割だったのではないか。
     東やシュミットが主張するように政治は理知だけでは動かないのは事実かもしれない。だからこそ政治が情念のみにとらわれ暴走する可能性を非常に危惧し、重い倫理を突きつけたのがウェーバーなのかもしれない。

  • 政治とは何か?国家とは。1919年に書かれたものとは思えぬほど現代にも言い当てはまることが多く、普遍的な政治家や国家の抱える命題を述べている。

    ジャーナリストについても述べているがまたこれも非常に言い当てている。

    現在、日本では政治と金の問題で大きく政治が揺れているが、まさにこの書に書かれているように政治家は自分の内部にありふれた人間的な敵<虚栄心>を克服していかなければいけない。

  • ●2026年5月4日、YouTubeアプリ開いたら出てきたオススメ動画をみてた。

    そのコメント欄に「社会学者マックスウェーバーだったかな、人々は橋の中に捉えられ、必ず滅ぶ 艦を破ることは狂気。どちらが間違っているとは言えない」という書き込みを見つけたので、マックスウェーバーの著書をGoogle検索ででるAIのおすすめにならって、ブクログ登録した。

    Google検索AI:
    「マックス・ウェーバーのおすすめ本は、資本主義の起源を説いた名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称『プロ倫』)や、学問・政治のあり方を説いた『職業としての学問/政治』が代表的です。初めて読むなら、薄くて読みやすい『職業としての学問』『職業としての政治』から始めるのがおすすめです。」

    「おすすめの3冊:
    1.『職業としての学問・職業としての政治』(岩波文庫など)
    ・特徴: 現代社会を生きる上での指針となる講演録。学問に対する誠実さや、政治に求められる責任について語られています。

    2.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫など)
    ・特徴: 近代資本主義がプロテスタントの倫理観から生まれたと論じた主著。難解ですが、ウェーバーを知るには不可欠な一冊。

    3.『宗教社会学論選』(岩波文庫)
    ・特徴: 世界の宗教と経済の関係を分析した論集。

    読む際のポイント:
    ウェーバーの著作は学術的で硬い文章が多いため、まずは解説書や講談社学術文庫などの注釈が充実している版を選ぶと理解しやすくなります。 」

    視聴したYouTube動画:
    〈【人生最後】に後悔しないための思考法。なぜ
    人生を破壊するほどの狂気が人生を幸福に導く のか?〉
    https://youtu.be/9K47XWknpgE?si=PhkHflMaka67A0EN

  •  本書で論じられるのは、いわゆる「政治家」の在り方ではない。ヴェーバーが政治について論じる際に常に用いた定義は、「政治とは政治団体の指導またはその指導に影響を与えようとする行為」(8頁)である。政治団体とは、「国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である」(10頁)。つまり、「正当化された暴力」による「支配」(=正統性のある権力)が現に普遍的に存在することを前提として議論を始めているのである。これはあまりにも悲しい指摘であり、ここで議論を打ち切ってしまいたくなるほどの厳然たる事実である。現代西欧においては領域的国家によって権力が独占されていることが(少なくとも独占すべきだと国民が要求していることが)(9頁)せめてもの救いであろうか(当然、「領域」であること、「国民」であることが新たな問題を生じさせることは小さな問題ではない)。
     なぜ権力の存在を前提としなければならないのかという嘆かわしい問題はひとまずおくとして、政治を権力とのみ関係づけることは、利益の配分が政治とは無関係とは言えないとしても、必ずしも同一ではないということを示している。つまり、「経済経営における管理と政治的管理との間には多分に類似点がありながら、根本的には全く違った法則に従っている」(18ページ)のであって、「[ドイツ革命において]政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を手に入れた彼らは…...資本主義的経済経営内部での収奪の方も大丈夫だ、と本当にいえるかどうか、これは別問題」(18ページ)なのである。政治的な闘争はその正当化をどこに示そうがそれは政治的な闘争に過ぎず、例えば社会主義経済の実現とは無関係だという非情な宣告である。
    「政治家」とはこうした特殊な意味での「政治」団体の指導者、またはその指導に影響を与えようとする者のことである。

