失われた時を求めて 見出された時II (14) (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2019年11月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (612ページ) / ISBN・EAN: 9784003751237

作品紹介・あらすじ

長い療養生活を経て,ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した.時は,人びとの外見を変え,記憶を風化させ,社交界の勢力図を一新していた.老いを痛感する「私」の前に,サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ,いまこそ「作品」に取りかかるときだと迫る.全巻の人名・地名・作品名を網羅した索引を付す.(全14冊完結)

みんなの感想まとめ

時間の流れと人間の老いをテーマにした本作は、登場人物たちの変化を通じて、記憶や幻想がどのように私たちの人生に影響を与えるかを深く考察しています。読者は、時の残酷さを実感しながら、かつての美しさが失われ...

感想・レビュー・書評

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  • 【見出された時Ⅱ】
    最終巻!本の後半は索引のため、本文は前半のみ。場所もゲルマント大公邸のみ。

    一応読了…なんだけど、14巻ほとんど流し読みもあり、これを「読んだ」と言ってよいのかどうか(-_-;)

    ===
    ゲルマント大公邸の夜会に招かれた「私」。第二次世界大戦は終わり、「私」は療養から戻り、社交界はすっかり様変わりしている。
    1巻で少年時代を過ごしたコンブレーでの「ゲルマンとのほう」「メゼグリーズのほう」、遠く離れたと思われたその二つの家は、両家の
    サン=ルー嬢によって一つになる。
    そして「私」は今こそ自分の物語を書く時が来たと知る。

    ❐老いる
    ゲルマント大公邸の夜会。「私」は40終盤くらいかな。病気療養していたため社交界に出るのは久しぶりのようだ。そこで社交界の変貌、なによりも自分では自覚していないうちに自分が老人と扱われることを自覚させられる。
    若い士官生と知り合い公平な友情が結べるかと思ったら、相手からは完全に年長者として扱われる。え、自分は一世代上の扱いなのか。
    自分より年上の人たちは、年齢を自覚しているような素振りをしながら、若いと思われたがっていることが丸わかり。
    <私が自身を若いと思い込んでいるように自分では若いつもりでいる老人たちの目で、自分を見る事ができた。そんな老人たちは、否定してくれるのを期待して私が自身を老人の例として引き合いに出しても、そのまなざしに、なんの抗議も浮かべない。その老人たちは自分自身を見ているように私を見ているのではなく、私がその老人たちを見ているように私を見ているからである。(P46)>
    <その老人たちは自分自身を見ているように私を見ているのではなく、私がその老人たちを見ているように私をみているからである。われわれは自分自身の姿や年齢を見ることはできないが、だれしも、相手に向けられた鏡のように、他人の姿なら見えるのだ。(P47)>

    …私(読者の私自身のことです)が身につまされるんだけどーーーー(-_-;)

    ❐社交界の変貌
    社交界が久々である「私」には、その変貌には驚かさせるばかり。
    <この二十年のあいだに、さまざまな党派の寄せ集めがもろもろの新星の引力によって離合集散を繰り返し、その申請たちも遠ざかったり再登場するうんめいであったうえ、人々の心にも様々な結晶が生じては、やがて粉々に崩れ、さらに新たな結晶が生じたからである。(P182)>
    ・記憶の書き換え
    過去のことは忘れられ、違う記憶が事実となる。「私」の知っていたスワン氏のことも、ゲルマント家の家系のこともまるで違うことが事実として語られる。
    ・生と死
    誰と誰が結婚していて、誰が死んだのかも人々の記憶はあやふやになっている。時間が立つと死でさえ噂話の一つになってしまう。
    <死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化し、一人の人間を多かれ少なかれ特徴づける小事件とみなされるだけで、死を語る人々の口からは、それが当人にとってすべての終わりを告げる事件であることを意味しているとは感じられない。(P147)>
    ・ゲルマント家
    この小説でも大貴族の象徴だったゲルマント家もすっかり中身が変わっている。
    今ではゲルマントの中心は、ゲルマンと公爵夫人のオリヤーヌ、ゲルマント大公と再再婚した元ヴェルデュラン夫人(かつてシャルリュス男爵を社交界から追放)、サン=ルーの未亡人ジルベルト。かつてゲルマント公爵を盛り上げた男性たちは、老いたり、亡くなったりしている。シャルリュス男爵は「すっかり耄碌した」ことだけ語られて本人は出てもこない。
    ・芸術家
    「私」にとって花形だった歌手ラ・ベルマは落ちぶれ、サン=ルーの愛人だった娼婦ラシェルは今や社交界の花形。
    バイオリン弾きモレルはバイオリンは弾かずに、かつてパトロンだったシャルリュス男爵を追放した社交界で地位を築いている。
    「私」が好きだった作家ベルゴット、画家エルスチーヌ、作曲家でピアニストのヴァントィユのような芸術家はもう求められていない。

