物質的恍惚 (岩波文庫) (岩波文庫 赤 N 509-1)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751077

作品紹介・あらすじ

既知と未知の、生成と破壊の、誕生前と死後の円環的合一のなかで成就する裸形の詩。「書くこと」の始原にして終焉の姿。

感想・レビュー・書評

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  • この本は、追放された書物である。逃走する書物であり、隠蔽された書物であり、ゆえに、何よりも寛容で、何よりも凄艶な、恍惚の書物である。

    本書を隅々まで満たすことばの様々は、日常的で慣習的な、通常の言語的了解をことごとく阻む。しかし、その拒絶はどこまでも感情的で、扇情的で、蜜のような誘惑を纏った挑発としての拒絶である。ル・クレジオとの甘い遊戯の果てに我々読者が辿り着くのは、決して錯乱した混沌ではなく、美しい秩序である。雑じり気のない、純粋な調和である。しかし、その整然とした融合は紛れもない倒錯の、狂気の秩序でもあるのだ。

    狂気。それは例えば、蒼褪めた馬の頸に縋りつき慟哭する狂気かもしれない。コカインによる浮遊と眩惑に支配された、気怠い狂気かもしれない。分裂病的な、あるいはノイローゼのような、病理としての狂気でもいい。とにかく、そこには逸脱がある。平常からの、尋常からの、通常からの逸脱がある。ル・クレジオが『物質的恍惚』として素描してみせたのは、この逸脱の秩序である。

    我々が生きる世界や日常と輪郭を同じくして併存する言語体系は、稚拙で不安定な実践の下に成立している。そこでは多くが零れ落ち、漏れ出し、切り捨てられ、連綿と続く差延の営みだけが循環している。ル・クレジオの慧眼が捉えたのは、その循環、その体系化と画一化からむしろ積極的に逸脱してゆこうとする、ことばの自律的な欲望であった。言語として構造された逸脱は狂気の秩序として、ここに"essei"の体裁を借りつつ作家の過去、経験を表現するにまで至っている。

    恍惚のことば、感情と感覚と感動とが、ぶつかり合い、殺し合い、愛し合って織り成す論理と詩情の螺旋は、豊潤な文藝を孕んだまま文学の外へ、表現の外へ、そして言語の外へと優美に上昇する。その過程で丹精に語られるのは、究極にまで微分された内省的な自己であり、自我の方法である。

    ル・クレジオにとって、自己や自我はほとんど全くの虚無であるように思える。内側へ内側へと潜り込み、魂の有様を抉ってゆく彼の双眸に映えるのは、ただ漠とした空白だった。彼が目指したのは、虚しく広がる自我の伽藍に意味を、内容を、肉体を、息吹を宿すことだったのかもしれない。だからこそ、生々しく鼓動し、循環し、排泄する、生命体としてのことばが必要だった。器官としての自己を形成するに足る、苛烈で、精密で、グロテスクなまでに自律した文体が必要だった。

    若かりし文学者の葛藤は彼を支配する言語体系を遥かに解体し、その美貌の奥に潜む苦悩を、狂おしい程の言語的放蕩の果てに、極めて写実的に描ききった。その徹底した描出は、平素我々が何を失い、何を逃し、何を無化しているかを、そしてまさにその対象それ自体をも示す。

    避け得ない喪失を、約束された追放を、そしてそんな欠落に宿る一抹の救済を、人は恍惚と呼ぶのだろう。であるならば、やはり、本書こそは、あらゆる救済を背負った、物質的恍惚である。

  • 詩や哲学、小説、あらゆる分野を飛び越えて、
    壮大ながら、最小限で構築されているミニマムコスモス。
    頭の中こそがすべてを構築し、破壊していく命のスープであると。
    一単語も見逃せない、
    見落としたらすぐに文章の中で行方不明になってしまう。
    そんな緊迫感に満ちている凄まじい作品である。

