失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (704ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751138

作品紹介・あらすじ

それから二年後、「私」はノルマンディーの保養地バルベックに滞在した。上流社交界のゲルマント一族との交際、「花咲く乙女たち」の抗いがたい魅惑、ユダヤ人家庭での夕食、画家エルスチールのアトリエで触れる芸術創造の営み。ひと夏の海辺の燦めき。

感想・レビュー・書評

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  • 第2篇『花咲く乙女たちのかげにⅡ』
    第2部「土地の名ー土地」

    3巻『花咲く乙女たちのかげにⅠ』から2年後。
    ジルベルトへの失恋からは立ち直りつつありながらも、未だにうじうじ思い出したり、でも生活していたらいつまでも覚えていられないよね?と思ったり、忘れたいんだか引きずっていたいんだか。

    そしてこの夏は、ノルマンディーの避暑地バルベッグに行くことになる。同行者は祖母とその女中のフランソワーズ。
    この4巻は避暑地の出来事なんだが、そもそも避暑に行く行かないで祖母や両親とうだうだ〜とやりあったり、移動の電車の窓から見た田舎町に「ここで暮らしてあの可愛い娘さんと知り合いだったらなあ」などと想像しを膨らましたり、祖母へ甘ったれ振りを見せたりとなかなか出発しない。

    避暑地ではホテル暮らしのため、同じく避暑に来る常連さんたちや、プロフェッショナルなホテル従業員たちなど、新しい人々との交流が書かれる。
    そんななかでも「私」が特に親しくなったのは、前半はゲルマント公爵一族、そして後半は花咲くような娘さんたちのグループだった。
     まずは公爵の叔母で老貴婦人のヴィルヴァリシ公爵夫人。
     公爵夫人の甥であり「私」と同年代のロベール・サン=ルー侯爵。
     サン=ルー侯爵の叔父で変わり者のシャルリュス男爵。
    サン=ルー侯爵は、最初にヴィルヴァリシ公爵夫人から素晴らしい人格よ、と聞いていて出会う前から大親友のつもりでいたが、会ってみたらいかにも貴族という感じの取って付けたような態度でがっかりした、という出会い。このことから「私」は結局上流階級者というのは自分のグループ内で愛想が良ければ素晴らしい人格と言われるんだ、と失望する。だがこのサン=ルー侯爵とはその後とても親しくなる。

    シャルリュス男爵は、3巻までも名前だけ出てきていて興味深かったのだが、ここで正式登場となった。
    本来ゲルマント侯爵を名乗れるのに、あえて下位の「男爵」についているという臍曲りっぷり。これは階級への反発ではなく、むしろ自分の生まれ育ちに自信があるからという感じ。
    かなりの大柄で端正な顔、興味のある人物を目を見開いてじっと見たり、親切な行いをしてきたかと思うと辛辣な言葉を投げつけてくる。
    高慢さと人為的で作為的な態度で、「私」は彼を「困難に陥った有力者のお忍びの姿や、単なる凶悪な男の悲運の変装」と評する。

    そして「私」の学友でユダヤ人ブロックの一家も不思議な存在だ。
    そもそもこの巻ではユダヤ人嫌いが多く、ユダヤ人への侮蔑の言葉も多い。このブロック一家もユダヤ人への揶揄抽象を口憚らないのだが、なんといっても彼らがユダヤ人なのである。
    ユダヤ人なのだが反ユダヤ。
    ブロックのことは、前の巻でもなにか書いてありましたっけ??多分私が読み取れていなかったのだろう。
    ブロック一家は、父親も俗物ユダヤ人だし、妹たちも身持ちの良くない女優と同性愛関係なんだとかなんだとか噂されている。
    どうやらユダヤ人社会の中でも階級の差があるようだ。
    上流階級のサロンに呼ばれ大物貴族たちと知り合いで資産家のユダヤ人もいれば、金はあっても尊敬されないユダヤ人もいれば、もっと下層階級のユダヤ人もいる。
    なかなか複雑そう。

