クオーレ (岩波文庫 赤 N 704-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (499ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003770078

作品紹介・あらすじ

ジェノバの少年マルコが母親を捜して遠くアンデスの麓の町まで旅する「母をたずねて三千里」の原作を収録。どこの国でも、いつの時代でも変わらない親子の愛や家族の絆、あるいは博愛の精神を、心あたたまる筆致で描く、デ・アミーチス(1846―1908)の代表作。世界中の人びとに愛読されつづけてきたイタリア文学の古典的名作の新訳。改版

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  • 「ぼくがいく、アメリカへ、かあさんをさがしに」マルコ13歳、名作アニメ『母をたずねて三千里』の原作を収録。

    小学3年の少年が1学年の学校生活を記した日記をベースに、愛国心や博愛などについて説いた児童向けの読み物、という体裁。新学期の10月から翌年7月まで正味9ヶ月間の物語のなかに、教訓的かつ心温まる?両親からのメッセージや、毎月1話ずつ先生からの紹介として「今月のお話」などが挿入される。

    徹底した「愛」の精神、ハートフルな世界観。学校ものらしく個性的な先生や児童の面々とぶつかり合いながら、家庭では親子の絆を深めつつ、10歳の少年が成長していくという流れ。また一方で、当時のイタリアの生活における貧困や病気、戦争などといった背景にあるものも透けて見える。

    素晴らしい愛の物語、といえばその通りだが、読み終えてどうも釈然としない感じが残るのは、やはりあまりにも「愛と善意」の押し付けが過ぎるせいだろう。愛国心に関しては特にだが、感動をあおる美談というのは一歩間違うと洗脳につながる危うさがあるのではないか。全体的に今の時代にはそぐわない感覚が強く感じられる。とにかく端的にいえば「説教くさい」のだ。とはいえ、もちろん本質をちゃんと見極めれば、本書から学ぶものは多い。

    「今月のお話」として毎月1話紹介される短編の感動エピソード。アニメで有名な『母をたずねて三千里』(本来は“アペニン山脈からアンデス山脈まで”というタイトル)はその中の一つ。別格に長く中編に近い作品になっているこのお話は、本作中の白眉であり、これだけで本書全体の価値を高めているといえる。アニメ版は概要を知っているだけでほとんど見ていないため比較はできないが、とにかく夢中で読んだとだけ言っておこう。

    美談の寄せ集めともいえる本作。素直に心洗われるか、説教くささに鼻をつまむかは読者しだいだ。

  • 昭和生まれ世代にはお馴染みのアニメ『母をたずねて三千里』の元ネタである物語が収録されているのが本作。少し前に『ウンベルト・エーコの文体練習』で「フランティ礼賛」を読んで興味が沸いていたところ、ちょうど岩波文庫から新刊(新潮文庫版の復刻?)が出たのでこれを機に。

    主人公の名前はクオーレではなくエンリーコ(クオーレは「心」の意味)3年生の男の子だが、イタリアの学校制度がよくわからないので、学年や年齢については少々混乱。3年生というので9才くらいをイメージしてたのだけど、解説によるとエンリーコは11才らしい。それにしてはちょっと幼稚な子のような…。ちなみに同級生のガッローネは病気で2年遅れたので14才と書いてあるのだけど、「あんなにからだが大きいのに、まだ四年生」云々という記述もあり、じゃあクラスメートじゃないのか?でも同じ教室にずっといるよな等、よくわからないことが多かった。

    まあそれはさておき、イタリアでは10月下旬から新学期が始まり、翌年7月上旬までが1年、その間の3か月はバカンスらしい(羨ましい)物語は一応エンリーコの日記の体裁をとっており(しかしたまに父母のみならず姉まで乱入してきて説教書き込みをしてくる、怖い…)10月から7月まで月ごとに担任の先生の「今月のお話」が挿入されている。「母をたずねて三千里」の元ネタである「アペニン山脈からアンデス山脈まで」は5月の挿話。他の月の話は数ページだが、これだけは50頁以上ある長編となっている。

    とはいえ、イタリアのジェノヴァからアルゼンチンのブエノスアイレス、ロサリオ、コルドバ、トゥクマンと転々としていくマルコの旅はダイジェストのようにしか記述されないし、当然アメデオもフィオリーナも登場しない。アルゼンチンに出稼ぎにいったきり連絡がとれなくなったお母さんを探してマルコが転々と旅をし(目的地に着くと母はすでに移動しているの繰り返し)最後にようやく再会するという筋書きだけベースに、アニメは具体的なエピソードやキャラクターを加えて相当膨らませてあったんですね。アニメを見ていた当時はイタリアもアルゼンチンもわからない子供だったけど、今思うとイタリアからアルゼンチンに出稼ぎにいくってどういう状況なのかよくわからない。アニメは大好きだったけどこの原作にはとくに感銘は受けなかったです。アニメでは9才だったマルコも原作は13才だし。

