失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (498ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751121

作品紹介・あらすじ

少年の目に映る世紀末パリの社交風俗を描く、第二編第一部「スワン夫人をめぐって」。ジルベルトへの想いを募らせ、上流階級から排斥されたスワン家のサロンに足繁く通う私。ある日、憧れの作家ベルゴットと同席する栄に浴するも、初恋は翳りを帯び…。

感想・レビュー・書評

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  • 第2篇『花咲く乙女たちのかげに』
    第1部「スワン夫人をめぐって」

    ”私”が青年の頃。時系列だと、2巻の「スワンの恋」が”私”の生まれる前⇒1巻「コンブレー」が少年時代⇒3巻”私”は青年になっている。
    ”私”は、初恋の相手であるスワン氏とオデットの娘のジルベルトに夢中だ。しかし父親であるユダヤ人仲買人のスワン氏は、粋筋のオデットと結婚したことによりすっかり俗物になっていた。
    この巻では、スワン氏とオデットがどのように結婚したのかも書かれているのだが、観念的理由なのでよくわからない…。愛も無くなったしもう結婚も諦めた相手との結婚生活で、サロンに出入りはできるがちょっと陰口叩かれたり(陰口も社交界の付き合いとして必要っぽい…)、スワン氏が望む幸福は死後に叶うものちされている。

    愛というものが、スワン氏と”私”とを通して書かれる。
    スワン氏はオデットへの愛情をもう失っていて愛人を持ったようだ。<スワンは長い間恋に幻想を抱いて生きてきたせいで、多くの女性に安楽な暮らしをさせてその幸福が増大するのを見てきたが、相手からはなんの感謝も愛情も示してもらえなかった男の一人である。P309> オデットを愛したやり方で他の女性を愛することしかできず、相手を愛している間は嫉妬を感じたり感じさせたり、しかし愛がなくなったら関心も嫉妬もなくなる、という愛し方。

    ジルベルトに恋する”私”は、オデットのサロンに通う。ここでサロンや上流階級のお約束ごとだのちょっと面倒な面だのが色々…。スワン氏とオデットは上流階級としてもかなり人脈も広いようだ。散歩の途中でナポレオンの名であるマチルド大公妃ともご挨拶する関係にある。
    この頃の”私”は文学青年として簡単な小説を書いてみたり、オペレッタに行ってみたり、憧れの作家のベルゴットの詩を楽しんだりしている。レオニ叔母さんから相当な遺産を引き継いだのだが、スワン夫人やジルベルトに贈り物をするために次々売り払っていく。なんとなく古道具屋に持ち込んだ花瓶が(現在日本円にして)1000万円の値打ちがつくという金持ちっぷりだが、まだ若い青年である”私”はこの金額にビビることもなく「やったーこれでオデットやジルベルトに高価なお花を贈れるぞ」と考えるくだりは、ブルジョワの若もんらしい無分別さが出まくっていて、ちょっといい気なもんだとも思う…。
    しかしそんなふうに手放した叔母さんの遺品のソファーが娼館で使われているのを見て、まるでそのソファーが自分に何かを訴えているように感じたなど、やはり文学青年らしい繊細さと若々しさも持っている。

    そして自分の予測と実際とが違った様子、気持ちが違ってゆく様子も書かれている。
    ”私”は父の紹介で元大使のノルポワ公爵に紹介される。しかしノルポワ公爵は”私”の書いた短編を酷評し、有名女優のオペレッタ解釈もなんか釈然としなかったり、”私”の言動が伯爵には自分の思惑とは違うように伝わったことを他人経由で思い知ったり…、まあ実は俗っぽいところを持つ高官と、まだまだ人生駆け出しで無分別な若者じゃ太刀打ちできないな。

    この巻では芸術鑑賞や、芸術に関する思考も多く見られる。
    高名女優のオペレッタを観劇するのだが、女優の表現が自分の予測と違っていたため戸惑ったりなんとか自分の気持ちをうまく説明しようとするのだが、空回りしてしまったりする。

