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Amazon.co.jp ・本 (310ページ) / ISBN・EAN: 9784003421437
感想・レビュー・書評
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抽斗が二桁は増える視点、人と科学に水を差す話題
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内容をまとめると、、
社会学は哲学、心理学、諸々の学問から区別されなければならない。社会学は科学として、社会を客観的(物としての性質を持つものとして)にとらえる。個人的な問題と切り離して普遍的に社会に還元できるものが社会的事実である。
同時期のスペンサーやコントなどの社会学者は社会学の方法論を正確に定義づけておらず、その定義づけをした点でデュルケームは価値があった。また、比較社会学に大きな価値を見いだしていた。 -
原書名:Les Règles de la méthode sociologique
序論
社会的事実とはなにか
社会的事実の観察にかんする諸基準
正常なものと病理的なものの区別にかんする諸基準
社会類型の構成にかんする諸基準
社会的事実の説明にかんする諸基準
証明の実施にかんする諸基準
結論
著者:エミール・デュルケーム(Durkheim, Émile, 1858-1917、フランス、社会学)
訳者:宮島喬(1940-、東京府、社会学) -
ちょびちょび読んだので、途中途中ぼんやりとした理解。デュルケームが自らの社会学について述べた理論書の一つだと思う。繰り返しは多い。
ただ、面白いと思ったのは第3章。正常なものと病理的なものの区別にかんする諸規準かな。これまで健康というものをどうしても自分は個人的な関心事として論じて来た。もちろん構築主義的な健康批判があるのも理解している。しかし、そのどちらでもない「健康論」の必要をデュルケームから示唆された気がする。健康というのはやはり社会的な「もの」として扱うべきだろう。制度でもよろしい。それを徹底的にやる。なぜ、健康が必要なのか。もう一度、個人が健康を害することは、社会的にいかなる機能を持ち、あるいは機能を不全とするのかが自分の中でまとまらないといけない。 -
個人の感性に外在する社会という概念を持つデュルケム社会学を知ることができる
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デュルケム社会学のエッセンスがいろいろと織り込まれている。
今回、個人的に勉強になったのは、
「社会的事実が個人を拘束する」という点で、デュルケムの主張はホッブスやルソーの主張(社会契約論)と大きく違わない。しかし、個々人の結合から、独特の性格を有した社会が生じるとするデュルケムの解説に対し、ホッブスやルソーは個人と社会を不連続なものとして措定した、したがって、デュルケムとかれらの議論は異なっているのだ!
しかし、だからといって、社会の源泉を個人の本性にみいだす正統派経済学やスペンサーの議論とも異なっているのだ。なぜなら、社会の実在は個人をこえたところにあるからである!
とデュルケムが考えていたことがわかった点である。 -
デュルケムによって打ち建てられた「社会学」という新たなディシプリンには如何なる方法論が要請されるのか。本書には、この新しい学を哲学など他の諸学から独立した自律的な科学たらしめようとするデュルケムの意志が、一貫して流れている。
そこでは、コントの進歩思想に代表される目的論的歴史哲学のように社会的現実を社会外に措定した形而上学的目的に則して解釈しようとする観念論的倒錯や、スペンサーの功利主義的個人主義のように社会的事物の存在理由を個人にとっての功利性によって説明しようとする還元主義が、繰り返し批判される。社会的事実は人類史の目的論に於いて解釈されるべきものではないのだ、社会的事実は個人の心理には還元できないのだ、と。
こうして、「社会的事実を物(=観察可能な与件)として考察せよ」「社会的事実とは、個人に対して外在的であり個人の上に拘束力を及ぼすことのできる、個人から独立したそれ自体として固有の存在である」「社会的事実は、個人に先立って存在する社会的事実によって説明されねばならない」という、実証主義的な社会科学の方法論が提示される。
しかし、自然科学を規範として社会科学に「客観性」という概念が持ち込まれるとき、どうしてもそれはナイーヴなものとして映ってしまう。しばしば社会を生物とのアナロジーで捉えようとしているが、そのような比喩によって社会の或る本質的な側面が捨象されてしまわない保証があるだろうか、そこには観察者による対象への恣意的な解釈が予め入り込んでしまっているのではないだろうか。加えて、"社会事象の政治性"及び"社会と観察者の自己関係的機制"という社会科学に特有の事情を考えれば、デュルケムの「客観性」概念の素朴さが一層際立つように感じられる。客観的で観測可能な「物」として捉え得る限りでの社会というのは、どうしても静的なもの・現状報告的なもの・事後報告的なものとならざるを得ないのではないだろうか。そこには、「客観性」の名のもとに隠された、現状肯定的・保守的な政治性が垣間見えないだろうか。社会科学は、「客観性」の要件を満たしながら、社会の動的・変革的な契機を捉えることができるだろうか。
社会科学に於ける「価値判断(政治性)」と「客観性」を考察したマックス・ヴェーバーの議論はその深みに達しているのだろうか。
なお、当然のことながら、社会学では個人の実存というものは全くの埒外に置かれる。 -
パイオニアの放つ言葉は総じて重い。彼とウェーバーが、今の我々が享受している“社会学”を整備したのは周知の事実。ここではデュルケムに絞らせていただくが、彼のこの学問に対する並々ならぬ意志を込めた本書は、その限界を考慮するとしても、読み継がれるべき書物だと私は思っている。彼の社会学への断固たる姿勢、後世の学者のためのその思いやり(こんな生易しい言葉で表現するのは気が進まない)、ここに学者のあるべき姿を僕は見た気がする。
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[原1895:訳1978] 2009.10.6-10.
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<要約>
社会学的事実は、社会を構成する個々人の心理的要素に還元されることなく存在する。
社会学が対象とすべきはこうした社会学的事実についてである。 -
\105
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比較的読みやすい。
物としてみるとか、外在的、拘束的、というやつですな。
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