    閑話休題、本編に戻ります。実は100頁くらい読んですっかり気持ち悪くなり、これがあと400頁も続くのかと思うとゲンナリするほど苦痛な読書でした。それもこれも私がドブみたいに心の汚れきった大人だからだと思うのですが、全体的に、道徳の教科書を読まされてるみたいな内容なんですよ。エンリーコ少年と彼の尊敬する学友たちは清く正しく美しく、先生を敬い両親を敬い、クラスメートを親の職業で差別せず、イジメには毅然と立ち向かい、障害のある子を庇い、貧乏な子には施しをし、感謝され、いじめっこの悪たれ坊主(※ウンベルト・エーコが礼賛したフランティ)は追放され少年院に放り込まれる。

    ひとつひとつのエピソードは良い話なのかもしれないけど、この善意の波状攻撃、善行の押し売り、愛国少年の感動ポルノ、が延々と500頁も続いたらいい加減吐き気がしてきます。挿話に顕著なのは愛国主義、軍隊賛美で、まあ130年前に書かれたという時代背景を考慮したら多少は仕方ないかもとは思うものの、なんというかどのエピソードも、子供が読んで楽しいかどうかではなく、大人がこうあってほしい子供の姿を強要しているようで、正しいことしか言ってないのに、良い子はこうあるべきですよという洗脳みたいに思えてきて、どんどん気持ち悪さが募ってくる。

    ヘドロのように真っ黒な心の私が読むからそのように感じるのであって、ピュアな子供が素直に共感するには悪くない本なのかもしれないけれど、ではもし自分に子供がいたらこれを読ませたいかというとやっぱり読ませたくないというか、エンリーコみたいな量産型「良い子」になってほしいとはとても思えない。

    あまりにも気持ち悪かったので、ウンベルト・エーコの「フランティ礼賛」を読み直し、エーコがエンリーコ父子をくそみそに貶しているのを読んでようやく少し気分が回復。解説によるとやはりこの作品に対してエーコ以外からも一定の批判はあるらしいので、私の心がヘドロなだけじゃなかった、と少し安心。

    以下、長くなるけれど具体的なエピソードをひとつ紹介させてください。

    エンリーコのクラスメートに鍛冶屋の息子プレコッシという子がいます。この子は飲んだくれで働かない父親から暴力をふるわれており、いつも傷だらけ。そんな「かわいそうなプレコッシ!」をエンリーコは家に遊びにくるよう誘います。「そうすれば、いっしょにおやつを食べたり、本をあげたり」できるし、「それからポケットいっぱいに、くだものをつめこんであげ」たりもできる。なぜなら「一回くらい、かわいそうなプレコッシのうれしそうにする顔を見てみたい」から。なんて優しいエンリーコ!!

    その後プレコッシが優秀な生徒に授けられるメダルを貰うことになり、彼のDV親父はそれを見て感動のあまり息子を抱きしめ改心します。再びプレコッシを自宅に招くエンリーコ。オモチャの汽車で一緒に遊ぶと、プレコッシはその汽車をとても気に入った様子。DV被害者で、サイズの合わない服を着て痩せこけた貧乏人の子供プレコッシを憐れんだ心優しいエンリーコ少年は「この子になら、おもちゃも本も、ぼくがもっているもの全部、その足もとにぶちまけてもいい、この子に服を着せてあげるためなら、自分の服を脱いでもいい」 「せめて、この汽車だけでもあげたいな」と考えます。

    そんなエンリーコに彼の父親はそっとメモを渡します。そのメモにはこう書かれていました。「プレコッシは、きみの汽車が気に入ったらしい。あの子には、おもちゃもないんだ。それでもきみはなんとも思わないのかい?」これを読んだエンリーコはプレコッシに汽車をプレゼントして感謝されます。なんて優しくて良い子なんでしょう!!

