- 岩波書店 (2011年7月15日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (160ページ) / ISBN・EAN: 9784003910115
みんなの感想まとめ
大学教育は専門性を深めるだけでなく、広範な教養を身につける場であることが強調されています。教養教育の重要性や、文学、科学、倫理学、道徳教育に加え、美学や芸術教育の価値も説かれています。特に、知識と道徳...
感想・レビュー・書評
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大学教育とは専門性を高めることのみならず、様々な概念を広範囲に適応することを学ぶ場である。教養教育のあり方が明示されている。
読書をある程度してきた者でないとなかなか難しい。大学受験が終わった学生に薦めたい。
今、たくさんの本を読みたいという気持ちがこの先の人生にとって良いものであることを認識することができた。
また、文学・科学・倫理学・道徳教育などは学ぶ価値あるものだとなんとなくわかるものだが、本書ではさらに「美学・芸術教育」の重要性を説いている。
「詩は、われわれの本性の非利己的な側面に訴え、われわれが属している制度の幸不幸を直ちに自分自身の喜びや悲しみとするそういう人生の一場面一場面をわれわれにもたらし、また、行為を直接導くものではないが、真剣に人生を考えさせ、そしてわれわれの前に義務としてあるものすべてを引き受けさせる厳粛な、思いやる感情をわれわれの胸底深く刻み込みます。」126
「ある人間の知性と他の人間の知性とを区別する根本的でもっとも特徴的な点はなんでしょうか。それは証拠となるものを正しく判断できる能力です。」65
上記の部分は『学問のすすめ』(福沢諭吉・齋藤孝訳、ちくま新書)にも似たような部分があった。物事を正しく判断するために学問というものはある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ミルがイギリスのセント・アンドルーズ大学の名誉学長就任する際の講演録である。なんと草稿に1年の準備期間を取ったという。彼は大学を出ているわけではないが、哲学者・経済学者という立場で、新聞や雑誌で公共知識人として意見を述べていて、多くの知識人に影響を与えた。
講演から150年が経過した今でも大学における一般教養教育の重要さは変わらない。専門性を生かすにしても、その人が持っている知性と良心によって効果が決定されるというような指摘は、近年の答申で何度も目にしているだろう。また、一般教養教育は、個別に学んできたことを包括的に見る見方と関係づける仕方を教えることであり、体系化と哲学的研究を踏まえて、諸事実の発見と検証することがその極致である、ということも同様だろう。
ただ疑問も残った。教養の要素は、「知識と知的能力」と「良心と道徳的能力」が主なものだが、少し劣るが「美・芸術」もあるとしている。イギリス人が伝統的に美に関心がなかったからだそうだ。これは意外だった。美の解釈こそ教養の代名詞かと思っていたからだ。ミルは、英国人の商業主義からの美を無駄なものと解し、清教主義で神を敬う心以外は罪悪に陥る一種の罠と考えていたからといっている。ドイツ・フランス・イタリアと全く異なっているところがおもしろい。
さらに、大学段階では、道徳教育・宗教教育は、身の回りや家庭でなされるものとして、管轄外としている。キリスト教社会全体の中における大学だからこそこのようにいうことができるのだろう。
解説で訳者が大学改革のキーワードが商業主義によるものばかりで、それを自浄作用できるのは、教養教育といっている。市場化・競争原理が促進される中でも、常に教養教育を考えていきたい。
2012.5.13追記
高等教育論5/12補助教材として、「科学教育」の項までの抜き刷りを講読。 -
205P
神本
昔から教育論に興味があるんだけど、イギリスの経済学・哲学者のJSミルが理想的な学問、教育論を書いてるとは思わなかった。イギリスってやっぱりこういう所が尊敬出来るな。しかもミルは大学教育受けてないのにここまで学問とは何かを事が書けるって本当に驚くわ。
ジョン・スチュアート・ミル
John Stuart Mill
1806年5月20日-1873年5月8日。イギリスの哲学者・経済学者。ジェームズ・ミルの長男として幼時より父から古典教育を受ける。十代から長年にわたって東インド会社で勤務。そのかたわら多分野におよぶ著作によって、同時代と後世の社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサム、リカード、ヒュームらとの知的交流や社会改革の情熱はよく知られるところで、日本でも明治期からよく読まれた著作家である。著書『論理学体系』『経済学原理』(以上、春秋社)『功利主義論』(中公バックス)『自由論』(光文社古典新訳文庫)など。
「教育には、人格の完成に自分自身を少しでも近づけるという特定の目的に向かって自ら努力し、また他の人々からもそのための援助を受けるという事柄が含まれているのは当然なのですが、実はもっとそれ以上のことが含まれているのです。つまり教育という言葉のもっとも一般的な意味のなかには、人格の完成というその直接的な目的とはまったく異なっている事柄、例えば、法律、統治形態、産業技術、さまざまな社会生活の様式等、さらに人間の意志に左右されない物理的現象、例えば、気候、風土、地理的位置等が、人間の性格と能力とに及ぼす間接的影響などまでも含まれるのです。人間形成に影響を与えるものはすべて、つまり、個人を現在の自己たらしめ、現在の自己からかけ離れないようにさせているものすべては教育のなかに含まれます。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「大学が国民教育のなかで果たすべき本来の役割については、十分に理解されていると思われます 3。少なくとも大学がこうあってはならないということについては、ほとんどの人々の間で意見の一致がみられます。大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。専門職の養成のための公的機関があるのは至極当然であり、したがって、法律学校、医学校があるのは結構なことです。そしてさらに、工科学校や産業技術を学ぶ学校があれば、なおさら結構なことでしょう。