サミング・アップ (岩波文庫 赤254-10)

  • 岩波書店 (2007年2月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (380ページ) / ISBN・EAN: 9784003725016

みんなの感想まとめ

人間の本質を追求する著者の視点が光る一冊であり、読者はその洞察に共感を覚えます。モームの文体は簡潔で明瞭であり、飾り気のない表現が本質を捉えています。彼は人間の矛盾や首尾一貫性の欠如を観察し、ありのま...

感想・レビュー・書評

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  • 小説家、劇作家として成功を収めた作者が老年に差し掛かり、これまでの人生の集大成として書き上げたタイトル通り人生の「要約」となる一冊。

    というと格調高く聞こえるが、内容は暴露本のようなエッセイ。個人名をバンバン出しながら「あいつは大したことない」と腐している。どうせもうこれから老後だし誰に対しても忖度する必要は無いわい、と開き直って書かれてるのが分かる。
    だけどこれを書いた後、30年も生きながらえるというのが面白い。

    だけど文章力によるものなのか、読んでいて嫌な気分にはならないし傲慢だなとも感じない。むしろ真剣に自分と向き合って書き上げてるなという印象。

    またいつか読み返したい一冊。

  • 個人的名著の一つ。何度でも読み返したい。

    僕がモームのことを好きな理由について、本書を読んでわかった。結論から述べると、モームは人間とは何かといった謎や本質的なことを常に追求していることにあると感じた。だからこそ、自身の思考と酷似している。

    各要素ごとに、自身が感じたことを記載していく。

    <文体に関して>
    モームの文体は簡潔であり、明瞭さを兼ね備えている。取ってつけたような飾りが存在しなく、常に本質部分のみを抉るように記載している。そして、それは本書でも述べている通りであり、モーム自身が、情緒的な文章を書くことが苦手であり、明瞭さを求めていることからもわかる。

    <人間洞察に関して>
    以下の文にある通り、モームは人間を観察し続けてきた。
    >人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。(P72)

    だからこそ、人間をありのままに写している。しかし、それがある種の人からは、皮肉のように捉えられている。なぜかといえば、大多数の人はモームほど人間のことなど見ておらず、見たい側面のみ見ているからである。


    <人柄について>
    モームのことを好きな理由は、以下の文にもあるとわかった。
    >私は普通の人の基本的な感情の一部を感じたことがないのであるから、最も偉大な作家のみが与えるような、親しみやすさとか、温かい人間味とか、屈託のなさとかを、私の作品が持つのは不可能である。(P98)

    感情を露わにするような人間味がモームには存在しないからこそ、モームが好きなんだと思った。だからこそ、モームは皮肉屋として評されたりするものの、本人は自分がありのままを観察して評しているだけである。このあたりの自己と他者認識の乖離具合が、最高にモームという感じ。

  • ちょっと難しいところがあったわ

  • L
    面白い

  • 何かを批判する時の熱量が一段階上がっている気がした
    特に観客に対してめちゃくちゃ書いているのが面白かった

  •  それ以後、私は他の作品もたくさん書いてきて、昔の巨匠の文章を系統的に学ぶのは断念したけれど(というのも、心はやれど肉体は弱しというわけで)、自分の文章を向上させようという努力を以前より熱心に行なってきた。自分の限界がはっきりと認識できたので、その範囲内で到達できる程度の理想に向かって邁進するのが理にかなっていると判断した。自分には抒情性が欠如していると分かった。語彙が少なく、何とか増やそうとしても効果なしと分かった。隠喩を使う才能はないし、独創的で魅力的な直喩などめったに頭に浮かばなかった。詩的な飛躍とか想像の翼を大きく羽ばたかせるとかは、とうてい私に出来ることではなかった。そういうものが他の作家にあるのに感心することは出来た。他人が持って回った修辞や、珍しいけれど暗示的な言葉を用いて、いろいろな思考にいわば衣を着せているのに感心することは出来た。ところが、私自身にはそのような飾りは何一つ思いつかない。自分の頭では容易に出来ないことを努力してやろうとするのにうんざりした。その一方、私には鋭い観察眼があり、他の作家が見落としている多数のものを見ることが出来た。観察したものを明瞭な言葉で表現することも出来た。また私には論理的に考えるセンスがあり、言葉の豊富さとか珍しさに対する感覚は鈍いけれど、とにかく言葉の音、響きには敏感に反応できた。自分が望むほどうまい文章が書けるようにならないのは分かったが、苦労すれば生来の欠点の許す範囲でうまい文章が書けるようになると思った。じっくり考えて、私が狙うべきは、明快、完結、音調のよさだと決めた。この三つは私が大切だと考える順に挙げた。

     およそものを書く人間で、読者が努力しなければ書いてあることが理解できないような文章を書く人間には、私は昔から我慢がならなかった。偉大な哲学者の書いたものを読めば直ぐ分かるように、非常に複雑な思想でも明快に表現することは可能である。ヒュームの思想を理解するのは難しいかもしれないし、哲学の素養がなければ、彼の思想の細かい含蓄まではもちろん理解できないであろう。しかし、およそ教育のあるものなら、ヒュームの個々の文がどういう意味であるのかは、きちんと理解できるはずである。バークリーにしても、言葉の点だけなら、彼ほど洗練された英語を書いた人はまずいない。ものを書く人間に見出される曖昧さには二種類ある。一つは怠慢によるもので、もう一つは我儘による。明瞭に書くことを身につけるのを怠ったが故に、曖昧な文章を書く著者は多い。この種の曖昧さは、現代の哲学者や科学者などに見られる。実は文芸評論家にさえ見られるのだが、これはまったく不可解なことである。大文学者の研究で生涯を送ってきた人なら、言葉の美に敏感であり、華麗な文章は書けなくても、せめて明瞭に書けると思うではないか。それなのに、批評家の書くものには、意味を理解するために二度読まなくてはならないような文がいくつもいくつも見出せるのだ。こういう意味であろうかと推測するしかないような場合も多い。何しろ書き手が意図したことを表現できていないのだから。
     曖昧さのもう一つの原因は、書き手自身が何を言いたいのか、はっきり分かっていないことである。自分が言いたい内容について漠然とは見当がついているのだが、知力が足りないか怠惰なため、頭の中できちんと論理的に整理できていないのだ。整理されていない考えでは正確な表現を見出せないのは当然である。このような事態が生じるのは、多くの著者が書き出す前でなく書きながら頭を使うからである。ペンが思想を生み出すのだ。このことで不都合なのは、実際にものを書く者ならその危険に常に身構えているべきなのだが、書かれた言葉が一種の魔力を持ってしまうことだ。つまり観念はいったん言葉で書かれると立派な実体を得たようになり、そうなると、もっと明朗に表現しようとする試みの邪魔になるのだ。この種の曖昧さはすぐに故意による曖昧さに同化してゆく。明確に考えることをしない著者の中には、自分の思想が一見したよりも立派な意味合いを持っていると考える傾向のある者もいる。自分の思想があまりにも深遠なため凡人に理解できるようには表現できないのだ、と信じるのは気分がいい。当然この手の著者は、自分に精密な思考力が欠けているのが問題などとは思い至らない。この場合にも書かれた言葉の魔力が作用する。筆者自身がよく理解していない語句が、自分が気付いている以上に立派な意義を持つものだと思い込むのは容易なことである。こうなると、あと一歩で、自分の考えをもともとの曖昧なままに書き記すという習慣に陥る。愚かな読者は必ずいるもので、筆者のそういう曖昧な表現に隠れた意味を見出してくれるものだ。故意による曖昧さのもう一つの形は、貴族を装い庶民を除外しようとする偉ぶった態度を取るものである。著者が、教養のない者どもが加われないように、自分の意味するところをわざと神秘の衣に包むのである。自分の魂はいわば秘密の園であって、選ばれた者のみ、いくつかの危険な障害を乗り越えてようやく入ることを許される、というわけである。しかし、この種の曖昧さは高慢ちきというだけでは済まない。見通しが甘い。時が経つと奇妙な事態になってしまうのだ。意味するものがもしも貧弱だと、時の経過で単なる無意味が饒舌と化し、誰も読まなくなる。フランスの作家でギョーム・アポリネールに惹かれて模倣を試みた連中の苦心の作は、そのような憂き目を見たのである。それにしても、一般論として、言葉の極端な操作が実は平凡きわまる思考のカムフラージュだったことが露見することもある。例えば、難解とされていたマラルメの詩も、今ではそのほとんどが意味を解明されている。さて解明されてみると、この詩人の思想が驚くほど独創性に欠けているのに気づかざるを得ない。彼の詩句には確かに美しい句もあるが、その詩の内容は、当時の詩壇において言い古されたことばかりだった。