    ・・・つまり万事この調子なんですよ。エンリーコの同級生には親の仕事を手伝って働きながら学校へ来ている子もたくさんいますが、エンリーコ自身は比較的裕福な家の子なので自分で働いて家計を支える必要はないし、別荘もある。親切な彼と彼の両親は貧乏人には必ず施しをする、それはもちろん善行だけれど、なんだろう、結局どこかで相手を見下しているというか、善行に自己陶酔しているというか、ものすごい「上から目線」を感じてしまうんですよね。

    エンリーコの父親が、エンリーコと仲の良いガッローネとの友情について、40年後ガッローネが煤だらけの機関士になっていてエンリーコが上院議員になっていたとしても、息子よ、友達と再会したら声をかけなくてはいけないよ的なことを述懐する場面がありますが、ウンベルト・エーコは「フランティ礼賛」の中でこの父親をこきおろしています。つまりこの父親は、息子エンリーコが煤だらけの機関士になっていて、ガッローネが上院議員になっているかもしれない未来については考えてもみないのだと。ほんそれ。

    130年読み継がれてきたということは、やっぱり児童文学としてそれなりに名作なのかもしれないけれど、私にとってはもはや新種のディストピア小説のようでした。解説によるとイタリア同時代の同じく児童文学の名作『ピノッキオ』と『クオーレ』は比較されることも多いそうですが、偽善が服を着て歩いているような人間味のないエンリーコ少年より、木で出来た人形でもずっと人間らしいピノッキオのほうが私は圧倒的に魅力的だと思います。ピノッキオは最終的に人間の子供にしてもらえたけど、人間の子供として生まれたエンリーコは、なんだか人間ばなれしていて嫌悪しか感じなかった・・・。

    • 淳水堂さん
      こんにちは〜

      〉イタリアからアルゼンチンに出稼ぎにいく
      私無もよく分からんのですが、
      イタリア統一戦争(映画「山猫」の時代)のあと...
      こんにちは〜

      〉イタリアからアルゼンチンに出稼ぎにいく
      私無もよく分からんのですが、
      イタリア統一戦争(映画「山猫」の時代)のあと、
      戦争や産業革命?か何かの影響で、イタリアは経済不安仕事不足、アルゼンチンは経済大国だったようです。そこでヨーロッパから大量の移民が渡りました。確かマルコの母は裕福移民のイタリア人の家にメイドに入ったんですよね。
      イタリア移民の子孫たちによりアルゼンチンタンゴが発祥したり。現在の著名人にもイタリア系アルゼンチン人多いですよね。
      ミュージカル「エビータ」(母を訪ねての時代からは50年くらい後)で、「あれほど栄えていたアルゼンチンがなんてことだ」とかいう台詞(歌詞)があったから、アルゼンチンは一時期かなりブイブイ言ってたけれど、そのあと経済が落ちてしまうんでしょうね。 

      「クオレ」は児童書で読んだのと、昔アニメでまみましたが(NHKだったかな)、原作ではかなり押し付毛正義なんですね(^_^;)。
      なおアニメでは不良くんは改心して、最後みんな仲良しになってました。
      ラストは、主人公一家は破産して引越しでしたよね。押し付け正義一家が貧乏暮らしに慣れるんですかね…
      2019/07/29
    • yamaitsuさん

      淳水堂さん、こんにちは~(^^)/

      なるほど、イタリアからアルゼンチンに出稼ぎというのはそういう時代背景があったんですね。「エビー...

      淳水堂さん、こんにちは~(^^)/

      なるほど、イタリアからアルゼンチンに出稼ぎというのはそういう時代背景があったんですね。「エビータ」タイトルだけでストーリーを全く知らなかったのですが、アルゼンチンの話だったのか~。勉強になりました。ありがとうございます!

      『クオーレ』の出版は1886年なので、たぶんイタリア統一、独立戦争からまだそれほど時間が経っておらず、戦争美談化の挿話が多いのはそのせいなのかもしれません。海外の小説を読むときはその国の歴史や時代背景をある程度把握しておかないとダメですね(^_^;)いつも事後になってしまう・・・。

      アニメ、私は見ていなかったですが、そんなラストだったんですね・・・。原作では普通に終業式の日に「お父さんの仕事の都合」で引っ越し&転校というだけでした。子供むけアニメの最終回で破産で引っ越しする主人公・・・ある意味すごい残酷な。アニメスタッフさんももしかして原作に不満があったのかと思ってしまいます。

