侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫 緑 70-11)
- 岩波書店 (2003年2月14日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (261ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003600139
作品紹介・あらすじ
「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」-芸術の永遠に滅びざることをこう表現した芥川は、死の前の4年間アフォリズムの刃を研ぎ澄まし「侏儒の言葉」を書きついだ。一方、谷崎潤一郎との二度の論争に底深く覗いた「文芸上の極北」とは何であったか。最晩年の箴言集と評論集。
感想・レビュー・書評
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芥川最晩年の箴言・文芸論集。率直に言って、アフォリズムとしては余りにも陳腐でつまらない。芥川は飽くまで物語を虚構する技巧上の名手ではあっても、それ以外は特に抜きん出ているとは思えなかった。「筋」の無い小説を構想していたらしいが、彼の作品中で面白いのは、如何にも物語然とした小説らしい小説の方ではないだろうか。
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弱々しい。鋭く見てはいる。それを理解しつつ、自らの精神で拡大し脚色している。反応的だ。
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十代の頃、新潮文庫で初めて「侏儒の言葉」を読んだ時、閃光のようにきらめく知性と厭世的なポーズに酔いしれ憧れた。二十代で再読した時には、頭でっかちで底の浅いひ弱な精神しか見出せなかった。不惑を過ぎて「文藝的な、余りに文藝的な」と合わせて改めてこの箴言集を読み、芥川がなぜ自ら命を絶たねばならなかったのか少し分かるような気がした。
詩人兼ジャーナリストでありたいと願った芥川は詩的精神と知性をともに追い求めた。だが彼の知性は詩人に徹することを肯んぜず、その詩的精神は散文芸術としての総合性とあい入れなかった。芥川の中の詩人とジャーナリストがギリギリのバランスを保つことができたのがアフォリズムという形式なのかも知れない。機知と言葉の瞬間的な輝きは芥川の小説の魅力だが、それはある意味でアフォリズム的である。谷崎との論争で「話らしい話のない小説」を擁護した晩年は特にその傾向が強かった。
それは極めて危ういバランスだった。芥川は国木田独歩について書いている。「独歩は鋭い頭脳を持ってゐた。同時に又柔らかい心臓を持ってゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失ってゐた。従って彼は悲劇的だった。・・・彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔らかい心臓の為に天上も見ずにもゐられなかった。」独歩の悲劇は芥川自身の悲劇であった。この不幸な矛盾に耐えるには彼の頭脳は鋭敏であり過ぎ、心臓は柔らか過ぎた。
しかも同時代の文壇は芥川に冷淡であった。自分と目指すものは同じと思い込んでいた萩原朔太郎に「典型的な小説家に過ぎない」と突き放され、共感を持って関心を寄せていたプロレタリア文学派からは「敗北の文学」(宮本顕治)と断定される(発表は芥川の死後)。いずれも芥川を中途半端とみなしたのだ。華々しいデビューにもかかわらず、晩年の芥川は孤立していた。それでもなお書き続けた彼の姿は痛々しいという他ない。「文藝的な、余りに文藝的な」は芥川の文学観と生理、そしてそれらが招いた悲劇を理解する上で欠かせない文献であると思う。 -
芥川龍之介のエッセイに近い、しかし詩のように言葉がかかれていた。
現代でもなんとなくあることが、いろんな表現で書かれていて、おもしろいと思った。 -
今で言うツイッター?話のない話。ところどころクスリと笑えるところもあるけれど、全体的に私には難しかった。
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請求記号 917-AKU
https://opac.iuhw.ac.jp/Otawara/opac/Holding_list/search?rgtn=096160
短篇小説の名手が残したアフォリズム(警句)集成。「世論は常に私刑であり、私刑はまた常に娯楽である」。ブログ炎上にも当てはまる切れに良さはさすが。 -
ある人の座右の書ということで試し読み。侏儒の言葉は箴言集ということで比較的読みやすく、いくつかタメになるフレーズも見つかった。文芸的な、余りに文芸的なは、自分の知識レベルでは難解過ぎた。
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箴言集が読める状態ではなくてあまり集中できなく特に感想はない。
成増図書館 岩波文庫 -
「侏儒の言葉」は聖書みたいなもん。
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『侏儒の言葉』の方は、断片的過ぎてよく分からなかった。『文芸的な~』の方はまだ幾らか思考が纏まった感じ。途中、犀星や子規が賞賛されるのを見て、彼は短文ではなく究極的に言葉を削っていくことによって思考を感情のまま表現できる、と実験したかったのではないかと感じた。だから言文一致の時節にあれだけごろごろ変化していった国木田独歩を賞賛してるのだ。解説で、朔太郎にに詩人として拒絶されたという話を読んで得心する。私としては、彼の、詩人に憧れ俳人に焦がれて書かれた短編小説が面白いのに、と思ったのだった。
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文芸的な余りに文芸的な のみの感想。接続詞の妙な使い方や、思わせぶりな書き方を除けば、かなり正確に同時代の事実・真実を簡潔な文体で論評していると思います。強い思索と何度も推敲をした上で、書かれている文章だと思います。
芸術の核心について、素材を変えて何度も論評していると思います。冒頭の「話」らしい話のない小説のくだりは、芸術の核心と・その周辺の現象について書かれていると思います。素材を変えて何度も芸術の核心について書かれていますが、それに関しての論評はどれも正確に書かれていません。「芸術の核心」は証明が不可能だから、定義はせず・あいまいに書かれているのだと思います。
作者の同時代・少し過去の人物批評が正確だと思います。この部分がこの作品中の作者の最も優れた所だと思います。作中、作者(芥川さん)は自身をジャーナリスト兼詩人、と書いていました。推測ですが、ジャーナリストの優れた側面が、同時代の事実・真実・人物論評を正確にするのではないでしょうか。 -
嘘
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読み始めました。
『侏儒の言葉』は、以前に単体の岩波文庫を読んだことがあります。
大阪に向かう列車で読んでいます。前に読んだとき(30代)より、痛切に感じます。
ちょうど京都駅に停車中に「侏儒の言葉」の部分を読み終えました。
(2013年11月22日)
「文芸的な」は、初めて読みました。
(2013年11月23日) -
文芸論争はどうも神学論じみている。
きっと痛切なことだったのだろうが、申し訳ないことにあまり興味を持てない。
その一方でアフォリズムに惹かれるのは、
それが日々の何気ない思考の断章だと感じるからだ。
体系化される前に著者の生活の端々から自然と沸き出でる肉声のような気がする。
そして、いくつかのアフォリズムが長い時間を耐えて小説を構成する血肉となり、
また最終的には著者の人生を左右させるという予感がするからだ。 -
「大きな物語」とは、もっとも根源的な世界観の上に成り立つものである
すなわち、「弱肉強食」の世界観である
しかしそれを人間の立場から見た場合
あまりに動物的・非人間的と言わざるをえない
「筋のおもしろさ」とは
ようするに「大きな物語」の縮小コピーを楽しむものである
しかし小説が人間を題材にするものならば、
逆の観点から考えるべきこともあるのではないか -
ビアスの方がキレとウィットがある。
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芥川が晩年に記したアフォリズム。読んでいると、彼は神経むき出しで生きていたのではないかと思うほど、鋭く繊細な文章。こんな感覚をもって生きていくには、いったいどれだけの苦痛が伴うのだろう。