道徳的人間と非道徳的社会 (岩波文庫 青N609-1)

  • 岩波書店 (2024年2月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (480ページ) / ISBN・EAN: 9784003860373

作品紹介・あらすじ

20世紀アメリカを代表する神学者ラインホールド・ニーバー(1892-1971)は、キリスト教現実主義の立場から政治と倫理の相克をめぐる鋭敏な考察を展開した。個人がより善くなれば、社会や政治の問題は解決できるのか。人間の本性と限界を冷静に見つめたうえで、正義の実現への道をさぐろうとした初期の主要著作。

感想・レビュー・書評

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  • 個人の道徳性と社会全体の行動との間にある根本的な矛盾を論じた本。ニーバーは、個人の道徳性が社会全体にそのまま適用できるという考えを否定し、社会的正義を実現するには道徳的理想だけでなく、現実的な力の行使が不可欠であると説いている。本書は、道徳と政治、権力と正義の関係を考える上で重要なテキストであり、特に20世紀の政治思想やキリスト教的リアリズムに大きな影響を与えた。

    だが、道徳的に向かう傾向には、個人と集団とで、明確な差があるとは思えない。集団にも当然良心はある。集団の序列化、つまり為政者を選ぶ制度において悪徳が有利に働くならば、集団の方が非道徳になりやすいという傾向があるというなら分かる。時代は違うが、現代は、個人のハラスメントを組織が抑えているではないか。

    従い、ニーバーの枠組みはアップデートする必要がある。「権力構造の在り方が道徳性を左右する」「制度設計次第で個人と集団のどちらも道徳的にも非道徳的にもなり得る」という視点の方が、現代には適応しやすいかもしれない。土地や権威の世襲などによる原始自然発生的な悪徳が是正されていく程に、人間社会は道徳的になっていくはずだ。

    家庭における教育や絵本や寓話、宗教のような思想が個人を道徳的に導いていく。為政者も大衆も秩序を望む。しかし、利害が集団間で対立する時、あるいは為政者が暴走する時、それが制度として正当化されやすく、非道徳に見えるという事だろう。個人の悪徳は正当化しにくい。

    ー たとえ社会的知性と道徳的善意志の増大が人類の歴史においてどれほど達成され、それが社会紛争の残虐性の緩和にどれほど寄与しようとも、紛争それ自体をなくすことはできない。そのような事態が成就されるのは、ひとえに以下のような状況が生まれる場合に限られる。すなわち、人間集団=人種的、国民的な集団であれ、経済的な集団であれが、一定の理性と共感を獲得できて、各集団が自分たち自身の利益をはっきりと理解するのと同じように、他の諸集団の利益をも明白に理解できるようになる必要がある。そして次に、そうした各集団が、自分たち自身の権利を肯定するのと同じくらい力強く他の諸集団の権利を擁護する道徳的な善意志を保持できるようになる必要がある。

    幾つか方向性が見出せると思った。集団のエゴを認めない世界市民的発想は、現実的には、圧倒的強者の支配においてのみ実現され得る。これこそ統一世界に必要なステップだ。そしてその前提となるのが個人単位での欲望を完全に充足させることで「他者から奪う必要性を消去する」ことだ。欲求充足率と道徳や秩序の程度を調べると面白いかも知れない。しかし、これらは世界同時発生でなければならない。この同期性がポイントであり、難しい所。寧ろ、同期させるために支配の抗争をしてきたとも言えそうだ。

  • 「何よりもまず、平等は平和よりも高次の社会目標であると主張するのは、重要なことである」
    (p.364 第9章 政治における道徳的価値の保存)

    20世紀前半のドイツ系アメリカ人神学者、ラインホールド・ニーバー。
    読みたいと思っていたタイミングに、岩波文庫の新刊として出版されたので、手に取った。

    彼が神学者或いは牧師であることから、キリスト教精神についての話が軸になっていると思い込んで読み始めた。
    タイトルからも、個人のキリスト教的道徳と集団化した社会の不条理を対比する内容だと想像された。