      悪童フランティは原作ではまったく改心せず悪行の限りを尽くして退学、少年院いきで、むしろ作者にどういう意図があるのか謎なほどでした。これだけ道徳的エピソードを書き連ねるなら、不良が更生するエピソードもあって良いはずなのに、彼は救わないんだっていう。不思議。でもそんな改心しないフランティをウンベルト・エーコが礼賛する気持ち、とてもわかります。
      2019/07/30
  • どんな感じで母をたずねてがでてくるのかな?と思いながらよんでた。今月のお話として出てきた。
    小学生3年くらいのエンリーコたちにきかせるはなしとしては救いのないような話が多いような。あと、子どもにもおとなが精神的によりかかることを公にする文化なのかな?などと思いながら読みました。1886年から読み継がれてきたイタリアの古典。

  • イタリア・トリノの小学校。小3のエンリーコ少年の学校生活、その1年が描かれる、十月から七月まで、月ごとに1章で構成されている。
    にぎやかで喜怒哀楽豊かな子供たちとその家族の情景。毎日親たちは学校まで迎えに来るし、教室の中まで入ってくることもあり面白い。そういう情景や情愛深い人間模様を読んでいて ふと、映画『ニューシネマパラダイス』を想起する私であった。

    読み進めていてふと既視感のような思いを抱いた。…そう『君たちはどう生きるか』とちょっと似ている感じもあるのだ。おとうさん、おかあさんらの手紙が織り込まれる構成とか( 『君たち…』では叔父さん)、貧しい家庭で家業を手伝う級友の家を訪ねるエピソードとか。
    イタリアの本作は、1886年の刊。19世紀末の時代。( ちなみに『君たち…』は1937年刊 )イタリア統一から50年足らずで国家と国民意識の統合は途上だったらしく、先生による「 今月のお話」に“お国のために”というトーンのエピソードが目立つ。攻囲され全滅寸前の部隊を少年兵が命を賭して救うという話が美談として書かれていたり。( 『君たち…』はここまで露骨ではなく、世界や社会、そして文明・学問の進歩のために…という視点だった )
    後世そして現在『クオーレ』の評価について議論があるのはこの部分らしい。

    ・「今月の話」の一つが
    『母を訪ねて三千里 アペニン山脈からアンデス山脈まで 』。マルコ少年がジェノバから単身アルゼンチンへ。母の消息を訪ねて旅をする。

  • アニメの「母をたずねて三千里」を観て原作へ。
    イタリアの19世紀の児童文学。
    あとがきで知ったがピノキオとよく比較されるらしい。向こうは悪童、こっちは真面目。
    一本の小説ではなくて①中学生の男の子の体験②今月のお話③家族の忠告の三層構造(読めばわかる)。
    舞台となった19世紀後半のイタリアは統一国家になったばかり。労働環境劣悪、若年労働者は大人の1/5の賃金で15時間労働。作者は少年時代の苦い経験から自国を守れるよう愛国心を伝えたかった。
    「アペニン山脈からアンデス山脈まで」を「母をたずねて三千里」と翻訳したのは杉谷代水(国定教科書に影響与えた編集者)
    全部通しでは読めなかったが、今月のお話をパラパラ。どれも家族思いの良質な短編。その中の一つが「母を〜」。原作はサクサク旅立ち、道中孤独。父や兄の話は殆どなくてよく膨らませたなと感心した。でも真面目で一生懸命で、悪い人もいるけどいい人が助けてくれる、原作のエキスはそのままって感じで原作もアニメもとても良いものだと再確認。名作。

  • アミーチスの理想や愛国心より主人公のエンリコの日常生活による心理描写の方に惹かれてる
    その方がずっと好きだった

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/729164

    イタリアの古典的な児童文学書。
    『母を訪ねて三千里』の原作を収録。

  • こんなふうに純粋にいきていたのはいつのころだったか。そして、毎月の先生のお話がとても心に残る。

  • 小学校の国語の教科書に載っていた。内容は覚えていないが、表題が「クオレ」で作者はアミーチスだった。おもしろくて、図書室で借りてさらに読んだように思う。あらためて読むと、教訓色が強く当時の時代背景もあるが、献身が英雄となるのだというすり込み。想像力を引き出すというのとは異なるようだ。そこが、この頃は本棚にあまり並ばなくなった要因かもしれない。「母をたずねて三千里」の原作がここの挿話にあるとは知らなかった。2020.11.1

  • すごく教訓的。それが鼻につくという人もいるかもしれない。
    特に、「気の毒な人」という表現がとても気になる。
    今とは感覚が違うかもしれない。
    でも、悪い話ではないと思う。
    ただ、どうにもならないならずものの彼の事情がどうしても気になります。
    「母をたずねて三千里」は作中作だったのね。

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