    ❐「ゲルマントのほう」と「メゼグリーズのほう(スワン家のほう)」の結合
    初恋のジルベルトも、もはや面影を思い出すことさえ難しくなる存在だった。かつて自分が望んだ若い娘、初恋のジルベルト、花咲ける乙女たち、会いたいと思った娘たちの面影はもう追うことはできない。
    <ところがなんということか、私が今まさにこの瞬間これほど強く欲している娘たちに再会しようとしても、それは叶わぬことだった、きょう私が目にしたすべての人たちをそしてジルベルト自身をも変えてしまった歳月の作用は、もし亡くなってイなければアルベルチーヌをそうしたように、生き残っているすべての娘たちを、私の思い出の中に残っている娘たちとは、確実にあまりにも異なる婦人にしてしまっていた。私はみずから努力してその娘たちに到達せざるをえないことが辛かった。なぜなら時は、人々を変えてしまうが、その人々についてこちらたいだくイメージまでカエルことはないからである。(P171)>
    この物語の始まりは、「私」が幼少期を過ごし、夜母がキスしにくることを待ち、スワン氏を知り、ジルベルトに恋をしたコンブレーだ。「私」には二つの屋敷、ゲルマント家とスワン家は特別な存在だった。だがジルベルトの言葉により、二つの屋敷は小道によって案外近いということが分かった。
    そして「私」にとってこのふたつの家の結合の象徴は、ゲルマント家のサン=ルーと、スワンの娘ジルベルトの間の娘、サン=ルー嬢だった。
    <私にとって、サン=ルー嬢へと収斂するのは、私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな「方向」ー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる「スワン家のほう」ーである。私をスワンへ、昆布絵r−ですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて陽光の降り注ぐ海辺で私がその父親に会ったことが思い浮かぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想い浮かぶ。(P261)>

    ❐変貌を受け入れる。
    社交界の変貌、自分の老いに戸惑っていた「私」だが、その変貌を受け入れるようになった。今までもとても受け入れられないと思っていたことを受け入れていたように。

    ❐見出された時
    「私」は、16歳くらいの娘になったサン=ルー嬢をみて、いまこそ自分の著作に取り掛かる時なのだと知る。
    …えーー、今まで読んできた14巻がその作品なのではなくて、書くのだという決意に至った回想だったということか。(^o^;

    <なんと多くの大聖堂が未完成のままになっていることか!作者はその書物を育み、その弱い部分を補強し、それを保護するが、やがて書物地震が成長し、作者の墓はこれだと指し示し、その墓を世間の風評から、そしてしばらくは忘却から守ってくれるのだ。(…中略…)祖も書物を読んでくれる人たちのことを想定して私の読者というなら、それは正確を欠くことになるだろう。なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者からである。(P269)>

    14巻の長い長い回想。とりとめのない回想かと思われたが、今まで出てきた社交界の人々の立場は反転し、別々だった場所は繋がり、そしてこの回想自体が一番最初のコンブレーを思い出させる。
    そしてその想いを自分の作品として語る「時が来た」ことを悟る。
    なーがーいー とりとめないー 語り手冷たい人だなあー とか思っていたが、最後に見事に収斂してちょいと感動した。
    そのため最終巻だけ★5つ。

  • 立教大学のイベント『新訳でプルーストを読破する』を機に、井上究一郎訳の第5巻から横滑りして読みはじめた本書だが、何とか読み終えることができてほっとしている。 これでやっと種々のプルースト関連本を手に取ることが出来るようになったし、最近気になっているプルーストとヌーヴォー・ロマンとの関係性についても、追いかける足掛かりができた。 立教大学のイベントが終わってはじめて読書のスイッチが入ったところなど、夏休みが終わってはじめて宿題に取り組んでいた小学校の頃のようだ。 まったく愚図は死んでも治らない!

