失われた時を求めて(9) ソドムとゴモラ II (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (704ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751183

作品紹介・あらすじ

ヴェルデュラン夫妻が借りた海を見下ろす別荘と、そこへ向かう小鉄道で展開される一夏の人間喜劇。美貌の青年モレルに寄せるシャルリュス氏の恋心はうわさを呼び、「私」の恋人アルベルチーヌをめぐる同性愛の疑惑は思わぬ展開を見せる。

感想・レビュー・書評

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  • 第4編『ソドムとゴモラ』第2部「ソドムとゴモラ II」
    8巻はこちら
    https://booklog.jp/item/1/4003751175

    数ヶ月に1冊ずつのゆっくりペースで読んでいるので人物が覚えられない(-_-;) 
    こちらの岩波文庫版では巻末に場面ごとの要約が書かれているので、まずはそれを読んでから本文を読むことにした。
    章題の「ソドム」と「ゴモラ」は旧約聖書に出てくる堕落のため滅びた都市だが、プルーストはソドムを男性同性愛、ゴモラを女性同性愛としているらしい。

    ❐ヴェリュデュラン夫妻の「水曜日」
    9巻前半の場面を多く占めるのは、ラ・ラスプリエールという高台の別荘だ。海と谷間の景色が美しい。夏の間はヴェリュデュラン夫妻が借りていて、水曜日に「少数精鋭」のサロンを開いている。水曜日と言っても木曜日の水曜日だったり土曜日の水曜日だったりもする。このサロンには、医師から今では医学教授になったコタール、小心者の元古文学者サニエットたちがいる。

    ❐サロン
    上流社会サロンでは、人脈づくりが行われていたり言葉遊びや時事ネタを取り入れたおしゃれな会話が交わされる。登場人物も言葉の使い方や駄洒落の方向により特徴づけられているんだが…覚えていない(-_-;)
    人々はどのサロンにいくのか、誰に紹介されるのか、誰が誰と知り合いなのか、誰に対してどんな態度をとるのかを計算している。自分のサロンのメンバーとは親密、他の人たちのことは軽んじて見せる。
    そんな親しいサロンでも、話題は自分の家系や人脈や家紋がどれだけの価値があるのかの自慢したり、他の人へはいじめとしか思えん態度も見える(-_-;)。
    サロンに招かれる人々も精一杯に参加しながらも「今日の自分はあまりうまくいかなかったなあ」としょげることもある。まあ私達も「ばかなこと言っちゃったああああ」となることがあるのでこれは分かる_| ̄|○

    ❐アルベルチーヌ
    「私」はアルベルチーヌとその女友達のアンドレが女性同性愛ではないか?という疑問を持っていた。だがそれはアルベルチーヌがサン=ルーに色目を使っているんじゃないか?という新たな疑いにより一掃された。「わたし」にとっては同性愛と異性愛両方は成り立たず、アルベルチーヌがサン=ルーに近づこうとしているなら同性愛ってことはないよねということと、サン=ルーへの嫉妬によりアンドレへの嫉妬が消えたというころらしい。
    「私」はあくまでもアルベルチーヌを性愛の対象としていると語っていて、サロンでは「従姉」と紹介したり、9巻後半では「アルベルチーヌとの結婚なんて愚の骨頂。愛なんかないし、そろそろ別れよう」とまで語っている(-_-;)
    それなのに、9巻終盤でやっぱりアルベルチーヌのことを同性愛者じゃないのか!?と疑いを持った途端にアルベルチーヌを繋ぎ止めようとする!この時にアルベルチーヌへの言い分が「僕には愛する女性がいたんだけど分かれてしまったんだ。親しい友人である君に側にいてほしい」とかなんか狡っ辛いことを…
    9巻は<どうしてもアルベルチーヌと結婚しなければならないんだ。>という言葉で締められている。
    …アルベルチーヌになんて言うつもりなんだろう(-_-;)


    ❐シャルリュス男爵
    プルーストはシャルリュス男爵の倒錯者の性質を繰り返し書いている…。プルーストが、シャルリュス男爵のモデルのロベール・ド・モンテスキウ(モンテスキウの名前も『失われた〜』には何度も出てくる)に向けた倒錯的思考はこちらの本で解説されているんだが、プルーストがモンテスキウ本人にシャルリュス男爵を見せつけているのか…。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309400523#comment

