失われた時を求めて(7)――ゲルマントのほうIII (岩波文庫)

  • 岩波書店
3.67
  • (6)
  • (8)
  • (7)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 191
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (608ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751169

作品紹介・あらすじ

冬に向かうパリ、「私」をめぐる景色は移ろう-「花咲く乙女」とベッドで寄り添い、人妻との逢い引きの夢破れ、ゲルマント夫人の晩餐には招待される。上流社交界の実態、シャルリュス男爵の謎、予告されるスワンの死…。人間関係の機微を鋭く描く第七巻。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 第3篇【ゲルマントのほう】第2部『ゲルマントのほう II』

    祖母が亡くなり数ヶ月、秋のパリの柔らかい日差しは「私」には新たな世界が広がったような爽やかな気持ちで過ごしている。
    「私」は社交界の人々と付き合いを広めていく。

    ❐「私」と憧れの女性たち
    かつて憧れ恋して追いかけ回したゲルマント公爵夫人への恋は、母親に窘められてすっかり消え去った。そのためむしろゲルマント公爵夫人からも自然に晩餐に招待されるなど距離が縮む。
    今追いかけ回しているのはステルマリア夫人。きっと身を任せてくれるだろう、その場合はあそこに散歩に行ってあんなことがあって…と妄想を楽しむ 笑
    そんなところに、アルベルチーヌとの交流が再会する。彼女は娘から女性に変貌する途中だった。それは良い面もあれば、なんか世慣れちゃったような、もともとの階級意識が強くなっちゃったような悪い面もある。「わたし」は彼女への恋は全く覚めてるので実に落ち着いて接することができたようだ。ベッドに横たわるアルベルチーヌの側で彼女を愛撫し…快楽に…、ええ?そういう関係になったの??(@@?
    今の本命はステルマリア夫人だけれど、アルベルチーヌとも散歩したり、夕食会の手伝いしてもらったり、「接吻許可証」が出たとかと友達以上恋人未満なかんじのようだが、この後「私」がアルベルチーヌを熱愛するようになることが示唆されてもいる。
    そのきっかけは、「こんなにうまくいくんならステルマリア夫人ともイケるよね★」と思っていたら、夫人は別の独身青年との恋愛に勤しんでいるようで、「私」との約束を反故にされて大ショックを受けたこと。あっちがダメならこっち?おいこら 笑
    なお、幼い頃から夢中だったスワン氏の娘ジルベルトとも手紙のやり取りは続いている様子。

    ❐ロベール・サン=ルーとの友情
    貴族の青年の友情ってよくわからん。親友といいながら卑しさもみせる。貴族の付き合いとは、相手に無礼にすることが貴族の証しのようなこともあるようだ。
    貴族の集まるホテルで支配人に相手にされなかった「私」が、サン=ルーが現れて大袈裟なくらいの友情を示した途端に上客の扱いになったということで社交界においての人脈の大事さですね。
    このホテルの場面はちょっと面白かった。「私」は回転扉というわけのわからないものから抜け出せなくて戸惑っていた、その様子を見た支配人が「こいつ相手にする必要ないな」という態度を取った、というもの。まあ実際にブルジョアである「私」が物理的に回転扉に翻弄されたのだとは思わないが、このように上流者しか使わないものを扱えるかどうか、で人間って見られているんですよね。

    ❐ゲルマント公爵夫人の晩餐会
    ゲルマント公爵夫人オリヤーヌについてはいままでも「最高のサロン」「ゲルマントの才気」などと書かれていた。そのサロンに「私」が招待される。
    このサロンの様子がこの7巻の1/3程度を締めているのだが…、相変わらず貴族の会話や叡智はよくわからん(ーー;)語尾の入れ替えや外国語を利用しての言葉遊び、人をいかに上品にからかうか(上品な遣り方でもからかってることには変わりない)、芸術や社会情勢を論じ、誰と誰が親戚で誰がどの先祖を持っているかをすべて把握して自慢したり揶揄したり。
    ゲルマント公爵夫人は、社交界をこき下ろして文学界を持ち上げる。そのためこのサロンに出入りする人々は、出世街道から外れることもある。だが王族でさえ招待されないというこのサロンに招待されることはそれ以上の価値なのだ!
    …そうなの?
    「私」はこの晩餐会に参加したことを歓んでいるのか皮肉っているのか?「私は評判高いこのサロンはさぞかし立派なものだろうと思っていたのだが、貴族たちがブルジョワのような口を利いたり、話題も人の噂や皮肉ばかりだ。私が出席しているせいでこの会が無意味なものになっているんだろう。それなら私はさっさとお暇乞して、私が帰った後に参加者の皆さんに本来の素晴らしい会を行ってもらいたい」のようなことを言っている。
    これはプルーストの社交界への皮肉なの?『失われた時を求めて』はプルーストが暮らしていた同世代のパリを舞台にしている。それなら自分が招待された社交界をこのように書物で皮肉にすることこそが「才気」ってやつなのだろうか。

