世論〈上〉 (岩波文庫)

制作 : 掛川 トミ子 
  • 岩波書店 (1987年7月16日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003422212

作品紹介

リップマン(1889‐1974)が『世論』を書いた動機は、第1次大戦後の混乱の原因究明にあった(1922年刊)。にも拘らず我々がこの書を手にすると、あたかも現在を分析し警告を発しているかのような切迫感を覚える。それは、大衆心理がいかに形成されるかを出発点として、人間と環境の基本的な関係を、イメージの概念から明晰に解いているからだ。

世論〈上〉 (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 目次

    第1部 序
     第1章 外界と頭の中で描く世界

    第2部 外界への接近
     第2章 検閲とプライヴァシー
     第3章 接触と機会
     第4章 時間と注意力
     第5章 スピード、言葉、明確さ

    第3部 ステレオタイプ
     第6章 ステレオタイプ
     第7章 防御手段としてのステレオタイプ
     第8章 盲点とその効用
     第9章 規範とその敵
     第10章 ステレオタイプの検出

    第4部 さまざまの関心
     第11章 利害関心の参入
     第12章 利己主義を見直す

    解説

  •  1922年に書かれたジャーナリストであり、政治学者であったリップマンの著作。同時代的な著作をカー、レーニンと読んだ後に読み始めたので、第一次世界大戦前後の時代認識と思想動向の理解には役立った。リップマンは、カーと共に国際政治の枠組みでは現実主義として捉えられる事が多いが、既に概念が多様になり、ブレが見られる現実主義という枠組みではむしろ誤解が生まれるようにも思う。
     カーもリップマンも、人々が理想を語る割に、現実をきちんと認識しようと努めていない事、現実と理想の相違をきちんと認識した上で政策が語られていない事を問題にした。リップマンの場合、それは状況を理解する手段、方法に向けられており、抽象的なステレオタイプや世論という概念への不信が存在したのである。本書上巻では、まず個人と情報の接点について実はそれが制限されたものであり、また接触の機会もある程度限定されており、情報を受け取る際の注意力と時間によって認識が異なり、情報の伝達の際のスピードや言葉、そしてその明確さでも大きな認識の相違が生まれる事を明かにした。次に、ステレオタイプについて触れ、ステレオタイプがいかなるものであり、どのように形成され、どのように活用されるのか、その盲点と効用について触れた。そしてそのステレオタイプ形成や情報の管理、検閲、あるいは情報の構成における人々の利害や関心がそこに介在している事、そして情報を受け取り、個々人で再構成し、処理する場合にもこれらが介在している事実について明らかにしている。
     情報革命とも形容されるネット時代の現代では、これらの指摘は当てはまらないという主張もあるかもしれないが、果たしてそうだろうか。第1に、情報が溢れかえる事はここの情報への処理能力を低下させる為、それらの情報の真偽を逐一検証する事をより一層困難にする。従って、情報が溢れる事と情報を正しく選択し、あるいは理解する事は別問題である。第2に、一部の情報は一般市民がその情報の出し手として担える状況が生まれている点は否定出来ないが、多くの情報はマスメディアや権力の側が制御出来るという明らかな事実が存在する。中国当局は、国民のネットアクセスを制御出来るし、アメリカの公益団体は事実上世界のネットを制御している。また国防等に関しては、知っていても伏せるべき情報をマスコミは知っている。第3に、情報はすべての人に平等に提供される訳ではない。求める情報を得る為にはそれなりの対価が必要であり、少なくとも新聞、テレビ、ラジオ、ネット等の媒体から得る必要があるが、これらは先進国では多くの国民に広く普及しているが途上国では違う。かつては知識人しか情報が入手できなかったが、現在でもその点(情報の偏在)に変わりはなく、加えて先進国でも権力者や政権当局者と一般市民の間には情報の偏在がある事は言うまでもない。他にも多々あるだろうが、古典であるから現代に無意味な著作であるとは全く言えないことを少なくともこれらは示しているだろう。