このような学校制度をもつ国々はその制度をもつことによって一層発展することでしょう。しかも、これらの学校をいわゆる本来の意味での教育のために設立された施設としての大学と同一の場所に、そして同一の監督下に置くことには多少の利点もあるにはあるでしょう。しかし、技術を伝えるということは、各世代が次の世代に手渡すべき義務を担っているもの、つまり各世代の文明と価値を支えているもののなかには入りません。そのような技術は、自らの努力でそれを獲得したいという強い個人的動機をもつ比較的少数の人々にのみ必要とされるものであり、そしてその少数の人々ですら、正規の教育課程が修了するまでは、その技術を有効には使用できないのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定されるのです。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。有能で賢明な人間に育て上げれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養 ( general culture) の光明をもたらす類のものです。確かに、人間は一般教養教育 4を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります 5。このことは、機械工学を含むほかの有用な専門分野すべてについても言えることです。靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性 れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練とそれによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「したがって、数学的な用語を用いれば、大学教育の「上限」はここまでです。すなわち、大学教育の領域は、教育が一般教養の領域を越え、個人個人の人生の目的に適合する各専門分野に分岐する時点で終了します。「下限」を定めるのは大変むずかしい問題です。基礎的な知識の教授は大学の関心事ではありません。学生は、大学に入る以前に、すでにその種の知識を習得しているものとみなされます。しかし、基礎的な教育がいつ終了し、より高度な学問がいつ始まるのでしょうか。基礎的な教育について幅広く考える人々もいます。そのような人々でさえ、ある特定分野の知識を初歩から教えることは大学の役割ではないと言うでしょう。彼らの考えでは、学生が大学で学ぶべきことは知識の体系化についてです。つまり、個々に独立している部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまでいろいろなところで得た知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合わせ、いわば知識の全領域の地図を作りあげることです。さらに具体的に申しますと、すべての知識をいかに関連づけるか、ある分野から他の分野にいかに進めうるか、高度な知識は一般的な知識をいかに修正するか、また逆に、高度な知識を理解する上で、一般的な知識はいかに役立ちうるかを考察することです。つまり、現に実在しているものすべてが種々様々な特性からいかに構成されているかを考察することです。個別科学や個々の研究方法によってはそれらの特性のほんのわずかな部分しか明らかになりません。それらの全体が考慮に入れられると、われわれは実在するものを抽象としてではなく、「自然」の一事実として真に知ることができるのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「まず最初に、現在よく耳にする高等教育に関する大論争について二、三意見を述べさせていただきます。その論争とは、教育者を改革主義者と保守主義者とに大別するものであり、一般教養教育は古典教育、いわゆる広義でいうところの文学教育であるべきか、それとも科学教育であるべきかという、つまり古典言語か現代科学・技術かで盛んに論じられている問題についてです 12。この論争は、英国ではスウィフト 13とウィリアム・テンプル 14の、そしてフランスではフォントネル 15の名前で憶い起こされるこれとよく似たあの昔からの論争、すなわち、古代人と現代人とどちらが優秀であるかという論争と同様に、延々と実りなく論じられるものです。古典が教えられるべきか、それとも科学が教えられるべきかというこの問題は、実を申しますと、私には、画家は線描画を習うべきか、彩色画を習うべきか、あるいはもっと身近な例でいえば、仕立て職人は上着をつくるべきか、それともズボンをつくるべきかという論争と少しも変わらないように思われてなりません。この論争に対して、私はなぜ両方あってはならないのかと答えることしかできません。文学と科学の双方を含まないようなものが、立派な教育という名に値するでしょうか。科学教育はわれわれに考えることを教え、文学教育はわれわれに考えたことを表現することを教えるといって何の差し支えもないとするならば、その両方を必要としないなどとどうして言えましょう。もしそのどちらか一方を欠く人がいたならば、その人は精神的に貧弱で不自由な偏った人間性の断片しか持ち合わせていないことになるでしょう。言語を知ることの方が重要なのか、あるいは科学を知ることの方が重要なのかなどということを、われわれがわざわざここで問い直す必要はないのです。たとえ人生は短く、しかも仕事でも思索でも喜びでもないことに浪費する時間ゆえに人生がさらに短くなるとしても、人文系の学者が自分たちの住む世界の自然法則や特性についてまったく無知になれるほど、また科学者が詩的情操と芸術的教養を欠いてしまうほど、われわれの精神はそんなに貧弱ではありません。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「多くの教育改革者たちが人間のもつ学習能力について非常に狭い範囲の認識しか持ち合わせていないことに私自身驚いています。彼らの言うように、科学の研究は不可欠です。彼らが、現在の教育はそれを軽視していると主張するとき、その言い分はすべてが真実だとは言えませんが、ある種の真実も含まれています。