     自分の落ち度が他人の落ち度よりもずっと許しやすいように思えるというのは、ちょっと見ると奇妙である。その理由を考えてみると、自分がまずいことをした場合は、そのときの事情など全てを知っているものだから、他人に許せぬことでも、どうにか大目に見られるということであろう。それで、自分の欠点からは目を逸らし、何か都合の悪い出来事のために欠点に注目しなくてはならないときでも、苦もなく赦してしまうのである。
     おそらくそうするのは適切なことであろう。というのも、欠点といえどもそれは自分の一部であり、人は自分の中にある良い面も悪い面も合わせて受け入れるべきだからだ。けれども人は他人を判断する段になると、判断の基準となるのは本当の自分の姿ではなく、自分について描いた理想像である。理想像を描くとき、人は虚栄心を傷つけるものとか、世間に知られたら信用を落とすものとか、そういうものは全て除外しているのである。些細な例を挙げよう。誰かが嘘をついているのを見つけようものなら、人はさも軽蔑したような態度を取る。しかし一度も嘘をついたことがないなどと言いうる人がどこにいようか。いや、百度の嘘をついたことがないと言いうる人だってどこにいようか。またお偉方が弱虫でケチだとか、不正直だとか、自己中心的で、性の面で不道徳だとか、虚栄心が強いとか、大酒飲みだとか判明すると、人はショックを受ける。一般大衆が英雄視している人の欠点を大衆の前に暴くのは恥ずべきことだと考える人は多い。しかし、個々の人間と人間との間に大きな差異はないのだ。誰も彼も、偉大さと卑小さ、美徳と悪徳、高貴さと下劣さのごたまぜである。中には性格の強い者だとか機会に恵まれた者もいて、何らかの分野で自分の天分を存分発揮した者もいるだろうが、潜在的には人はみな同じなのだ。私自身について言えば、大多数の人より良くも悪くもない人間だと心得ているのだが、もし生涯でなした全ての行為と、心に浮かんだ全ての理念とを書き記したとするならば、世間は私を邪悪な怪物だと思うことだろう。

     私は皮肉屋だと言われてきた。人間を実際よりも悪者に書いていると非難されてきた。そんなことをしたつもりはない。私のしてきたのは、ただ多くの作家が目を閉ざしているような人間の性質のいくつかを、際立たせただけのことである。人間を観察して私がもっとも感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。首尾一貫している人など私は一度も見たことがない。同じ人間の中にとうてい相容れないような諸性質が共存していて、それにも拘わらず、それらがもっともらしい調和を生み出している事実に、私はいつも驚いてきた。同一人物の中に両立できぬように思える諸性質がどうして共存しうるのか、何度も思案してみた。自己犠牲を厭わぬ悪漢とか、温和な気立てのコソ泥とか、貰った金に相当する報いを客に与えるのを名誉をかけた信条にしている娼婦とか、そういう例を私は知っている。私の思いつく唯一の説明はこうだ。人間は誰しも自分はこの世の中でたぐいのない存在であり、特権があるのだという確信を本能的に有している。このため、自分のすることは、他人がすればどれほど誤ったことだとしても、自分にとっては、当たり前で正しいとは言わぬまでも少なくとも許されるべきだと感じるのだ。人間の中に見つけた矛盾は私に興味を起こさせたけれど、それを不当に強調したとは思っていない。これまで私の受けてきた非難は、もしかすると、私が自分の描いた人物にある悪い点をはっきりと非難せず、良い点を褒めたためかもしれない。他人の罪に対して、それが私個人に影響が及ばぬ限りはあまりショックを受けることはないし、影響が及ぶ場合でも、それを大抵は許せるようになった。これは私の短所であるに違いない。だが他人には多くを期待しない方がよいのだ。他人が自分を親切に遇してくれたら感謝し、逆に冷遇されても平然としている――それがよい。プラトンが言ったように、「人間は誰でも自分の欲望の赴くところと生来の魂のあり方とによって、大体人柄が決められるものなのだから」。物事を自分自身の立場以外からは見られぬというのは、想像力が不足しているためだが、他人がこの能力を欠いているというので腹を立ててみても始まらない。
     仮に私が人間の短所のみを見て長所に対して盲目であるとしたならば、非難されても甘んじて受けよう。しかし、私はそんな非難に該当するとは思えない。善よりも美しいものはなく、普通の基準によれば容赦なく糾弾されるような人間の中にいかに多くの善があるかを示すのは、私には大きな喜びであった。この目でそれを確認したからこそ、それを示したのだ。善は、そういう人たちにあっては暗い罪に取り囲まれているので、いっそう光り輝くように思えた。私は善人の善は当然視し、彼らの短所なり悪徳なりを発見すると面白がるのだ。逆に、悪人の善を発見したときは感動し、その邪悪に対しては寛大な気分で肩をすくめるだけにしてやろうと思う。私は仲間の人間の番人ではない。仲間の人間を裁くような気持にはなれない。彼らを観察するだけで満足だ。私の観察では、概して、善人と悪人の間には世の道徳家が我々に信じ込ませたがっているほどの差異は存在しないという結論になる。
     私は概して人間を額面通りに受け取ったことはない。人を見る目のこういう冷淡さが、先祖から受け継いだ遺伝なのかどうかは分からない。私の先祖は成功した法律家だったが、見掛けに騙されぬだけ抜け目のなさがなかったら、とうてい成功しなかっただろう。もしかすると遺伝のせいではなく、人と会ったとき嬉しくて夢中になるような性質が私に欠けているせいかもしれない。Yの中には嬉しさのあまり直ぐに、俗に言う「ガチョウを白鳥だと見誤る」人がいるが、私は違う。とにかく私の冷静さが医学生だったことで助長されたのは確かだ。特に医者になりたかった、というのではなかった。作家以外のものにはなりたくなかったけれど、そう言い出すには私は内気すぎたし、いずれにせよ、あの頃はまともな家庭の十八歳の少年が文学を職業として選ぶなどというのは、極めて珍しい話だった。あまりに途方もない考えだったので、誰かに打ち明けようなどとは夢にも思わなかったのだ。ずっと以前から法律家になるものと思い込んでいたけれど、考えてみれば、私と年の離れた三人の兄たちが全て法律家だったのだから、私までが割り込む余地などあろうとは思えなかった。