    「私」は、時が人々の上に老いを刻印していくのを観察する。 時は残酷だ。下手くそな絵描きのように時間をかけて、匂うがごとき乙女を白髪の老婆に変えてしまう。 あのオデットさえも、その悪意ある絵筆から逃れられない。

    『聞こえてくるのはこんな発言ばかりだった、「フォルシュヴィル夫人に私がだれだかわかるのか怪しいものだ。あらためて紹介してもらわなくてはならないかもしれん。」『なあに、そんなこと、する必要もない」と相手は大声で答え、それがジルベルトの母親に筒抜けであることなど、考えもしない(考えもしないか、聞こえようとお構いなしなのだ。)「それは無用。紹介してもらってもちっとも楽しくないですから!あれは隅に置いておけばいいんです、少々ぼけてますからね。」(第七編 「見出された時」Ⅱ)

    かつては日傘のかげで、眩しいほどに輝いていた藤色のオーブも、時の悪意の前では手も足も出ない。 これもまた、「見出された時」だ。 もし、スワンが生きていたなら、今のオデットの姿を見て何を思っただろうか? 人は、見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞かない。 常に自分自身の幻想の中で生きている。 だとすれば、目の前の老いさらばえたオデットの中に、彼女が「花咲く乙女たち」の一人だった頃の幻影を見出すことも、スワンになら出来たのではないだろうか?

  • 読了。
    読み始めたら14巻を読み通すまで、止まらない。

    個性的な人々(言及される個性は「たとえそれが人間を怪物に似せる結果になろうとも」というくだりもある)に囲まれて生活し、大叔母から相続した遺産の浪費を続ける中、自分が年老いたことに突然気づくプチ・ブルジョアの話。

    大金持ちになるためのソリューションは、遺産相続。アメリカン・ドリームは入り込む余地なし。

    自分が学校や仕事等々で指導されてきた「1文は短く切って、簡潔に書く」とは正反対に、複数の情報が詰め込まれた200字を超える長文が続くが、作者と訳者の力量が極めて高いためか、するすると読めて違和感がない(「自分が…ない」の1文で100字だけど、とても違和感があるw)。

    日本人なら「行間を読む」ことを求める意味合いや文脈となるような箇所でも、推敲を重ねて書き加え、「『行間を読む』ような言外の意味なんかないんじゃないか」と思わせる。が、王族・貴族、文学、絵画、クラシック音楽などの非常に充実した解説を読むと、言及している絵画などには一度読んだだけでは読み取れない含意があるような感じ。解説には図版まで付いていて、「あー、この絵か」と分かると、絵画の実物を見たくなる。

    文脈から飛躍する比喩(主人公の体調が悪いことを書き綴る中、「まるで重度の船酔いに見舞われた人たちが、船でカスピ海を横断する途中、たとえ海に投げ込むぞと言われても、抵抗の気配さえ見せないようなものである」など)は、自然に組み込まれていて、何気なく読んでしまうが、よく考えてみると「まるで重度の船酔い…」のような比喩が、本当は洒落や地口のように思えてきて、全14巻のところどころに洒落や地口が組み込まれた壮大なお笑い本とも思えてくる。

    読書中に自分の集中力が途切れ、自分の目が文字の上を滑るのに気が付いて、しっかり読んだ記憶がある箇所まで戻ろうとしても、1文が長いうえに1つの段落が長すぎて、どの箇所までしっかり読んだのか分からなくなり、適当な箇所から読み始めることになる。気にはなるがそのまま読み進めて、自分の目が文字の上を滑るのに気が付いても、全14巻の作品であることが既に分かっているので、「あー、読み飛ばしているけど、仕方ないな。まあいいか」などと妥協を続けながら読み進める。

    いつか再読するのではないかという気はするが、自分のペースでは全14巻通読に5ヵ月かかったので、まずは読書に時間を投資できる5ヵ月を探す必要がある。

    活字沼を潜航中。ぐははw

  • 自分が年を取ったので、前回、前々回読んだときよりも共感できる部分、なるほどと思う部分が多かった。自分も周りの人からはこのように歳をとったと見られているのだろう。この本のように自分の生きた意味がいつか分かるようになるのだろうか。とりあえず勉強するしかない。

