失われた時を求めて(10) 囚われの女I (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751190

作品紹介・あらすじ

海辺を自由に羽ばたく鳥-アルベルチーヌをパリに連れ帰り、恋人たちの密やかな暮らしが始まる。篭の鳥となっても女は謎めいたまま、嫉妬と疑惑が渦を巻く。狂おしい日々を彩る、パリの物売りの声、芸術の考察、大作家の死。周囲の人々の流転とともに物語は進む。

感想・レビュー・書評

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  • 【第五偏 囚われの女 Ⅰ】

    9巻ラストで、「アルベルチーヌへは愛は全くないんだが、アルベルチーヌが同性愛するかと思うと自分が嘲笑われるような気がする」という気持ちから「アルベルチーヌと結婚しなければならない」と勝手に自分に決意表明した「私」は、パリの自宅にアルベルチーヌを連れ込んだ。
    このあたりがよくわからんのだが、アルベルチーヌには「多分結婚できるかもよ」としか伝えていないし、アルベルチーヌも「うちは貧乏だからあなたと結婚はできないわ」という。そしてアルベルチーヌの女友達アンドレには知らせているが、他の人達には秘密にしている。これで若い男女が同じ屋敷に住むの??まあ貴族のぼっちゃんの広い家なので、自宅で一緒に暮らすといってもお客さんとしてまったく違う生活はできるんだろうけど。

    「私」はアルベルチーヌを「籠の鳥」にして、アルベルチーヌの毎日のお相手兼監視人を女友達のアンドレに依頼する。

    …ということは、題名の「囚われ女」って、語り手が囚えているのかーーい!!(꒪ꇴ꒪〣)

    しかし「私」も、<私は自分で覆っていた以上に主人なのだ、思っていた以上に主人たということは、思っていた以上に奴隷だということである。(P350)>とも言っているので、自分で自分を囚えてもいるようだ(-_-;)

    この10巻は割りと読みやすかった。「私」の言っていることの大半はアルベルチーヌへの一人相撲なんだが、嫉妬や妄想や気持ちの移り変わりなので現代日本人読者にもわかりやすい。他の巻の上級階級サロンでの”気の利いた”会話は全くわからないんだもん…(ー◇ー;)


    ❐「私」とアルベルチーヌ
    ・アルベルチーヌと同棲していることは秘密にしていた。だってアルベルチーヌ家にいることを知られたら、他の男がどこかで彼女を待つかもしれないじゃん!
    ・当然性行為はしているんだが、アルベルチーヌの身体の様子や寝ている時の表現が文学的?芸術的?なんだかよくわからんが高尚なことを言っているようだが(P171あたり)、同棲してヤってるのに「もしかしたら結婚できるかもしれないよ☆」くらいの約束で良いの??
    ・「私」は、アルベルチーヌとの性行為よりも、その後アルベルチーヌが寝ている姿を見るほうが安心するらしい。ふーーーーん。
    ・アルベルチーヌからのキス(深いものではなく挨拶としてのキス)に、一巻でも出ていたような子供の頃の母親からのおやすみのキスを思い出す。
    ・アルベルチーヌとは出かけない。自分自身がアルベルチーヌと一緒に出かけると、自分が目を離した隙に誰かを見つめたり話しかけたりするんじゃないのか?って疑ってしまう。それならアルベルチーヌだけ出かけさせて自分は監視人(アンドレや運転手)から報告されたほうが気が楽。
    ・監視人に聞くときは何気なく、さり気なく!どんなにバレバレでもさり気なく、気にしていないふりを通すこと!
    ・アルベルチーヌが浮気していないと聞いても安心できない。もしかしたら監視人と示し合わせて噓を付いているかもしれないじゃないか! (←めんどくせえ(´+。+`)
    ・監視人とアルベルチーヌの言うことが食い違うとむしろ安心する。監視人は本当のことを言っているんだ!(アルベルチーヌが本当のことを言っているとは考えない)
    ・家主のゲルマント夫人のところに、アルベルチーヌのためにファッションのコツを聞きに行く。
    ・アルベルチーヌの言うことの矛盾や欠点をいちいち反復する。「私」によるとアルベルチーヌは「日常的に自然に噓をつく」としているんだが、「私」の主観だからなあ。「人間関係においての誰でもいう噓」なのか「特に嘘つき女」なのかどうなんだろう。
    ・以前他の人物がアルベルチーヌのことを言っていたのは、もしかしたら同性愛行為を目撃したんじゃないか??といちいち疑う。
    ・アルベルチーヌへの感情の変化から、「複数の女がいるよう」とか考える。
    ・アルベルチーヌが行こうとしていたサロンへの参加を考える。理由は「彼女が会ったかもしれない人たちを見ておこうと思って」。
    ・アルベルチーヌを囚えるのに<きみを愛している僕を信用しないで、きみを愛していない連中の方を信用するんだね。P263>などと言うんだが、「どの口で言う!?」である(-_-;)