     私は生来ひとを信用しない。他人は私に好意的なことよりも悪意のあることをすると思う傾向がある。これはユーモアの感覚を持つ者が支払わねばならぬ代償である。ユーモアの感覚を持つ者は人間性の矛盾を発見するのを好み、他人がきれい事を言っても、信用せず、その裏に不純な動機があるだろうと探すのだ。外見と中身の違いを面白がり、違いが見つからないときには、でっち上げようとする傾向さえある。ユーモア感覚を発揮する余地がないというので、真・善・美に目を閉ざしがちである。ユーモア感覚のある者はインチキを見つける鋭敏な目を持ち、聖人などの存在は容易には認めない。だが、人間を偏った目で見るのが、ユーモア感覚を持つために支払わねばならぬ高い代償であるとしても、価値ある埋め合わせもあるのだ。他人を笑っていれば、腹を立てないで済む。ユーモアは寛容を教えるから、ユーモア感覚があれば、ひとを非難するよりも、ニヤリとしたり、時に溜息をついたりしながら、肩をすくめるのを好む。説教するのは嫌いで、理解するだけで充分だと思う。理解するのは、憐れみ、赦すことであるのは確かだ。
     振り返ってみると、聖トマス病院の外来部や病室で、私は無意識的に――意識的であるには私はまだ若すぎたからだが――患者を観察しているうちに、人間についての見方が出来あがっていった。このため私の人間観は一方的かもしれないということを常に警戒してきた。しかしその後も何十年間ずっと人間の観察を続けてきたわけだが、あの頃の見方の正しさを裏付けるばかりだった。一般の人々を観察し、あのころ接した患者と同じであると知り、見たままに人間を描いてきた。それは真実の姿ではないかもしれない。不愉快な姿だと思う人が結構いるのは知っている。偏った見方で描かれた姿であるのは疑いない。私自身の個性によって見ているのだから、当然そうなる。私より快活で、楽天的で、健康で、感傷的な人なら、同じ人を見てもまったく違った見方をしたことだろう。私としては、人物を描くのに一貫性をもって描いたと主張できるだけである。多くの作家はまったく観察しないで、自分の想像力に浮かぶ映像の中からあり合せの人物を選んで作中人物に仕立て上げるようである。彼らは、古代絵画の記憶から人物を描き、生きたモデルから描こうとしない画家に似ている。こういう作家は、せいぜい自分の想像力に生きた形を与えるだけである。もし心の気高い作家なら、気高い作中人物を描くことは可能であろうし、そういう人物に無限に複雑な生身の人間らしさが欠けていても、ひょっとすると構わないのかもしれない。
     私自身は常に生きたモデルを出発点としてきた。今でも覚えているのだが、医学生時代に解剖教室で教師の指導で「割り当て部位」の解剖をやっていた。教師がある神経について質問をした。私が答えられなかったので、教師が教えてくれた。「でも場所が違います」と私は抗議した。けれども、教師はそれが私が探しても見付からなかった神経だと言った。私が異常なので分からなかったと言うと、教師はニヤリとしながら「解剖学では異常が正常だ」と言った。そう聞いて、そのときは頭が混乱するばかりだったが、とにかく頭に染み込んでいった。それ以後、これは解剖学だけでなく人間についても真実であると痛感することがよくあった。正常というのはめったにない。正常というのは一つの理想に過ぎないのだ。複数の人間の平均的な特徴の数々を総合して作り上げた一つの絵姿に過ぎない。その特徴すべてを現実の一人の人間に見出すなどということはまず期待できない。わつぃが先に語った作家たちが手本にするのは、この偽りの絵姿であり、例外的な人間を描くので、生きた人間らしい感じを出すことがめったに出来ないのである。身勝手と思いやり、理想主義と好色、虚栄心、公平、勇気、怠惰、神経質、頑固、内気など、これら全てが一個の人間に存在し、もっともらしい調和を生み出していることもありうる。これが人間の真実なのだと読者に納得してもらうには長い年月を要した。
     過去幾世紀の人間が現代人と多少とも違うなどとは思わない。だが同時代人の人の目には、人間は首尾一貫したものに見えていたに相違ない。さもなければ、当時の作家が首尾一貫したものとして描くことはなかったであろう。全ての人をそれぞれ固有の資質通りに描くのが合理的だと思えていた。けちん坊なら、ただただけちん坊に、気取り屋はただただ気取り屋に、食いしん坊はすごい食いしん坊に描いたものだ。けちん坊がもしかすると気取り屋で食いしん坊かもしれないという考えは誰にも思い浮かばなかった。けれども、実際はそういう人を始終見かけるのだ。さらに、そのけちん坊が公共奉仕への私心のない熱意を持ち、かつ芸術への真実の情熱を燃やす誠実な人かもしれないとは、過去の人は絶対に思わなかった。小説家が自分自身および他人に見つけた多様な姿を作品中で暴露し始めると、人々は人間を誤り伝えるとして非難した。私の知る限り、こういうことを最初に意図的に試みた小説家は『赤と黒』におけるスタンダールだった。当時の批評家は激怒した。サント=ブーヴでさえ、自分の心を覗いて見さえすれば相互に矛盾する性質が共存して一種の調和をなしているのが分かるはずなのに、スタンダールを批判した。ジュリアン・ソレルはおよそ小説家が想像した作中人物の中でも最も興味ある作中人物の一人である。スタンダールがジュリアン・ソレルを完全に納得できる人物にしているとは思わないが、その原因はいずれ本書の後の章で論じる事情によるのだと思う。この小説の初めの四分の三の間は彼は完全に首尾一貫した性格である。時には読者をぞっとさせるし、時には好感をいだかせる。しかし内的な一貫性があるので、読者はぞっとしつつも彼に納得する。
     しかしスタンダールの手本が実を結ぶまでには歳月を要した。バルザックは天才ではあったが、古い型に従って人物を描いた。彼は彼自身の溢れんばかりの活力を作中人物に与えたから、生きた人物として受け入れられる。だが、実際は様々な気質の型にすぎず、その点では昔の喜劇の登場人物と選ぶところがない。彼の描く人物たちはいつまでも記憶に残るのは確かだが、彼らを支配する何かある強い情熱が周囲の人々にどう影響するかという観点からのみ描かれている。あたかも人間が首尾一貫したものであるかのように受け取るのは、人間にとって自然な先入観なのかもしれない。確かに、ある人について考えるとき、白か黒かを決め、あいつは飛び切りいい奴だとか、あるいは、とんでもなく悪い奴だとか断言して、疑問を払いのければ気楽である。国を救った英雄がけちん坊かもしれないとか、我々の意識に新しい広がりを与えた偉大な詩人が俗物かもしれないとか、そんなことを発見するのは不快である。我々は生来自己中心的であるから、ひとを判断するとき、自分との関係で見がちである。ひとが自分にとってある性質の人物であることを望み、実際、自分にとってはその性質がその人物の全てなのである。それ以外の性質は用がないので無視するのだ。
     おそらくこのような理由で、人間を矛盾する様々の性質のままに描こうとする作家の試みに世間は激しく抵抗するのだろう。同じ理由で、正直な伝記作家が著名人について真実を暴露すると反発するのであろう。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の五十唱曲の作曲者が、金銭については汚く、世話になった人を裏切ったと考えるのは確かに不快ではある。しかし、もしヴァーグナーがそういう欠点を合わせ持たなかったならば、大作曲家としての美点を持ち合わせていなかったかもしれないのだ。緒英人の欠点は無視すべきだと言う人がいるが、私は反対だ。欠点も知っていたほうがよい。そうすれば、我々が著名人と同じような恥ずかしい欠点を持っていると気づいていても、彼らと同じような偉業を達成できないこともないのだと自信を持てるではないか。