    ○は吉川一義訳 ●は井上究一郎訳 △は鈴木道彦訳
    ○いかなる大事件といえどもわれわれの精神力に外から影響を及ぼすことはなく、いかなる波乱万丈の時代に生きようとも凡庸な作家はあくまでも凡庸な作家にとどまるほかない。それと同じ理由で、社交界において危険なのは、人がそこへ持ちこむ社交的感情である。とはいえ、壮絶な戦争がくだらない詩人を卓越した詩人にする力を持っているわけではないのと同じく、社交界それ自体が人を凡庸にする力を持っているわけではない。
    ●大事件だからといって、外部からはわれわれの精神力に影響をもつことはなく、抒情詩の時代に生きたからといって、凡庸な作家はやはり一介の凡庸な作家にとどまるであろうと同じ理由で、社交界にあって危険なのは、人がそこにもちこむ社交的な気分であったからである。しかし、英雄時代の戦争であるからといって、まずい詩人を卓抜な詩人にすることはできなかったように、社交界もそれ自身では人を凡庸にすることはできなかったのだ。
    △大事件といえども私たちの精神力に外側から影響を与えることはなく、激動の時代に生きていても凡庸な作家はやはりまったく同じ凡庸な作家でありつづけるものだが、それとおなじ理由で、社交界において危険なのは、ただ私たちがそこに社交的な気分を持ちこむ場合だったからだ。しかし、英雄的戦争もくだらぬ詩人を崇高なものにすることはできないように、社交界それ自体が人を凡庸なものにする力を持っているわけではない。
    ○「全然お変わりになりませんねほんとに」とさらに言う、「あなたって不思議なかたね、いつも若くていらっしゃる。」こう言われては憂鬱になるほかない。この言い草は、こちらが外見はともかく実際に歳をとっているのでなければ意味をなさないからである。
    ●「お変わりになっていらっしゃらないのね。そうですよ」と彼女はいった、「あなたはふしぎなかたね、相変わらずお若くていらっしゃる」、この言いかたはひどく憂鬱だった、なぜなら、この言いかたは、われわれが、外見はともかくも、実際に年をとっていなくては、意味をなさないからであった。
    △「あなたの方は」と彼女はつづけた、「ちっともお変わりにならないのね。そうですとも」と彼女は言う、「いつまでもお若くていらっしゃるわ」。心の暗くなる表現である。というのも、外観はともあれ、これは私たちが実際に年をとったのでなければ意味のない表現だからだ。
    ○老いと死とに平然と立ち向かう人たちがいるが、それはその人たちが他の人たちよりも勇敢だからではなく、想像力に欠けているからだ。
    ●老齢は死とおなじ事情にあるということだ。ある人たちは、この二者に無関心で立ちむかうが、それは彼らの勇気がまさっているからではなくて、その想像力が劣っているからである。
    △人によってはこともなげに老いと死に立ち向かうが、それは彼らが他人より勇気があるからではなくて、想像力がないからだ。
    ○老いとは、あらゆる現実のなかで、われわれが人生において最も長いあいだ純粋に抽象的な概念をいだきつづける現実なのだ。
    ●―老齢、それは、おそらくあらゆる現実のなかで、われわれがそれの純粋に抽象的な概念をもっとも長く生活においてもちつづける現実であろう。
    △老いはすべての現実のなかでも、おそらく私たちが人生で最も長いあいだ純粋に抽象的な概念しか持っていないものだろう。
    ○その友人が私を変わっていないと断言したので、私は友人が自分自身も変わっていないと思っていることがわかった。
    ●友達自身は、私が変わっていないと私に言明した。そして私は、彼が自分で変わったと思っていないことを知った。
    △相手が「君も変わらないね」と言ったので、私は友人自身が自分も変わっていないと思っていることが分かった。
    ○個人の記憶は、その生涯ほどには長つづきしない。
    ●それというのも、個々の人間の記憶の持続は、その生涯の長さにもおよばなかったからである。
    △個人において、記憶はその生涯ほど長つづきしない。
    ○歳月はすぎ去ること、青春もいつしか老年となること、いかに揺るぎない財産や王位といえども崩壊すること、名声は束の間のものであること。
    ●歳月は過ぎさること、青春は老齢に変わること、いかなる堅固な富や王位もくずれさること、名声ははかなく消えることを知るばかりで、それはどうなるものでもない。
    △歳月が過ぎ去り、青春は老いやすく、びくともしない財産や王位も崩壊し、名声も移ろいゆくものである。
    ○ある種類の短所や長所は、それぞれの人間に結びついているというよりも、社会的観点から見た人生のそれぞれの瞬間に結びついていると考えるべきだろう。
    ●ある種の欠点も、ある種の長所も、それぞれの個人にむすびつけられるよりは、社会的見地からながめられたそのときそのとき生活の時期にむすびつけられるのである。
    △しかしある種の欠点や長所は、個々の人間に結びついているというよりも、社会的に見た一生のある時期に結びついている。
    ○夢がひとたび叶えられてしまうと、関心も覚えず見向きもしない親密さというこんな冴えない細くて薄っぺらなリボンにどうしてなり果ててしまうのか、なぜそこには夢の神秘や熱気や甘美をつくりあげていたものがなにひとつ見出せないのか、私にはとうてい理解できなかった。
    ●それらの夢もかなえられてみれば、彼らとの親密さが、どうしてこんな薄っぺらな色あせた一筋のリボンにすぎないのか、私にはとうてい理解できなかったし、いまやそのような親密さは、私には、無関心な、とるに足りないものであり、そのどこに私の夢を神秘化し、過熱化し、甘美化するものがあったかを、何一つ見出しえないのであった。
