- Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003770016
作品紹介・あらすじ
絵葉書に冗談で書いた文章が、前途有望な青年の人生を狂わせる。十数年後、男は復讐をもくろむが…。愛の悲喜劇を軸にして四人の男女の独白が重層的に綾をなす、クンデラ文学の頂点。作家自らが全面的に手直ししたフランス語決定版からの新訳。一九六七年刊。
感想・レビュー・書評
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プラハの春(1968年)より前の1965年脱稿の作品。「存在の耐えられない軽さ」に続いてクンデラ作品を読んでみた。
身も蓋もない要約をすると、
自分の不用意な手紙がもとで共産党から除名された男が、数年後に、処分の判断をした委員長の妻を復讐のために寝取ったが、委員長はもっと若い愛人とよろしくやっていて復習は空振りに終わりました、
というお話。
ヒロイン的なルツィエさんの過去が突然明かされる場面は衝撃が大きいが本人の内面は殆ど明かされることはない。
終盤に登場するエレナの助手の青年の薬の話(鎮静剤と見せかけて実は下剤で、エレナはそれを知らずに大量服用する)は、全体の暗い色調の中で最も喜劇的な場面だった。
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抒情的な青春時代。
小さな1つの冗談によって大学から追放されてしまったルドヴィグは、復讐のために生きていく。
全ての冗談が真面目に受け取られる世界、共産主義体制下のチェコで、クンデラと主人公の青春時代が重ねられる。
青春はクンデラにとって
自分のことしか見えなくて、それでもそれが愛だと思う、初々しく未熟な時期らしい。
青春と愛、憎しみと赦し、復讐。
復讐の虚しさ、盲目的な人生の空虚さ
クンデラ作品でも結構好きだな -
自分が心血を注いできたことが誤りだった、または駄目になったのだということに直面していく登場人物たちの失望。また、自分を保つために他者を利用することの醜さ、利用されることの悲惨。とてもつらい。
最終章で主人公はひとつの解を提示するけれど、ああいう風に世界をとらえられるほど達観できない。かといって、個人でどうにかするための道も思いつかない。途方に暮れた。 -
「存在の耐えられない軽さ」より読みやすいかな。
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恋人への一通の絵葉書に宛てた冗談に狂わせられた人生について時代(世代か?)の価値に翻弄されながら、時にはかつて愛した女性への自身のノスタルジアから翻弄され、時には自分を追い込んだ相手への復讐を選ぶ主人公ルドーヴィク。
愛した女性ルツィエについては実体性や物質性、具体性を失って伝説や神話に自分の中で変わっていくからこそ忘れられない程の痛み、そして自身の鏡となっていることに気付く。
自信を狂わせたゼマーネクについては、彼への復讐へとその妻と不義理を交わしたが、目の前に現れたゼマーネクは既に年若い女性と密な仲になっており、復讐は果たせない。そんな中ルードヴィクは二重に間違った信念として信じた罪に対する贖罪は時代により忘れられその課題を代行するのは忘却であることを悟る。
最終章では生まれ故郷に戻って翻弄から逃れた彼の姿があり、人間の想いとは翻弄から逃れる事が自身のためであるのだとも取れ、何か仏教に通じる無我か、レッセフェール的ななすに任せよの哲学性をこの東欧小説から感じた。
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ミラン・クンデラ。学生時代、存在の耐えられない軽さが映画化されましたが、初の長編小説がこのようなものだったとは。知らなかった。登場人物の独白が、緊密に綾をなし、第7部のクライマックスに向けて螺旋状で、かつ拡散するこの世界及び人間実存の描写が最高です。感動しました。
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若き主人公の情熱、裏切り、挫折、哀愁そしてゆるし……あらゆる描写が素晴らしいですね。私もこの本はほんとに感激しました。また再読してみたくなり...若き主人公の情熱、裏切り、挫折、哀愁そしてゆるし……あらゆる描写が素晴らしいですね。私もこの本はほんとに感激しました。また再読してみたくなりました~♪2017/04/13