     では、ドイツ革命は「政治的」にどのように分析されるのか。ヴェーバーはまず世界の歴史的事実から理念型を抽出していく。

    ・職業政治家の2つの形態「政治指導者」、「政治団体のスタッフ」
    ・政治「によって」生きるか、政治「のために」生きるか
    ・「官吏団」と「指導型の政治家」
    ・「専門官吏」と「『政治的』官吏」
    ・政治家の7つのタイプ「聖職者」、「文人」、「宮廷貴族」、「ジェントリ」、「法律家」、「デマゴーグ(ヴェーバーは現代においてはジャーナリストをこの典型と考えている)」、「政党職員」
    ・政党のタイプとしての「名望家ギルド」と「人民投票的な集票マシーン」

    本書では時間の制約もあるためであろうか、理念型を用いた分析はほとんど行われず、社会学的な相関の証明も行われない。それもあってかドイツの現状分析については極めて抑制的であり、ドイツ革命の今後についてはほとんど何も語られない。数少ない内容を拾っていくと少しだけヴェーバーの心情が見えてくる。

    ・「官吏として倫理的にきわめてすぐれた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間がーー残念ながらわがドイツのようにーー指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態、これが『官僚政治』と呼ばれているものである」(41-42頁)
    ・「ドイツでは、このジャーナリストのキャリアーは、それが他の点でどれほど魅力に富み、そこから生まれる影響力や活動の可能性、特に政治的責任がどれほど大きなものであっても、今のことろ政治指導者に出世するためのノーマルなコースではないーーこの「ない」がもはやないの意味なのか、それとも、まだないの意味なのかは、もう少し待ってみないと何も言えない」(46頁)
    ・ドイツ政党は「名望家ギルドへの発展の道をたど」(71頁)り、「議会の無力を生み出した」(70頁)
    ・第一次大戦における敗北を期に、ドイツでは「一つの転換が多分進行しつつある。多分であって、確実に、ではない」(73頁)。しかし、それは「指導者さえいたら、多分新しい装置が生まれていただろう、ということの一つの兆候に過ぎなかったのである」(同)
    ・「ぎりぎりのところ道は二つしかない。『マシーン』を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ『職業政治家』の支配を選ぶかである。そして後者は、党内反対派の立場からよく『派閥』支配と呼ばれるものである。現在のところドイツにはこれしかない」(74頁)

    こういった分析は、ヴェーバー自身の「政治」の定義からの逸脱を感じさせる。「官僚」は権力との関係から切り離して考えることはできず、ヴェーバーの定義からすれば当然「政治家」であるはずである。しかし、「専門官吏」は「『政治的』官吏」とは対置され、政治家に向かない人間とされる。議会の外で現に権力を握っている「名望家」は議員として議会で多数派を形成しながらも、議会を無力化しているとさえ言われ、統治の正当性を剥ぎ取られ権力から追放されてしまわんばかりである。

     ヴェーバーは続けて、では政治家にとっては何が重要なのかと問う。これはすでに社会学の問いではない。答えて曰く、情熱、責任感、判断力(Augenmaß。カントの言うUrteilskraftではない))である、と(77頁)。この3つの要素は備わっていると望ましい性質というにとどまらない。「情熱は、それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力……が必要である」(77頁)。つまり、これらの要素は有機的に連関しており、これらが備わったときに初めて「政治家」となる。これは冒頭の政治家の定義まで歪めるものである。もっともこの定義は、純粋な権力崇拝としての「権力政治」に対する批判であって、つまり「〔政治〕行為にとって内的な支柱が必要である」(81頁)という西洋の常識に基づくものであるとしても、ここまでの厳密な議論を蔑ろにする通俗的な議論であるという印象は拭いきれない。まるで、誰も「責任」を取ろうとしないドイツの現状を悲観し、ジャーナリストや政党職員の中から指導者としての資質のある「デマゴーグ」か登場し、集票「マシーン」を駆使して指導者民主制を実現することを待望するかのようである。ここにはもはや価値中立的な社会学者としてのヴェーバーの姿はない。聴衆へのリップサービスも多少はあるであろうが、価値自由を標榜する学者としての姿と峻別されたナショナリストとしてのヴェーバーが顔を覗かせたというところであろうか。

