サラジーヌ 他三篇 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2012年9月14日発売)
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本 ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784003750827

感想・レビュー・書評

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  • バルザックの短編、『サラジーヌ』『ファチーノ・カーネ』『ピエール・グラスー』『ボエームの王』の4作品を収録。4作品とも芸術家をとりまく物語で、どの作品も幻想奇譚といった趣だ。語り手がいて、昔こんな面白くも不思議な話があったよ、という感じの出だしだが、バルザックの読み手を翻弄するがごとき文章表現により次第に幻想的物語に沈降させられる感覚は、子供の頃に読んだおどろおどろしい怪奇物語(?)の世界を思い出させてくれる。そして、決まって最後は思いもかけない皮肉な結末が待っていて、幻想に一層の余韻を残してくれる。
    『サラジーヌ』は、とある不気味な老人にまつわる話だが、美しき少女の絵をきっかけに語られるその話とは・・・。なぜ、恋に盲目な彫刻家の話が始まっていくのか・・・。最も幻想・怪奇趣味に溢れた物語。
    『ファチーノ・カーネ』は、千里眼を持つという聞き手に語られる、クラリネット吹きの盲目の老人の昔話。ヴェネチアから始まる老人の若かりし頃のハチャメチャな冒険譚であり、映像化しても見栄えがあるかもしれない。
    『ピエール・グラスー』は、才能の無い画家が才能がないことを武器に崇め奉られていく話で、4編の中では最も皮肉と諧謔に満ちた物語。ブルジョワ階層が次第に政治・経済・文化の主体になっていく中で、それに伴う新たな芸術の担い手たちをよく観察し、批判する内容ともなっている。凡庸に幸あれ!という逆説な展開が面白い。
    『ボエームの王』は、落ちぶれたが気ままに暮らす伯爵が従順な愛人を気まぐれに操る話と、その伯爵の愛人とその夫である劇作家夫妻がそれに翻弄されながらも実は事態が好転していくという話をパラレルに進行させた構成巧みな物語。他の作品でも実在の人物やその作品の簡単な評論が物語中にセリフとして語られることがママあるのだが、本作品ではそれがとても多く挿入されていて、そうした文学史の流れや時代背景がわかっていないと、セリフの本意を知るにはかなり苦しい。(泣)また、4作品ともいえることだが、登場人物の名前が同一人物であるにも関わらず、頻繁に別の名で呼ばれたりしていて、特にこの『ボエームの王』はそれがはげしい。こうしたセリフには場面特有の機微があるのであろうが、話を縦横無尽に操るバルザックの妙技になかなかついていけず、これもわかり辛くさせている一因となった。(泣)「愛」は強いが故に「結果」をも導いてくれるというイケイケな話が面白かった。(笑)
    巻末の『サラジーヌ』における「左右対掌体」の解説は、なるほどそうであったかと思わせる考察であり、いろいろと象徴が埋め込まれていたのが今更ながらにわかったが(笑)、また、4作品ともに「現」から「原」へ、「結果」から「原因」へという2プランの一致を基調とするという物語構造の解説もなかなか興味深いものであった。確かにどの物語も、最終的に2項が対称的に浮かび上がる効果を狙っていたと思われ、バルザックのシニカルな表現と豊かな文化知識と相まって、実はかなり吟味された叙述だったのだなあ。
    お気に入りは、『ピエール・グラスー』。

  • 素晴らしい語り。病気にかかるように、魔法にかかる。熱に浮かされた、奇妙で甘美な夢……。

    モームが『世界の十大小説』で「バルザックこそ、私が躊躇なく天才と呼びたいただ一人の小説家である」と書いてたので、ずっと読もうと思っていた。
    そして、読んで納得した。精力的でありながら悲劇的、退廃的でありながら喜劇的。こういうこってりした饒舌体の文章は、読んでいると飽きてくるだろうと思っていたけれど、読めば読むほどすごいという感想を抱いた。

    収録作に共通するのは、美への倒錯と皮肉である。すすんでその殉教者に志願しながら、美のために道化を演じている登場人物たち。全ては、張りぼての一夜の夢。けれど、夢を見ることができるだけ、彼らは幸せなのかもしれない……。