     歌手には天成の歌手と後天的な歌手がいるのだと聞いた。後天的な歌手も、もちろんある程度いい声を持たねばならぬが、成功の大部分は訓練の賜物である。センスの良さと音楽的能力で比較的貧弱な声を補うので、その歌唱は大きな快楽を聴く者に、とりわけ音楽の専門家に与える。けれども後天的な歌手は、天成の歌手が純粋な鳥の歌うごとき調べによって聴く者をうっとりさせるようには人を感動させることがけっしてない。天成の歌手というものは、訓練は不十分だし、機転は利かず、知識もなく、芸術の約束事をすべて踏みにじるかもしれない。ところが、その魔法のような声のおかげで聴く者は魅了されてしまう。一度その絶妙な歌唱に心を奪われると、その身勝手な歌い方も、俗悪さも、露骨な感情への訴えも、みな許してしまう。私について言えば、後天的な歌手と同じで、努力のお陰で作家になれたのである。といって、自分がある目標を設定し、それに基づいて努力してきたからこそよい成果を上げられたと思ったならば、それは虚栄心というものであろう。ごく単純な動機でいろいろな道を歩んだのであって、いま振り返ってみて初めて、それとはっきり意識せずにある一定の目標に向かっていたのだと知るのである。その目標とは、自分の性格を成長させ、そうして生来の才能の不足を補うことであった。

     作家志望の若い人が、時どき私にへつらって、作家になるために読むべき本を教えてください、と言うことがある。教えることにしている。しかし推薦したものはめったに読まないようだ。そもそも彼らには好奇心がないのだ。先輩の作家たちがどういう仕事をなしたかに関心が薄い。ヴァージニア・ウルフの小説二、三冊、E・M・フォースターの小説一冊、D・H・ロレンスの小説数冊、それから、奇妙なことに、ゴールズワージーの『フォーサイト・サガ』を読めば、小説作法について知るべきことは全部分かったと思うのである。確かに、現代文学には古典文学がどうしても持ちえない独特の新鮮な魅力がある。若い作家が、自分の同時代の作家がどういう内容のことを、どういう書き方で書いているかを知るのは結構なことである。だが、文学には流行があり、たまたまある時間に流行っている文学に本質的な価値があるかどうかは判断がつきにくい。その点、過去の名作に通じていれば、比較に際してとてもよい標準となるのだ。多数の若い作家が、器用で賢く、技法的にも巧みなのに、非常にしばしば表舞台から消え去るのは、無知のせいなのかな、と私は時どき考える。才気走っているだけでなく、円熟した作品を二、三出したかと思うと、それっきりなのだ。これでは一国の文学は育たない。一国の文学を育てるには、ほんの数冊ではなく、全集となるような冊数が要る。そうなればむろん作品と作品の間に質の差が出るだろう。傑作が誕生するにはいくつもの具合のよい事情が重なる必要があるからだ。だが傑作は、努力せぬ天才の幸運な偶然としてよりも、作家として長年精進を重ねてきたあげくにこそ生まれる確率が高いのだ。作家は自分を一新することによってのみ多くの新作を生み出せるのであり、また、新しい経験によって魂を常に富ませることによってのみ自分を一新させることが出来るのである。これには、過去の偉大な文学を心楽しく研究する以上に実り豊かな源泉はない。
     というのは、芸術作品の誕生は奇跡の結果ではないからだ。準備を要するのだ。どれほど豊饒な土地でも肥料を与えなくてはならぬ。充分に思考し、慎重に努力し、それによって芸術家は自分を伸ばし、深め、多彩にしなくてはならぬ。それからしばらくのあいだ土地は熟成させねばならない。修道院の尼僧のように、芸術家は新しい精神力をもたらす天啓をじっと待つのだ。日常生活に必要な業務を忍耐強く執り行う。その間に無意識が神秘的な働きをしてくれ、遂に、どこからまかり出たのか分からぬけれど、着想が生まれるのだ。でも生まれただけでは、石の多い地面に播かれたトウモロコシと同じく枯れてしまう。丹精こめて育てなくてはならない。着想にふさわしい完璧さをもって世間に向かって発表するためには、芸術家は自分の持つ全ての力を発揮しなくてはならない。技術面の巧みさ、経験の全て、自分の性格と個性など、あらゆるものを総動員し、無限の努力を払ってようやく発表できるのである。