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クンデラさんはこれで二冊目だけど、言いたいことは『存在の耐えられない軽さ』と同じ、かも、し、れな、い。個人的に、コストカさんの叫びで泣きました。また『存在の~』と同じく、直線としての時間を肌で感じる作品。そして円環としての幸せも。
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著者が37歳のときに書いた長編小説。
発表当時はソビエトと社会主義の暴露小説? のような読み方をされていたらしい(巻末解説による)。そういった読み方はやはり時代性の影響が強いようで、今になってみると暴露小説として読む方が無理があるのではないか、と感じる。どうも西側(当時)で行われた翻訳にも問題があったようで、クンデラは後に改訂版を刊行している。
読んでいて思い出したのは倉橋由美子の短篇、『パルタイ』。『パルタイ』で描かれていた行為もやけに冗談じみていたが、本作で描かれているものもやはり『冗談』じみている。というか、この長篇小説自体が悪い『冗談』なのではないか……という読み方をしたくなる1冊。 -
記録
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外国文学は、なぜか主語と述語のオンパレードという印象を受ける。
登場人物の心の動きや、場面の説明等が少なく、残念ながらあまり心に残るものはなかった。 -
・ミラン・クンデラ氏の作品は面白い。
・タイトルが「冗談}なのは? -
4.09/304
内容(「BOOK」データベースより)
『絵葉書に冗談で書いた文章が、前途有望な青年の人生を狂わせる。十数年後、男は復讐をもくろむが…。愛の悲喜劇を軸にして四人の男女の独白が重層的に綾をなす、クンデラ文学の頂点。作家自らが全面的に手直ししたフランス語決定版からの新訳。一九六七年刊。』
原書名:『Žert』(英語版『The Joke』)
著者:ミラン・クンデラ (Milan Kundera)
訳者:西永 良成
出版社 : 岩波書店
文庫 : 544ページ
メモ:
・20世紀の100冊(Le Monde)「Le Monde's 100 Books of the Century」 -
ミラン・クンデラの初の長編作品である本作。冒頭、故郷の街に降り立ったルドヴィークの目的も過去もまったく見せずに始まるこの物語は、語り手を替え時代を行き来しながら展開し、少しずつ彼と彼に関わる人々の背景や生き様を明らかにしていく。まずこの構成に引き込まれて、一気に読んだ。
1949年、前年の二月事件によりソ連型共産主義政権が樹立したばかりのチェコスロバキアで、党を支持する学生の一人として時流に乗りながらも、ごく普通の若者らしく恋に懊悩していたルドヴィーク。彼が離れた場所で過ごす恋人の楽しそうな様子をやっかんで書き送ったほんの「冗談」のつもりの葉書が、党、そして大学から彼を追放するに至る運命の転換を招く。15年後、辛い炭坑労働を経て研究者として生活を立て直した彼は、この事件の背後にいた恋のライバルへの復讐を胸に故郷へと戻ってきたのだった――。
語り手となるのは、ルドヴィークのほか、彼の現在の恋の相手であるヘレナ、故郷の街に住む幼馴染のヤロスラフ、ルドヴィークと同じく党ににらまれているキリスト教的共産主義者のコストカ。ルドヴィークの復讐に一役演じるヘレナは別として、ヤロスラフとコストカは彼の過去とも関わる人物であり、また、彼ら自身、一人の人間としての弱さ、主観的な正義にとらわれながら懸命に生きている男たちでもある。
「冗談」が冗談として通じない世界、そんな世界の不正義を憎み、自らを陥れた友人とその声に和した仲間たちを憎んだルドヴィークは、復讐計画の思いもよらない展開と、炭坑時代の真剣な恋の相手・ルツィエをめぐる真実を知ったことで、この世界そのものによる「冗談」の中に自分が含まれているのだ、と不意に気づく。世界=歴史には理性や真理などない。人も、行為も、いずれ忘却され、時の中に消えていく。意図や思想による差別化のない忘却、大きな「冗談」としての無意味な世界=歴史の中では、個人のちっぽけな人生も無意味で、過去への憎悪も、復讐も、恋の思い出でさえ、何とも軽く、空しいものでしかない。