  • 19世紀前半のフランスを代表する作家バルザック(1799-1850)の、芸術家や美にまつわる四つの短編。いづれもバルザックが19世紀フランス社会全体を活写せんと企てた小説群『人間喜劇』の内の「風俗研究/パリ生情景」に位置づけられる。

    七月革命を経て本格的な近代ブルジョア「社会」が立ち現れることで、「社会/芸術」という新しい関係・問題が生じることになった。所収の作品では、こうしたフランス「社会」の歴史的大転換が、後景を為している。

     「サラジーヌ」(1830)

    【美】への陶酔。

    「彼はすっかり陶酔しきっていたので、もはや劇場も観客も役者も目に入らず、音楽も耳に入りません。それどころか、自分とラ・ザンビネッラとの間には距離がなくなり、彼女をわが物とし、じっと食らいついたままのその目は、彼女を独占していました」

    【美】への幻滅。

    「おまえはこのおれを、おまえと同じところにまでおとしめてくれた。愛するとか、愛されるとかいうのは、おれにとってもおまえにとっても、これからは意味の空疎な言葉なのだ、現実の女を見ては、たえずおれはこの想像上の女のことを思うだろう」「おまえはおれに対し、この大地から女という女を根絶やしにしてしまったのだ」「愛なんて、もう! おれはいかなる歓びに対しても、あらゆる人間的な情動に対しても死んでしまったのだ」

    そしてバルザックは気づいてしまっていたのだろう。如何なる陶酔も、如何なる【美】も、不可避的に幻滅によって終わるしかないということを。【美】への幻滅はただ一度きり、そしてそれきりだ。全てへの幻滅だ。しかし、幻滅という喪失の意識それ自体を喪失してしまわない限り、【即物】に堕することはない。【美】を喪失している限りに於いて、逆説的に【即物】から免れている。ニヒリズムの土台無き宙吊りから堕ちる先は、どこまでも乾いたシニシズム、自己冷笑にまで磨滅せずにはいないシニシズムだ。

    手垢のようにまとわりつく概念的規定の羈絆から解き放たれる、理性という尺度を無化する、何者でもなくなってしまう、その「瞬間」としての【美】

     「ファチーノ・カーネ」(1836)

    「観察を他人に向けると、それによって相手の人生を生きる力が僕には与えられ、相手に取って代わることができた」これは写実的と云われる作家バルザック自身のことを語っているかのようだ。外面を通して内面に入り込むことができる。社会は最早、「観察」対象に過ぎぬ外面で埋め尽くされていたのか。なお、この物語の設定からも窺えるように、バルザックには、幼少期の母親の影響から、スウェーデンボルグに親しむなど神秘主義的な側面もあったという。

    情熱と云うのは、社会が自らの内に居場所を与えた狂気の云いだ。

      「ピエール・グラスー」(1839)

    前述したように、七月革命により近代ブルジョア社会が本格的に幕開けした。「栄光ある展覧会の代わりに、騒がしい市場が生じた」。内実無き教養俗物と大衆が、伝統的美をも攻め落としてしまった。美の在りようが根本的に変わってしまった。資本主義の補完物として俗物どもの慰み物であることを峻拒するならば、「社会」をどこまでも拒絶し自らを一つの深淵と為す「瞬間=無」、その「瞬間=無」に於いて或いはそうした「瞬間=無」の到来の予感の中に於いてのみ、則ち否定の相に於いてのみ、【美】が立ち現れる。それ以外に在り得なくなってしまった。

    「美しいものは移ろいやすい・・・・・・しかし醜いものは残る!」

      「ボエームの王」(1839-1845)

    七月革命後のブルジョア社会に、嘗ては貴族などの特権層や富裕層に独占されていた、文化・芸術を志向する中間層が出現したことが、この物語の重要な歴史的背景としてある。しかしここに描かれているラ・パルフェリーヌの言動は、ゴーティエのロマン主義やボードレールのモデルネの感性とは重ならない。俗物の、切れ目も深淵も無い、退屈。



    一般に写実主義として括られるバルザックだが、その情景・心象描写は実に芳醇な文体から為る。訳者の名文のゆえか。バルザックが描き出す「パリ生活情景」の最も印象的な文章を一つ。