    ❐シャリュス男爵の奇人変人ぶり
    「私」は上記ゲルマント公爵夫人のサロンの後の23時にシャリュス男爵に招待されていた。
    この時代の時間って、おそらく「17時に招待」は軽い訪問か軽んている相手ということ、「20時に招待」は本命のお客、「23時に招待」は特別な客でしょうか??
    しかしシャリュス男爵は「私」を強引に招いておきながら怒りをぶつけて来る。「ルイ十四世風の椅子に座れと言ったのにその椅子に座るのか?きみの芸術審美眼はそんなものなのか?」「従姉のゲルマント公爵夫人にわたしと親しいと言ったのか?!わたしの庇護を受けているなら言ってもいいが親しいとはなにごとだ!」「わたしの送った封筒の柄が蔦だったということでわたしの言いたいことはわかっているんだろう?それでその態度か?」
    「私」もイライラ〜っとしてシャリュス男爵のシルクハットをぐしゃぐしゃ〜ってしてしまう。お笑い舞台ですか。

    澁澤龍彦『異端の肖像』では、シャルリュス男爵のモデルといわれるロベール・ド・モンテスキウについて書かれている。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309400523#comment
    プルーストはモンテスキウに自分の望む悪徳の完成形を見た。しかしモンテスキウは晩年には時代に取り残されていった。かつて彼を追っていたプルーストは、見せつけるようにシャルリュス男爵を頽廃と倒錯の具現者として示してみせた。
    …という観点で読んでみると、シャリュス男爵はいかにも王者らしく振る舞う反面、嘘つきで女っぽく芝居じみている。とくに従妹で皮肉屋であるゲルマント公爵夫人は、本人が嫌がる愛称の”メメ”で呼び「メメは女性の心を持っている」「亡くした妻のお墓に毎日行っているけれど、あの哀しみ方は妻に対してではない。妹か親に対するもの」などと容赦ない。

    ❐スワン氏の病と余命
    一巻から出てきいるので読者としてもお馴染みのスワン氏。上記晩餐会の数日後、改めて「私」はゲルマント公爵の屋敷を訪ねてスワン氏と再会する。
    ユダヤ人だが芸術に造詣が深くブルジョワや貴族階級とも付き合えるようになったスワン氏だが、オデットと結婚したことにより人間関係が狭まり、いまでは病にやつれ、さらに人間というものを「ドレフェス主義者か、反ドレフェス主義者か」の目でしか見られなくなっている。
    <「でもゲルマント公爵は反ユダヤ主義者ではありませんよね。」「いやいや、反ユダヤ主義者ですよ、だって反ドレフェス主義者ですから」とスワンは答えたが、自分が不当前提を犯していることには気が付かなかったらしい。P523>
    「不当前提(。これから論証することをすでに論証済みの前提とする誤謬)」って現在のSNS社会ではたくさんたくさん見かけるようになりましたね。

    さて、ゲルマント公爵夫妻はある公爵の晩餐会に招待されているために出かけようとしていた。その別れの間際に翌年の予定を問われたスワン氏は告白する。医者によると自分の余命はせいぜい三ヶ月とうことらしい。だからその予定には参加できません。
    それを聞いたゲルマント公爵夫人は、自分が言わせてしまったこの告白に戸惑い、なんと声をかけてよいか逡巡する。これから向かう公爵の晩餐会は名誉であり遅れてはいけない、しかしスワン氏とはこのままお別れになるかも知れない。
    しかし心はすっかり晩餐会向いている公爵は妻に「晩餐会に遅れたらどうするんだ。スワンさん、医者の言うことなんて信じちゃいけませんよ、さよなら!」と言ってさっさと馬車を走らせるのであった。