しかし、彼らは少なくとも一般教養教育から現在主として教えられている学問を追い出さなければ、自分たちが奨励したいと思っている学問研究の時間を見出すことは不可能だと思っています。二つの死語である古代ギリシャ語とラテン語について中途半端な知識を得るために少年期全部を費やさなければならないとは何と愚かなことであるかと主張しています。確かに愚かなことではありますが、しかし、人間精神の学習能力は、イートン校やウェストミンスター校 16の教育能力によって測られるものでしょうか。私はむしろ、これらの教育改革者たちが、二つの古典語を教えているつもりでその実少しも教えていないという公立・私立の諸学校の恥ずべき怠慢に対してその攻撃の矛先を向けることを期待します。私はまた、教えられるべきことだと言われているこうした知識すら大部分の生徒に生かじり程度しか教えないで、生徒たちの少年期を全部浪費させているあのひどい教授法と許しがたい怠慢と無気力に対して、彼らが痛烈な批判を浴びせることを期待したい。そこで、何ができないかを決定する前に、良心に従った賢明な教育によって何をなすことができるかということを検討してみることにしましょう。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「一般的に言えば、この点に関してスコットランドはずっと恵まれた状態に置かれていました。スコットランドの青年たちは、在学中にギリシャ語やラテン語だけでなく、それ以外の学科についても何らかの知識を習得することができましたが、それはなぜでしょうか。その理由は、ギリシャ語、ラテン語教育がすぐれていたからです。古典語の初歩的学習は、長い間、公立学校で行われてきました。そして、スコットランドの大学と同様、スコットランドの公立学校もまた、前世紀のイングランドの大学や現在のイングランドのほとんど大部分の古典学校〔パブリック・スクールとグラマー・スクール〕とはちがって、決して単なる見せかけの古典教育を行ってきたのではありません。ごく最近までに英国で出版されてきた学校用ラテン文法書のなかで唯一使用に耐えうるものは、私の知る限りでは、スコットランド人によって書かれたものです 17。事実、イングランドの学校にも理性の光は次第に浸透し始めており、現在のところではまだ慣例に対抗しうる力にはなっておりませんが、しかしその力を持ち始めてはいます。学校の授業内容の改革を実際に推進している何人かの人々によって、そのなかでもアーノルド氏 18が特に際立ってはいますが、多くの事柄について改革が着手され始めました。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。この大学の教科課程のなかで使用されている教科書〔『論理学概論』〕の著者である優秀な学者ホエートリ大主教 20は、いみじくも一般的知識と表面的知識とを区別しました。一つの主題について一般的知識をもつということは主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく徹底的にそれらの真理を知ることです。小さな事柄は、自分の専門的研究のために必要とする人々に任せればよろしいのです。広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでしょう。ただし、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量をわれわれは軽く見積ってはなりません。重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも滲透すれば、自らの学問領域で頂点に到達した人々は、自分たちの優秀性を正当に評価しうる能力をもち、しかも自分たちの指導に喜んで従ってくれる一般民衆の存在に気がつくことになるでしょう。このようにしてまた、実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神も形成できます。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「そして、われわれの目的は、自然と人生について大局的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは怠惰であることを心に銘記しておきましょう。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「しかしながら、以上のことから、専門職につながる知識とは区別される一般的知識に関する有用な分野のすべてが、学校や大学のカリキュラムのなかに含まれなければならないという結論には決して至るものではありません。世の中には、学校以外で、あるいは修学年数が終了した後に、またはスコットランドの大学の普通課程が修了して初めて、一層よく学習できるものがあります。私は、学校あるいは大学の教科課程で現代語を正規の必修科目にしようとする改革者たちの意見に賛成するものではありません。とはいえ、それは、私が現代語の知識を大して重要視していないからではありません。現代においては、少なくともフランス語の本を楽に読みこなせるぐらいフランス語に通じていないような人は、十分教育ある人とみなされません。もちろんドイツ語に熟達することもまた大変有益だと思います。しかしながら生きた言語というものは、それを日常生活で用いている人々と交際することによってこそ、ずっと容易に覚えられるものです 21。その国に数カ月滞在し、その期間を有効に活用するならば、数カ年かけて学校で学ぶよりははるかに上達するでしょう。したがって、そうした容易な方法を利用できる人々にとって、教科書と先生の助けにのみ頼って外国語の習得に努力することは、実際、時間の浪費と思われます。いずれ近いうちに、国際的な学校や大学のなかで、現在よりもはるかに多くの人々がそうした方法を利用できるようになることでしょう。もし大学がほとんどの現代語の基礎であるあの古代言語〔ラテン語〕に精通する機会を提供するならば、大学自体、現代語の学習を容易にするということで、十分な役割を果たすことになりましょう。