    9巻で同性愛者のシャルリュス男爵はモレルという青年に「関心を寄せて庇護の手を差し伸べている」。8巻の冒頭で同性愛行為をした(それを「私」が立ち聞きした)仕立て屋ジュピアンとも続いているらしい。
    その前は「私」が滞在するバルベックのグランドホテル給仕頭のエメをなびかせようとしていたのだがすれ違いが続いていた。そこでシャルリュス男爵は自分を認識していないエメに高飛車な付け文を送り付けた。内容は「貴下は小生に挨拶の機会がありながら実行しなかったことは弁明が効かない。だが貴下は小生の亡き友に似ているので水に流して我が家に招いてやろう」というようなもの。エメも「客とお愉しみ」は日常だったけれど、この文には戸惑い「私」に見せた。…第三者に見せてやるなよ(-_-;) 
    人々はシャルリュス男爵の男色をどこまで本当に知っていたのか?
    シャルリュス男爵は妻がいたが死別している。周りの人々は「妻を愛していた。今でも墓参りを欠かさない」と、愛妻家として褒めていた。シャルリュス男爵自身は自分が同性愛者あと見抜かれているとは思っていない。見目麗しい若者集団がいてもチラッと観て目を逸らすなど、後共にも気をつけている。
    しかし周りの人々はシャルリュス男爵のことを同性愛を仄めかす隠語・言葉遊びなどで揶揄したり、「美青年をチラッと観て目を逸らせたのがいかにもだよね」などと見抜いているっぽかったり、シャルリュス男爵に呼ばれた医学教授のコタールなどは「強姦されるのでは((((;゚Д゚))))」と怯えきったり…。
    これは話のネタとして言っていただけなのか、本当の本当にそうだと知っていたのか??

    ❐「私」とモレル
    モレルは要するにバイセクシャル。<片方の性で積んだ経験を生かして他方の性を喜ばせるたぐいの人間(P139)>(「私」は、「同性愛と異性愛は成り立たない」とも言っているし、「男も女も愛せる人間がいる」とも言っている。自分の親しい人間は前者だと思っていたのかな)
    モレルは自分の父親が「私」の大叔父の執事だったことを隠したがり、高飛車な態度で「私」に接していた。シャルリュス男爵も「私」に対して「モレルの父親の職業を喋ったりしないよな?」と圧力をかけてくる。
    モレルは出世主義者で、「私」に自分を褒めて上級階級のみなさんに紹介してほしい!と頼んでくる。
    モレルは、「私」と二人きりのときは親しげな態度を取るが他に人がいるとほぼ無視するし、女性に対しては「処女をモノにしてその日のうちに捨てるのが楽しみ」だし、シャルリュス男爵のようなパトロンに対しても加重請求するし、読めば読むほどいけ好かない男…(-_-;)
    しかし上流階級同士のお付き合いは、相手がいけ好かないやつでも「誠実な人/身元が確か」などといって褒め合うのだ。そこで「私」は、モレルは自分に優位になるかならないかでその場その場の態度をとるような卑屈な人間なんだよ、しかし「私」は根っからの善人だから、そんなモレルの善人の面を見つけると嬉しくなったんだ★などと言って交流しようとする(-_-;)
    まあ、そんなモレルの面白いとことは、サロンでピアノの演奏をしたが途中までしか弾けないのでとっさに途中からは違う曲に繋げたが誰も気が付かず喝采を浴びた、というような度胸と悪戯心があるところ、かなあ…(これは違う曲になったことを気が付かないサロンメンバーへの皮肉と読み取るべきなのか(ーー)?)
    なお、モレルは「私」はモレルに善意を持っていること、自分のパトロンのシャルリュス男爵へは親愛の情を持っていることを理解してからは妙に愛想が良くなった。これをプルーストは「粋筋の女が、自分に欲望を持たず、自分の情夫の親友で、自分たちの仲を裂こうとしない男に親しみを持つ」と表現している。

    ❐シャルリュス男爵とモレル
    9巻ではこの二人のなんというか若いツバメを操ろうとするパトロンと、パトロンを転がして金をせしめようとするジゴロみたいな駆け引き色々あって…、いや、もういい加減にしなさいよあんたたち(-_-;)


    ❐「私」の人物判定
    「私」は階級で人を区別したりしていない、相手が労働者でもブルジョワでも大貴族でも分け隔てたりしないし、友達を選ぶのも階級で区別なんかしていない。

    …と言っているが(P394あたり)、労働者の友達って出てきたっけ(ーー)?

