失われた時を求めて(5)――ゲルマントのほうI (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751145

作品紹介・あらすじ

パリのゲルマント館の一翼に引っ越した一家。家主の公爵夫人は神秘の輝きを放つ貴婦人。その威光にオペラ座で触れた「私」は、コンブレー以来の夢想をふくらませ、夫人の甥のサン=ルーを兵営に訪問、しだいに「ゲルマンのほう」へ引き寄せられる。

感想・レビュー・書評

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  • 第3篇『ゲルマントのほう』
    第1部「ゲルマントのほう I」

    避暑地バルベックからパリへ戻ってきた”私”は、ゲルマント屋敷に付属するアパルトマンに引っ越しした。
    5巻の前半は、ゲルマント屋敷アパルトマンの住人たちのことや、パリでの社交界暮らしのことなどが語られる。
    ちょっとこの時代の住宅事情がよく分からず…。貴族(この場合のゲルマント侯爵一族)が屋敷の一部の建物をアパルトマンやお店や作業所として信頼のある人に賃貸していたのか?

    全編通して書かれる人物は、バルベックで知り合い親友になったゲルマント一族のサン=ルーと、”私”が住むアパルトマンの本館お屋敷に住むゲルマント公爵夫人オリヤーヌ。
    ”私”はこのゲルマント公爵夫人オリヤーヌに崇拝心を捧げて、門を馬車で出入りする様子を見たり、オペラ座のボックス席での様子をずっと見てたり、通りで待ち伏せて認識してもらおうとしたりといろいろがんばってるが、なんだか空回りする。
    そして4巻で一応お付き合いっぽくなったはずのアルベルチーヌは名前も思い出さない 笑

    物語の後半で”私”は、サン=ルーの駐屯する兵舎があるドンシエールを訪ねていく。4巻でも避暑地のホテル住まいについて感じ取ることを色々書いていたが、こちらでも普段とは違う場所に滞在するため に起こる最初の違和感や、それが慣れていく感性などが書かれている。
    どこにあるかわからない時計の音は部屋中から聞こえてくるようだ。しかし時計がどこにあるか分かったら音はもう移動しない。音は聞くのはなく見るのだ…などなど。
    小説という言語表現で「音」について「書く」のはなんだか不思議な感じもする。(まあそれを言ったら感性自体を書くということが不思議ではあるのですが)

    この時代の上流階級のご子息同士の友情も不思議だ。サン=ルーは”私”のことを親友といいながら都合の悪い時には知らない相手にするような挨拶しかしないし、”私”はサン=ルーの愛人との揉め事の場にかなり居合わせてかなり巻き込まれたりする。
    ”私”は、憧れのゲルマント侯爵一族オリアーヌへの紹介をサン=ルーに頼むのだが、これもすれ違ってしまってうまく会えない。
    ”私”が知り合いたい人に紹介してもらおうとするけれどもどうも噛み合わないというのは、4巻でも夏のお嬢さんたちのグループになかなか紹介してもらえなかったのと同じですね。「あの人と親しくなりたいけど『紹介してして!』って頼んだらがっついてると思われちゃうよね」と、なんだか回りくどい頼み方するんですよね。

    また、全体的に書かれていたのは「ドレフュス事件」のこと。これは訳注をよく読まないと分からなかった。
    1894年に、ユダヤ人のアルフレド・ドレフュス大尉が、ドイツに情報を流したというスパイ容疑で逮捕され、裁判で有罪になり、監獄島に送られた。しかし反ユダヤ主義による差別判決であったということ、別の人物が真犯人という証拠が隠滅されたこと、再審を求めた人物が左遷されたことなど、社会的にも大きな問題になっていたらしい。
    フランス人の間では「ドレフュスは嵌められた、冤罪だ」という派閥と、「ドレフュスは有罪だ。判決はもう出た」という派閥に別れていたらしい。
     有罪派は、”私”の父、サン=ルーの駐屯地にいる軍人たちなど。
     冤罪派は、サン=ルー(愛人であるユダヤ人で元娼婦の影響)、”私”(議論はしないが密かに冤罪派)など。
    これにより、サン=ルーが他の軍人と気持ちがすれ違ったり、”私”と父とがぎぐしゃくしたりする。母親はどちらにもつかず「よくわからないわ〜」と言うしかないし、祖母はどうやら軽い有罪派なんだろうけど”私”を気遣って公言はしないという様子。
    さらに社交界でも、有罪派の父が、寃罪派の長年の知り合いから付き合いを切られたりする。
    スパイ容疑という国家の大事でもあるし、国民にとっても友達付き合いが変わるような大事件なんてすね。