     作劇術についてはずいぶん多くのことが書かれてきた。私は関係する書物はほとんど読んだと思う。芝居を書く最善の方法は、自分の書いた芝居が上演されるのを見ることだ。そうすれば、役者が言いやすいセリフの書き方とか、文章のリズムが自然な会話を損なわずに届く範囲はどれぐらいだとかを、耳がいい人なら学ぶことが出来る。また、どういうセリフなり、どういう場面が効果的であるかも学べる。だが、芝居を書くコツは、2つの原則にまとめられる。「主題から離れるな」と「可能な限りカットせよ」である。前者に従うには論理的な心が必要であるが、その心を持つ者はほとんどいない。ある考えがあると、そこから別の考えが浮かぶ。別の考えが主題に直接関係なくても、それを深めるのは楽しい。脱線したがるのは人間にありがちなことだ。だが劇作家は、聖人が罪を避けねばならぬ以上に心して脱線を避けねばならない。罪は許されるかもしれないが、脱線は命にかかわるからだ。関心方向性の原理を守るのだ。この原理は小説でも大切であるが、小説はページ数が多いから余裕があるし、理想主義者が、悪は絶対者の完全な善に変容される、と説くように、ある種の脱線は主題の展開に必要な役割を演ずるかもしれない(これについてはよい実例がある。『カラマーゾフの兄弟』にあるゾシマ長老の若い頃の話である)。関心方向性の原理の意味をここで説明しておいた方がよいであろう。ある状況下でのある人々の有為転変に読者の関心を集中させ、作者が解決に辿り着くまで、その関心をずっと持ち続けるように仕向ける手法である。もし主題から読者が関心を逸らすのを放置すれば、二度と関心を取り戻すことは不可能であろう。人は、心理的な癖で、劇作家が芝居の冒頭で紹介する登場人物に多大の関心をいだいてしまうものである。だから、もっと後で登場する人物に話の中心が移ると、何となくがっかりする。それで賢い劇作家は、主題を出来るだけ早く提示し、その後主人公らを劇的効果の故にもっと後まで登場させない場合には、開幕時に舞台に出る人物の会話によって、主要人物に観客が関心を持つようにする。そうすることで、彼らが後に登場するだろうという期待感が高まるのだ。さすがに優れて劇作家であるシェイクスピアは他の誰よりもこの方法を周到に使っている。
     雰囲気の芝居として知られている芝居を書くのが困難であるのは、関心の方向づけが困難だからである。この種の芝居の中では、むろんチェーホフの作品が最もよく知られている。こういう芝居では、観客の関心は二、三人でなくあるグループ全体に向けられねばならず、かつ主題はグループ内の人物と人物の関係、および人物と環境の関係なので、作者は観客がグループ全体でなくそのうちの特定の二、三人に自然に関心を向けがちであるのを阻止しなくてはならない。関心がこのように拡散すると、登場人物の誰についても好意を持たないということが起こりうる。作者は何本かの話の筋を設定しても、そのいずれかに力点を置いて観客の注意をはっきり引きつけることがないように気をつけるので、結果としてどの出来事も地味に表現することになる。それ故、観客はどうしてもある種の単調さを感じてしまう。また、出来事であれ、登場人物であれ、何一つ観客に対して強烈な印象を与えないので、芝居を観終わった後、頭が混乱した気分で帰宅することになりがちである。実例を見ると、この種の芝居では完璧な演技でのみ何とか観劇に耐えられるようである。
     ここで私の言う二番目の原則を考える。いかに見事な場面であれ、いかに気の利いたセリフであれ、どれほど深遠な思想であれ、芝居に必要欠くべからざるものでない以上、劇作家たるものは全てカットすべきである。この場合、劇作家が文筆家でもあれば具合がいい。劇作だけを専門にしている作家だと、紙の上に文字を書くことが出来るのを大袈裟に奇跡か何かだと思い込み、文字が神からの贈り物でないまでも自分自身の頭から出て来たと思うと、神聖なものとみなすのだ。だから、それをカットすることなど思いもよらない。ヘンリー・アーサー・ジョーンズに原稿を見せてもらったことがあるが、見て驚いた。「お茶に砂糖を入れますか」という単純な文を三種類の表現で書いてあったのだ。これほど文章を書くのに苦労する劇作家が、一度書いたものを過度に重要視するのも無理からぬことだ。その点、文筆家は書くことに慣れている。耐えがたいほどの苦労などせずに表現できるので、カットにも耐えられる。どんな作家でも、時にはうまい着想だとか、非常に面白い当意即妙の応答だとかが、突然頭に浮かぶことがあり、それをカットするなど、歯を抜かれるより悪いことだと感じるものだ。そういうときのためにこそ、「可能な限りカットせよ」という原則を脳裏に焼き付けておくのが大切なのである。
     カットすることは、これまで以上に必要になっている。演劇の歴史において、現在の観客は従来と比べてずっと頭の回転が速くなり、かつ辛抱強さが足りなくなっているからだ。芝居というものは、その時代の観客の好みに合わせて書かれてきたわけである。過去の観客は、入念に描かれた場面がゆっくりと展開してゆくのを楽しんで見たり、人物が自分の考えを十分に説明するのを喜んで聞いたりしたようだ。今はすっかり違ってしまった。おそらく映画の流行のせいであろう。今日では、特に英語圏の観客は、ある場面の勘所を瞬時に把握してしまい、どんどん次の場面へと進みたがるのである。登場人物の長いセリフなども、少し聞いただけで全体を理解してしまい、いったん理解してしまうと注意が散漫になる。作者は、場面を隅々までしっかり観客に理解させようとか、人物に思いの丈を充分な言葉で表現させようとかいう、当然の願望を抑制しなければならない。今の観客には、くどくど述べる必要はない。暗示さえすれば充分なのだ。直ぐ理解される。セリフはいわば喋る速記である。作者はカットを重ね、これ以上のカットは無理だというところまで行かねばならない。

     ところで観客はとても奇妙な動物である。知的というより利口なのだ。知的能力は最も知的な人たちよりかなり劣る。人を知性の点で最高のAから一般大衆のZまで段階をつければ、芝居を見る人の平均的知性はアルファベットの十五番目のOというところであろう。観客は非常に暗示にかかりやすい。ジョークを聞いて自分は面白いと思わなくても、周囲が笑えば自分も笑う。感情的である。それでも感情を揺さぶられるのを本能的に嫌い、すぐクスクス笑って作者の手から逃げてしまう。感傷的である。しかし自分好みのものしか受け入れない。だからイギリスでは、故郷に絡む感情は受け入れるけれど、息子の母への愛情は笑いを誘うだけである。ある状況が興味を引けば、ありうるかどうかには無頓着である。この癖をシェイクスピアは盛んに利用したのである。ところが、もっともらしい説明がないと納得しない。実生活では人は良く衝動的に振る舞っているのだが、舞台の上での行動には適切な理由がないと納得しない。観客の道徳心は一般大衆の平均的な道徳心であり、一人一人なら腹を立てないような意見に対して心底からショックを受ける。頭で考えるのではなく、太陽神経叢で考えるのだ。とかく直ぐに退屈する。新しいものを好むが、昔からある考えに合致する新しさでなくてはならず、胸躍らせるのはよいが、驚かされるのは嫌いなのだ。劇の形で示される限り、思想を好む。しかし、それは観客自身が以前からいだいていたもので、勇気がなくて自分では表現できなかったような思想でなくてはならない。感情を傷つけられたり、馬鹿にされたりすれば、そっぽを向く。観客の主な願いは、舞台上の作り事が真実なのだと納得することである。

     さて、観客の平均的な知性が知識人よりずっと低いという事実は、劇作家が対処せねばならぬ大きな問題である。このために散文劇が二流の芸術になっているのは確かである。劇場が知的レベルの点で、時代に三十年遅れていて、その思想面の貧困の故に大部分のインテリはもう劇場には行かないということが、これまで繰り返し指摘されている。私の考えでは、もしインテリが劇場に思想を求めるなどというのであれば、インテリにも期待したほどの知性はないのだと思う。思想というのは個人的なものである。個人の知力並びに教育に左右される。思想の伝達は、ある思想をいだいた個人からそれを進んで受け入れようとする個人へと私的になされるものである。Aにとっての薬はBの毒と言うけれど、それ以上に、Aにとっての新鮮な思想はBにとっては陳腐な考えなのだ。だが、観客は群集心理に動かされるものであり、群集心理は感情に支配される。先に私は観客の知性を、上は『タイムズ』の批評家から、下はトテナム・コート・ロードの横町で菓子を売る小娘まで、AからZに分類し、平均値はOぐらいだという無遠慮な意見を述べた。そうだとすれば、劇作家たるもの、特等席の『タイムズ』の批評家を坐り直させ、それと同時に、大衆席の小娘にも自分の手を握っている恋人を忘れさせるような意味深い思想を盛り込んだ芝居を書くことが、どうして出来ようか。これほど種々雑多な要素が混じり合っている観客全体に影響を与えうる思想といえば、感情と言いかえても差し支えないような平凡な基本的な思想のみである。これは元来詩が扱う根源的な思想であり、恋愛、死、人間の運命などに関するものである。このような主題に関して、もう千回も言われてきたことと違う新しいことを言いうるような劇作家が一体どこにいようか。偉大な真理はあまりにも重大であって、新たに言い立てることは出来ない。