    ”私”の憧れの作家ベルゴットとの衝撃的な出会いに関する記述もちょっと面白い。
    ベルゴットの作品は清らかで貧しい人々を魅力的に書いているので、”私”は勝手に「白髪の詩聖」を想像していた。しかし実際にあった彼は「若くて、粗野で、背が低くてがっしりして、カタツムリの殻の形をした鼻と、黒い山羊髭を持つエゴイストの野心家」だった、イメージが違う!いままで自分が好きだったベルゴットの詩に山羊髭がついていただなんて!これから彼の詩を読んだら山羊髭の詩だって連想しちゃうじゃないか!
    …作品が好きなら作家(をはじめとする表現者)本人にも自分の理想であってほしいと思うかどうかは論議分かれるところだと思いますが、この場合の”私”は作者を作品に結びつけちゃって勝手に騒いでます。まあエゴイストで野心家がそんなに清らかな詩を書けるというのもなんか面白いし、”私”の反応も面白い(笑)

    1、2巻で出てきた人物も少し顔を見せる。
    上流階級サロンにやっと顔を出せる程度だった医師のコタールは今ではパリ大学の医学部教授になり辛辣で容赦ない口調で話すようになっている。しかし”私”は人柄と医師としての腕前は別と考え、医師として信用している。

    今までもちょっと出ていた作曲家でピアノ教師の故ヴァントゥイユ氏のことも少しだけ書かれる。このヴァントゥイユ氏は登場人物のなかでも純粋で、そのソナタ演奏が書かれる場面は穏やかな雰囲気を感じて好きだ。
    スワン氏のサロンでは、オデットがヴァントゥイユ氏のソナタをピアノで演奏する。”私”は、ヴァントゥイユ氏のソナタのことに思いを馳せてみるがその魅力を理解しきれないという思いを持つ。
    しかしジルベルトは”私”に向かって「あの人の娘ってお父様を苦しめたんでしょ。自分の父親に酷いことをする人なんて知り合いたくないわ」と言っている。この娘に関してはたしか2巻で「同性愛者で同性の恋人と一緒に暮らし、相手の女性が父親との接触を嫌がっていた」とかだったような気がするんだが違ってたらすみません。


    そんな青春時代を送っている”私”だが、ジルベルトへの恋はうまく行かなくなっている。
    ジルベルトは、スワン氏とオデットの娘という俗物上流階級なお所があるんだが、父親大好きの反面反抗的で自己中心なところもある。
    ジルベルトの性質を「父親の性質と母親の性質が混ざり合っているのではなく、その時に一人しか出てこない」といっている。
    まだ若い”私”はちょっとした気持ちのすれ違いで「距離を置きましょう」なんて言ってみた。そしてなんとなくそのまま疎遠になりそう…というところで3巻は終わっている。
    <私は別離を決定的なものと考えなかった。とはいえそれが決定的になるだろうと感じてはいた。P393>

  • (2024/04/17 5h)

  • 「人をあれほど幸福にするのは心のなかに存在する不安定なものであり、恋する者はそれをたえず維持するようにしているのだが、そんなものが存在するとは、それが移動でもしないかぎりほとんど気づかない。実際には恋愛のなかにはたえず苦しみがあり、その苦しみを歓びで中和して顕在化しないよう延期しているだけで、いついかなるときであろうと望みのものが手に入らなかった場合に、苦痛は久しい以前から本来そうであるはずの残忍なすがたをあわらすのである。」p.340