    ❐睡眠について
    ホテルについた「私」が睡眠について色々語る。(P297〜)
    睡眠時の時間の流れは実際の時間の流れと違うとか、睡眠薬の効果についてとか、夢と現実の境目の曖昧さだとか。

    ❐乗り物
    ・「私」は幌付き運転手付きの自動車をレンタルして、アルベルチーヌを乗せたら、みんな珍しがったし羨ましがった!とご満悦。
    ・馬で散策中に飛行機をみた!この頃飛行機は珍しく、素晴らしいものを見たため涙が自然に溢れ出た。
    ・電車の旅
    上流社会の人たちは一斉に保養所に行き、そこでもサロンを開く。すると移動の電車で「個室を訪ね合う」ことも大事な人付き合いだったのだ。
    …、そんななか、「私」はアルベルチーヌと「列車の揺れのせいにできる触れ合い」だの「夜陰に乗じた振る舞い」だのを行っている。これで「愛していないし分かれるしー」っていいかげんにしろこの金持ちボンボンボンめ!



    ❐印象的な記述
    倒錯者について
    <倒錯者は、自分が気に入った相手には熱烈な愛想の良さを示す反面、自分を気に入った相手には釣れない軽蔑をあらわにする。人が愛される楽しさを異口同音に語るのは、その楽しさが常に妨げられる運命にあるがゆえに欺瞞というほかないが、こちらが愛してもいない相手から愛されるのは我慢ならないというのは一般法則であって(以下略)P158>

    自立を認めたれた時の不安さ
    <あまりにも大きな責任を感じて、父を悲しませるのではないかという心配や、人の命令に従うのをやめたときにつきまとうもの悲しさに襲われたものだ。命令に従っているときは、来る日も来る日も未来は我々の目に隠されているが、それをやめたとたん、ようやく人は本格的に大人として、人生を、めいめいいのままに生る唯一の人生を来始めるのである。P176>

    アルベルチーヌの人間付き合い
    <あの人が献身的でもそうでなくても、どっちにみちあたし、もう会いたくないわ。だって、あたしたちのあいだにいさかいを持ち込んだのはあの人でしょ。ふたりとももう喧嘩は懲り懲りよね。良くないことだわ。P43>

  • 「ふたりとも、いつだって優しくしなくちゃいけないわ」
    「天気も変わったようです。」

    時とともに、儚く美しい夢想は消えゆき、堅固な実利的現実のなかへとうもれ、習慣に時間が侵食されてゆく。
    はしゃぐ汽車のなか。そよぐうわさ話。汽車にゆられながら聴いた土地の名の由来は、まるでそれらが呪文みたいに、わたしの瞼をおもくしたけれど、その綴じた光のなかで、名前の成り立ちと変遷がロマンチックにかがやいた。
    ラ・ラスプリエールへとむかう馬車からみた風景も美しすぎて(正確には「私」の昂奮をみて)、海のみおろせる場所へいきたくなった。母胎にいるような、あのここちよい波の音にじかんを忘れて陶酔したい。
    スワンが出入りしていたころとはだいぶ印象のかわったヴェルデュラン夫人のサロンでは、夫人の執着と狂気(笑える)や人びとのさまざまな想いが見えない火花をちらし、その醜くて儚くて可愛い人間の多様性を、「私」はとても愉しんでいるよう(もちろんわたしたちも)。グラスをもふるわせるくらいに声高な意地悪や悪口が気持ち悪くてさいこう。
    「私」とアルベルチーヌの恋も、つねに哀しみを纏った幻影がついてくるのに、それを見ないようにしているようでとてもさびしかった。ぼくたちは恋をしているんだ、という自意識のもとでないと、きもちのよい煌めきはえられないから。でもとてもよくわかる気がする。わたしも終わりを想って恋をしていたから。

    こうした皮肉と愛のこもった「私」の視点からにんげんのありさまをみていると、そのひとびとの一部に、じぶんじしんの一部をみつけるのだ。あ。それわたしのことじゃん。これも。これも。
    でも"決闘"がたのしい、ってどゆこと??そればっかりはぜんぜんわからない。恋にかんする嫉妬の感情があんなにもはずかしいってことも。