     この人工的な世界では、人生はいわば逐語訳ではなく意訳で描かれるので、劇作家は劇芸術の魅力を思う存分に発揮できるのである。というのも、コウルリッジが詩について述べた「信じられないという気持ちを進んで一時停止すること」が劇の場合にも不可欠である。劇作家にとって真実が大事なのは興味が増すからであるが、劇作家にとっての真実は真実らしさでいい。彼が観客に受け入れるように促せるのは。真実らしさである。妻のハンカチを他の男が所有していたと聞かされたというので、妻の貞操を疑うことがありうると観客が信じるのであれば、それはそうかもしれないから、それで嫉妬の充分な根拠となるのだ。六皿の晩餐をわずか十分で食べてしまえると観客が信じるのなら、やはりそれはそれで結構であり、劇作家は劇を展開できる。しかし、動機についても行動についても、もっともっと事実に基づくようにと要求され、人生を派手にあるいはロマンティックに飾るのを禁止され、もっぱら人生の写生をするように求められたら、劇作家は作劇法の大部分を奪われることになる。「わきゼリフ」も、人間は通常声を出して独り言を言わないからというので、使えなくなる。劇の流れを早める方法として使っていた、出来事の予言も用いてはならないというので、出来事は現実の人生におけるのと同じようにゆっくりと起きるようにしなければならない。また、偶然の出来事も、実人生ではまず起こらないので、避けねばならない。その結果、リアリズムから生まれた劇は無味乾燥で退屈なことがあまりにも多いのだ。

     一つ確かなことがある。もし舞台劇が少しでも生き残る見込みがあるとしても、それは映画がもっと巧みに出来ることを真似しようと試みることによってではない、ということである。だから、無数の短い場面を積み重ねて、映画の素早い動きと多様な背景を再現しようと試みた劇作家たちは、誤った道を辿っている。もしかすると、劇作家が近代劇の起源に戻って、韻文、ダンス、音楽、ページェントなどを劇に取り入れれば、様々な楽しみを求める観客に受けるかもしれない、と私は考えてみた。だが、この場合も映画にはあらゆる手段があるから、舞台劇が出来ることは全てより巧みに出来ると思い直した。それに、この種の芝居の作家は劇作家兼詩人でなければならない。もしかすると、写実的な劇作家が生き残れる最善の方法は、今までのところ映画が弱い領域、つまり心理劇と機知に富む喜劇に力を注ぐことかもしれない。肉体的な動きで表現できない感情と、知性に作用するユーモアは、映画でほとんど価値がない。少なくとも当分は、このような芝居ならそれなりに観客を確保できるかもしれない。
     だが喜劇に関する限り、リアリズムを要求するのは不当だと認めるべきである。喜劇というものは絵空事であるから、人間の自然な姿の、真実ではなく、うわべだけを描くのが適切である。笑いは、何かのためではなく、それ自身のために求められねばならない。今や劇作家の目的とすべきは、人生をあるがままに描く(これはとても無理だ)ことではなく、人生を皮肉に面白く批評することである。観客は、「こんなことが実際にあるか」と問うてはならない。笑うだけで満足すべきである。喜劇においてこそ、これまで以上に「信じられないという気持ちを進んで一時停止する」を観客に求めねばならない。だから批評家は、ある喜劇だけで観客の注意を三幕ものあいだ引きつけておくのが不可能であるのは、経験から分かっている。何しろ喜劇は観客全員の頭脳に働きかけるのだが、観客の頭脳は直ぐ疲労する。一方 、笑劇は頭脳より頑丈な臓器である全員の腹に働きかけるのだ。シェイクスピア、モリエール、バーナード・ショーなどの偉大な喜劇作家は笑劇を避けたことなどない。笑劇は喜劇全体を生き生きさせる活力源である。

     役者との関係で劇作家が失敗することがもう一つあるが、これは一般に気づかれていない。役者を役柄に合わせて選ぶ方法を取っているため、避けがたい失敗である。作者が登場人物を創造する。そして作者が考える特徴を持っているというので、ある役者がその役を演じるように選ばれる。しかし、その役者生来の性格が人物に付与した性格に付け加わるため、おかしな誇張が生ずる。こうして作者が創造した登場人物はまっとうで自然なものであったのに、舞台上ではグロテスクな人物に変えられてしまう。私は配役に際して、役柄と違うタイプの役者を割り振るようにしたことがたびたびある。しかし、どうも成功したとは思えない。今日の役者に期待できる以上の適応性がないと無理である。この困難な問題に対処するための最上と言えそうな道は、役柄を曖昧にしておくことかもしれない。性格づけを軽く大まかに描いておいて、後は役者の個性で補うに任せるのである。ただし、これが出来る役者を必ず使える保証が要る。
     劇作家の意図は、この種の誇張とか、時にやむを得ぬ配役の誤りとかによって大きく歪められるのだが、さらに演出家によって歪められることが非常にしばしばある。私が芝居を書きだした頃は、演出家は最近と違い、自分の果たすべき役割についてもっと控えめな見方をしていた。劇作家が冗漫に書いた箇所をカットするとか、劇作家の構成上の誤りを巧みに誤魔化しておくとか、そんなことをやってくれていた。役者の舞台での配置を決め、役柄を精いっぱい演じる助言もした。劇上演の協力作業において演出家に過大な役割分担を要求した最初の人物は、マックス・ラインハルトであった。彼のような才能がない者まで、その例を真似しようとした。それ以後、劇作家の脚本は単に演出家がその思想を表現するための手段だという、とんでもない意見まで出て来た。演出家の中には、自分は劇作家と想像する者まで出て来たという例がいくつか挙げられた。ジェラルド・デュ・モーリアはとても優れた演出家ではあるが、私に向かって、自分が部分的に書き直せないような劇の演出には関心がない、とはっきり言った。これは極端な例かもしれない。しかし劇作家の作品をそのまま上演するだけで満足する演出家を探すのは非常に困難になってきたのは事実である。ひとの脚本を自分自身のオリジナルな作品を生むための機会だと見なす演出家が増えてきた。劇作家の意図が演出家の愚かな頑固さのためにどれほど誤って表現されているかを知ったら、観客は驚くだろう。また、劇が通俗的で愚かしいというので劇作家が非難された場合に、どれほど演出家に責任があるか、これも誰も知らない。演出家は芝居に関して意見を持っている者ではあるが、たいして持っているのではなく、お陰でひどい結果になる。意見を持つのは楽しいことであるが、多くの意見を持つ場合、自分の意見を過度に尊重せず、ほどほどの価値があると考えるのが無難である。ところが、僅かな意見を持つ者は、自分の意見を過度に尊重しないではいられないものだ。セリフとか、所作とか、背景効果などについて、ほんの僅かばかり意見を持つ演出家は、その意見を過度に重要視してしまい、それを表に出すために、気安く劇の展開を遅らせたり、劇の趣旨を歪めたりするのだ。演出家があまりにも虚栄心が強く、自分の意見に拘り、想像力に乏しいこともよくある。時には独裁的な者もいて、自分の語調や表現の癖などを役者に模倣するよう強要することさえある。役者は役をもらうためには演出家の推薦が要るし、贔屓してもらうためには従順なほうがいいので、奴隷のように命じられたままに振る舞うしかなく、このため演技から自然らしさが失われてしまう。最善の演出家はほとんど何もしない人である。私自身は時どき運がよくて、私の劇をうまく上演しようとすることだけを考え、私の希望を満たすように努めてくれる演出家を割り当てられてきた。それでも他者の心の中まで入るのは難しく、どれほど親切な演出家といえども劇作家の意図の大体を掴む以上のことは出来ない。劇作家の意図だけを示しても観客は好んだと思うのだが、演出家は観客の好むものを何か付け加えて示すことが多いと思う。しかしそれでは劇作家の趣旨からずれてしまうのだ。
     これを是正するには、劇作家が自分で演出すればいいに決まっている。だが、元役者だった劇作家でなければ、それはまず無理である。役者に語調とか所作が違っていると言えるだけでは不充分で、言葉と身振りで正しい語調と所作を実際にやって見せなくてはならないからだ。こういう指導は、端役をやる役者が不充分な演技力しか持たないので、従来以上に必要になっている。ジュラルド・デュ・モーリアは、役者の誤りを指導するとき、まず誤った様子を戯画化するという、当事者は悔しがるが有効な方法を用い、次にあるべき演技をやって見せたのである。彼はとてもすぐれた役者であり、かつ物真似の天才だったから可能だった。だが、これはたいしたことではない。演出というのは複雑な仕事である。それ自体独立していて、苦労して身につけるべき技術というか芸術、と呼びたいならそう呼んでもいい。演出家は劇の進行を司る。役者の登場、退出、様々なタイミングで観客の注意がすぐ向けられるように人物を配置しておく。他にも、個々の役者の癖を知っていて、役者が力量を越えたことを求められたら、何とか誤魔化して急場を凌ぐように手伝ってやる。最近のイギリスの役者全般についても、例えば、二十行を越えるセリフを言うときは照れてしまうという癖も知っていて、そういう照れを克服する手立てを工夫してやるのである。観客の興味を劇の主題に向けたり、どんな劇でも避けられぬ退屈な箇所を何とか我慢して見続けられるように工夫したりしなくてはならない。解説の場面、話の継ぎ目、劇的挿話への導入部など、どうしてもだれてしまうからである。観客の集中力がともすると途切れるのを考慮して、途切れそうになるところで所作を入れて、注意を維持する。役者たちの傷つきやすさ、嫉妬心、虚栄心を考慮し、生来の自己中心癖が劇の調和を乱さぬように気を配る、どの役も適切な価値を与えられ、役者たちが自分の役が目立つようにと他の役者の出番を邪魔しようとするのを防ぐ。劇の進行をいつ早め、いつ遅らせるか、どこで強調するか、どこでぼかすか、どこで調子を上げ、どこで下げるか、など全てを決める。舞台装置を扱い、装置が役者の動きに適切に役立つかを見届ける。役柄に合う衣装を決め、女優がともすると役にふさわしい以上にきれいに装いたがるので、いつも見張っている。照明に気を配る。演出は高度な知識と技術を要する仕事というか芸術である。そのうえ、忍耐、ユーモア感覚、如才なさ、柔軟性と厳しさも必要である。私自身はどうかと言えば、演出に必要な知識はゼロだし、素質もほとんど全て欠けているのを自覚している。どもりであるのもマイナスだし、それにもう一つ問題があった。というのは、劇を書きあげ、校正刷りを訂正してしまうと、関心をなくしてしまうのである。舞台でどう上演されるかに好奇心はあったけれど、一度他人の手に委ねてしまうと、自分の作品として身近に感じられなくなるのだ。子犬を人間が取り扱った後は、母犬が子犬に関心をなくすのと似ている。私はこれまでしばしば、演出家の言いなりになり過ぎるとか、演出家の見解が自分と違うのにその意見を受け入れるとか、非難されてきた。実際のところ、私は自分の劇について、他人の方がよく理解していると常に考える傾向にあるのだ。私はよほど立腹せぬ限り、喧嘩を好まない。そして私はめったに腹を立てることがない。さらに、自分の劇がどうなろうと、あまり気にならないのだ。演劇界に対する嫌悪感が次第に増してきたのは、演出家が時に無能であるからではなく、演出家が存在する必要があるということ自体がいやだからである。

