世界の共同主観的存在構造 (岩波文庫 青)

  • 岩波書店 (2017年11月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (560ページ) / ISBN・EAN: 9784003812419

みんなの感想まとめ

哲学的なテーマを深く掘り下げる本作は、主観と客観、身心問題、そして科学の捉え方についての問題認識を明確に示しています。著者の独自の認識論と存在論が展開され、特に「共同主観化」の構造に焦点を当て、個々の...

感想・レビュー・書評

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  • 猫と犬は我々と同盟を結んだ宇宙人であり、今、共生して先ずは地球の占領に成功した。その過程で、地図に線を引いて土地を開拓するグループを決め人間たちは労働を、犬と猫はそれを監視をする役割分担だ。

    例えばそんな風に倒錯した「物語」を家族や社会が信じ込み、生まれてくる子供に「教育」すれば、その子にとっては疑いようのない「事実」となる。〝固定的な教養と歴史、流動的な世俗“こそ、人類の認知を形成する拠り所だが、先のように、それをちょっと弄ってみると、全く異なる世界観の人格が誕生する。

    あまりに脆い。しかし、それが人類の正体であり、だからこそ我々は、歴史認識や教養、それらと世俗、コモンセンスを継承する家族や集団を重視するのだ。ある日、それらが奪われたなら。地球丸ごとアイデンティティが崩壊する。村田沙耶香の小説がこれに近い感じか。

    歴史は物語である。小説と何が違うのか。それはまるで否定不可能な事実として、知るたびに、好むと好まざるに関わらず、否応なく自我に更新されていく物語だからだ。あなたは連れ子である。その仄聞から、自我が変わるように。あなたを形作るのは、世界中に散逸された、あなた自身の歴史。エゴであり、アイデンティティ。

    知るたびに揺らぎ、副反応を示し、時に生理的嫌悪に葛藤しながら、やがてあなたはそれを受肉していく。この世界に用意された物語を発見するたび、あなたの肉体や正義感と突き合わせながら。

    さて、廣松渉だ。流石の論理展開、難解な語彙は読み手を選び、挑発するようで読みながら心底嬉しくなる。胸を借りる。

    ー 文明人と未開人とは、恰度諸民族が、大差のない生理機構をもちながらも、およそ相異なる言語体系をもつのと類比的に、いわゆる高等な意識はもとより、知覚の体系にいたるまで、およそ相異なった精神構造をもっている。

    それは土台となる教養と歴史が異なるからだ。知覚が異なるのは、蛇を知らない民族が、蛇っぽい木の枝を見ても驚かないのと同じ。あなたが実は北朝鮮人だと聞いた瞬間かまえてしまうのは、そうしたプリインストールがあるからだ。

    ー 人間の意識が本源的に社会化され共同主観化されているという与件。これは人びとの知識内容が社会的に分有され共通化しているという次元のことではなく、人びとの思考方式や知覚の仕方そのものが社会的に共同主観化されているという実状を示している。知識が共有されるとか、知覚の仕方が生物学的(生理的)に決定されているとか、もしそういうことであればとりたてて問題にする必要はない。しかるに、未開人と文明人との比較その他によって実証された通り、人びとの生理的機構や知覚機能は“同型的”であるにもかかわらず、ちょうど外国語の聞こえかた(分節の仕方)がその国語を知っている人と知らない人とでは全然ちがったものになるように、“同一の刺戟”が与えられた場合ですら、人びとの意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通の場のなかで自己形成をとげてきたかによって規定される。

    ー 世界像の共同主観的形成、ならびにまた、それに照応する認識主観の共同主観性を認識論的・存在論的に基礎づけるためには、近代哲学流の基本的な“前提的了解”の一つたる「意識の各私的人称性」の大命題そのものを止揚しなければならない。しかるにまた「意識とは本源的に当人に内属する人称的な意識である」というこの大命題は、かの「物-心」の二元的分離と相即的に、「意識作用(精神的能知)の直接的な与件は意識内容(知覚心像、記憶心像、観念的表象、等)に限られる」という了解し換言すれば「私の意識にとって外的な存在は高々のところ意識内容を介して間接的にしか識ることができない」という了解ーを伴っている。