なぜなら、古代言語を学ぶことなくヨーロッパ大陸の言語を一つ学ぶことよりも、古代言語を習得した後に、四つか五つのヨーロッパの言語 22を学ぶことの方がたやすいと思われるからです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「また、学校を出てしまえば、書物に親しむ機会の少なくなるであろう労働者階級の子弟のために、小学校で歴史や地理を教えることは別として、中等学校でそれらの科目を教えることは非常に馬鹿げたことであると私は常々感じてきました。自発的に読書をすることなく、歴史や地理を本当に学んだ者がかつてあったでしょうか。そして、あらゆる種類の知識のなかでもっとも魅力に富み、もっとも容易に理解できる歴史と地理を独力で学ぶために必要な読書習慣と楽しみとを生徒の心に育てないような教育制度がもしあったとしたならば、それはまったくの失敗であると言わざるをえないでしょう。さらにまた、中等学校で教えられるような歴史と地理があるとしても、それらの学科は記憶力以外の知的能力を訓練することにはならないでしょう。大学は、学生を「歴史哲学」へと導く場なのです。つまり、いろいろな事実を知っているだけではなく、それらの事実に自らの知性の光を当ててきた教授たちが、学生に対して人類の過去の出来事についてさまざまな原因を示し、その要点についてできうる限りの説明を与える場なのです。歴史批判、すなわち、歴史的真実の検証ということも、また、教育のこの段階で学生の注意が向けられるべき主題でありましょう。ところが一般に承認されている単なる歴史的事実については、もし何らかの知的能力を発揮しうる青年であるならば、図書館の歴史部門の部屋に入りさえすれば、必要な知識はすべて学びうるでしょう。こうした知識や他の大部分の一般的知識に関してそのような青年が必要とするものは、少年時代にそれらのことが教えられることではなくて、むしろ、彼が利用できるような豊富な蔵書があることなのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
J.S.ミル『大学教育について』(竹内一誠訳)を読んだ。ともすればブルーム的な西欧古典至上主義へと向かいそうな面もあるが、全くそのような権威主義に向かわない語り口が素晴らしい。教養教育によって「人生に対してますます深く、ますます多種多様な興味を感ずるようになる」という結語に痺れた。
jsミル「大学教育について」を読んだ時の脳汁と感銘とを超える読書体験に未だ出会えてないんだけど、俺はホントはこのような脳汁読書がしたいんだ
中高で延べ4~5000冊を読んだのがかつて自慢だったが、あれは今考えてみたら、多読する程に知識人に近づけるのだという強迫観念に駆られた結果故の苦行だったのであり、知識欲が為の行為では全くなかった
ミルは自由論が有名だし重要とされているけど、俺はミルの名前も知らないし習ったこともない中学生の頃に読んだ「大学教育について」を読んでめちゃくちゃ感動して尊敬の念を抱いたし、自由論のおっさんであることはその後から知った。
「もし彼の家族が保守党員ならば、自分が自由党員になる可能性などまったく考えられないし、反対に家族が自由党員なら、保守党員になる可能性などまったく考えられないわけです。一つの家族がもつ考え方と習慣がその家族以外の人間と一切つき合ったことのない少年に及ぼす影響は、他の国についてまったく無知な人間に自国の考え方や習慣が及ぼす影響とほとんど同じだといってよいでしょう。そのような考え方と習慣は、その少年にとっては本性そのものなのです。したがって、自分の考え方や習慣と異なるものはすべて、彼にとっては心の中で理解できない異常なものであり、自分のとは異なった方法も正しいことがありうる、あるいは、他の方法も自分自身の方法と同様正しいものに向かいうるという考えは思いもよらないことなのです。こうしたことは、すべての国々が他の国から学ぶべき多くの事柄に対して彼の眼をふさぐのみならず、そのような態度をとらなければ、各々の国が自らの力で成し遂げることのできる進歩までをも阻止することになります。もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでしょう。外国人は自分たちとは違った考え方をすると思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでしょう。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
下手に日本人の胡散臭いやつらが謳っている「教養とはなんぞや」みたいな本を読むよりJSミルの『大学教育について』を読んだ方が教養が身につくし教養が何かわかるようになると思います
「われわれは現代の著作を通じて古代人を知りうるではないかと主張するのは無意味なことです。何も知らないよりはかなりましではありますが、現代の書物を通じて古代の思想を学ぶことはできません。現代の書物から学びうることは、せいぜい古代の思想に関する現代人であるところの著者の見解であります。現代の書物を通じては、ギリシャ・ローマ人は決して現われないのです。現代の書物はギリシャ・ローマ人についてその著者の現代的解釈を伝えるにすぎません。翻訳にしたところで、大して役に立たないでしょう。人が何を考え、何を言わんとしているのかを本当に知りたいと思う場合、われわれは直接その人自身からそれを聞き出します。われわれは、他人が語るその人の話についての印象を信用せず、実際にその人自身の言葉に耳を傾けるでしょう。ましてや、その人の使用する言葉とそれを伝える人の言葉が異なる場合は、彼の言葉をじかに聞くことはなおさら必要となります。現代語の表現法は、ギリシャ人が書いたものの意味を決して正確には伝えておりません。どんな翻訳家もあえて用いないような冗漫で説明的で回りくどい表現を使用する以外、それを伝えることはできないのかもしれません。ギリシャ人の考え方を心に描き出すためには、ある程度ギリシャ語で考えることが必要です。このことは、形而上学という深遠な領域だけではなく、政治、宗教、さらに日常の家庭的な事柄についても言えることです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「大学教育について」/ジョン・スチュアート・ミル 竹内一誠訳
ミルが60歳の頃、セントアンドリュース大学名誉学長就任に際して行った演説。学問の究極の目的とは「自分自身を『善』と『悪』との間で絶え間なく繰り返されている激しい戦闘に従軍する有能な戦士に鍛え上げること」!