モラヴィアの民俗芸能の伝承に心を注いでいるヤロスラフ、自らの熱意の正当性に自負を持ち、一番近しい存在である息子もその熱意を引き継いでくれるものと信じている彼も、準備を重ねた祝典行事の場で、彼の目に見えていた世界とは全く異なる真実を知る。共産主義とキリスト教徒としての信仰の重なりに揺るぎない信念を持つコストカも、独白の果てに信仰を口実として利用している自分自身に気づき、激しく動揺する。
裏切者への憎悪。真剣な恋。伝えていくべき民族の文化。仕事や愛より優先すべき神の声。すべては「冗談」のごとき幻影であり、止まることのない流れに運び去さられ、忘れ去られるだけのものだとしても。そんな感情、熱意、信仰を抱き、あるいは放擲し、そしてまた愚かしく立ち戻る、無意味で空しい人間一人一人の人生は、無意味さ・空しさと共にあってなお、たくましく、まばゆく、愛おしい。
個人的にとても好きな、クンデラの、シニカルなようでいて根底に人生や生命に対する愛を感じる眼差し。そんな彼らしい個性が、初長編作品のこの作品でも存分に発揮されていた。後の作品に繋がるテーマも随所で顔を覗かせていて、その点も興味深かった。
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存在の耐えられない軽さよりも政治的な小説である。ソルジェニーツィンの収容所群島とおなじような小説である。フランス語の作者の手直しを翻訳したものであり、かなり厚い本であった。チェコでの個人の冗談の手紙がどのように政治的に判断されたか、ということが、大西の神聖喜劇に通じ、日本も同じ歴史を辿ってきたことが感じられよう。
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ミラン・クンデラの1番有名な作品であるこちらの「冗談」。主人公・ルドヴィークの人生史(サーガ)なんですが、これはおもしろいのかな❓
サーガの作品は、うちの母親が愛読しているジェフリーアーチャー氏の作品の方がおもしろいと思う。オチもようわからんし。サーガって、生まれて死ぬまでを描くんじゃないの❓芸術とか資本主義社会主義とかそういうのが主な内容となってるので、華やかさもないし分かりづらい。
ジェフリーアーチャー氏の作品のサーガは、どの作品も主人公の生誕から死までを描いてるのもいいし、なにより分かりやすくて読みやすい。おもしろいサーガをお探しの方はぜひジェフリーアーチャー氏の作品を読んでみてください。まあでも「冗談」が読みづらいのは、1967年の作品だからかな❓訳してるのもその時代だから分かりづらい言葉とか使ってるのかな❓
・中央ヨーロッパが生んだ20世紀文学の傑作
・今世紀(20世紀)最大の一つ
・クンデラ文学の頂点
って紹介されてるけど、ゆうて20世紀だからね。
今、21世紀なのね。過去の栄光よね。21世紀文学の傑作は、個人的にはアガサクリスティーの「春にして君を離れ」を推します。(1944年に発表されてるから、まだ20世紀やないかい‼️‼️)
おあとがよろしいようで。 -
自分が全く予期していなかったことがきっかけとなって、自分の人生が思いもよらなかった過酷な流れに巻き込まれていってしまう。そして、そんな自分の運命を左右したものに復讐を遂げようとするのだが、運命はそんな思いをあざ笑うかのように「お前にそんな復讐などできはしないのだ」ということを思い知らせる。
人生とは何か。小説というものは、そんな誰にも答えることができないことについて、「答えのようなもの」を提供してくれる。 -
共産主義の成れの果て。
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こんなに面白い作品を書ける人がいるのだなと思った、自分が何億年かかっても書けないような作品だった。クンデラの持つ言語感覚や哲学感覚は、日本人の私からするとかなり斜めからの視点に感じて、「冗談」や「笑い」「不滅」「忘却」そこを切り取るのだなととても面白いです。本当に運命がどんどん引き返せないほど残酷に自分にのしかかる瞬間、、、
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50年も前に書かれた小説ではありますが、時代背景を度外視して単なる小説として味わってもとても面白い、このような書き方をする現代の作家もいるけれど、この人の模倣なのだと思うとずいぶんと陳腐に思えてしまう。結局のところ不毛な行動をとる人たちが何人も出てくるのだがそれぞれがなんというかいとおしい感じがする。「存在の〜」よりも前に書かれた小説なのだと知ってあらためてすごい作家なのだなと思った。