    ちょっと面白かったのが、サン=ルーが愛人との旅行のために休暇を取りたかったんだけど、上司の大尉とはドレフュス事件の意見を違えているために休暇が取れなくて困っていたときに、勝手に仲介したのは二人の馴染みである床屋だったということ。
    床屋って庶民とも上流階級とも付き合いがあって人脈が広いし情報も集まる。件の床屋は「普段は自慢ばかりをする男で、嘘つき能力を異常なまでに発揮して、自分に威光をまとわせている」ような人物だが、今回は支払いを毎回ツケにする大尉よりも、毎回即金のサン=ルーのために勝手に口添えしてくれたんだそうな。床屋がゴシップの場ということや人間の面白さが。

    また、このころ電話が出回り始めたようで、ドンシエール滞在の”私”と祖母との電話でのゴタゴタなどが書かれている。
    最初に電話で祖母と話した時に声に衰えを感じ、そして電話というシステムが、声は聞こえるのに場所は遠いということで「祖母の声は死後の肉体から遊離したのではないか」などと考える。二度目に祖母からの電話を受けたら祖母とは全く声が違いお互いに「声が違う??」とすれ違うんだが、これは交換主が同じ名前の別の人間を呼び出していたので別人と会話していたんだ、という、まあ当時はそんな事もあったんだろうなというエピソードも書かれる。

    そんなこんなで祖母を心配した”私”はパリに戻るのだが、再会した祖母が本当に衰えていてびっくりしたりする。


    ドレフュス事件や、サン=ルーとの友情や愛人問題や、祖母の年齢などの問題が出てきた5巻だが、最終場面は、パリに戻ったサン=ルーが男色家に言い寄られて平手打ちを食らわす場面でございました 笑

  • これは小説なんだけど、小説だと思わないで、20世紀初頭のフランスにいた1人の青年のエッセイだと思うと気楽に楽しめる。初めて祖母に電話した時の描写などは素晴らしい感性だと感心する。

    主人公の家族に関してこれまでおばあちゃんとレオニ叔母さん、それに女中のフランソワーズは存在感があったが、両親や祖父はあまり印象に残らなかった。一緒にいる時間が少ない事もあるだろうが。この巻ではそれぞれの人となりが此までよりもくっきりしてきた。

  • バルベックから帰った"私"は、パリのゲルマント館で暮らし始めて、ゲルマント公爵夫人に強く憧れるようになります。
    前半はオペラ座での描写を中心に、上流階級にふれた"私"の詳細な観察と心の動きが描かれます。
    中盤で"私"は、ゲルマント公爵夫人の甥にあたり、バルベックで親しくなった友人サン=ルーに、夫人との仲立ちをお願いするために、彼のいる兵営を訪れました。
    後半は、パリにいるサン=ルーとその恋人が話の中心になりました。その恋人が娼婦だったと知っている"私"と、彼女を崇拝するサン=ルーとの見方の違いが興味深かったです。