    ❐「私」の感性
    「私」はしつこいくらいに「アルベルチーヌへの愛情は全くない」と言っているんだが、その反面アルベルチーヌを「恋人」と呼び、「愛しているからこんな感情になるんだ」とも言っている。
    そしてアルベルチーヌがいることによる感性の鋭さや精神的な安定も見せている。
    ・夜だけ過ごしていたころは断片的な快楽だったが、同棲すると以前には空疎であった我が家に恒常的な家庭的な安らぎが満ちる、と感じる。
    ・目が覚めて<冬のさなかに挿入されて春の一日が始まることを知った。P248>
    ・客寄せの楽器、シャッターを上げ下ろしする音など、「朝の空気をオーケストラのように震わせる」音が、アルベルチーヌの目覚めを導くものに思えて、聴覚の楽しみを知った。
    ・朝の路上から聞こえる物売りたちの声をアルベルチーヌと聞く。牡蠣、小エビ、アスパラガス、玉葱、樽、ガラス、屑屋。物売りの声を聞くことにより気持ちも充実されてアルベルチーヌは「物売りから買ったものだけ食べたい」という。うん、これはわかるわー。
    ・アルベルチーヌがアイクリームを語る場面が、食と生きることが結びついているようだった。…解説によるとここは性的表現らしい…気が付かなかったよ_| ̄|○

    ❐「私」の名前
    『失われた時を求めて』での語り手は決して明かされなかったのだが、今回は恋人アルベルチーヌが呼ぶ時には名前があったほうが親密さが伝わるとして「書物の語り手に作者と同じ『マルセル』の名前を与えるとすれば」としている。
    『失われた時を求めて』の初期原稿では語り手の名前はマルセルだと明記されていたらしい。発表したときには「私」と名前を明かさないことにしたんだが、プルーストは語り手と自分自身を同化を計ったようだ。

    ❐シャルリュス男爵周辺
    シャルリュス男爵は、仕立て屋シャピアンとは関係を持ったし、現在はヴァイオリン奏者モレルの面倒を見ている。そのモレルと、シャピアンの姪は婚約状態にある。そしてシャルリュス男爵はこの二人の結婚を推奨して若い二人を自分の支配下に置こうとしている。
    …上流階級って人間で遊ぶのよね( ̄[] ̄;)

    ❐作家ベルゴットの死
    「私」が好きだった作家ベルゴットの病死の様子。長いこと小説を書いていなかった(書けなかった?)芸術の死と、人間の死のこと。自然な病気は医療で治せるが、医療によって罹った病気は誰にも直せないんだとかそんなかんじのこと。