    認識論的主観性は、アプリオリな同型性ではなくアポステリオリに成立する「意味的所知性」の間主観的同型性に照応するものである。今の私の人格は、後天的に与えられた要素が大きい。ならば人格は変えられるか。もちろん。私たちは無知であり、日々の経験と読書により、人格を再定義している運動体なのだから。しかし、人格を変えたいだろうか。いや。脳は私が私であることを守る事に必死である。そのアンチノミーにおける止揚こそ、既設の物語に対抗する人生劇場なのだ。

  • 20世紀後半の日本の哲学者、廣松渉の著書。
    ハイデガーの『存在と時間』(等)の訳者である哲学者の熊野純彦氏が、「今まで会った中で飛びぬけて魅力的な人物」という廣松渉の世界を知りたいと思い読んだ。

    タイトルからおおよそ想像した中身は、人間の認識が、個々人ではなく共同体つまり社会の側から形成されるということであったが、大枠外れていないと思う。

    特に、デュルケームを引きながら展開される最終版の議論では、
    ①価値判断は社会の側から強制されて根拠となる
    ②強制力はやがて自己の「内なる声」となる
    ③集団表象の道徳が必ずしも道徳的とは限らない
    と問題意識を提示している。

    自分の狭い日本の思想・哲学の知識では、吉本隆明の『共同幻想論』や、浅田彰の『構造と力』におけるパノプティコン(監視台)としての「内なる監視の目」という議論に近似すると感じた。
    このあたりが現代の思想世界の中心的な問題意識であり続けているのだろうか。

    本編は上記問題を定義したところで一旦筆がおかれているが、そのあとの附録の鼎談の内容も圧倒的だった。
    特に、フッサール・ハイデガー・サルトル・メルロ=ポンティ・フーコー・デリダという20世紀の哲学・思想の流れが丸々解説されているところは、大変勉強になる。

    三名の対談の一人である足立和浩氏が、現代の思想について、「狂気の復権」という言葉で語っているところも興味深かった。
    「狂気」は「理性」の病ではなく、逆に「狂気」が「理性」の病をあばく。(p481)
    人間の本質とは、理性なのか、狂気なのか。

    20世紀の思想・哲学世界は、長い歴史の中で見ると新しくまだ評価が定まっていないと見える一方、現代日本の視点で見ると、直近すぎる故に却って古さが感じられて気恥ずかしい、という二重の理由で何となく手を伸ばしていなかった。
    しかし、今回の読書から大変興味深く感じている。

    廣松氏は対談の最後を「共同主観性=間主体性の問題に当面せざるをえない」(p488) と締めくくっている。
    人間が他者との関わりの中で存在するしかないことは、吉本隆明やハイデガーも提示している問題意識だ。

    廣松氏はマルクスについても著作があり、今後読んで理解を深めたいと感じた。
    読むことについて、今さらの感、という気恥ずかしさもまだ消えてはいないが、読書は自由であることが素晴らしいと思う。

  • 数十年前の学生時代に読もうと思いつつ手をつけられなかった本をやっと読了。問題認識も論旨も、そして次の課題も明確だし、論の運びも明晰。確かに、いまもって「主観/客観問題」や「身心問題」、「科学の捉え方」など解決されているわけではなく、いまだに著者の問題認識は古くなっていない。面白い。特にこの岩波文庫版はとても丁寧にルビがふってあって、注も充実しているので読みやすい。

  •  廣松渉独自の認識論、存在論が第1部と第2部に分かれて展開されていく。フッサール、ハイデガー、サルトルなど近代以降の哲学者をいくつか引用して、人々が、ある物事をどのように共有して対象を認識するのか、すなわち「共同主観化」とはどのような構造となっているのかを深堀する。個々人の自己形成にあたって、歴史や社会とのかかわりがポイントで、とりわけ、言葉という概念が共同主観化が発生する鍵となることが読み取れる。
     ちなみに、本書の解説を担当するのが著者の直弟子にあたる熊田純彦で、そこには廣松渉の経歴、思想や本編の要点をあげている。実際に読んでみるとわかるが、文章中に使われる漢字が普段馴染みのないものばかりで、読みづらい印象をもった。そのため、最初にあえて解説部分を読んで、そのあと本書に取り組むと、思想の骨格を掴みやすいかもしれない。