  • だいたい、こんなとりとめのない長編を書き続ける(コルク張りの無音の部屋で)という行為そのものが狂気であって、そこに最も惹かれ続けている。プルーストの文体の大まかな特質、パターンは、{場面の実際的な記述、出来事→プルースト(語り手、「私」)の見解=脱線に脱線を重ねて膨張する傾向がある→場面の実際的な記述、出来事(最初の出来事などの帰結)}であろう。この真ん中の部分は塊として読んで読み飛ばせる。ただし、p395のケンカのような場面で、拳で殴りつけるような動作について「卵形の物体」がどうのこうのというようなユニークなものも多い。プルーストは下手であるだろうし、散漫でさえあるだろうが、その書き手の特性が所々にはっとするような、独創的な表現を散りばめることに成功している。とはいえ、やはり病的であろう。脱線して膨れ上がるキメラ。物語の筋はあってないようなもの。どうでもよいだろう。また、やはりプルーストが同性愛者であるということもあるのか、同性(男)の描写が多い気がする。第五巻は、サン・ルーやロベールとの接触が多いからか。ゲルマント公爵夫人への憧れを傘にきても性向は隠せない。

    それにしても、この作品それ自体よりほかの解説や分析の方が面白いかもしれない。そういう傾向があるとすると、そういう作品性は一体なんなのか。マスターピースになりうるのは、この作品より解説や分析が面白いということに関係があるはず。訳者のあとがきを読めば、この訳で読んでもよいと思えるはず。

  • スワンの娘、ジルベルトとの初恋を語る前に、スワンとコケットのオデットとの馴れ初めを比較するかの如く語る。そして海岸のほうでアルベチーヌに出会いそのいきさつとのちの狂おしい体験を語ると同時に、シャルリュス男爵の同性愛も気にとめはじめることを語る。この二大時空間の間に、ゲルマント公爵夫人への憧れを割り込ませて語り、社交界の夫人やそこに集まる人々を語る。ここがかなり難解なのは、貴族の夫人に憧れる感覚が今一つピンとこないからかもしれない。それもそうであるが、随所に哲学的分析の記述があるので、それを拾い読みすることも有意義な楽しみを広げてくれるようだ。忘れてならないのが、この5巻は、‘私’の家の女中フランソワーズの話に始まる。これがまた長い。失われた時を求めて、最大の特徴である。永遠フランソワーズのことばかりであるかと感じるくらいなところから、いきなりゲルマント夫人の話に変わる。

  • 「"歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙"」
    「人間とはわれわれのけっして入りこめない影である」

    夢における自己暗示の彷徨。過去の戦争におけるあらゆる戦術。新しい友たちとの語らい。バルベックでのあの夏の日々より、兵営をたずねたドンシエールの日々のほうが、より濃密な青春のよう。
    暗闇の娘たちの開く魔法の扉のひとこまでは、電話という不思議なものによってより相手との距離を感じてしまう繊細な悲哀がそよぐ。初めての電話で声の主(おばあちやん)が知らない人だとおもって切っちゃったのがかわいくてすきだった。
    過ぎ去ってゆくものへのいずれ訪れる無関心に嘆きながら、経験というものの秘める残酷さと恩恵をも想う。"おとなになる"とは絶え間なくなにかを諦め切り捨ててゆき、そこからまた新たなものを発見することなんだ、なんて改めておもった。(いつの"わたし"がより、わたしらしい??)

    習慣に自律神経が支配され、創作活動が依然ままならない「私」。ちょっとそれっていいわけじゃない??なんていじわるにもおもったりするけれど、日々の体調の悪さ(生活のままならなさ)は、もうすでに説明のつく自分のよく知った疾患であるから驚きはしないけれど(いくら体調がわるくたってこちとら働いて稼がなくちゃいけないし)、この時代のおぼっちゃんだってことを考えるとたしかに一大事なのかもしれない。
    あとジルベルトのときは手紙をだすことや逢いにいくことをあんなに戦略的に控えていたのに、公爵夫人のストーカーをあのころ一瞬でもやめてみようと思わなかったのは何故?と「私」にたずねてみたかった。(結局あとでびびっちゃうダサ坊な「私」がやっぱりかわいいのだけれど。)
    "華麗な詩情や燦然と輝く無垢" を描きながらも終盤の舞台上(から路上)でのごたごたのクストリッツァのようなカオスの可笑しみは最高なエンターテイメント!兎に角ますますプルーストに首ったけみたい。
    今宵もまた"眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作" に身をゆだねましょ。