    △どうしてその夢の実現が、どうでもよいようなつまらない親密さというこの細く薄っぺらな色褪せたリボンになってしまうのか、私にはさっぱり理解できなかった。そこにはかつてその人たちの神秘や、熱や、優しさを作り上げていたものを、何ひとつ見出すことができないからだ。
    ○その人がなんであれ未来へつながるものを持っていないからだ。
    ●その人が未来になんのつながりもないからなのであった。
    △彼らがいっさい未来とのつながりを持っていないからだ。
    ○それぞれの人に分かち与えられている内心の時計の文字盤は、すべて同じ時刻に調整されているわけではない。
    △人それぞれに分配されている内心の時計はすべてが同じ時刻に調整されていないからだ。
    ●人間のそれぞれに分配されている内面の文字板は、すべてが同一の時刻をさすようにきめられていなくて、・・・
    ○その人たちの仕草や発言、その人たちの人生や本性、それらのつくる曲線を描きだし、そこから法則をひき出そうと試みるほうが、ずっと有益ではないか?
    ●彼らがやっていた身ぶり、彼らがしゃべっていた言葉、彼らの生活、彼らの性質、そうしたものの曲線を描き、そうしたものから法則をひきだそうと私が試みるほうが、もっと価値あることではなかったか?
    △彼らの仕草、彼らの口にする言葉、彼らの生活や本性など、そういったものの作る曲線を描き、そこから法則を引き出そうと試みる方がまさってはいないだろうか?
    ○友情のために費やされる精神昂揚の力は、いわば支えのない不安定なものであり、なにか特殊な友情を目指す以外に人をどこへも導かず、われわれを導くことができたはずの真実から免れるばかりである。
    ●精神昂揚のための力を友情に費やすのはいわばお門違であり、そのやりかたでは、なんの得るところもなくて終わる個人的友情を目ざすことになり、もともと精神昂揚のための力はわれわれを真実にみちびくものであるのに、その真実からそれてしまうことになる。
    △友情のなかで気持ちを高ぶらせて力を消費するというのは、一種の不安定な状態で何か特別な友情を目指しているのだが、そんなものがどこへも導くはずはなく、本来なら心の高揚は私たちを心理に向かわせることができるのに、その真理から遠ざかるばかりなのだ。
    ○なぜなら人はひとつの名前をつねに現在の意味で受けとるからである。
    ●なぜなら、人はつねに現在に即した意味をつけて名を解釈するからである。
    △なぜなら、人はかならず一つの名前を現在の意味でとらえるからだ。
    ○それは菓子屋の商標をむやみに信じる人たちが、いつまでも同じ店からプチ・フールを取り寄せ、その味が落ちていることに気づかないのと同じ。
    ●あたかも菓子屋のマークに迷信的にひきつけられている人々が、味のがた落ちになっていることに気がつかずに、おなじ店からプチ・フールをとりよせつづけていることがよくあるように。
    △ちょうど、ある菓子屋の商標を妄信した人びとが、ひどい味に変わっているのにも気づかず、いつまでも同じ店からプチフールを取りよせるように。
    ○ヴィクトル・ユゴーの詩
    幸福をもってお行き、嫌なことは私に残して
    ●幸福をもちされ、そして苦労を私に残せ
    △持ち去れ 幸福を、そしてわれに残せ 苦しみを。
    ○私がときどき人生の途次において、ゲルマントのほうやヴィルパリジ夫人と馬車で散歩したときに一瞬のひらめきで感じたもの、人生は生きるに値すると私に思わせたもの、それを実現したいと望むのなら、今こそ着手すべきである。
    ●私がこれまでの生涯にときどき感じたもの、ゲルマントのほうで、ヴィルパリジ夫人との馬車の散歩で、短い稲妻のひらめきのなかに感じたもの、人生を生きるに値するものと私に考えさせたもの、そういうものに到達しようと私が望むならば、いまこそ着手すべきである。
    △もしも、私が人生の過程で、たとえばゲルマントの方やヴィルパリジ夫人と馬車で散歩していた折りなどにときどきちらりと感じたもの、人生を生きるに価するかのように思わせたもの、そのようなものに到達したいと望むなら、今こそ始めるべきだ。
    ○その人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。私の書物は、コンブレ―のメガネ屋が客に差しだすレンズと同じく一種の拡大鏡にすぎず、私はその人たちに私の書物という自分自身を読むための手立てを提供しているにすぎない。
    ●私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレ―のめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。
    △私の考えでは、彼らは私の読者ではなくて、自分自身のことを読む読者だからだ。私の本は、コンブレ―の眼鏡屋がお客に差し出すような、一種の拡大鏡にすぎないのである。私の本、それによって私は彼らに、自分自身のことを読む手段を提供するだろう。
    ○自分の足の下にすでに遠く伸びているこの過去をなおも長いあいだわが身につなぎとめておく力が、私にまだ残されているとは思われない。
    ●すでにはるか遠くの下におりているあの過去を、そう長いあいだ自分につなぎとめるだけの力が、まだ先にあろうとも思われなかった。
    △もうこんなに遠くまで下っているこの過去を、そういつまでも自分につなぎとめておく力があろうとは思われない。
    ○プルーストはわれわれに、人間は自分自身の老いに気づかないことを教えてくれる。だれもが自分では「若いまま生きてきたものと想いこんで」いるから。
    ○あまり注目されていないプルーストの炯眼は、時の経過が人間や社会を変えてしまう真の要因としてむしろ「記憶」の役割を見抜いたことにある。