    ❐その他
    「私」の考える人付き合い。
    モンモランシー夫人は、「私」に不愉快なことをいうが、「私」が援助が必要な時は力にばってくれた。
    ゲルマント公爵夫人は、「私」を喜ばせることしか言わないが、「私」の頼みのために何も動いてくれなかった。
    どちらが本当の私にとっての友人と言えるのだろう?   …P497あたり

  • 今までの紆余曲折を忘れる程重大な出来事が起こらなかった。
    序盤から唐突なアルベルチーヌの再訪は予想外で心が躍ったが、「私」の対応があまりに酷い。
    大人の女性になったアルベルチーヌが腹を立てなかった若しくは呆れなかったのが不思議だ。
    特に興醒め(を通り越して憤慨)したのが、

    「もしほんとうにキスさせてくれるのなら、それは後の楽しみにとっておいて、ぼくの好きなときにキスさせてくれると嬉しいんだけど。ただしその場合、キスしていいと言ったことを忘れちゃいけないよ。ぼくには「接吻許可書」が必要なんだ。」(P,58)

    この一文が私は途轍もなく不快に感じられた。
    当時のフランス人男性がこの様な恐ろしく気障な言葉で女性に言って恰好付けていたかは知らないが、とにかく肌に合わなかった。
    その上欲望の対象がステルマリア夫人でも良かったと述べている為、女性なら誰でもいいのでは?と眉間に皺が寄る位には反発を感じた。
    いくら思春期真っ盛りの男性とは言え節操がない。
    金持ちの恋愛観なんて到底理解できない事が分かった。
    恋愛に自由奔放だったスワンを自然と彷彿させたので、「スワンの恋」との対比だろうか。
    また、前巻より一層社交界が苦手だと感じた。
    フランスの上流階層は上品なイメージがあったが、夫人達の下品な悪口や気取った(私には全く面白くない)冗談が頻発し、「私」と同様に付き合いは無意味なものだと思わざるを得なかった。
    それでも我慢して読んできたが、最後までストレスが溜まるだけの描写だった。
    感想と言うより殆ど愚痴になってしまった。

  • 岩波文庫版『失われた時を求めて』、第7巻。
    元々が長い話なのは理解していても、描写の重ね方、延々と続く比喩表現は、プルーストの醍醐味とは解ってはいても、ある種の『執拗さ』に、毎度のことながら圧倒される。

    それにしても、古典新訳文庫の方はなかなか出ないなぁ……。

  • 「道に迷うどころじゃない、自分がどこにいるのかわからないんだ」
    「不幸に酔うと理性は持ち去られる」

    追憶と郷愁につつまれながら、また新しい恋(幻想)に浮き立つ「私」。じれったくて独りよがりでダサくて(可愛くって)この巻の前半はずっとにやにやしちゃう。バルベックでの日々の想いをたたえたアルベルチーヌの突然の訪問(「きちゃった」!)。過ぎ去った恋からうまれるあらたなカンケイ。修正される人間の価値の尺度。ゲルマント公爵あるいは名門貴族たちの"歪み" 。過去と歴史の刻む人間の精神における恒久性をひめた遍歴。意地悪で才気たっぷりなゲルマント夫人。ほんとうに幼いころ猫をいじめたり兎の目をくりぬいたりしていそうでおかしい。
    そしてそう。恋なんて、必然でも運命の定めなんかでもないのかもね。おぼつかない出会いと憂いに満ちた恋心とが支配するブローニュの森で幻想を描き、サロンで語られる系図から彼らの遺物を詩的に滴らせる「私」。名前の響きと婚姻からもたらされる魅惑的なイメージの化学反応に酔いしれ、その陰から滑稽で空虚な "劇" を嗤い、そして俯瞰する。まるでそこにふくまれる真理をひとつのこらずわたしたちにみせてくれるみたいに。
    サロンで催される人間悲喜劇をとおして語られるにんげんの本質のスピンオフみたいなコメディショウも楽しい。
    濃霧の夜に訪れたカフェでの一幕は賑やかで滑稽で心躍る。回転ドア(revolving door)からぬけだせない「私」はまるでジャック・タチのおじさんみたいだし、こんな平和な見た目なのにrevolver doorだって、って延々と回転しながら考えてたなんてほんと笑っちゃう(レストランの主人にもしょうもない客の扱いをされる始末)。「ダメです、あなたさまのために皆さんにご迷惑をおかけするわけにはまいりません」もう笑いがとまらない。
    あと、「きみの頬という未知のバラの味を知りたい」とかゆわれてもぜんぜんロマンチックじゃないし、「私」の唇がアルベルチーヌの頬に着地(ほっぺかーい)するまでの数頁(数秒間のスローモーション)がダサすぎて最高だった。霧の多い夜にデイトしたいとか、嵐に魅せられるとか、ますますあらわになる「私」の変態性(すき、わかる)。シャルリュスのシルクハットをぐっちゃぐちゃにしちゃう癇癪もいとおしい(「やんごとなき足の指」!)。
    でもね、
    「人類の半数はまさに泣いているのだ」
    町は靄につつまれて眠りに就く。スワンを追いかける死の足音がこつこつと聴こえた。
    さて、きょうもお金をいただいて鑑賞する、人間喜劇の幕をあげにゆきましょ。ちょっぴり誇りにおもえるようになった猫っ毛をゆらして。