    「だから、私の右手には暗く静かな死の姿が繰り広げられ、左手には節度を保ちながらも生の騒々しい宴が繰り広げられていたのだ。こちらには、冷たく陰鬱で喪服をまとったような自然があり、あちらには陽気な人びとがいる。私はといえば、こんなにもちぐはぐな二つの光景の境界にいるのだった。それは、さまざまな形で何度も繰り返される光景で、おかげでパリは世界で最も楽しくかつ最も思慮深い都市となっている。私の気持は寄せ集め状態になっており、半ば陽気で、半ば陰気だった。私は左足で拍子を刻みながら、右足を棺桶に踏み入れているような気分に浸っていた」(「サラジーヌ」)

  • ◇バルザックの幻想的小説。

  • 『サラジーヌ』1830年・・・風俗研究(パリ生活情景)

    語り手の名は明かされないが、男は、謎多きランチ家主催の舞踏会と宴会に出席しその広い邸から庭を眺めている。
    ランチ家は、ニュシンゲン氏やゴンドルヴィル氏にもひけをとらないようなお金持ちのようだが、その金の出所を誰も知るものがいなかった。
    ランチ伯爵夫人も令嬢のマリアニーナも魅惑的な美貌の持ち主だったが、その彼女たちと同居する背が曲がった痩せた小柄な老人を邸の中に認め、この魑魅魍魎さながらの謎の人物に誰しも好奇心を募らせるのであった。
    控えの間に豪華な額縁におさめられた獅子の毛皮に横たわるアドニス(ギリシア神話の美少年)の絵を見て感激する同行の夫人(ロシュフィード公爵夫人)に、話者は、アドニスのモデルはランチ夫人の身寄りの一人だと答え、明晩、謎解きを約束する。

    語り手が夫人に語ったのは次のような話だった。

    代訴人の一人息子のサラジーヌは、20代のはじめ、彫刻で賞を受け、ローマに旅立ちます。
    イタリアの劇場で一目見たザンビネッラという歌姫にぞっこん惚れてしまったサラジーヌは、劇場に通いつめ、気の狂わんばかりの愛と情熱を火の粉のように撒き散らす男になっていきました。
    しかし、恋焦がれた相手は、去勢されたカストラートで、そのことを知って絶望したサラジーヌは、ザンビネッラを殺そうとしますが、ザンビネッラのパトロンの刺客に逆に殺害されてしまう。
    この話を語ってもランチ家にいた謎の老人との因果関係に、ロシュフィード公爵夫人はピンときませんが、その老人こそ、生き残ったザンビネッラであり、その後も歌姫として活躍したザンビネッラによってもたらされた巨額の富が、ランチ家の財産の元であることに気づいた時、夫人は、パリはいかがわしい財産でも、血塗られた財産でもえり好みをせず迎え入れてしまう町なのだと嘆く。

    『サラジーヌ』はバルザック31歳の時の作品。
    バルザック中編小説にあたるこの作品は、あらすじとしては、性別など疑うことなく愛した女が実は去勢された男で、彼を愛してしまったがために殺されてしまうという悲劇的事件が軸を成してはいますが、
    文中には、語り手と公爵夫人との恋の駆け引きや、新古典主義のジロデのルーブルに実在する絵画などを小道具として登場させたりと、小説の濃密性には舌を巻くものがある。

    ロラン・バルトは、『サラジーヌ』を561の単位に分割し、それぞれに構造分析を加え、93の相関的なテキストを挿入することにより、『S/Z』という一冊の本を書き上げている。
    題名の『S/Z』は、サラジーヌとザンビネッラの頭文字をとったものだが、SとZは図形的に逆の関係にあり、対立させる / は、鏡の表面であり、幻覚の壁、パラディグムの意味の指標だとバルトは述べている。
    バルトは、バルザックの描いた文字、一文字残らず小説の最初から終りまで、詳細な意味分析を行っているわけだから、『S/Z』を読むということは、バルトの読みを加えながらもう一度『サラジーヌ』を読み返すという行為にほかならない。
    そしてバルトの読みの深さに驚愕し、古典テキストの構造分析についても多くを学ぶ機会を得たと思う。

    サラジーヌが殺された凶器が細身の短刀であった理由について、バルトはそれを小さな男根の象徴とし、なるほど、この小説では、サラジーヌは撲殺や扼殺じゃ成り立たず刺殺されなければならないことに気づく。