  • 前編を忘れてしまった。
    「私」と未だに健在であるフランソワーズは何歳なのかが気になる。
    約20年の時を経て再会した人の顔を見ても名前が分からず「変装」に見えるとは、如何に「私」が孤独な療養生活を送っていたかが想像されて悲しい。
    故人を語る人々の気儘さが存分に感じられた。
    サロンでは噂と陰口、そして自慢が永遠に大勢の間で交わされていく事だろう。
    訳者あとがきにあるように、執筆を決意するまでを描いた小説であり、同時に社交界や男女関係の変遷を追った小説だった。
    「私」は一体どのような小説を書き上げるのだろうか。

  • 足掛け何年もかかって、読み終わった!
    戦争始まって時が20年飛んだところは、不思議である…、何らかの批評を読みたい。

    しかし、プルーストが並走してくれる毎日はとても楽しかった! 毎日プルースト、いったん終わり。

  • pp.302-303
    「だから、もし私に自分の作品を完成させるために充分な時間を割くだけの力がなおも残されているのであれば、かならずや私は、その作品の人間を描くさい、たとえそれが人間を怪物に似せる結果になろうとも、なによりもまず人間を、空間のなかで人間に割り当てられたじつに狭い場所に比べれば、逆にきわめて広大な場所を時間のなかに占める存在として描くだろう。人間は、まるで歳月のなかに投げ込まれた巨人のように、さまざまな時期に同時に触れているのだから、そして人間が生きてきたさまざまなな時期はたがいに遠く離れており、そのあいだは多くの日々が配置されているのだから、人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだーー果てしない「時」のなかに。」 完