    「世界とわれわれが新たに再創造されるには、天気が変わるだけで充分なのだ。」

    「アルベルチーヌは、まるで私に時の鏡を差しだす魔法使いであった。」

    「こんなふうに人生について(私が最初に想いこんでいたほど一様でも単純でもない人生について)の知見が過剰になりすぎていた私は、一時的に不可知論にゆき着いた。」

    「恋というものがいとも恐ろしいペテンである所以は、われわれを外界の女性とではなく、まずはこちらの脳裏に棲まう人形とたわむれさせる点にある。」

    「夫や妻が不貞をはたらいたのは、正当な幸福が拒まれたせいで自分の妻や夫以外の人ならだれにでも愛想よく誠実に振舞ったからで、それは当然のことではないかと思った。」

    「うち震えるポプラの木々は、夕べの神秘に応えるというより神秘をとめどなく呼び寄せるかに見え、梢の上方の鎮まった空には、ひとひらのバラ色の雲が命の名残の色をとどめている。」

    「とはいえ友情にかんする私の見解がどのようなものであっても、友情が私に授けてくれる喜び、つまり疲労と退屈との中間に位置づけられる平々凡々たる喜びだけについて言えば、たとえそんな有害な飲みものであっても、われわれが必要とした刺激を与えてくれ、おのがうちには見出しえない熱気をもたらし、ときに貴重な強壮剤となってくれるのである。」

    「われわれは自分の人生を十分に活用することがなく、夏のたそがれや冬の早く訪れる夜のなかにいくばくかの安らぎや楽しみを含むかに見えたそんな時間を、未完のまま放置している。」

    「人はものごとを一般的考察にまで深めるすべを知らず、目の前にあるのは過去に前例のない経験だと常に想いこんでしまうからである。」

    「すべての価値は、画家のまなざしのなかに存在するのだ。」

    「結局、社会というものは、実際にますます民主的になるにつれて、ひそかに階級化されるのではないか?」

    「あたかも大作家たちが、世間の男たちから疎外され女たちから裏切られても、そんな屈辱や苦悩が、天賦の才の刺激とはならないまでも少なくとも作品の素材となったのなら、それを慶賀せずにはいららないのと
    同様である。」

    「議会には、このような狡知の変形ゆえの不合理が横行しているが、一般人には、この狡知の欠如ゆえの愚かさが蔓延している。」

    「べつの男性と関係ができても、かならず正式の結婚と同様まじめに考え、夫にたいするのと同じように愛人にへそを曲げ、腹を立て、忠誠を尽くすんです。そういう関係がときにいちばん真摯な関係になるんですから、結局、妻の死を嘆き悲しむ夫よりも、愛人の死を悲しむ男のほうが多くなるのも当然でしょう。」

    「われわれは自分が自分でなくなり、社交精神を授けられて自分の人生を他人に依存することしか求めなくなると、心中のステレオスコープで眺めることによって他人の言動に立体感を与えるのだ。」

    「私の共感はいささか時期尚早だったらしい、早く花を咲かせすぎた。あなたがバルベックで詩的に語っておられたリンゴの木と同じで、わたしのきょうかんはどうやら初霜に耐えられなかったようだ。」

