職業としての政治 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420973

作品紹介・あらすじ

あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。

感想・レビュー・書評

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  • 1919年1月にミュンヘンで行ったマックス・ヴェーバーの講演記録。
    ドイツが第一次世界大戦に敗れて数カ月しか経っていない時期に行われた講演で、この内容もそうした時代性に規定されざるをえない部分が垣間見られるが、その政治と向き合う態度を説く論理は現在にも通じるといえるだろう。いや、むしろこの講演で抽出される政党、ジャーナリスト、政党人、政治姿勢は現在の日本政治を基としているのかと見紛うばかりの様相であり、時代を超えて読まれるべき作品だ。
    中でも、ラスト30ページほどは政治と向き合う姿勢・倫理が論ぜられており、本書を通して最も力説されている部分であるが、巻末解説に丁寧に概観されていて理解もたやすい。
    政治とは権力であり権力は暴力と結びついたものと達観した上で、政治家は情熱・責任感・判断力の資質が特に重要で、目的のために手段を選ばず結果責任を負うために悪魔と手を結ぶこともあるが、「それにもかかわらず!」と言い切る人間のみが政治を「天職」とできるとしている。
    時代に規定された一番の部分をあえて言うならば、ヴェーバーは10年後に敗戦直後のドイツが行き着いた先を見極めた上でもう一度議論したいと述べているが、政治倫理の源泉と発露次第ではその後のドイツ(そして世界)が辿る歴史に結びつくことを考えると、愚衆・愚政治家(心情倫理家)との対置だけでは不十分だったいえるだろう。

  • マックス・ウェーバーは、プロイセンで19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した社会学者です。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が有名です。

    この本は、彼の死の前年ミュンヘン大学で行われた講義をまとめたものです。視点がやや狭くて大変恐縮ながら、政治家として必要とされる倫理について論じた以下の点が、特に印象に残りました。

    「情熱は、それが仕事への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家を作り出す」

    ウェーバーはこの下りで、政治家の重要な資質として、責任を引き受けることを行動規範とすることを挙げています。

    政治を論じた本書ではあるものの、組織の中で上に立つポジションであれば、ウェーバーのこの言葉の重みを感ぜざるを得ないところかもしれません。

    責任を伴わない情熱は、「そんなものはむなしく消えていく知的道化師のロマンティシズム」と断ぜらせているあたり、ウェーバーの政治家に対する視線は、当時の動乱の時代、大変厳しいものであったろうことが、察せられます。

  • 政治というものを成立させる構造、求められる資質。
    後ろ暗い、というといいすぎかもしれないが政治の美しくない部分、権力と不可分であることやある種の暴力の起点であることなどを暴きつつ、それでも突き進むものこそが政治家としての天分を与えられたもの。
    美しい表面を掬い上げ政治家を志す者には相当耳が痛いのではないだろうか。

    こういった政治の本質については、政治に関わらないものにも広く教育を与えたほうがよいのではないかと感じた。市井の人間が理想に描く政治と肌感覚で受け取る政治の乖離の正体は、ここに描かれているように思えてならない。

  • 1919年1月にヴェーバーがミュンヘンで大学生に対して行った講演を纏めたもの。この時期のドイツは、第一次世界大戦における敗戦の結果、騒然たる革命の雰囲気に包まれていた。すなわち、1918年11月3日のキール軍港の水兵反乱を機に大衆が蜂起、皇帝ヴィルヘルム2世は廃位され、その後ヴァイマール共和国が樹立された(ドイツ革命)。この間には、ロシア革命の再現を狙うスパルタクス団(共産主義者)の蜂起があった。

    「あとがき」によると、「熱烈なナショナリストでもあったヴェーバーにとって祖国の敗北はたしかに大きなショックであったが、それ以上に彼を悲しませ、やり切れない思いに駆り立てたのは、この戦争の結果(敗戦の事実)をあたかも『神の審判』のように受けとり、自虐的な『負目の感情』の中で、ひたすらに『至福千年』の理想を夢み、『革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい謝肉祭』にわれを忘れて陶酔し切っているかにみえる一部の前衛的な学生や知識人の、善意ではあるが独りよがりは『ロマンティシズム』であった」(p117)。こうした思いから、ヴェーバーは政治に身を投じる者の備えるべき資格と覚悟について痛烈な問題提起を行う。

    「あとがき」およびそこでの本書要約(以下)が秀逸。
    「さてヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは『国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である』。政治をおこなう者は、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって『倫理』ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。しかし一切の『政治が権力―その背後には暴力が控えている―というきわめて特殊な手段を用いておこなわれているという事実』は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。主観的にどれほど『高貴な意図』から出たにせよ、それだけでは、おのれの権力行使を倫理的に免責できぬはずである。たしかに行動が虚無におちいらないための内的な支えとして、信念(理想)をもつことは必要である。しかし政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力である以上、『信念』だけではすまされない。キリスト教的絶対倫理(福音の倫理)と相容れない政治の世界に身を投じた者が『魂の救い』まで期待することは許されない。目的と手段の緊張関係は、ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善のみが生ずるといまだに信じている者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない『政治的未熟児』である。指導者のよき動機もしばしばその仲間の、あるいは部下(『人間装置』)の余りに人間的な動機によって裏切られるというのが、政治の現実である。『政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶもの』である。しかもこの悪魔は恐ろしくしつこく老獪である。『もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう』。可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間だけが、政治への『天職』をもつ―こうヴェーバーは結んでいる。」(p118)