  • 「なんと多くの大聖堂が未完成のままになっていることか!」

    「なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。」


    "人生がそのまわりに休みなくさまざまな糸を織りなす" さまが、"古い庭のただの水道管が苔むしてまるでエメラルドの鞘で覆われているかのようである" なんて、そんな詩情が愛おしい。老いてゆくとは、夢のなかへとじこめられてゆくことなのかもしれない。
    療養期間を経て久々に訪れたサロンで、老いさらばえた社交人士たちをみて爆笑する「私」。最高な出だしの最終巻。これらの 老い を道化芝居だの仮装だのあやつり人形などと眺めるまなざしには、自虐のかおりもしてたいへん愉快。クエイ兄弟のアニメーションをみているようでとてもすき。
    そしてこの最終章で、なんども同じようなことをくりかえし語るさまは、まるで「私」じしんの耄碌した 老い そのものをあらわしているようで、哀愁と可笑しみが滲む。なんて半分冗談だけれど。
    狭い社交界でぐるぐるまわる恋と人間関係。けれどそれはまさに、"森のなかにおいてまるで異なる地点からやって来たさまざまな道が集まる「放射状(エトワール)」の交差点のようなもの" であり、しかるべき未来や過去へと収斂する道(あるいは円環のような道)をわたしたちは知らぬまに辿っていることのよう。
    そしてこの物語まさに、プルーストによる、"全面的に描きなおすべき世界の転写" だった。

    「また、子供のときから同じひとつの理念を追求していながら、怠け癖そのものに病弱までが加わって、たえず理念の実現を先延ばしにしては、毎日夜になると無駄に過ごしたその一日をなかったことにし、身体の老化を早める病気が精神の老化を遅らせている人は、それとは異なり自分の内面で生きることをせず、ただカレンダーに従って暮らし、日ごと積み重ねてきた歳月の総体を一挙に発見する事がない人と比べれば、自分がたえず「時」のなかを生きてきたことに気づくと、いっそう驚いて動転する。」
    これって、じぶんのことよね、プルースト?なんて散りばめられた自虐に笑いながらも自分を笑い、そして癒されてゆく。
    "調和のとれた成長"があるいみ、精神生活における感覚を鈍らせている、なんてたしかに皮肉だけれど、そんなことにも気がつかずに楽しく毎日を過ごす(そりゃ悲しいこともあるだろうけれど)ひとたちを長いこと羨んできたけれど、この「失われた時を求めて」によってどれだけその靄が晴れて、人生をうけとめることができるようになったことだろう。
    他者との交流を好んであまりしてこなかったわたしは、"神秘の糸"でより合わされた糸はまだ細く、"思い出の網目" も粗く少ないけれど、とりだしてみて眺めると、悔恨と恣意とすこしの愛がきらめき、それはそれで美しいものかもしれない。

    さいごの数頁は、世紀の大発明家のような焦燥と歓喜だったけれど、この14巻をとおしてわたしも、じぶんじしんと世界を発見したのだ。
    最後の一行のあとようやく浮かびあがる表題。
    「失われた時を求めて」。
    そう記された扉をあけ、わたしたちはその城(世界)を探訪し、わたしたちじしんの "ほんとうの" 人生のなかを歩み、散らばる記憶と「時」で描かれた見取り図を、いつかひろげてよみ解くのだ。
    そしてあなたの「本」は、100年後だってまだきっと、その光を放っていることだろう。
    ほんとうにすてきな時を、
    「ありがとう、プルースト」。



    「まるで人生は、どれほど異なる図柄を織りなそうとしても、限られた数の糸しか所持していないかのようである。」

    「この「時」は、ふだんは目にとまらないが、目に見えるようになるための肉体をもとめていて、そんな肉体に出会えばどんな場所でもそれを捉え、その肉体のうえに時間の幻灯を映し出すのだ。」