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文学
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文句なしの面白さ。ただ情けないのが、すごく気に入った名フレーズがあったのだが、忘れてしまった。。。
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【仕事】ズルさのすすめ/佐藤 優/20150909(97/381)<210/21933>
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複雑な人間関係だった。読むのにも凄く時間がかかったし…内容は難しい部分と滑稽さが混じっていたかな。
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・ミラン・クンデラ「冗談」(岩波 文庫)は 「作家自らが全面的に手直しした決定版を定本とした新訳。」であるといふ。これは販売用のコピーなのだらうが、ごく素直に読めば、クンデラのチェコ語原典版からの翻訳と解せる。ところがさうではないのである。訳者解説中にかうある、「〈プラハの春〉も〈ビロード革命〉ももはや遠い過去になった二一世紀の現在、もっぱら一個の古典的文学作品として読まれることを願う岩波文庫のこの新訳は、原著者の強い要望に沿って、八五年のフランス語決定訳を収めた二〇一一 年刊行、フランソワ・リカール監修のプレイヤード版を定本としている。」(525頁)だから決定版で旧訳とは違ふのだといふわけである。では、なぜクンデラはチェコ語版を差し置いてこんなフランス語版を作つたのか。大きな誤解があつたことにクンデラが気づいたからである。西欧では「冗談」が「ソ連を中心と する社会主義諸国の社会の実態を暴露し、糾弾する政治・イデオロギー的文書として読まれ」てをり、その文脈で訳もなされてゐた。つまり、それまでの訳は誤 解と誤読の上に成り立つた訳文であつた。これを知つて「衝撃を受けたクンデラは」(524頁)決定訳を求めたのであつた。
・わざわざこんなことを書くのは、さう読んだ方が安直で手つ取り早くて分かり易いと私も思ふからである。「冗談」の初版刊行は'67年であ る。この翌年はプラハの春であり、それがソ連の戦車で蹂躙された年である。東西冷戦の真つ只中である。従つて、このやうな内容の作品が出てくれば、西側の 人間は「政治・イデオロギー的文書として読」みたくならうといふものである。現在でも事情はさう変はらないやうな気がする。ソ連邦は消滅しても中共の支配する中国はあるし、その隣には北朝鮮もある。かういふ国を横目に見てこの「冗談」を読む時、初めのあたりの党に関する記述が妙に生々しく感じられる。私自身は共産党と関係したことは一切ないが、かつて読んだ学生運動等に関する小説に描かれた内容とも重なつて感じられるのである。誤解かもしれないし、私の偏見かもしれない。クンデラにはきつと忌み嫌はれるであらう。しかし、さう読んでしまつた方がどれほど分かり易いことか。またある意味、安心できることか。 時の西欧の人々も同じであつたのかもしをれない。ところがさうではないらしい。当時のチェコでは「人間の実存の小説」(523頁)などと「すこぶる真っ当な文学的受容がなされ」(同前)てゐたといふ。さうか、実存なんだと思ふ。大江健三郎などはそれを正しく理解してゐた(524頁)らしいが、これは類は友 を呼ぶといふことであらう。その点、私はそこに入らないわけで、今に至つてもまだ先の誤読をしたがつてゐる。3日間か4日間の出来事の間に、主人公が己が人生と女性を思ふ……それは確かに「実存」といふことであるのかもしれない。サルトルの「戦後史の実存的経験、ヨーロッパ左翼の神話の崩壊という主題」 (526頁)といふ言ひ方はまだ分かり易い。「存在の耐えられない軽さ」などはこの例であらう。つまり、やはりこれは「政治・イデオロギー的文書として 読」むしかないのではないかと私は思ふ。ルドヴィークの人生は党なくしてありえない。党員になつてしまつたからには、たとへ反党活動で除名されようとも、 党から逃れることはできない。それが共産主義国家といふものであり、そこに生きる主人公ルドヴィークの人生なのである。そんな人生に重きを置いて読んで理解するかどうか、これが分かれ目なのであらう。それなりにおもしろい作品なのだが、私には岩波書店の望む読み方はできないのであつた。