- Amazon.co.jp ・本 (468ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003811023
感想・レビュー・書評
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悪い予感が的中した。端緒に於いてはすばらしい新しさがあった和辻哲郎の思想は、本書(岩波文庫版)第2巻の後半辺りから唐突に出てくる「公共性」概念が、本第3巻においては「全体性」へとすり替わってしまい、右翼的国家主義、全体主義を標榜するに至ってしまうのだ。
「国家は人倫的組織の人倫的組織である。」(P16)
「主権は人間存在の全体性の自覚である。」(P23)
「国家の力の根源は全体性の権威である。」(P26)
さらには教育勅語「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とか「皇運扶翼」を賞賛するに至っては、まさに「玉砕」へと向かう戦前戦時の終身の教科書そのものである。
和辻は当時の日本を擁護する余り、このような結論に至ったのであろうか。現在のネオ右翼(というのか?)はこういった本を絶賛するにちがいない。
どこでどう間違ったのだろう? 最初の着想の、個人は他者との「間柄」によって存在する、という規定は間違っていなかったと思う。しかし人の共同「態」によって形成された共同「体」が「全体」を持ったあたりから、おかしくなってくる。
このような<全体>とは、差異を抹殺することで形成されるものである。
なるほど、和辻の言うように国家のような<全体>は、統一的な「歴史」を共有することによって形成される。だからこそ、ネオ右翼は「歴史観」を押し出してくる。
ところが、「統一的な歴史」は、実にさまざまなものを<抹殺>することでしか成立しえない。
或る共同体の権力が、共同体の利益のために、誰か個人の自由を奪い、投獄するとする。そこでその個人が流した<涙>は、決して歴史には記述されまい。だが、和辻の原理、「個人は人と人との間柄である」からすれば、投獄されたその人の涙は、共同体の涙である、と見なければならない。共同体が流した<涙>を、しかし権力や「全体性」は抹殺するのである。
このような捨象される<涙>をすくいとるのが文学である。
サドのような反-社会をも理解するのが、文学である。
それらの個人的な涙や叫びが、実は社会=共同体の一面を表しているということを、文学は証明してきた。
和辻は最初文学に傾倒し、小説を書いたこともあったらしいが、文章力はともかく、このような<文学性>をまるで持っていないようだ。だから和辻の国家論は幼稚なのだ。
「共同体」が名指され、イデオロギーや行為の<まとまり>とみなされた時、それがゲシュタルトとして存在しはじめた時から、「全体」は部分(個人)を「すべて」包含した統計的集合とはことなった、異様ななにものかに転身してしまっている。「全体」は主権によって逸脱を切り捨て、まとめあげられた集団表象であり、共同幻想だ。
ほんとうの意味での共同態の「全体」は、決して語り尽くすことの出来ない、巨大な矛盾になるはずだ。
さらに言えば、「国家」はもはや人類学的な意味での「共同体」とは言えない。「共同体」と呼べるのはせいぜいtownまでであり、そこを超えればもはや<人間存在>は消失してしまう。と私は考える。
我々が作り出さなければならないのは、ミクロな差異を差異として承認しうる「倫理」である。和辻倫理学の間違いを徹底的に検証しなければならない。詳細をみるコメント0件をすべて表示