  • 「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならない」
    「あの娘はぼくの作品なんだ」

    矛盾矛盾矛盾のふきあれる嵐のなか、「私」は愛に触れとけてゆく「私」の輪郭に必死に目を凝らす。可哀想な「私」。ダサくてひとりよがりで滑稽な「私」のこころの叫びがそこにはあった。そしてそれは普遍の空に打ち上がり、わたしたちのうちに秘めた途切れることのない感情の嵐をもまきこんでゆく。きもちよくてきもちわるい。はずかしくてほこらしい。耐えがたい苦しみを与え合うのが愛だなんて。嘘だといって。嘘嘘嘘嘘。嘘 というものにも弄ばれ、どうじに救われてもいるわたしたち。

    数頁で、あれ。シャンタル・アケルマンの囚われの女??(浴室の壁は不透明な硝子)と、調べてみたらやはり原作だった(知らなかった!!)。大好きな映画なので叫びたいほどうれしかったのだけれど、あの雰囲気の映画に、(わたしにとっては後付けとはいえ)プルーストの説明がついてしまうし(原作なのに矛盾しているようでおかしいけれど)、アルベルチーヌのイメージも前巻までとはだいぶ変わってしまった(アルベルチーヌ自身もかわったけれど)。でもなにより、この原作からあの映画を創りだすアケルマンはやっぱり天才(原作の「私」にイラッとしていたのだろうなあ)。ある種のカタルシスだし。あのラストシーンがよぎってしまうけれど、、。あーあ。男ってやつは。って、ゲルマント夫妻の登場でなんだかあんしんする。これは、プルーストの、囚われの女なんだ。
    さて。"なんともわけのわからない慣習がのさばる奇妙な世界" 。すべて「私」の視点からの、この"囚われた" (いったいどっちが??)生活。やっぱりきもちわるすぎてほとんどホラーの様相。わたしは映画のほうをさきに観てしまっていたからかもしれないけれど、映画のほうがより「私」の悲壮感に満ちていた。
    部屋のなかでは、天国の息吹を頬にかんじて、通りから聴こえる商人たちの売り声のオーケストラが、ここちよく楽しいノスタルジーをつれてきてくれる。実家のある商店街でむかし響いていた向かいあわせにあった八百屋のリズミカルな呼び売り声にさびしさをうめてもらっていたから。
    支配。所有。隷属状態。幾つもの物騒で不快なことばが放たれる。ほんとう、変態ね、あなた、マルセル。「囚われの女」。それはマルセル、貴方のことなのでしょう??(アルベルチーヌの呼びかける声にどきりとした。「マルセル」。なんだか聞いてはいけない名前を耳にしてしまったような、背徳感をまとった色っぽさに蕩ける。)
    「私はアルベルチーヌによってわが自由に終止符が打たれたせいで奪われたさまざまな快楽を数えあげていた。」

    "愛とはわれわれの悲哀の函数" なんかじゃないと、わたしはしんじたい。けれどこれがプルーストの(フランス人の)愛の定義なのだとしたら、「もうあなたのこと愛していないの」なんていうよく耳にする台詞のほんとうの(フランス人的)意味そのものをしって、途方にくれてしまう。それはそれは美しいことだけれど(だって美しいものしか愛さないのでしょう?)、古本に挟まれていた憶えのない押し花をみつけたときみたいに、とてもさびしくなってしまうから。
    "幸福を自分自身のうちに探し求める労を免除してくれる" 平穏。平穏は精神を鈍らせる、なんて思っていた思春期を想い出した。けれどもう、いまは、望むのは 平穏。それだけ。


    「ただ苦痛によってのみ、私の厄介な愛着は存続していたのである。」

    「乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。」

    「こうして漏れてくるアルベルチーヌの眠りという不思議なつぶやき、海の微風のように穏やかで月の光のように幻夢的なつぶやきに私は耳を傾けた。」

    「官能の快楽がいささか深まる事態は、つねに危険をはらんでいるのである。」

    「だが、そもそも愛が、ひとえにうそ偽りによってかき立てられ、われわれを苦しめた相手にその苦痛を鎮めてほしいと願う欲求でしかない世界において、どうして生きる勇気がもてるだろう」