    「老いとは、あらゆる現実のなかで、われわれが人生において最も長いあいだ純粋に抽象的な概念をいだきつづける現実なのだ。」

    「人はものごとに到達するとイメージの美に瞠目することはなくなり、ものごとを通過したときにはじめて概念の美を悟るのである。」

    「歳月はすぎ去ること、青春もいつしか老年となること、いかに揺るぎない財産や王位といえども崩壊すること、名声は束の間であること、これをわれわれがいくら承知していようと、「時」に駆り立てられて移ろいゆく世界を認識し、それをいわばネガフィルムに撮るわれわれの方法が、逆にこの世界を動かぬものにしてしまうのだり」

    「心のいっそう深いところから発する無私無欲の関心は、記憶を多様化する。それゆえ詩人は、人から憶えているかと訊ねられるような事実はすっかり忘れているのに、はかなく消えゆく印象はしっかりと憶えている。」

    「自分が生きていることを喜ぶためにこのような死を必要としない人たちも、人の死をありがたく思った。なぜならどのような死も、他人にとっては生活を簡単にしてくれ、その人に謝意を表明しなければならない気遣いや、その人を訪問しなければならない義務をとりのぞいてくれるからである。」

    「これから何年にもわたり、あらゆる深い洞察を排除する社交上のつき合いという不毛な楽しみのために、その人たちの口にすることばの残響が消えるか消えないかのうちに、その残響に私のことばというこれまた空しい響きを重ねて、幾多の夜を無駄にすごしたところで、なんの役に立つのだろう?」

    「四分の一は演者の創作、四分の一は狂気、四分の一は無意味、残りはラ・フォンテーヌのものでしょう」

    「人生からすばらしい役柄を頻繁に与えられなかったからではなく、オデットがすばらしい役柄を演じるすべを知らなかったからである。」

    「サン=トゥーヴェルトの名前と赤いフクシアのような絹地に示された帝政様式とが花咲いたこの揺りかごのなかで、婦人があやしていたのは「時」だったのである。」

    「やがて私は、退散してゆく記憶がその自我まで持ち去るのを感じた。」

  • ほんの”一世代”で社会はすっかり変わってしまうことを、社交界を舞台に暴露する。
    ”永続化”なんて詭弁だ、ということが身震いするように迫ってきた。

    「私の書物は、コンブレーのメガネ屋が客に差し出すレンズと同じく一種の拡大鏡にすぎず、私はその人たちに私の書物という自分自身を読むための手立てを提供しているにすぎないからだ。」ーーまさしくこの一文そのものの経験を私はした。

    時を描く。この途方もない作品を読み終え、なんとすごいものに触れていたのか、私はおののく。とともに、生まれてきて、生き抜いてきて良かったと思う。自分の人生をかみしめられる、生きていてきた時をかみしめられる。そんな瞬間がこれまであっただろうか。この作品は、読む者が読む度に「生」の本質に触れられる、枯れることのない泉だ。

    この作品をすぐれた日本語で読めるものとしてくださった吉川一義先生に感謝しかない。

  • 岩波文庫吉川一義先生訳読了。大団円。

    どこからでも、何回でも読める稀有な小説。
    好きすぎる。

    光文社古典新訳文庫高遠弘美先生訳と並行して読んでた日々もありましたが、こちらが先にゴール。

  • 岩波文庫版の最終巻。
    とうとう完結した……長かった……(古典新訳文庫版は止まっているようだが)。全部追いかけた読者のひとりとしては、妙な達成感があるw
    それにしても、これだけ長い小説を、ワープロも無い時代に書いたプルーストって、考えてみれば凄いよなぁ。

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著者プロフィール

 1948年生まれ。1977年、パリ第4大学文学博士、東京大学大学院博士課程満期退学。東京都立大学教授を経て、京都大学大学院文学研究科教授。専門は近現代フランス文学。

 主要業績:『プルースト美術館』(筑摩書房、1998年)、Index gnral de la Correspondance de Marcel Proust(共編、京都大学学術出版会、1998年)、『ディコ仏和辞典』(共著、白水社、2003年)、『プルーストと絵画』(岩波書店、2008年)、Proust et l’art pictural(Champion, 2010)など。

「2010年 『文学作品が生まれるとき』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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