  • ものごとを言葉にすると、言葉にした時点で、そのものごとの元々のところからなにがしかを零れおちさせてしまう。つまり、ものごとは100%言葉にはできなくて、省略してやっと言葉にしている。また、各々の文脈によってものごとのとらえ方は変わる。同じものごとでも、配管工によるとらえ方、株主によるとらえ方、教師によるとらえ方は違ってくる。そういった文脈というものがある。しかし、人々ははっきりした言葉に踊らされてしまう。・・・というような認知科学と記号論のような説明が続く。そして、この論で重要な概念である「ステレオタイプ」への言及が続いていく。ステレオタイプやはっきりした言葉による表現など、それらイメージ化で零れおちてしまうものがあるにも関わらず気付かず、イメージ化されたもののみに注意をもっていかれる。そしてそれらが重なりあっていったものが「世論だ」と結論付けるんじゃないかと今の段階で予想して読んでいます。また、こういうのもありました。「頭脳的訓練が少なければ少ないほど、同時に注意をひく二つの物事には因果関係があるという理論を考えつきやすい。」・・・たとえば小説って、伏線の回収だとか、いろいろすべてが糸でつながっているのが良いみたいなひともいるかもしれない。でもそれって、知的ではないということ。

  • 「世論」というものについて掘り下げられた本。一人ひとり異なる「ステレオタイプ」というフィルターのせいで、情報が歪められて世論が作られてしまう。いかに世論というものは曖昧か。「ステレオタイプ」というものがどれだけ視界を歪めているか。スマホなどのツールがまったく存在しなかった時代の本なのに、SNSやネットいじめ、炎上マーケティングなどにも通じる、現代に妙にシンクロした内容。結局のところツールは進化しても「人」はそんなに変わらないことが分かるし、ネット上の情報に振り回されるのがアホらしくなる。また、人間は自分に都合が良い情報には興味を持つが、都合が悪い情報は見なかったことにするなど、マーケティングにも役立ちそうな内容でもある。

  • メディアがいう「事実」なるものは、その取材者の
    世界観や先入見によって「世界」を恣意的に切り取ったものだ。
    それはジャーナリストの悪意というよりも
    人間の認識そのものの構造なのだ。

    「世界全体」など我々は見ることも知ることもできない。
    せいぜいその一部を切り取るのだが、その切り取り方に
    すでに先入見が持ち込まれている。

  • 第一章 外界と頭の中で描く世界

  • 読み直したさ:★★☆
    情報の送り手と受け手,それぞれの問題点。
    ステレオタイプ。事実評価の両面性(多面性)についての議論は裁判過程と関連させたい。
    〈感想〉
    論点とはずれるが気に入った一節。
    「しかし,本来,考えるということはダンスをするのと同じように心浮き立つものであり,それと同じように自然なことであるはずだ。」(104頁)
    公務におけるプライバシー,機関側のプライバシー概念が出ているように読めるが,プライバシーは私的領域の問題ではないか。
    また,多元的人格についても言及しているが,プライバシーを私的なものとして捉えれば,人格の保存の手段としてのプライバシーを語ることができる,と思う。

  • ありのままに見ることを妨げる、「ステレオタイプ」の存在を解き明かした本。見て定義づけるのではなく、定義づけてから見る。そして、ステレオタイプに一致したものばかりに注目してステレオタイプを補強し、ステレオタイプに矛盾するものはなかったことにする。つまり、見る前に何が見えるかは決まっているのである。
    デモクラシーにおいて、人々が物事を正しく判断できるということは、必須の前提である。しかし、政治の場面でステレオタイプが適用されれば、そのような冷静さは望むべくもない。解説によれば、ジャーナリストたる彼はデモクラシーの発展のために、そのようなステレオタイプを指摘し、人々が自身の(情報)環境統御をできるように努めた。
    一方、現代を鑑みれば「分かりやすさ追求」のもと、マスコミが率先してステレオタイプを構築しているように思われる節がある。デモクラシーの根幹であるマスコミが、デモクラシーを根から揺さぶっているのである。
    最後に、本書でチラッと触れられていたが、ステレオタイプに、「闘争」という強く人々の興味を引くものが加われば、「桃太郎の鬼退治」とでも言うべき「劇場型」の政治が展開され人々が熱狂するという構図は、非常に面白いと思う。