  • 難しかった。何度か読まないとわからなそうなので,また読もう。

  • 一読しただけでは理解できず線を引き引き読み返した。背景であるドイツ革命も知らなかった。自分なりにまとめると「政治は暴力をともなう点が特殊なので職業政治家たるもの単に貴い理想を掲げるだけではダメで悪魔の力を駆使した上で政治の結果に責任を持つことが責務である」。なるほどそうだと思う。ただし政治家そのものは簡単に退場させられるので、むしろ政党やより中長期的には国民にもこの「責任倫理」が必要と思った。 

    全体を通して大阪の橋下さんのイメージがわく。 
    「弁護士が重要な意味をもったのは決して偶然ではない」 
    「本気で腐敗を退治しようとする場合、人民投票で選ばれ、自分の役所を自主的に編成する権限をもった強力な市長が出てくる」

  • 『立花隆の書棚』の中で、本書を読んだ人と読んでいない人とでは圧倒的な差があるといったようなことが書かれていたため、それならばと読んでみることにした。(対象は政治家だったかな)
    私のレベルでは差を出せるほどの読み込みは到底不可能であることは読み始めてすぐに悟ったが、それでも印象的な箇所はいくつかあった。
    特に、心情倫理と責任倫理の記述を読み、昨今は、いかに結果に対する責任などそっちのけで、心情倫理に基づいて声高に叫んでいる人のなんと多いことか!と妙に納得した。

  • (2014.12.12読了)(2013.01.24購入)
    衆議院が解散し、総選挙期間中なので、「政治」について考えてみようと、読んでみました。
    残念ながらよくわかりませんでした。マックス・ヴェーバーが1919年1月に行った講演をまとめたものということです。
    政治とは何であるかについて「あとがき」から引用しておきましょう。
    「ヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは「国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」。政治を行うものは、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてであれ、権力を追求せざるをえない。政治はどこまでも政治であって「倫理」ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。」(118頁)

    【目次】
    職業としての政治
    訳注
    あとがき  脇圭平

    ●国家(9頁)
    国家とは、ある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である
    ●権力(10頁)
    政治をおこなう者は権力を求める。その場合、権力を別の目的(高邁な目的又は利己的な目的)のための手段として追及するか、それとも権力を「それ自体のために」、つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追究するか、そのどちらかである。
    ●ジャーナリスト(43頁)
    ジャーナリストの責任のほうが学者よりはるかに大きく、責任感の点でも、誠実なジャーナリストになると、平均的に見て学者にいささかも劣るものではなく、―戦争の経験からも分かるように―勝ってさえいるということ、この点もほとんど完全に無視されている。
    ●政治家(76頁)
    資産状態からいって、政治「によって」生きることを余儀なくされた人の場合、恐らく今後も次のようなコースが選択の対象となるであろう。典型的な直線コースとしてはジャーナリズムか政党職員のポスト。そうでなければ、労働組合・商業会議所・農業会議所・手工業会議所・労働会議所・使用者団体といった利益代表のポスト、あるいは地方自治体の適当な地位。
    ●資質(77頁)
    政治家にとっては、情熱・責任感・判断力の三つの資質が特に重要であるといえよう。
    ●政治行為の結果(81頁)
    政治行為の最終結果が、往々にして、いや決まって、当初の意図とひどく喰い違い、しばしば正反対なものになる、というのは全く事実で一切の歴史の根本的事実である。
    ●暴力行使(97頁)
    人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。
    ●偉大な達人(100頁)
    無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは、ナザレの生まれであれ(キリスト)、アッシジの生まれ(聖フランチェスコ)、インドの王城の出であれ(仏陀)、暴力という政治の手段は用いはしなかった。
    ●政治(105頁)
    政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。

    ☆関連図書(既読)
    「日本改造計画」小沢一郎著、講談社、1993.05.20
    「総理の資質とは何か」佐伯啓思著、小学館文庫、2002.06.01
    「美しい国へ」安倍晋三著、文春新書、2006.07.20
    「大臣 増補版」菅直人著、岩波新書、2009.12.18
    「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの」菅伸子著、幻冬舎新書、2010.07.20
    「職業としての学問」ウェーバー著・尾高邦雄訳、岩波文庫、1936.07.15
    (2014年12月13日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。

  • 実は少し前に手に取り、その時は問題意識がピンとこなかったので読みかけて放置していた本だったのだが、上記のカール・シュミット的立場(一般意志を情念的で無意識的なものとして規定し、肯定すること)が後年のドイツで浮上したことを念頭におけば、ウェーバーが何を危惧していたかはありありと浮かんできた。
     分量として九割は「いかにして政治的権力は獲得されるか」という点について、時間軸ではギリシャから近代、地理的には西洋から中国に至るまでの各々の実例を挙げながら解釈しているが、主張は残り一割の99~106ページに凝縮されているような気がしてくる。表紙に引かれているように「あらゆる政治的原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。」この説明が九割の部分である。「そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な要求をつきつけずにはいられない。」ここが肝要の一割だったのではないか。
     東やシュミットが主張するように政治は理知だけでは動かないのは事実かもしれない。だからこそ政治が情念のみにとらわれ暴走する可能性を非常に危惧し、重い倫理を突きつけたのがウェーバーなのかもしれない。

  • 政治とは何か?国家とは。1919年に書かれたものとは思えぬほど現代にも言い当てはまることが多く、普遍的な政治家や国家の抱える命題を述べている。

    ジャーナリストについても述べているがまたこれも非常に言い当てている。

    現在、日本では政治と金の問題で大きく政治が揺れているが、まさにこの書に書かれているように政治家は自分の内部にありふれた人間的な敵<虚栄心>を克服していかなければいけない。

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著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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