良書。
#読了
ジョン・スチュアート・ミル「大学教育について」。「自由論」で名高い彼がスコットランドのセント・アンドルーズ大学の名誉学長に就任した時に学生を前にした講義録。教養教育の重要性が熱心に語られる。
#読了
再読。改めて読むと、現在の学問分野に比べて、理系のカバー範囲が狭いけれど、それぞれの学問を学ぶ意義についてここまで明快に述べているのは貴重。日常における思索に、学問は大きく関わってきて、人生全体に影響を及ぼす。学問をやる意義を見い出す良著。
「大学教育について」J.S.ミル
深い。
「教養が身につく」とは、「知りたい」と思う物事への関心の矛先がバラエティ豊かになっていく事である――ミル『大学教育について』
知識やうんちくがある人を教養人とするのは、一種の誤解だと僕も思う。大切なのは知を求め、知を愛しているかどうか。それは、まさに「哲学」でもある。
共通テストの監督を外れたので、ジョン・ステュアート・ミル『大学教育について』を読んだのだが、150年前にはっきりと大学教育の意義が説かれているのに、日本では全然理解されとらんなあと思いつつ、「J.S.ミル」と著者名が書かれると会社みたいだと思ったら、J-オイルミルズという会社があるね。
J.S.ミル『大学教育について』
#読了
19世紀イギリスの哲学者ミルの講演記録。
大学の目的は職業訓練などではなく「有能で教養ある人間を育成すること」だとする。
文系学問の意義や大学の重要性を再認識したし、そのうえで専攻以外の領域も含めた広い視野と教養を持つ人間になりたいと思った。
幾何学の初歩を学ぶことによって、二つの計り知れないほど価値ある教訓が与えられます、一つは、まず最初に、推論がそこから出発するすべての前提を明瞭かつ明確な用語で規定することであります。-大学教育について
自分がなるべく分野を限定せず幅広い分野を学びたいのもミルの『大学教育について』の影響なんだよな
西周はJ.S.ミルの思想に強く影響を受けている。西が日本の大学の在り方をどのように考えていたのか正確には知らないが、ミルの「大学教育について」の精神を受け継いでいるのは間違いあるまい。西が今の日本の大学の状況を見たらどんな感想を持つだろう。
「大学教育について」(J.S.ミル、著/竹内一誠、訳/岩波文庫)を再読了しました。私は、大学教育ではありませんが、ほんの少しだけ、教育にかかわっていますので、大変興味深く読ませていただきました。教育についての、著者の志の高さが伝わってきます。教育に興味のある方は、全員必読です!