  • 中野剛志世界を戦争に導くグローバリズムから。

  • どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しかもつことはできない。したがって、他人の行為を真に理解しようとすれば、彼らが知っていると思っていることはどういうことかを知らなければならない。(p.27)

    言葉は、流行にも似て、くるくると変わり、今日はあるイメージ群を、明日はまたべつのイメージ群を喚起させるものである。同じ一つの単語でも、記者が頭の中に描いていたのと同じ考えを、そのままそっくり読者の頭に呼びさますかどうかはたしかではない。(p.94)

    耳目を集中しているう全世界に向かって、イギリスの首相は英語で語る。それは自分独自の言葉で自分独自の考えを語るということであり、これを聴くあらゆる種類の人びとは、そうした言葉の中に自分たち自身にとっての意味を見出すのである。彼が言わんとすることが、いかに含蓄深く微細なものであろうと、あるいはむしろ含蓄が深ければ深いほど、微細であればあるほど、彼の言わんとする意味は、標準的な言葉の中に放たれ異国の人たちの頭に改めてばらまかれるときに、いっそう大きな傷を受けるのである。(p.95)

    「思考という耐え難い重荷」は、状況が思考を重荷にしているから重荷なのである。しかし、本来、考えるということはダンスをするのと同じように心浮き立つものであり、それと同じように自然なことであるはずだ。(p.104)

    羊飼いは一頭一頭全部見分けられる。斑点の広がり方、区別がつかないほどちょっとした息づかいの違いが、素人目には見えない個別の特徴をあらわしているのである。したがって、事物のあらわす意味を自分のものとすること、換言すれば、事物をありのままに理解する習慣をつけるということは、意味の(1)限定性と区別、(2)一貫性あるいは安定性を、そのままでは不明確、不安定なもののなかに導入するということなのである。(p.111)

    われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。(p.111)

    このような事情(一定の観念を通して外界の光景を観察すること)には経済性という問題がからんでいる。あらゆる物事を累計や一般性でなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。(p.122)

    進歩を"発展"と考える習慣は、外科医の多くの要素をまったく無視してしまうことにもつながってきた。"進歩"という目の前のステレオタイプに気をとられて、たいていのアメリカ人は、彼らのいわゆる"進歩"にそぐわないものをほとんど見ないできてしまった。(p.150)

    仕事を鼓舞する力に溢れた進歩的なステレオタイプは、どのような仕事を、そして、なぜその仕事をするのかを決定する努力をほぼ完全に忘れさせる。(p.154)

    われわれは自分たちの目が見慣れないものは見ないでしまう。意識的な場合もあるが、それよりも知らず知らずのうちに、われわれは自分の哲学に合致するような事実に強い印象を受けるのである。(p.162)

    現在の教育状況にあっては、一つの世論とは、何よりもまず道徳や規範を通して見た、諸事実の一つの見方なのだ。つまり、われわれがどのような種類の事実群を見るか、どのような光をあててそれを見るか、その大方を決定するのは、われわれの諸規範の中心にあるステレオタイプのパターンだと言いたい。(p.170)

    自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。事実の両面性が信じられるようになるのは、長い間批判的な目を養う教育を受けて、社会について自分たちがもっているデータがいかに間接的で主観的なものであるかを充分に悟ってからのことだ。(p.172)

    現在何がなされなければならないかについて、その論拠を歴史に求めてそれを利用しようとするなら、自分の意見を援護してくれるような過去の時点を選ぶことになるのは必至であろう。(p.196)

    われわれは、自分に影響を与えるあらゆる人たちによって、自分の中のさまざまな自画を形成する。(p.237)

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