    そして後半では「花咲く乙女たち」との交流になる。
    最初は避暑地の娘さんグループを見かけて「あの自転車押した子かわいいな/あっちの子は僕をみたぞ」などと興味を持つ。それからスワン氏の知り合いでもある画家のエルスチールが乙女たちと知り合いなので紹介してもらおうとする。しかしエルスチールと乙女たちが話しているところで格好つけてそっぽ向いたためエルスチールは「私」が嫌がっていると思って紹介しない。あてが外れた「私」はエルスチールにぶーたれるのであった 笑
    まあ結局は紹介してもらい、彼女たちと一緒にでかけたり屋外ゲームをしたり。乙女たちは、自転車に乗り、庶民的な言葉を使い、ヨット遊びをして、男性グループと交流し、避暑でのイマドキ青春を楽しんでいる。
     アルベルチーヌ。
     アンドレ。
     ジゼル。
     ロズモンド。
    彼女たちは、仲が良かったりお互いを辛辣に言ったりまた仲直りしたり。
    「私」は避暑地での恋を楽しもうとする。ジルベルトとのことで「恋愛は自分だけで愉しめばいいや」という考えになっているので、最初はアルベルチーヌに惹かれるのだが、ジゼルが自分に気があるなら恋人になれるかなとか、知的なアンドレもいいじゃん、とか、要するに「一人」ではなく「グループ」として楽しんでいる。
    だがだんだんアルベルチーヌに強く惹かれるようになり、さらにアルベルチーヌからの好感触も得る。アルベルチーヌは、ジルベルトに似ているところがあり<われわれがつぎつぎに愛する女性のあいだに、進展があるとはいえ一定の類似が存在するからである>のだそうだ。

    だが気を良くした「私」が、招待されたアルベルチーヌの部屋でキスしようとしたらはっきり拒絶されたり…。まあそんな青春をおくってるんですね。

    そんな乙女たちとの青春を謳歌しながら、ふと見た草むらに咲く花をみて、少年時代を過ごしたコンブレーで親しんだ花を思い出す感受性も現れる。
    <ジルベルトが人間の娘への初恋であったように、サンザシの花は花への私の初恋だった。P596>

    4巻の最後で避暑地の人たちは徐々に家に帰っていく。すると人がたくさんいた頃は付き合わなかった人たちと触れ合ったり、避暑地残りの日々を楽しむ。
    4巻は、舞台はバルベックだし、時系列も真っ直ぐだし、今まで名前だけ出てきたシャルリュス男爵やアルベルチーヌ(ボンボン夫人の姪で、ジルベルトがあまり好きでない女性として)が出てきて、お話の流れとしてはわかりやすい巻だったと思います。

    <ある人物が真っ直ぐな道に似ていることは決してない。われわれを面食らわせるのは、人それぞれに固有の得意なお決まりの迂回路があることで、赤の他人なら気づきもしない迂回路であるが、当事者としてそこを通るはめになるのが苦痛でたまらないのだ。P541>

    • abraxasさん
      やはり、淳水堂さんも『異端の肖像』読まれましたか。
      あれを読むと、プルーストという人間の性悪さがわかって、興ざめですね。
      でも、小説は残...
      やはり、淳水堂さんも『異端の肖像』読まれましたか。
      あれを読むと、プルーストという人間の性悪さがわかって、興ざめですね。
      でも、小説は残った。皮肉なものです。
      2023/01/30
  • 「かつてシャンゼリゼで漠然と気づいたことで、その後もっとよく理解できるようになったことがある。それによると、ある女性を愛しているとき、われわれは相手に自分の心の状態を投影しているだけであり、それゆえ重要なのはその女性の価値ではなく自分の心の状態の深さであり、それゆえつまらぬ娘の与えてくれる感動のほうが、優れた人と話したり、いや、その作品を賞讃をこめて眺めたりすることで与えられる喜びよりも、われわれ自身のずっと内密で個人的や、また深遠で本質的な部分を意識のうえに浮かびあがらせることがあるのだ」p.415