「大学教育の目的は、有能で教養ある人間を育成することである。」
J.S.ミル「大学教育について」
この本は、学びに関する最高の啓発書であると思いました。
読んでいて、かなり胸が熱くなりました。
そして、ミルの著作を他にも読んでみます。
土曜日のよろず小屋テキスト、J.S.ミル『大学教育について』読了。150年ほど前のイギリスの教育論。
大学の教養教育では人文的な古典教育と科学教育の2本柱が重要、というのは今日でも聞くが、芸術教育の重要性も説いているのが目を引く。
「現代の生活は、なすべき仕事が厖大に増え、しかもその供給を受ける大衆の数も厖大になって厳しくなり、その結果、何か特別に言うべきことをもっている人々でさえ、つまり、世に伝えるべき使命をもっている人々でさえ、傑作を生み出すのに専念する時間的余裕がないのです。 しかし、もしいまだかつてどんな傑作も存在したことがなかったとするならば、あるいは、存在していたとしても、現代の人々がそれを知らないのであったならば、状況は今日以上に悪化していたことでしょう。幼いうちから完全な作品に親しむことは、そうでない場合よりも、われわれの時代のまったく不完全な作品に触れることから受ける悪影響をより少なくすることができるでしょう。つまり、高い水準の優秀な作品が存在することで、われわれの作品が凡庸に陥らずに立派なものになりうるという明白な相違を生ずると思われます。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
大学教育について
#読了
J•Sミルの名誉学長就任演説。
基礎的な知識の教授は大学の関心事でなく、学生が大学で学ぶべきは知識の体系化。
今回、芸術の楽しみ方が少しわかった。芸術とは完全性そのものが目的。一方で科学は不完全だな。自然を相手にするため、人が表現•理解できるのはほんの一部。
「そして、この練習に、今でもヨーロッパの学校で行われているラテン語会話の練習をときどき加えれば、なお一層効果的になると思われます。もし韻文を作ることが古代詩の鑑賞にとって必要であるならば、そのために費やされる時間はまったく無駄であるとまでは言い切れないでしょうが、しかしそんな途方もない料金を払って詩を楽しむくらいならば、詩の鑑賞など諦めた方がよいとさえ思われます。また偉大な詩の美しさがその技法の巧みさを知ることだけで了解されるのならば、その美しさは真の美しさからはほど遠い貧弱なものになるでしょう。確かに、詩人にとって技巧は必要なものでしょう。しかし、われわれには無用のものであります。詩を批評する場合には、技巧は必ず考慮されなければなりませんが、鑑賞のためにはその必要はありません。われわれにとって必要なことは、言語によく精通し、詩人が効果を意図してさまざまな連想に誘なう言葉の意味が何の抵抗感もなしに伝わってくるようにするということだけです。このくらい言語に精通し、しかも訓練された耳をもっている人ならば誰でも、たとえ通常のサフォー風 39の四行詩やアルシアス風 40の詩体の韻律規則を知らなくとも、ウェルギリウス 41やホラティウスの音律を、グレイ 42やバーンズ 43やシェリー 44の詩の音律と同じように、十分に楽しく鑑賞することができるでしょう。私は、もちろん、このような規則を教えてはいけないと言っているのではありません。ただ私としては、もしそれを教えるのならば、そのための特別学級を作り、その授業を教科課程の必修科目ではなく、選択科目にすればよいのではないかと思うのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
もともとミルの『自由論』が好きだった私。この本は彼がセントアンドルース大学での名誉学長就任講演を文字に起こしたもの。昨今の日本の大学教育の迷走に疑問を持った時に読んで感銘を受けました。『大学教育について』 (岩波文庫) J.S.ミル amazon.co.jp/dp/4003910117/… @amazonJPより
「他方、自分の眼前で起こっているありふれた物理的現象の原因について理解しようと思わない人が一体いるでしょうか。例えば、なぜポンプが水を み上げるのか、なぜ梃子が重いものを動かすのか、なぜ熱帯では暑く、南極・北極では寒いのか、なぜ月は暗くなったり、明るくなったりするのか、潮の干満が起こる原因は何であるか、ということを知りたいと思わない人がいるのでしょうか。このようなことについてまったく無知な人は、たとえある専門的な職業に熟達しているとしても教育のある人間ではなく、むしろ無教養な人間とみなされてもよいのではないでしょうか。宇宙についてのもっとも重要で、しかも誰もが興味を抱く事実に関する十分な知識をわれわれに与えることは、われわれを取り囲むこの世界が理解できないゆえにまったく面白くない一冊の封印された書物にしないためにも、確かに教育の重要な役割であります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
ミルの『大学教育について』を読んだんだけど、読み終わった後に心から勉強したいと感じない人はいないのではないかと思うくらいの簡潔で明晰な名文で、元気なくなった時に読みたい本リストに加えた。思想家を大きなカテゴリで判断してはならないという良い事例を得た…。
「しかしながら、こうしたことは科学の有用性のもっとも単純明快な部分にすぎず、青年時代に教育を受けなかったとしても、あとで容易に取り返しがつくものなのです。これに対して、科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛練過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。 一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。例えば、宗教問題においてどんな教義を容認するかを決定する能力、トーリー党員であるべきか、ホイッグ党員であるべきか、それとも急進派であるべきか判断する能力、あるいはまた、ある党をいつまで支持すべきであるかを判断する能力、さらにまた、立法や国内政策の重大な問題に関して、わが国が植民地や諸外国に対していかなる態度をとるべきかに関して合理的な説得を行うことのできる能力を是非とも身につける必要があります。しかも、真理の判別方法を知る必要性は、今述べたような比較的重要な真理のみに限られるものでは決してありません。われわれのすべての関心事について真実を発見することが、われわれにとって一生を通じてもっとも急を要する仕事であります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「大学教育について」を読んだ。自由論で有名なJ.S.ミルが、大学の名誉学長に就任した時の講演の内容。大学の職業教育の問題といった、現代の日本にも通ずることが語られていた。