  • 前巻のスワンーオデットのまるで相似形が、主人公ージルベルトで繰り広げられる。ただし主人公は思春期。そこに大人が傍若無人に振る舞う。

    期待と失望がここまでの大きなテーマ。
    芸術論は見事。

    訳者あとがきを読んで、2度楽しむ。素晴らしい文庫だ。

  • 「私」とジルベルトの関係を中心に描く。
    前巻、前々巻と比較すると「私」の心情に感情移入しながら読めた。
    約一年半にも及ぶオデットへの恋心は一貫して盲目的な不安に支配されている。
    手紙に感情をぶちまけるのではなく、相手に想像させようと苦心して言葉を意図的に綴る姿は生々しさを感じた。
    ジルベルトから近付いて来るのを始めは期待し、望みが薄くなると意地悪な攻撃に反する心情は相当拗れている。
    長い懊悩の描写に疲れた。
    交遊が途絶えたのは未熟な駆引きが生み出した悲劇だった。
    スワン夫人に従順な態度を取るのは、半ばジルベルトに対する報復かと邪推してしまった。
    スワンとオデットは二人揃って人格が変容してしまった様。

  • 本巻は主人公とスワンの娘ジルベルトとの恋話なので、割と読みやすかった。スワンと同様にこの少年も執着が強いタイプみたいで、好きな女の子の両親も住んでる家も好きになってしまう。ジルベルトの顔の中にスワンの面影や母親であるオデットの面影を見つけて楽しんだりしている。実の親と違いスワン夫妻もこの子を質のいい友達と認め大人のように扱ってくれる。

    楽しかった日々もやがてジルベルトと仲違いしたことで終わりが訪れる。主人公自身にも大きな変化があるが、スワン夫人のほうも大きく変わる。それは一つの時代が終わった事を告げている。主人公が娘でなく母親のほうの客になってから垣間見たスワン夫人のサロンの様子が面白い。オデットもだけどコタール夫人が卒がなくしたたか。

    プルーストは女を描くのが上手いなと思う。自身が女々しいところがあるからなのか?

  • 「落ち着かない眠りに沈んでいたわが思春期は、界隈一帯を同じひとつの夢に包んで持ち歩いていたようなもの」
    にんげんの悩ましい二面性とその認知、言葉やイメージのもたらす奇跡と必然と心の間歇性が、「私」の日々とともにゆったりと語られる。ゆるやかで美しい少年期が過ぎ去り、未来への不安が擡げてきた「私」の日々。時間のなかに、じぶんもいることを意識し恐怖をおぼえてゆく悲哀をだきしめる。フランソワーズの創る美味しそうなお料理や個性的なオデットのお洋服の描写にもこころ踊り、「私」の恋に、過去のわたしが共鳴する。
    いわゆる恋のかけひきってやつで手に入れた恋は、何れ終焉をむかえるのだとおもう。恋がくずれ去ったときそのなかに、愛の欠片があったのなら、それを育ててゆくのがいい。だから会いたい。も、好き。も、素直に伝えて。??けれどそれが素直にできないのがわたしたち貪欲なにんげんの憎らしさと愛おしさなのだけれど。

    営んでいるお店をせめて週休2日にと願いながらも、不意に、悪天候の予報だから明日は店休日にしよう、とおっとから告げられたときの、嬉しさよりも戸惑いが生じたというできごとが、この雨の祝日に舞い降りたので、「私」のマチネの観劇への想いと重なり可笑しくなったし、観劇の最中で、神経質で繊細な「私」のありとあらゆる心配ごともじぶんのことのように可哀想になっちゃう(お笑いライヴをみにいったときのわたしみたい!!わかる、わかるよう)。
    なるほど、若い頃に読んでいたならあるいは挫折していたかもしれないし、知らなかった感覚を目新しい心地で会得できたのかもしれない、なんてこともおもうけれど、プルーストのいう「ただひとつの知性」とやらへの路もぶ厚い靄のむこうで、なにも見えず知覚もできなかったかもしれない。
    19世紀でいったら、わたしはもう老人。いまのわたしがいるのは、「死後の幸福」。わたしの内なる存在は、すでに死んでいるから。そしてこれこそ、ほんとうの人生。

    まさに紅茶にマドレーヌでゆっくり、というこころづもりであったのに、頁を捲りはじめれば、ポップコーンとコーラだったじゃんってくらいおもしろくてとまらない。見始めたらやめられない、ドラマシリーズみたいに。シーズンを重ねてつまらなくなって酷い集結をするドラマみたいにはきっとならないはず。ですよね?