  • 作家にとって言葉とは何だろう。それはもちろん、自家薬籠中の物としている素材であるはずだ。だが、同時にその言葉が限界となって彼/彼女を苦しめるとしたら。このエセーの中でル・クレジオは言葉を通して世界を記述し尽くすことを試みている。眼前に存在するもの、脳裏をよぎるもの……もちろん凡そそんなことは不可能なわけだが、その不可能に挑む果てに前衛文学のようでもあり哲学小説のようでもあり、そんな浅い整理に収まり得ないような深い書物のようでもあるこの奇書をこしらえてしまったのだから恐ろしい。読みながらその情熱に息を呑んだ

  • 文学

  • 2010-7-4

  • こんな本読んだことない。読むのがつらかった。めっちゃ時間かかった。
    一語一語を理解できず、流れに身を任せるしかなかった。
    途中から何について書いてるのかわからなくなるのに、所々ではまったく共感でき、未知なる世界に導いてくれて止めるに止められない。

    「沈黙」の章は神秘的ですべてであって何もなく、死生の話しで好きだった。

  • 自分が生まれる前のことで始まり、自分が死んだあとのことで終わる、このエッセイは今年読んだなかで、いちばん好きな一冊かもしれない。無数の人々や無数の表現から自分が構成されているという考えは好きだったし、自分自身に向き合う感覚になった。

  • 取りあえず読み終えてしまった。序盤で既に、残りページが僅かになっても永遠に読み終える気がしなかったし、最後のページを閉じた今も読み終えた気がしない。全てが外へと開かれていき、その開かれた全てを身内に内包している。そんな限りない円環の渦に巻き込まれたまま何が何だかわからない。そう簡単にわかってたまるか、と思う。なのになんなんだろう。理解を遥かに超えたところにある、全身を棚引かせるこの感覚は。震える、言葉の大洪水に身を悶え恍惚となりながら。虚無へと飛び立とうとする今一瞬の自分を捕まえようと、私は読み続ける。


    巻末の、今福龍太による40ページにもわたる解説「ル・クレジオの王国を統べるもの」も圧巻の読み応え。思えば私をル・クレジオに導いたのはこの人の書物からだった。

  • 言葉という思弁が構築する観念の城塞、もしくは感覚を鋭敏化させた彼岸の景色。とても20代とは思えない、言語の命脈を熟知しているかのようなその鬼才ぶりと、決して20代にしか描けない、生命の果てへの純粋たる観念が渾然一体となった凄まじい書物。言葉が言葉と重なり合うことでイメージが爆発し、論理的作用によって追い詰め感性的効果によって突き落とそうとする、理屈とイメージが溶け合った表現がひたすらに素晴らしい。そして真空へと無へと向かうそのベクトルの力は「無限に中ぐらいのもの」である生の根源と共振し、越えていくのだ。

  • 圧力。言葉の全弾発射。

    生きる前のこと、生きた後のこと。そういうことを表すためにまず今を、今の有形や無形を書き表そうとしている。そう感じた。
    小説なのかもしれないが小説的ではなく、哲学的でもあるけれど哲学書とは違う。
    唯一無二の本。

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著者プロフィール

(Jean-Marie Gustave Le Clézio)
1940年、南仏ニース生まれ。1963年のデビュー作『調書』でルノドー賞を受賞し、一躍時代の寵児となる。その後も話題作を次々と発表するかたわら、インディオの文化・神話研究など、文明の周縁に対する興味を深めていく。主な小説に、『大洪水』(1966)、『海を見たことがなかった少年』(1978)、『砂漠』(1980)、『黄金探索者』(1985)、『隔離の島』(1995)、『嵐』(2014)、『アルマ』(2017)など、評論・エッセイに、『物質的恍惚』(1967)、『地上の見知らぬ少年』(1978)、『ロドリゲス島への旅』(1986)、『ル・クレジオ、映画を語る』(2007)などがある。2008年、ノーベル文学賞受賞。

「2024年 『ブルターニュの歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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