ミル『大学教育について』読了。フツーすぎて面白くない。お前は校長先生かっ! ただ、ミルがファーブルのお友達だったことは初めて知った。ところで、訳者の竹内一誠さんって、竹内洋の御子息かなんか? 解説が竹内洋なのでアヤシイ。
J.S.ミルがセント・アンドルーズ大学名誉学長に就任したときの演説を収録した『大学教育について』を読んでいる。大学が職業教育の場でないことが巻頭から明言され、人間の知性が未知のものから既知のものへと進むその進み方を哲学的に研究することに大学教育の極みがあると書かれている。→
「ある人間の知性と他の人間の知性とを区別する根本的でもっとも特徴的な点は何でしょうか。それは証拠となるものを正しく判断できる能力です。われわれが真実を直接目にする範囲は非常に限られています。つまり、われわれが直覚、あるいは、昔ながらの用語を用いれば「単純理解 45」によって知りうるものはきわめて限られており、したがって、価値ある知識を得ようとするならば、直覚以外の証拠に頼らざるをえないのです。ところが、われわれの大部分は現実の視覚に訴えられなければ、証拠となるものを確実に判断することがほとんどできません。そこで、ごく一般的に見受けられるこの欠陥、そしてほとんどすべての純粋に知的な弱点の根幹をなすこの欠陥を矯正するか緩和することこそが、知的教育のもっとも重要な部分となります。このことを効果的に実行するためには、最高度に完成された知的訓練方法が駆使しうるすべての工夫算段が必要となります。教師ならどなたでも御存知のように、それは次の三種類からなるにすぎません。すなわち、第一に模範、第二に規則、第三に十分な実践、であります。証拠となるものを判断する技術の模範例を提供するのは科学であり、規則が提示されるのも科学においてです。そして科学的研究が実践の中核をなすものであります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
ミルはご存知のように、大学教育を受けていない。恐らくは憧れがある。彼が就任した、セント・アンドルーズはスコットランドの大学。殺菌剤説明したように、ここは半ば中等教育機関的な機能もある。イングランドではパブリック・スクールでやっていた内容を大学でやっていた。
「また、数学を通じて、われわれは、推論が確実に行われるための基本的な注意事項のいくつかを習得することができます。幾何学の初歩を学ぶことによって、二つの計り知れないほど価値ある教訓が与えられます。一つは、まず最初に、推論がそこから出発するすべての前提を明瞭かつ明確な用語で規定することであります。もう一つは、推論における各々の段階を他のすべての段階と明確に分離し、次の段階に進む前に確実なものにしておく、つまり、推論の各々の展開部でどんな新しい前提を導入したかを明示することです。われわれが推論する際に、常にこうしたことを行わなければならないということではありません。しかし、われわれはいつでもそれらのことを行うことができ、しかも直ちに行えるようにしておかなければなりません。もしわれわれの論証の妥当性が否定された場合、あるいはわれわれ自身が論証に疑いをもつ場合、これらの二つの教訓がそのことを確かめる方法となります。この方法を適用することによって、われわれは、誤 あるいは思考の混乱が入り込んだ場所を直ちに正確に突きとめられることがよくあるのです。そして十分な訓練を積めば、最初から、誤 や混乱が推論に入ることを防ぐことができるようになります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「真理が相互連関した体系であるという考えをわれわれが最初にもつようになるのも、また数学を通じてのことです。真理とは個々の真理の相互関係から生じ、個々の真理が真理全体を含意しています。ある真理が他の真理と矛盾すればどんな真理も疑われることになり、したがって、真理体系全体が虚偽でないかぎり、その体系のどの部分も虚偽にはなりえないと思われるほどです。このような概念を最初にわれわれに授けてくれたのは純粋数学であります。そして、応用数学がこの概念を物質界の領域にまで敷衍させます。つまり、応用数学を通じて、われわれは抽象的な数や延長についての真理のみならず、われわれの感覚によって把握される宇宙の外的事象もまた、少なくともその本質的な部分においては、同様に相互に結合したいわば織物のようなものであるということを知るようになります。われわれは、物質的対象の示すさまざまな現象をいくつかの基本的な真理から推論することによって、説明、予測することができます。さらにそれ以上に注目すべきことは、基本的真理そのものも推論によって発見されたということです。と言いますのは、基本的真理は人間の知覚にとって明白なものではなく、人間が直接観察しうる範囲内の微細な事実の集積から数学的操作によって推理されたものです。ニュートンがこのような方法で太陽系の諸法則を発見したとき、彼は、それと同時に後世の人々のために「科学」の真の概念を創造したのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「 誰もが推論を好んで用いるのではありませんが、しかし人は誰でも経験から結論を引き出すと言い、また実際そうしようとします。しかし、自然科学を学んだことのない人は、ほとんど誰もが、経験が解釈される過程が実際どんなものであるかをまったく知らずに、経験から結論を引き出そうとします。