    「神経質な人の場合、いわゆる「感受性」が強い人ほどその利己主義も増大する。」

    「ラ・ベルマの声は、どんな隅々までも繊細なしなやかさを備え、まるで偉大なヴァイオリン奏者のがっきのようだ。人がそんなヴァイオリン奏者にういて美しい音をもっていると言うとき、褒めたたえようとしているのは物理的特徴ではなく、卓越した魂なのである。」

    「この貴婦人は、装いは簡素でも歩きぶりは優雅で、みずからの朝の散歩を一篇のエレガントな詩たらしめるとともに、晴天を飾るきわめて繊細な装い、このうえなく珍しい花とするすべを心得ていた。」

    「この霧は、丘の形を湿らせたばかりか、ココアの味をはじめ当時の私がいだいた一連の想念のすべてに結びつき、たとえ霧のことなどまったく考えていなくても、当時の私のあらゆる想念を湿らせた。」

    「なくしたもの探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?」

    「耳に近づけたこの小さな共鳴器のなかに私が感じとったのは、毎日のように拮抗していた相反する圧力から解き放たれ、いまや抗いがたい力となって私を居てもたってもいられない気持ちにさせる、祖母と私のお互いの愛情であった。 」

    「なま温かいそよ風がふと過ぎると、それは夫人からの伝言であるような気がする、その昔、メゼグリーズの麦畑をわたる風がジルベルトからの伝言かと思えたように。」

    「愛する相手の沈黙に耐えることは(自分が沈黙を守ることにもまして)なんという拷問であろう!」

    「きみにはぼくの言いたいことがわかるだろう、かつて詩人はほとんど司祭と同様の役目を果たしていたんだから 」

    「私としては、サンザシの小道のように私が充分にきわめることのできなかったさまざまな現実の肖像をせめてエルスチールに描いてもらい、それらの美しさを私のために保存してもらうのではなく、それらの美しさを私が発見できるようにしてもらおうとした」

    「ところが私の心にたいして夫人が激しいいらだちを感じたのは、私の心に見出されるのが夫人自身だったからであろう。そんなわけで私は、たとえ夫人に会うのとは別の理由で同じ道をたどっているときでさえ、夫人が通りかかる瞬間には、まるで罪人のように震え上がった。」

    「私は、仕事をしない、寝まない、眠らない、という習慣に操られる道具にすぎず、どんなことがあっても実現される運命にあるのはそんな習慣なのだ。」

    「人は個人の罪なら赦しはするが、集団の罪に荷担するのは赦せないものだ。」

    「じつのところ私は、わが身を流謫としか感じられぬかのような地上に帰属感など覚えません。引力の法則が力のかぎり引き止めてくれるからこそ、私もなんとか地上にとどまり、どこかべつの天体へと逃げださずにいられる。きっと私はべつの遊星の住人なのでしょう。ご機嫌よう。」


  • ラ・ベルマの2度目の観賞を通して、一回目とは全く異なる芸術観が示される。

    サン・ルーの部屋での音の描き方。
    軍事談義の奥深さ。
    電話の描き方。深め方。
    どれも舌を巻く。

    毎度のことながら、訳者後書きが理解を深めてくれる。

  • 「私」は新たな人間関係を構築していく。
    サロンに通じる大人達に囲まれて世間を知ろうとしている。
    政治的な会話が続くのは苦痛だが、当時の社会風潮を学ぶには良い機会だった。
    ゲルマント公爵夫人と合う前の「私」とサン・ルーが別れた場面で終わるのが絶妙だ。
    彼女の人間像を想像したまま期待を膨らませたまま次巻へと進める。

  • ここから第3篇。4巻読んでからから1年以上もあいてしまった。
    相変わらず長々うだうだやってるんだけど、どういうわけか今までになくすいすい読める。すいすい読めるおかげで筋がわかりやすいし面白さも増えた。5巻読んだらまた別のを読もうと思ってたけど、このまま6巻を読むことにしようか。

  • 岩波文庫版の5巻。
    丁寧に描き出されるプルーストの世界を堪能出来る。

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