     私はもし作家でなかったら、医者か法律家になっていたであろう。作家業はとても楽しいから、それに向いた資質のない多数の人間が、この側に携わっているとしても驚くには当たらない。胸が躍るし変化に富む。作家は好きな場所で好きな時間に仕事をすればいいのだ。体調が悪かったり気分が乗らなかったりすれば、怠けるのも勝手だ。しか短所もある職業ではある。その一つは、書く題材は世界中の人でも景色でも出来事でもよいのだが、作家自身の内部の秘密の泉と呼応するものしか扱えない、ということである。鉱山は無限に豊かだが、各作家がそこから得られるのは決まった量の鉱石のみである。このように、有り余る物の真っ只中で、作家は餓死することもある。書く材料がなくなれば、もう一巻の終わりである。このような結末に苛まれぬ作家はまずいないと思う。もう一つの短所は、作家は満足を与えねばならない、ということである。自分の作品の読者が一定数以上いなければ、作家は飢え死にするしかない。時には生活苦のために、心の中で腹立たしく思いながらも、仕方なく大衆の要求に従うこともある。人間は弱いものだから、時に金儲けのための粗末な作品を描いたとしても大目に見たいものである。無理せずに食べていられる作家は、仲間の作家が必要に迫られて時に出来損ないの作品を出したとしても、嘲笑するのではなく、同情すべきである。チェルシーの小賢人の誰かが、金のために書くような作家には用がない、と言った。賢人と言われるだけあって結構気の利いたことも言ったが、これは非常に愚かな発言であった。作家が何のために書いたか、そんなことは読者には関係がない。結果だけが問題なのだ。必要に迫られぬと書けないという作家は結構いる(サミュエル・ジョンソンもその一人)けれど、だからと言って金のためだけに書くのではない。もし金のためというのであれば、あまり利口ではないだろう。同じ能力と勤勉さを発揮して働けば、作家業よりもっと儲かる職業はたくさんある。世界にある偉大な肖像画の大部分は、画家が報酬を受けて描いたものである。作家の場合と同じく画家の場合も、仕事をする高揚した気分がとても楽しいので、仕事に着手すれば最上の仕事をしようと夢中になってしまう。だが、画家がパトロンを満足させなければ報酬を得られないのと同じく、作家も読者も満足させなければ本を買ってもらえないのだ。ところが作家には、大衆は自分の作品を好むはずで、それにも拘わらず本が売れないとすれば、悪いのは作家ではなく読者だという思いがある。自分の本が売れないのは退屈な本だからだと認める作家に、私は一度として会ったためしがない。芸術家の中には、長年にわたってほとんど認められずにいたが、最晩年に至って名声を得たという例をよく聞く。だが、最後まで無視され続けた作家の話は聞かない。しかし、実際にはこういう作家の数のほうがはるかに多いのだ。消えていった元作家たちが芸術の殿堂にささげた作品はどこに行ったのだろうか。もし才能というものが、ある種の器用さと独特の世界観が合わさったものであるならば、独創性は最初は歓迎されないのが納得できる。始終変化している世の中では、人々は新しさを警戒し、それに慣れるのに時間を要するのだ。個性の強い作家は、自分の個性を歓迎する読者を少しずつ獲得せねばならぬ。若い作家はどうしても臆病になってしまうから、自分の持ち味を出せるようになるまでには時間がかかるだけでなく、あるグループの読者――いずれおこがましくも「私の読者」などと呼ぶようになるが――に向かって、自分はあなた方の欲するものを提供できるのだと納得させなくてはならない。これを達成するのは、個性が強ければそれだけ一層困難であり、収入が得られるようになるまでには時間がかかる。さらに、結果がずっと継続する保証はない。いくら個性が強くても、作家が読者に与えうるものはせいぜい一つか二つであり、それが尽きてしまえば、ようやく這い出したのに元の無名の状態に戻ってしまう。