    自動車の登場によって神秘がうばわれてしまったように感じた「私」のように、いまやスマートフォンにわたしたちの時間も想像力も(ときにいのちまでも)侵されていってしまっているように想う。"なれなれしい前進の代償" 。
    それに全人類(全性別)がライバルだなんて、途方もないわね。さいごの数頁、ほとばしる「私」の矛盾の愛情。記憶のなかに綴じこめられた呪いのことばにおかされて。「こちらが愛している限り相手からは愛されない、女をこちらに惹きつけることができるのは欲得だけだ」。うん、正気のさたじゃないよ。わたしは冷たくされたら醒めるもの。
    あなたとわたしをつないでくれているかもしれない風が、頬を撫でる。だからきょうはちっともさむくない。そんなふうに幻影を、わたしも追いかけてしまう。
    さて宇宙を翔る睡眠の不思議な冒険にでかけよう。失われる幸福のなかへ。初夢にあなたがあらわれたら、わたしは…。



    「人は大いに天国の楽園を夢見る、というより、つぎからつぎへと数多くの天国の楽園を夢見るが、その楽園はどれも、人が死ぬはるか以前から失われた楽園であり、自分自身を見失うほかない楽園なのである。」

    「われわれが毛嫌いするのは、こちらとは正反対の人間ではなく、こちらに似てはいるが劣っている人間、こちらの悪い面を露呈し、こちらが矯正した欠点をあらわにして、現在のわれわれが過去において人にどう思われていたかという不愉快なことを想い出させる人間なのである。」

    「そもそも家族って、じつにやりきれないもので、だれもがそこから抜け出そうとしか考えないしろものですからね。」

    「そもそもわたし、知識には目もくれません。学んで身につくものなどには興味をそそられませんので。」

    「付和雷同の本能と勇気の欠如は、あらゆる群衆を支配しているのと同様に、あらゆる社交集団をも支配している」

    「その画には画家の偉大な才能のみならず、夫人と画家の長年にわたる友情もまた凝縮されていて、もはやその友情は画家が夫人のために残したこの想い出の品にしか残存していなかったのである。」

    「その道は、幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像のなかにある存在ばかりを追うのが、私の宿命だと想い出させてくれた。」

    「それは、若い娘という寓話的で宿命的な形をとって私の面前にあらわれた、ある精神状態、ある生存の未来なのだ。」

    「医学の道で出世をめざす者が長年にわたってつまざるをえない純粋に即物的な研鑽に明け暮れたせいで、教養を身につける機会を逸し、権威こそ増大したが、経験はすこしも豊かにならなかった。」

    「頑固者とは他人に受け入れられなかった弱者であり、他人に受け入れられるかとうかなどには頓着しない強者だけが、世間の人が弱点とみなす優しさを持つことである。」

    「精神が外観にすぎないものを実体だと想いこむ、そんなまがいの見解に安住するのを妨げてくれるのが陰口なのだ。」

    「この私という奇妙な存在は、死によって解放されるのを待ちながら、鎧戸を閉ざして暮らし、世の中のことはなにも知らず、まるでミミズクのようにじっと動かず、いくらかはっきりしたものが見えるのはやはりミミズクのように闇のなかでしかない」

  • ソドムにもゴモラにも興味が沸かなかった。
    「私」がご執心のアルベルチーヌについても同じだ。
    そもそも、人が最も女を欲するのは、それが決定的に失われようとするときなのではないか?
    そのことを証するかのように、「私」は、彼女がゴモラの女だと知って初めて、彼女を繋ぎとめようと必死になる。

    『われわれがいかにあれこれ考えをめぐらしても、真実はけっしてそのなかに含まれない。真実は、つねに外部から、まったく想いがけぬときにやって来て、われわれに恐ろしい針を刺し、永久に癒えない傷を与えるのだ。
    ―中略―
    「…ほら、憶えてるかしら、あたしよりも年上の女友だちのこと、あなたに話したことがあるでしょ。あたしの母親がわり、姉がわりになってくれた人で、その人といしょにトリエステですごした何年かはこれまでで最高の経験だったし、何週間かしたらそのお友だちとシェルブールで落ちあって、そこからいっしょに旅行する予定なのよ
    ―中略―
    で!そのお友だちだけど、(あら!あなたが思うような種類の人じゃ全然ないわよ!)、これが、なんと不思議なことに、どんぴしゃり、そのヴァントゥイユって人のお嬢さんの親友なのよ、
    ―以下略―』(第4篇ソドムとゴモラⅡ(2-4))

    『と母は言うと、
    ―中略―
    私に窓を指し示した。しかしお母さんが示してくれたバルベックの浜辺や海や日の出の背後に、私が母の目にもそれとわかるほど絶望をあらわにして見ていたのは、モンジュヴァンの部屋だった。そこでは、バラ色に上気したアルベルチーヌが、大きな雌猫のように身体を丸め、鼻を強情そうにそり返らせ、ヴァントゥイユ嬢の女友だちになりかわり、同じ官能的な笑い声をあげて、こう言っている、「それがどうしたの!見られたら、かえって好都合じゃないの。―以下略―」』(同上)