  • 作中の人物達が、階級というものにいかに囚われていたのかが窺える。まだ読んではいないけど、最後はジルベルトとサン・ルーが一緒になったり、ブルジョアの象徴だったヴェルデュラン夫人が貴族と再婚したりして、徐々に階級の壁が薄れては行くものの、やはり何処かで囚われている概念なのかもしれない。

  • 4巻は第2巻第2部。長い、くっそ長い。金持ちボンボンが高級リゾートで女の子とやりたいがためのあれやこれやを延々と。650ページもあるんだから一人くらい落せよ。キスのひとつもできんてどいういこと。面白いからいいけど。
    よし、あと10巻!

  • 訳者のあとがきにもあるように、普通の小説なら数行ですんでしまうことが数十ページにも肥大化しているのが特徴。よっぽどのことがない限り、おおまじめに読むわけにはいかない。しかし、この「花咲く乙女たちのかげに」では、アルベルチーヌやアンドレを含んだ女性の集団との出会いとその知覚の描写[p329など多数]に「よっぽどのこと」を感じるであろう。おそらく絵画的なイメージ(女神が輪になって踊っているような画像)が隠れているのだろう。この娘たちの集団への言及はアルベルチーヌやアンドレが見出されても止まず、むしろ語り手はこの集団全体を愛していて、その感情は分割されて共有されているのではないかというように感じる[p681](しかし、それはまだ不十分な表現の段階であろう)。

    そのような種種の感覚は、非現実的であろうか?アルベルチーヌの外観はその時々の印象で変化するものであって、固定され得ないということをいいつくそうとする執着は、非現実的であろうか?

    それは素朴にいえば狂気でもあり、それこそがこの作品全体の魅力であろう。しかし、これは狂気なのか、語り手(おそらくプルースト自身)の内気さからくるような繊細さなのだろうか、というように問い続けるのであって、「この語り手は頭がおかしい」とおもう人には無意味な作品であろう。とくに現代の読者にとっては「頭がおかしい」ということには、部分的には賛成であろう。しかし、それはあくまでも部分的な狂気であって、作者はコルク張りの部屋で絶えず闘っていたにちがいない。

  • 「私のまなざしが娘たちに探し求める甘く心地よい色彩や芳香はいつしか私のなかに溶けこんでしまう。」
    陽光を浴びて甘くなる、ブドウみたいに。

    たえず意地悪なおしゃべりをつづける振り子時計。不信の眼を投げかけてくる家具調度。自我のないぶにまで攻撃をしかけてくる防虫剤の臭い。そんな見知らぬ場所での鬱々とした夜から、物憂げな微笑みをうかべ太陽をゆらめかせるニンフの海を望んだ朝のときめきが、気持ちのいい。
    母親との別離において食堂車で飲みすぎる「私」のサイケデリックな汽車の旅。美しい車窓からの夜明けの空の色。書棚のガラス戸に映る空と海の連作画。エルスチールの幻想的な絵画。こんな美しい情景にいろどられながら語られる、にんげんの本質や、密やかに暴れる罪な自尊心。言動の省察につねに追いかけられていたじぶんじしんの思春期を微笑ましく思い出す。
    ホテルのガラス張りのレストランで食事をする自分たちを水槽のなかの魚にたとえるところが自虐的でおかしくてすき。貴族、ブルジョワ、プロレタリア、三つの世界におけるリゾート地での日々と、それぞれの人づきあいや慣習やルールやなんかもとても興味深い。友情というものが"不可能"な「私」。もうずっと、親近感しかない!
    卒業後、遠くに旅立つわたしに涙をみせてくれた友人は、わたしが同じように悲しみ泣かないことに憤りと寂しさをあらわにした。そんな過去を思い出す。電話がない時代じゃあるまいし。これで永遠にお別れなわけでもないし。
    欺瞞なる友情。わたしたち人間はは救いようもなく孤独なのだ。うちなる孤独を愛し、省察する。それもまた、ひとつのカタチなのだと(ありがとう)。と、怖い思いをするのを嫌う健気な小心者は想うのだ。
    「孤独への実践が孤独への愛を生んだのである。」
    生身のにんげんはもうたくさん。それらの創る、物語が、音楽が、絵画が、語りかけてくれるから。