     絵画や作曲の技術は努力して励まねば身につかないというのは、万人の認めるところであり、素人の作品は、当然ながら、低く評価されたり馬鹿にされたりする。昔と違って、ラジオや蓄音機の誕生により、素人のピアニストや歌い手が客間から追放されたので、誰もが安堵している。文章を書く技術も他の芸術に劣らず難しいものであるが、人は皆手紙が書けるので、本くらい書けると考える人が大勢いる。文章を書くのが人間に非常に好まれる息抜きになったようである。家族全員が、昔の幸せな時代なら教会に慰安を求めたように、文筆に熱中している。妊娠中に退屈から逃れるために小説を書く女性がいる。退屈した貴族、クビになった将校、引退した役人などが、酒に溺れる代わりに文筆に飛びついている。もしまともな本が書けるという意味なら、誤った説である。素人が時に好著を書くことがあるのは事実である。何らかの幸運で生まれつき作文力があったとか、誰が書いても興味深い経験をしたとか、人柄が魅力的であるとか、一風変わっている人で、不器用な筆遣いのせいで却って文章にそれがよく出たとか、そういう事情があったのであろう。しかし、世間で流布している説によると、一度だけは書けるということであって、二冊目については何も言われていない。素人作家は再度運を試さぬほうが賢明である。二冊目が駄作であるのはまず確実だからだ。
     素人作家と玄人作家の一番大きな相違は玄人作家が進歩する能力を持つということである。一国の文学は、前にも述べたが、いくつかの秀作によってではなく多数の作品群によって形作られているのであり、それが出来るのでは玄人作家のみである。多数の人が生活費を得ようと苦労しながら職業として文学に携わってきた国の文学は、主に素人作家だけが活躍した国の文学に較べると豊かである。選集や全集は長年にわたる決然たる努力の積み重ねの結実である。作家は、他の人もそうだろうが、試行錯誤によって学ぶ。初期の作品は習作であり、作家は様々な主題や様々な手法を試し、同時に自分の性格を涵養するのである。その過程で作家は自己発見をする。発見した自分こそ作品において展開すべきものであり、やがてこの発見を最大限立派に見せる術を学ぶ。それから自分の持てる才能の全てを動員して、可能な限り最上の作品を生み出すのである。書くというのは健康的な職業なので、最高傑作を出した後も多分長生きするであろう。その時までには書くことがすっかり身についているので、多分あまり意味のない作品を書き続けるであろう。こういう作品を読者は当然無視してよい。読者の立場からすれば、作家が生涯にわたって生み出すもののうちで、必要欠くべからざるものはごく僅かである(「必要欠くべからざる」という意味で私が意味するのは、作家の個性を表現する僅かな部分のことであり、この語に絶対的な価値のある意義は与えていない)。こういう僅かなも

  • 人間観察の極み、人の清濁併せ持つ感覚や一貫性のなさをあらゆる角度から評価してる。その人間観察の結果を小説で解き放つ…なんと面白いことか。
    この本を読んで、小説家ってすごいなと思ったし久々に小説読みたくなった

  • 劇作家についての話が多い気がした。

  • モームは最後に「真、美、善」の価値に言及しているが、「美」の創造者である芸術家に対する意見がかなり辛辣なことに驚いた。
    芸術家について、「この連中には、尊敬すべき点はほとんどない。虚栄心が強く、自己満足の輩である。」と。「創造者は、内なる自己を表現したくて堪らぬという衝動に突き動かされて作品を作るのである。作ったものに美があっても、それは偶然だ。」は、その通りなのだが、作家も多少同じ部分を持ち合わせているはずだと私は思う。
    この考えからゴーギャンを取り上げるに至ったのか、それとも「月と六ペンス」を書いて益々そう思うようになったのか。絵画鑑賞好きとしては気になってしまった。

  • 解説ではかつての大学入試のための必読書であったらしい。前半の部分がどのように文章を書くかということで多く引用されたことだと思われる。
     中盤になってくると劇の脚本家としての考えが入ってきた。さらにその後では自分の小説の状態、旅行などの話もある。それから最後には哲学書を読み漁って考えたこと、美、愛、善についてである。自分の意見で哲学者を批判分析することが新しい視点であり、多くは哲学者の解説に過ぎない現在、貴重な考えである。

  • 大作家で波乱に満ちた人生を送ってる人の回想的エッセイが面白くない訳がないっていう話。

    所々、冗長気味な部分もあるし、自分の不勉強で知らない作家等の名前も出て来たけど、それでも興味深く読めた。

    ただ、人生や哲学や宗教等の普遍的な話の割合が多くて、もう少し自分の半生や旅やらの事が書いてあるのを期待していたので、その部分は残念だった。


    人生に意味をもたらすのは、「真」「美」「善」である。
    人をより良くするのは苦悩ではなく努力。

  • ハチャメチャな所もあるけれど、モームという生きた人間とその個性、魅力がひしひしと伝わってくる。読み込まずとも「わかる」ところが大半、いくら読んでも「わからない」ところが少し。

  • 要約すると、
    「自分の人生を紡いでいけ」

  • 文学

  • 2014 7/14読了。Amazonで購入。
    最近はまっていたサマセット・モームの、文学論・・・というか作家論・作劇論のような、単なるエッセイでもあるような、取り留めもなく書かれたような本。
    最後の哲学に関する部分(それは別にモームから知らなくてもいいかと思った)以外、ざーっと目を通した。
    いくつか好きなフレーズがあったので読んで良かったと思う。

  • 要約すると。

  • モームが自分の小説や戯曲について、あるいは、人生の意味について、どのように書いてきたか、どう考えていたのかを読むことができます。自分は想像力に乏しく、(ほんとかよ!)であった人から、物語を起こしてきた。とか、チェーホフのように、本当の人生らしく書くのではなく、人生のドラマティックな部分を抜き出して書く、つまりプロットこそ重要だという姿勢が書かれています。

    小説からは容易に読み取れなかった、古典や哲学書の知識や読書量が生半可ではないことに驚きますよ。

  • モーム64歳の時の回想録とでも言える様な(本書では回想録ではないと言ってますが)、モームのそれまでの生涯で興味を抱いたことを中心に、真・美・善についてモーム独特の言い回しで意見を述べている、哲学書のようなエッセイ。
    モームのそれまでの人生経験が述べられ、そしてそれらの思い、真実や美、そして宗教についても触れています。どれも金言だらけです。

  • モームの自伝的エッセイ。「人間は複数の人格の混合体である」。本書の内容もまたその通り矛盾だらけ。それが気に障らないのは文章の上手さと余裕の態度からか。文体修行についての挿話を興味深く読む。

  • 再読の価値あり。簡潔で余計な修飾が削ぎ落とされた文。「明快」「簡潔」「音調の良さ」の順で大切であると述べる。人間は育った環境等によって大まかな類型に分かれる。首尾一貫した人などいない。人生と社会の在りようや問題を扱う文学はやりがいのある仕事だ。でも結局は「各人は自らの性質と仕事に応じて行動すべし」。

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著者プロフィール

モーム W. Somerset Maugham
20世紀を代表するイギリス人作家のひとり(1874-1965)。
フランスのパリに生まれる。幼くして孤児となり、イギリスの叔父のもとに育つ。
16歳でドイツのハイデルベルク大学に遊学、その後、ロンドンの聖トマス付属医学校で学ぶ。第1次世界大戦では、軍医、諜報部員として従軍。
『人間の絆』(上下)『月と六ペンス』『雨』『赤毛』ほか多数の優れた作品をのこした。

「2013年 『征服されざる者 THE UNCONQUERED / サナトリウム SANATORIUM 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

モームの作品

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