  • 朝日新聞で大澤がすすめていた本である。辞書を引きながら読んだと書いてある。解説の熊野純彦による、廣松は全共闘時代で東京学芸大学の数学科に進学したために代表になってしまったゆえに立命館大学での内ゲバでリンチにあったと書いてあったが、その詳細は書かれていなかった。
     1部は難解だが2部は実例がでてくるので若干やさしく感じられるのかもしれないが、ドイツ語が基本単語ではあるがどんどん出てくるのでドイツ語を履修していない学生にとってはそこがネックとなるのかもしれない。

  •  本書は廣松渉の主著の一つ。人間を「共同主観的存在」と見る立場から、認識論の乗り越えと再生を目指した廣松哲学。1972年に書かれた。彼は戦後日本を代表する哲学者の一人。
     本書は大きく前半と後半に分かれる。その前半は、「主観ー客観」図式の閉塞感から始まり、認識論の現象的世界、言語的世界、歴史的世界へと辿ってゆく。
     後半は、共同主観性に触れ、判断の認識論的立場、デュルケーム倫理学説の批判的継承、となっている。
     ただし、判断の認識論的立場については、ある限定がある。それは、判断に関わる省察は、古代ギリシア哲学のアリストテレスも命題論で考察されている。だが、判断が認識論的に省察されるようになったのは、近代哲学になってからという立場を廣松は取る。なので、近代認識論の地平における判断論的省察のみを扱う。
     
     「主観ー客観」図式で彼は一言を呈する。
     例えば、認識論の現象的世界では、「いま、時計の音が私に聞こえている」という事態の考察が見事だった。(廣松渉『世界の共同主観的存在構造』岩波文庫、69頁)
     現象は、一般に、初めから私の(人称的)意識に属する「主観的」なことがらだとされる。だが、現象的な世界は、元来、前人称的・非人称的であることの確認から始めなければならない、と廣松は言う。音は、私の生体や「物的」環境のみならず、「文化的」環境をも含めた世界の総体に属する。なるほど、この際、私の介在のしかたと他人の介在のしかたは異なるが、その点では当の時計の個性的介在とも同断である。だから、現象的な世界は、前人称的・非人称的と言う所以である、との事。

     書名にある「共同主観的存在」とは人間のことである。
     解説で熊野純彦は言う。
     廣松が「世界の共同主観的存在構造」を主題とするとき、問題の共同主観性は、なによりもまずことばの共有に裏うちされた共同主観性なのである。言語をめぐる思考はそれゆえ、世界をめぐる廣松の思考の中心的な部分に、あらかじめ食いこんでいるといってよい。ことばの共有に裏づけられた共同主観性を問うことは、たほうではまた世界そのものの歴史性を問題とすることにほかならない、と。

     私見としては、難解な書物だった。だが、分からないなりに夢中に読める所もあった。「分からないけど、分かりたい」。そう思わせてくれた。普段の自分の日常的世界とは違う「異世界」を味わうことができた。これは突飛な絵空事ではない。日常生活に裏打ちされた論考の世界だった。決して嫌なものではなかった。廣松の思考の海を泳いでいる氣分だった。時折、本の世界に一体感を感じることもあった。その充実感。そして、読み終えたときの達成感。これはかけがえのない時となる。一冊で思考の旅をした。

  • マルクスの接続で読んだ本。500頁以上もあって読むのに一苦労する。内容としては、マルクス学者の独自哲学の展開で、一部を除いて読みやすい。

  • 講談社学術文庫版で10回以上通読して、全集も買っちゃったけど、これも購入して、また新たな気持ちで、読もうと思っている、、なんか俱舎論の解説とか読んでると、よく思い出される、、

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