    「でも現代には、ことばを耳に心地よく配置するより、はるかに喫緊の課題が山積しているのです。」

    「また、われわれの精神の内に共生し、われわれをもっとも幸福にしてくれる諸々の思想のなかで、当初は文字どおり寄生虫のごとく、隣接するべつの思想に自分に欠ける最良の力を求めなかった思想が果たしてひとつでもあるか言っていただきたい。」

    「私がすごしたのは老人の一月一日だった。その日に老人が若者と区別されるのは、もはやお年玉をもらえないからではなく、老人がもはや元旦など信じていないからである。」

    「われわれのさまざまな欲望はしだいにせめぎ合い、複雑な人生においてある欲望の求めに応えて当の幸福な訪れることなど、めったにない。」

    「そもそも人生において、また人生の明暗の分かれる状況において、恋愛にからんで生じるどんなできごとであろうと、その一番のいい対処法は理解しようとしないことである。」

    「ひとりの人間がすこしでも深遠な作品のなかに入り込もうとするときに必要になるこの余分な時間は、一般の人が真に斬新な作品を愛するようになるまでに流れる数世紀にもわたる歳月の縮図であり、いわばその象徴なのである。」

    「というのも私のなかの知性はひとつしかないはずで、もしかするとそもそも知性というのはこの世にひとつしか存在せず、全員がその知性の共同間借人として、それぞれ個別の身体の奥からその知性を眺めているのかもしれない。」

    「もっとも大きな知的経験をつんだ天才ほど、おのが作品の根底をなす考えとまるで正反対の考えをいちばんよく理解できるはずだ。」

    「私の思考は、先程まで何時間も無意識のうちに押し流されていたことばの洪水にいまだ抵抗できないでいる。」

    「そんなお役所なんてくそくらえ!ですわ。そうそう、お役所なんてくそくらえ!ってのをわたしの便箋に標語として入れさせようと思ったぐらいです。」

    「あらゆる凋落を受け入れた人は、以前ほど気むずかしくなくなり、甘んじて相手と楽しくつき合い、相手の才気についての評価もほかの件と同じように甘くなるものと考えなくてはならない。」

    「夫人が着飾るのは、ただ身体に具合がいいとか身体を美しく飾りたいとかの理由だけでないと感じられた。その衣装につつまれていたのは、ひとつの文明の精神を付与された繊細な装置を身につけている感があった。」

    「諦めという習慣の一形態のおかげで、ある種の力はどこまでも増大する。」

  • 前巻の読了から5年も経過してしまいましたが、ようやく第3巻を読み終えました。
    "私"のジルベルトへの初恋と、その終わりまでが描かれつつ、パリの社交界の様子や芸術に対する様々な考えが途切れることなく語られていきます。
    読み終えた今は、間違いなく面白いと思いますが、読んでいる途中は、一区切りをつけようにも延々と区切れることなく続く文章に圧倒されてしまいました。

  • パリがあんなんなってる時に、なんだかタイムリーな。 舞台である19世紀末のパリはテロの気配などないのだが、20年後には第一次世界大戦、半世紀後は第二次世界大戦で、1世紀とちょい後には今回のテロが起こるわけで。

    相変わらずぜんぜん話が 進まなくて、延々とぐだぐだやってるんだけど、不思議と苦にならない。かえってその進まなさが心地よく、ずっと読んでいられる。

  • 特に、「知性」(p312)と、「無関心」(p398)が良かった。
    愛の顛末が連続的で、まさに「時間」(p130)のとおり、風の前の塵というかんじでした

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