    しかし実際の内容は、想像以上に厳しい、社会に対する洞察であった。
    前半でこそ宗教的道徳について触れているが、その後は社会構造、特にロシアを含めたヨーロッパおよびアメリカの階級闘争についての歴史及び執筆当時(1932年)の情勢について書かれている。

    本書における彼の態度から、この厳しく鋭い洞察こそが神学者の仕事と学んだ。
    社会の中で苦しむ人に、慈悲深く寄り添うことだけが宗教ではない。
    むしろ、弱者を苦しめる社会的不正義を為す権力にこそ、宗教道徳の観点が求められる、というのはもっともなことである。
    (対照的に、視点の位置を変えて、権力は苦悩して個人道徳を捨てよ、というのがマキャベリズム)

    冒頭の引用は、本書の主張が最も端的に表れた一節だ。
    そもそもニーバーを知ったきっかけは、冷戦史を学んでいた際に目にした、ある一節であった。
    そこで彼は(アメリカ人であるにもかかわらず!)、「アメリカの自由と、ソ連の平等の、どちらを民主主義と定義づけるべきか」と問いかけていた。
    「平等」を掲げる彼の主張が、当時自動車工業のメッカとして急速に工業化していくデトロイトで、酷使され窮状に置かれた労働者を支援した体験に基づく、というのは頷ける。

    マルクス主義とレーニンに対する評価、非暴力主義のガンジーに対する批判など、思想と社会運動についての新たな一面を知ることができた。
    1932年という戦間期に執筆され、直前のロシア革命、第一次大戦、そして世界恐慌など、社会の転換点となる出来事についても、リアリティがある。
    キリスト教だけでなく、思想史や歴史全般についても大いに学べる内容であった。

    最後に、宗教道徳についての一節を引く。
    ここでは、20世紀の思想家・バーリンの『反啓蒙主義』で主張された、「啓蒙されない自己犠牲の精神」という思想が思われた。
    それを二ーバーは、「宗教道徳の愚かさ」という名で呼んでいる。
    要するに、計算ずくで見返りを求めることなくひたすら善行を尽くす、という意味だ。

    ロシア思想にたびたび登場するこの「自己犠牲」は、キリスト正教によるものと思っていた。
    しかし二ーバーはキリスト教プロテスタントの神学者であり、正教ではない。
    果たしてそれは、むしろ、「平等」とつながっているのだろうか。

    「賢慮・啓蒙」ではなく、「愚かさ・反啓蒙」こそが、健全な社会へと繋がる。
    これは逆説ではなく真理だろう。
    キリスト教世界について、さらに学んでいきたいと思う。

    「愛は、自分自身のために何ら報いを求めない場合に、最も純粋である ... このようにして、超-社会的理想を伴った宗教道徳の愚かさ(madness)が、健全な社会的帰結をもたらす知恵となるのである。同様の理由で、純粋に賢慮に基づく道徳は最善より劣ったもので満足しなければならない」
    (p.408 第10章 個人道徳と社会道徳との相克)

  • 【本学OPACへのリンク☟】
    https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/713850

  • Moral Man and Immoral Society: A Study in Ethics and Politics(1932)
    https://www.iwanami.co.jp/book/b639921.html

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著者プロフィール

1892-1971年。アメリカの神学者、倫理学者。エルムハースト大学、イーデン神学大学、イェール大学神学大学院に学ぶ。デトロイトのベセル福音教会牧師を経て、ニューヨークのユニオン神学大学院教授。〈ネオ・オーソドクシー〉と呼ばれる神学傾向の代表的存在。国務省の政策立案委員会の顧問も務め、アメリカの外交政策に大きな影響を与えた。著書に『ソーシャルワークを支える宗教の視点』『アメリカ史のアイロニー』『人間の運命』(共に聖学院大学出版会)、『道徳的人間と非道徳的社会』(白水社)などがある。

「2017年 『新版 光の子と闇の子』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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