    「あの手の人たちはどれもこれもべつの人種と言うべきで、その血のなかに千年の封権制を受け継いでいるんですから、無傷ですむはずがありせん。」

    • ねむいさん
      あと、「女性と完全に生活をともにすれば、その女性を愛した要因をなにひとつ見い出せなくなる。」
      可哀想な「私」(一途すぎるところもふくめて)。...
      あと、「女性と完全に生活をともにすれば、その女性を愛した要因をなにひとつ見い出せなくなる。」
      可哀想な「私」(一途すぎるところもふくめて)。ここに、フランス人の愛における思念の根源をみた気がしておかしくなっちゃった。
      2022/12/15
  • この巻では、ゲルマント公爵家でのサロンの様子が延々と語られます。何度も途中で挫折しそうになりましたが^^;、1年かけてようやく読み終わりました。
    バルベック訪問で出会ったアルベルチーヌと、"私"はベッドを共にします。しかしその時、"私"の気持ちはアルベルチーヌでなく、ステルマリア夫人にあったという最低さ。(^^;
    サロンでのやり取りはうんざりしましたが、その後のシャルリュス男爵の言動の不可解さ、そしてスワンの余命が数ヶ月とわかったのが驚きでした。

  • 3/4ぐらいまでひたすらの主導権争いと追従。ゲルマント公爵夫人を巡って。

    シャルリュスの言動は滑稽だが現実には侮れない。支配欲。

    最後にスワンの登場で全てが一種の茶番であることが暴露される。死をなきものにする、死をも愚弄する文化がゲルマント公爵に象徴される。

  • 俗に「ゲルマント越え」などと言うが、この巻を読むのは結構しんどかった。始終社交界の見聞録と噂話でストーリーに大きな進展はない。
    とはいえ、この巻から主人公は何故か人気者になっている。
    「次世代を担う新鋭作家」と言った噂が流れていたのかもしれない。
    会った事もない人の親戚にされたり、
    会った事もない人と一緒に旅行していた事になってたり、人の噂はいい加減。あなたを知ってます‥‥とアピールする割には、書いたものを読んだという人が全くいないのも可笑しな話だ。

  • 引き続き社交界の描写が続く第7巻。
    前半部分に主人公の恋愛模様が描かれるんだけど、ひたすら女と寝たい感がすごい。セフレ作って性欲を適度に満たしつつ、本命となんとかセックスに持ち込むためいろいろ画策したのにっぽかされちゃって号泣して、でもやっぱり有り余った性欲を満たすためにその日のうちに食堂の女中を金で買って……どんだけやりたいんだ。いざワンチャンいこうって時の口説き方もひどい。ぼくくすぐられても平気だから、ちょっとベッドでくすぐり合いっこしようよ、ってなに。セックスのことだけ考えて生きていけるブルジョワ、うらやましい。
    これが20世紀を代表する小説なんだからフランス人頭おかしい。と思ったのだが、日本には源氏物語というさらに頭おかしいのがあったことを思い出した。

  • ダラダラ延々と、淡々と続く描写。脱線につぐ脱線。防腐処理を忘れて雨ざらしにされた木材のように肥大化していく細部は、事細かに描写することでリアリティーに近づくと信じているからだろうか。読者を置いてきぼりにし、見放されても、躁鬱のように書き続けるプルーストには畏敬の念がある。

    この巻では単調な中にも少なくとも二つは大きな起伏がある。

    まずは、アルベルチーヌが「女」になって語り手の前に再び現れること。“
    アルベルチーヌは今やべつの顔をもっていた、というより、ようやくひとつの顔をもつに至ったというのが正しくて、身体も大きくなっていた。[p32]”しかし、ベッドに並んで腰掛ける以上に踏み込まれない。

    そして、奇行のシャルリュスとの面会。これは、驚くべきことに、語り手が激しく感情をあらわにする場面がある!“衝動的になにかをぶん殴りたくなった私は[…][p473]”シルクハットをばらばらにするのである。意中のひとであったステルマリア夫人に会食をドタキャン?されてショックだったときでも[p116]、あっさりと読み流されてしまう程度なのに、シャルリュスとの接触で(ここまで我慢して読んできた)読者は、語り手の体温を感じる。熱湯と水で温度調整しなければならないホテルの部屋で入れたお風呂に入ってみると、あつすぎて飛び出してしまうように。

    明らかな作者の男色趣味の気配を感じとることができるだろう。

全11件中 1 - 10件を表示

プルーストの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ヘミングウェイ
ハーマン・メルヴ...
トマ・ピケティ
フランツ・カフカ
ドストエフスキー
安部公房
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×