    カストラートは、14世紀あたりから出現し、19世紀半ばまで実在したという。
    一番有名なカストラートのファリネッリをモデルにして映画が作られたりし、イタリアの劇場やローマ教会で歌っていた去勢歌手の存在を私たちも知ることとなった。

    また、女と信じ込んで男を愛してしまうという筋書きは、いくつもあり、『M・バタフライ』のように、子供までいるように騙してしまうなど強烈な物語もあるが、
    バルザックの魔術は、内容をやたら込入ったものにするのではなく、読者を謎に一緒に引き摺り込み、数々のじつは奧深い布石をさりげなく配しながらラビュリントスの出口に導く手法にある。
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    ■小説89篇と総序を加えた90篇が「人間喜劇」の著作とされる。
    ■分類
    ・風俗研究
    (私生活情景、地方生活情景、パリ生活情景、政治生活情景、軍隊生活情景、田園生活情景)
    ・哲学的研究
    ・分析的研究
    ■真白読了
    『ふくろう党』+『ゴリオ爺さん』+『谷間の百合』+『ウジェニー・グランデ』+『Z・マルカス』+『知られざる傑作』+『砂漠の灼熱』+『エル・ヴェルデュゴ』+『恐怖政治の一挿話』『ことづて』+『柘榴屋敷』+『セザール・ビロトー』+『戦をやめたメルモット(神と和解したメルモス)』+『偽りの愛人』+『シャベール大佐』+『ソーの舞踏会』+『サラジーヌ』+『総序』 計18篇

  • 「ピエール・グラスー」は考えさせられる内容であった。

  • 短編も面白いバルザック。コプセックでも思ったけど、芳川さんの訳は読みやすい。もっと色々なバルザックの作品を翻訳して欲しい。

  • おなじくバルザックの『セラフィタ』を最近再読して、そういえば「サラジーヌ」も一種の両性具有ものだったはずと思って手に取りました。しかしこちらの両性具有者の正体は神秘主義的天使ではなく、美貌のカストラート、ザンビネッラ。表題のサラジーヌが女性的な名前なのでてっきりこれがその両性具有者なのかと思っていたのだけど、実は騙される彫刻家(男性)の名前がサラジーヌ。

    正直、勝手にザンビネッラを女性だと思い込んで恋して、男だとわかったとたんに逆ギレするサラジーヌは、ただの身勝手じゃない?って思ったりもするのだけれど、(フランス人のサラジーヌは当時のイタリアのオペラ歌手が全員男だと知らなかった=日本で置き換えたら歌舞伎の女形を本物の女性だと思い込んで恋しちゃった外国人ってとこ)この二人の物語自体はとても面白かった。

    ただ、語り手の「私」が別にいて、ザンビネッラの末路であるところの金持ち老人の正体についてある女性に語るという構成になっているのが、ちょっと面倒くさかった。実はあの老人の正体は・・・という過去を物語る構成なのは別に良いのだけれど、そもそも語り手の「私」が誰で、なぜ他の人々が謎だ謎だといってる老人の正体を知っているのかが全くわからないし、その私が語って聞かせる相手の女性についても最初は「美しくて若い女性」程度、では恋人で初心な娘なのかと思ったら突然「奥様」と呼びかけたり(つまり不倫的な)最後の最後で突然「侯爵夫人」と説明されたり、本筋と関係ないところで面倒くさい。バルザックは比較的マイナーな前述『セラフィタ』や『海辺の悲劇』くらいしか読んでいないので、「バルザック馴れ」してない私には入り込み難かったのかも。

    他の収録短篇も構成的にはほとんど主人公と語り手が別人になっているので、バルザックの常套手段ぽいですが、個人的にはストレートな「ピエール・グラスー」のような作品のほうが集中して面白く読めました。「ボエームの王」には「サラジーヌ」で聞き手だったロシュフィード侯爵夫人がまたしても登場。彼女が登場する作品は他にもあるようなので、そういうの全部把握してればもっと楽しめたのかな。