  • ○われわれはあの世でも、この世と同じ自分であり続けたいと熱烈に願うものだ。ところがそんなことは考えてもみないが、あの世を待たずとも、この世でも数年も経つとわれわれはかっての自分ではなくなり、未来永劫そうありたいと願っていた自分ではなくなる。
    ○われわれが毛嫌いするのは、こちらとは正反対の人間ではなく、こちらに似てはいるが劣っている人間、こちらの悪い面を露呈し、こちらが矯正した欠点を露わにして、現在のわれわれが過去においてどう思われていたかという不愉快なことを思い出させる人間なのである。
    ○命令に従っているときは、来る日も来る日も未来は我々の目に隠されているが、それをやめたとたん、ようやく人は本格的に大人として、人生を、めいめいの意のままになる唯一の人生を生きはじめる。
    ○他者という存在は、われわれとの位置を絶えず変えているのだ。感知されはしないがこの世の永遠に続く運動の中で、我々は他者をある瞬間の光景において動かぬものとして眺めるが、その瞬間はあまりにも短く、その間にも他者が巻き込まれている運動など到底感知されない。
    ○頑固者とは他人に受け入れられなかった弱者であり、他人に受け入れられるかどうかなどに頓着しない強者だけが、世間の人が弱点とみなす優しさを持つ。
    ○人間は、周囲からいかに軽蔑されようと、なかなか自分の欠陥には気づかず勝手なおしゃべりを続ける。

  • 非常にストレスが溜まる一冊だった。
    最初からサロンの描写が異様に長く、理解できない会話が続く為話の筋が見えて来ない。
    それにしても「私」はどうしてこれ程までに恋人(単なる遊び相手?)を苦しめるのだろうか。
    ある人に対して所有欲が興るのは思春期によくある事だが、束縛し一人恍惚として快感を得ている頻度が高く、妄想状態に没入している様子が怖い。
    幻影として妄想を見ると言う経験がないので読んでいて背筋が寒くなった。
    これは被害妄想と言った方が正しい。
    アルベルチーヌの心情が一切描かれていないので想像するしかないが、彼女は「私」に振り回されている人物の可哀想な一人だ。
    同性愛者か否か不明な状態が続くので何れは真実を知りたい。
    泣き出した「私」を慰めてくれたお母さんがとても優しかった。
    が、好い加減甘やかし過ぎだと思う。
    女性に現を抜かす我が子を看過できないのであれば積極的に母から品行方正になる様に注意すべきである。
    どうしても女性目線の心理で読んでしまい、「私」の性格が純粋に好きになれなかった。
    現代に存在したら相当厄介な男である。

  • 「こちらとしては自由を確保して、その気がなければアンドレとも結婚せず……とはいえその時点まではずっとアンドレを自分のものにしておきたい。……「ぼくはべつの人への恋心のせいで悲しんでいるので、そんなぼくを慰めてほしいんだ。」……私は内心ほくそ笑んでいた。これで……アンドレの愛情を楽しく心おきなく享受できるだろう。」

    あいかわらず主人公がクズ。なんだこのアンドレに対するアレな態度は。くわえて、9巻はほかの登場人物のクズ度も高いので、全般的にクズな人々がクズな言動をしてるのを延々と読み続けるという展開。
    それでいて景色の描写とか記憶をめぐる考察とかはやたらと高尚で、どうにもアンバランスな。
    しかし、ここまで読んで未だになんの話なのかわからんてのも不思議。

  • 岩波文庫版の第9巻。
    『訳者あとがき』によると、この辺りで挫折する読者が多いそうだ。確かに終盤で主人公が決心するまでは、ストーリー的にもさほど起伏があるわけではないので、いい加減に飽きてくる気持ちも解るw が、細部に拘って読んで行くと、意外に1冊を読み通すのは苦痛にならないので、挫折はせずに済んだw

  • メディアとしての自動車体験の描写、考察が今も色褪せない。

    この巻の登場人物のこじらせ具合も半端ない。
    生きること、とくに愛することはこじらせることに他ならない。

    最後のアルベルチーヌの同性愛を確信してしまうくだりは、性的指向のセンセーショナリズムの強調にあるのではなく、倒錯を感じる常識への一種の揺さぶりにあるのではないか。同性愛者だったプルーストだったから、時代を待つことなく、書き上げられたのではないか。

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