    「一方には健康と叡智が、もう一方には精神の喜びが存在し、いかなるときも人間はこのどちらかを選ばざるをえない。」

    「悲嘆は心のなかに深くはいりこみ、苦痛にみちた好奇心を通じてわれわれに認識を深めることを強いるのだ。」

    「われわれは躍起になって夢のあやふやな残骸を探し求めるだけで、そのあいだも恋人との生活はつづいてゆく」

    「嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せでも)宣言してしまうと、往々にして他の人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことは無い。」

    「医学が、まるで自然と張り合うかのように人を病床に縛りつけ、死ぬぞと脅して薬の使用をつづけさせるのは、摩訶不思議と言うほかない。」

    「とはいえわが恋人がもたらしてくれたこの安らぎは、要するに歓びというよりも苦しみの鎮静である。」

    「人生は、私の芸術への未練を断ち切ってくれるのだろうか?」

  • オレこの子と結婚するわ!と前巻で宣言したにも関わらず、いざ自分のものになってたら今度は、彼女のことはもう愛してないとか言い出して、そうかと思えば自分の見ていないところで恋人が同性愛に耽っているのではないかと疑心暗鬼になって逐一監視をつけたり行動を制限したり、それでいて自分は自分で商店の女の子を物色するし、、、、、10巻も安定のクズ野郎っぷりを発揮してる。
    そして、そういうクズ的エピソードの合間に、人生やら芸術やら記憶やらに関する長大な考察が延々と続く。行為のクズさと思考の高尚さとの落差があまりに激しくて、真面目に読んでいいのか、笑い飛ばしながら読めばいいのかわからなくなる。

  • ○他人の生活についてなにか正確な断片を正確な断片を知りえた人は、そこからたちまち正確ではない多くの結論を導きだし、新たに発見された事実によって、その事実とは何の関係もない多くのことがらを説明できると想いこむものだ。
    ○人がしきりに冗談めかして話すことは、たいていの場合むしろ本人を困らせていること。
    ○嘘をつくのはおぞましいことだと宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなる。
    ○人生は旅なのだ。

  • 全体的に性的な描写と言うか場面が多かった。
    食べ物を性的な隠喩に使うのは止めてほしかった。
    前巻より更に「私」の傲岸不遜な性格が重度化していて、ジルベルトに初恋をしていた頃の純粋な少年はどこへ行ったのかと嘆息した。
    アルベルチーヌも「私」の影響を受けてか変な言葉遣いを身に付けてしまって残念だ。
    二人だけの世界でもロマンチックな雰囲気が毎日の様に続いている訳ではなく、既に倦怠期の夫婦と化しているのが興味深かった。
    どう見てもアルベルチーヌは可哀想な立場でしかない。
    もし私が「私」と似た男性を生活することになったらとても耐えられないだろう。
    毎日顔色を窺って過ごすなんて苦痛で逃げたくなりそうだ。
    それでも彼女は必死に耐えて「私」に逆らいもせず、懸命に尽くそうとしてくれている。
    少し位は感謝した方がいい。

    またもや感想ではなく「私」に対する愚痴になってしまった。

  • モレルやアルベルチーヌを通して、人格の一貫性神話を崩す。

    アルベルチーヌの寝顔を見守る描写は、これまでも度々引き起こされたが、幼子を見守る己が眼差しを想起させた。

    ミシュレの序文と作品群の統一性の指摘は、皮肉にも、長い本作と訳者あとがきにも当てはまる。

    最後は恋愛における支配被支配性を描写。

  • 第10巻。本書と次巻で『囚われの女』となる。
    岩波文庫版は最初に『本巻について』で、簡単なあらすじを紹介してくれるのだが、今回は的確でありながら、妙に週刊誌的なところがあるw 概略にしてしまうと確かにこうだとしか言いようが無いのだが……。

    それにしても、古典新訳文庫版がなかなか出ないうちに、岩波文庫版がとうとう2桁に……。

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