    ※収録作品
    「サラジーヌ」「ファチーノ・カーネ」「ピエール・グラスー」「ボエームの王」

  • 誰かしら騙されつつ幸せだったり怒ったり、芸術家を軸にして誰もが悲壮だなあと思ったものの逞しく生きてる人もいる。

  • 最初は翻訳っぽい文章と、見慣れない単語で、リズムが合わず読みにくさを感じた。ストーリーは、目新しくは無いけれど、どこか魅力的で、惹かれる部分があった。読了後、解説部分を読んで、より魅力を感じた。

  • 【メモ/感想は別で】『ボエームの王』は、相当久しぶりの新訳なんで、たいそうありがたい。
    他3篇に関しては、新訳がここ数年で出たばかりなので、別の話を拾い上げてもよかったんじゃないかしら?とも思うけど…(『サラジーヌ』『ピエール・グラスー』は水声社、『ファチーノ・カーネ』は光文社からそれぞれ新訳が)
    とはいえ『サラジーヌ』に関しては、水声社版より読みやすいんじゃなかろうかという意見も見かけたので、後で読み比べてみる(けど、確かに岩波版のほうが頭に入って来やすかったかも)

    以後つぶやき。
    サラジーヌっつーと挙げられるロラン・バルトの例のものは、噂に聞くのみで読んではいないです。

  • ロラン・バルトの批評で有名な短編だが、もともとの話自体がとても面白いのである。バルザックの発想の豊かさと物語の巧妙さを楽しめる1冊。

  • バルザックの「サラジーヌ」という短編が注目されるのは、ロラン・バルトが『S/Z』という著書において詳細な構造分析をおこなったからだ。私がロラン・バルトにはまっていた頃、『S/Z』を読む前に当の「サラジーヌ」を読んでおかなくちゃと思いながら、結局『S/Z』を買わずに過ごしてしまった。
    ようやく最近になって岩波文庫で「サラジーヌ」を含むこの短編集が刊行され、ただちに購入したわけだが、実はみすず書房の『S/Z』の巻末には「サラジーヌ」が載っているらしいことを事後に知った。
    けれども、バルザックの未知の短編をまとめてよめるわけだからまあいいや。

    4つの短編が収められたこの本は、所収のどれもが芸術家の登場する小説集なのだが、芸術そのものが問題となってくるのは「ピエール・グラスー」だけである。私にはこの作品が最も印象的だった。
    登場する新進画家は勤勉ではあるが、才能がまるでない。いつも既存の作品の模倣になってしまって、独創性のかけらもないため、師匠に転職を勧められたりしている。
    だから画家ピエール・グラスーは二流どころか三流以下の凡庸な作者なのだが、どういうわけか偶然が重なり、金、名誉、地位といった世俗の成功を手に入れてしまうのである。
    グラスーの作品に値打ちがないことは、才能のある画家たちには隠しようもないことで、素人をだませている今はいいものの死後にはただちに忘れられる画家であることは間違いない。
    けれども「死後にも残る作品の価値」などというのはただの観念であって、自己が死んでしまえばあとのことなんかどうでもいいや、という観点から言えば、そんなことは問題にならないのである。
    私は無能なアマチュア作曲家で、くだらないクズばかり作っているが、グラスーとちがって「成功」なんぞしていない(それが普通なのだが)。
    そしてもうひとつ彼と違うのは、自分の作品のクズぶりを十分に知っていて、その事実に永遠に苦しめられている点だ。グラスーは才能はないが鑑識眼はあると描写されているのに、自己の作品の無価値さに苦悩していない。これは不思議である。不思議だが、そういう人もいるのかもしれない。
    やはり淡々とした素朴な生き様というものに、私は憧れながら隔絶を知るのである。

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著者プロフィール

フランス文学を代表する作家の一人。1799年生まれ。ロマン主義・写実主義の系譜に属する。現実の人間を観察することが創作の出発点だが、創造力を駆使して典型的人間像を描きあげる。歴史にも大きな関心を持ち、歴史的事実から着想を得ることも多かった。様々な作品に同じ人物を登場させる「人物再登場法」という手法を用い、膨大な作品群によって「人間(喜)劇」と名づける独自の文学世界を構築しようとした。代表作は『谷間の百合』。豪放な私生活も伝説的に語り継がれている。1850年没。

「2020年 『サンソン回想録』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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