     一方で、ヴェーバーは、政治においては当人の主観的目的に反することが容易に起こりうることを認めている(81頁)。これでは、政治家の資質はその結果になんら関係がなくなり、内的支柱は単に「信仰」の問題に過ぎないことになる。まさしく政治的責任は倫理の問題ではなく「現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神、とりわけ品位」(84頁)の問題である。しかし、このことは倫理の誤った理解に基づく歪曲である。結果が起こった後で「責任者」や「理由」を探し、自らを「正当化」するのは「『倫理』が『独善』の手段として利用されたことの結果である」(84頁)。
     では、政治における「倫理」とは何か。ヴェーバーがまず取り上げるのは結果を考慮しない無条件的な「心情倫理」である。「心情倫理」は山上の垂訓(絶対的な福音の倫理)であるがゆえに、自由主義者であると同時にキリスト者としてのヴェーバーが終生取り組まざるを得ない問題であった。特に「政治」においてはそれ自体絶対悪である「暴力」が必ず伴う。もちろん「暴力」は「暴力」を生み、「非暴力」は「暴力」を産まないということはないが、絶対的な倫理はこれを許さない。「政治」はその定義からして「正当化」された暴力を伴うがゆえ、なんらかの欺瞞が避けられないことになる。
     そこで、もう一つ導入されるのが「責任倫理」である。予見しうる結果の責任を負うべきだとするものである。この正反対な倫理は、むろん宗教的には交わることはない。しかし、ヴェーバーはこの相対立する二つの概念を政治においては調和しうる、というよりむしろ「両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである」(103頁)という。というのも、暴力を必然的に伴う政治においては、「責任倫理」に従って行動する政治家が結果を予見しつつそれでもなお(デンノッホ)「心情倫理」に従って行動せざるを得ないという事態が普遍的に生じるからである。
     以上のように、一見すると価値理念の表明にすぎないような政治における倫理の分析は、実はヴェーバーの研究の核心であり続けた、理解社会学(主観と客観の両面からの動機の統合)と、キリスト者としての自由の問題が凝縮している。つまり、人間は生きる限りこの矛盾を解消せざるを得ず、それを学問的に把握するのが社会学の課題なのである。10年後に再び今日の社会状況と将来の社会状況を結びつける作業を通してこの学問的手法正しさを確認しようという呼びかけにも、ヴェーバーの自信が溢れている。

  • 情熱、責任、判断、政治家に必要な資質をヴェーバーは指摘したが、第一次世界大戦後のドイツについてどのように思っていたのだろうか。

  • 20191227
    当時多くの身内である知識人階級も参加したドイツ革命に対して、一般論を説明しながら痛烈に批判した講演の記録。

    ・継続的な支配のためには①支配の正統性②支配の構造の2つが必要である。①支配の正統性は、伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配の3類型がある。②支配の構造とは、暴力を伴うペナルティーとインセンティブを管理する行政スタッフと行政手段である。支配の構造は歴史とともに、封建制→君主独裁→近代的民主制と変遷してきている。

    ・支配を担う政治家には、情熱・責任感・判断力が必要である。本書が書かれた頃にドイツ中の知識人が参画していたドイツ革命(1919)はザッへ(現実問題)と結びつかない、責任感のない妄想であって情熱ではない。政治家に求められる姿勢とは、ザッへに対する責任感を持ち、その実現に向けて情熱をもっていて、そのメリットデメリットをもとに冷徹な判断力をもって時に目的からずれる/暴力を伴う手段を用いる態度である。

  • 世のために政治を行うものがどのようにあるべきかが書かれている。


  • 政治とは何か。

    心情倫理と責任倫理。理想を語るだけでは政治家足り得ないし、正当化の中で信仰を失っては暴走する。責任倫理を経た上で、心情倫理に立つ。どんな事態になっても、情熱責任感判断力を以て政治を行うこと。


    理想を語るだけの政治に一石を投じ、倫理だけでは解決しないことを述べている。また、政治を悪魔と契約する事で、その中でも自分を保つべきということを述べている。確実に現代政治にも通ずる。


    職業政治家って現代に当たるとどんな人間なのか具体例が思い浮かばなかった。あと、ここで使っている倫理の意味が、最初はいつも使ってる言葉遣いと違って釈然としなかったりした。倫理に対して、常に正しいと思ってたから。

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