    この過ぎ去った夏の日々で思い出すのが、仲良くなった部屋のなかへあそびにくる、はしゃぐ娘たちの声やあたたかな陽光であったのが、ちょっぴりさびしくて、可愛いくて、やわらかな郷愁をさそう、完璧なラストシーン。
    夜に顫えるあなたに捧げた、勿忘草の花言葉。
    (つづく。??)

    「人生で重要なのは愛する対象じゃないんです。愛すること自体が重要なんです。われわれは愛についてあまりにも偏狭な区別を設けていますが、われわれが人生のなんたるかを全然わかっていない所以でしょう。」

    「人間は、他人から叡智を受けとるのではなく、だれひとり代わりにやってもくれず逃れることもできない道程の果てに自分自身で叡智を発見しなければならないのです。」

    • ねむいさん
      「ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現...
      「ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、浅薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてはくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考のあゆみは深く掘りさげる方向にはたらく。」
      こんなことをきいて、わたしは慰められたのだ。若い頃よりも誘いを断れるようになったし、それはきっと、じぶんの気持ちをまず第一に考えられるようになったから(まだまだ修行が必要)。
      「人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなくて、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。」
      「私」にとって(プルーストにとって)、考えること(自己の省察)を止めること、それは死を意味するのかもしれない。
      2022/12/01
  • 訳者あとがきで改めて認識するが、読みどころの多い小説である。芸術論、社会の法則、人間心理観察など色々な読み方ができる。

    良きことを為そうとして悪しくなる。257〜258p
    観察より創造。283p
    陽キャの女性ティーンズの巧みな描き方

  • アルベルチーヌを始めとした若気に溢れる少女の集団が輝かしく、自然の中でイタチごっこ等をして戯れる場面が青春だと感じた。
    ジルベルトの恋を忘れて新たな女性を欲する「私」だが、またしても失敗に終わる。
    アルベルチーヌに接吻を拒否されると他の少女達に気持ちが移っていくと言う事は、要するに「私」は精神的所有欲より肉体的所有欲を満たしたいのだろう。
    どちらか一つの欲求を手に入れると両方を同時に求めてしまうのが人間の勝手な願望だ。
    また、「私」の目には少女達が自分を愛している様に見えるが、主観的な感情によって肯定的に物事を捉えていると言える。
    己を客観視する事等不可能である事実を再度認識させられた。

  • 「失われた時を求めて」第4巻、「花咲く乙女たちのかげにII」を1年ほどかけて読み終えました。(^^;
    物語を要約すれば、主人公の"私"がノルマンディーの保養地バルベックに出かけて帰ってくるまでの出来事ですが、その詳細な描写が濃密で、かなり読み応えがありました。

  • 全14巻(予定)中の4巻まで読んだ上で、一旦ごく簡単に。十分なボリュームの中で、人間心理の核心(かもしれないもの)を、委細丁寧に紐解いてくれるので、読んでいて沢山の気づきがある。長いけれども、読みにくくはなくて、常に回想として語られることもあってか、ゆったりと読む感覚。この先どこで挫折するか分からないけれど、枕頭の書、というのに相応しい、充実した内容の小説だと思う。訳者の気配りで図版が多いのも大変助かる。
    今のところこの岩波のシリーズは8巻まで訳が終わって出ていて、半年に1冊くらい新刊が出るらしい。完結することを祈るばかり。

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