もしある事実が一度または何度か起こり、別のある事実がそれに引き続いて起こったりしますと、人々はこれで一つの実験をしたと思い、一方の事実が他方の事実の原因であるという説明に向かいがちです。もし人々が、科学的実験には多くの細心の注意が必要であること、例えば、実験対象に関わりのない要素すべてを排除するために用意周到に随伴状況を設定して変更すること、あるいは、妨げとなる要素が除去できない場合にはその影響を正確に計算してそれを考慮に入れ、研究対象となっている要素そのものに起因するもの以外は何も含まないようにするということを知りさえすれば、つまり、これらのことに注意を向けさえするならば、自分たちの意見が経験的に証明されているとそうも簡単に確信しないでしょう 49。同様に、誰もが口にするようなありふれた考えや一般化の多くも、当然そう思われているよりもはるかに確実性に乏しいと思われることでしょう。そこで、われわれはまず第一に、現在曖昧な論議の対象にすぎなくなっている事柄、つまり、どちらの側にもそれ相当の言い分があり、双方とも確信をもって主張するがお互いの意見は証拠によってではなく、むしろ自分のそのときの都合や先入観によって決定されるような事柄に関しては、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければなりません。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「数学と物理学は、論理学が加わって初めて、知的に完全なものとなりうるのです。数学と物理学は実践を提供し、論理学はそれを理論化します。論理学は原理、規則、準則を告げ、数学と物理学はそれらの遵守を実地に示すのです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「科学教育は、専門的対象の研究は別として、「人間」について、また人間のさまざまな要求と利害について、正しい判断をするための準備期間にほかなりません。ところが、特に「人類の真の研究 56」と呼ばれてきたこの究極的研究に生理学があらゆる学問のなかでもっとも近く、それゆえもっともそれに寄与しうるのです。生理学の主題は、まさに「人間」なのです。複雑かつ多様な存在であり、その属性は環境からまったく独立しているのではなく、また楕円や双曲線あるいは硫黄や燐などのように時代が変わっても不変ではなく、むしろ無限に多様であり、故意や偶然によって絶えず変化を受け、きわめて微妙に互いに相異し、無数の仕方で相互に作用し合うために、人間は孤立させて個別的に観察することがほとんど不可能です。このような複雑な構造をもつ存在の研究がいかに困難であるかを、科学者のなかで生理学者のみが承知しています。精神的存在としての人間についてどんな見方をしようと、人間を構成する各部分は、それが他の何かに似ている以上に相互に酷似しているのです。有機的世界における自然研究は、道徳的・政治的現象の研究に伴う不利な条件と同様の条件の下で行われます。と言いますのは、両方とも実験手段の利用は非常に限られていますし、また事実が極度に複雑で、各々の結果を決定するのに働く要因の数が余りにも多いために、一般的推論から導き出された結論は非常に不確実なものになりがちであるからです。しかし、こうした障害があるにもかかわらず、生理学ではかなりの数の十分確証された重要な真理に到達することが可能になりました。したがって、生理学は他の分野で同種の困難を克服する手段を探求する際に、すぐれた手引きとなります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「生理学の上限は心理学あるいは心の哲学に接しています。そして「物質」と「精神」との境界に関する論争をあえてもちださなくとも、神経と脳とは非常に密接に精神作用と関係しているので、精神作用について研究する人は神経と脳について相当量の知識がなくてはなりません。心理学そのものの価値については、スコットランドの大学で詳しく説明する必要はないでしょう。なぜかと申しますと、ここスコットランドでは、心理学研究は常に輝かしい成果をあげてきているからです。ロック、バークリー以来、心理学の発展に対して英国が貢献してきたほとんどすべてのものは、つい最近まで、そして現在でもその大半は、スコットランドの学者や教授たち 57によってもたらされたものです。実際、心理学とは、人間性の諸法則についての知識にほかなりません。もし人間自身によって研究されるにふさわしいものがあるとするならば、それは自分自身の性質と同胞たちの性質であります。そして、それが少なくとも研究する価値があるならば、人間以外のすべてのものの根底にあってそれらを支配している根本法則に到達することを目指すことで、科学的に研究する価値があるものとなります。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「さらに教育を通じて、この問題に直接関係のある重要な事実、つまり、人類の歴史のなかで現われた文明のさまざまな類型あるいは発展段階とその各々の特徴を学ぶこともできます。これこそ大学で行われる歴史研究の真の目的です。古代史や現代史の重要な出来事については、学生は自発的に本を読んで知っておかなければなりません。そのような知識が欠けているからといって、大学でそれを補うことはとてもできません。歴史学の教授が教えなければならないことは、そのような事実がもつ意味についてなのです。彼の任務は、学生が歴史から、時代や場所による人間、あるいは社会制度の主な相違点を探し出すように仕向けることであり、人類の発展のさまざまな段階での生活の営みや生活をどう考えたかを想像し、時代時代を通じて変わらぬものと進歩するものとを区別して、進歩の要因と法則について考え始めるようにさせることにあります。以上のようなことは、もっとも哲学的な研究者と言われる人々によってさえきわめて不完全にしか理解されておらず、しかも、一方的に教えられるような類のものでもありません。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「目的は、学生にそのようなことに注意を向けさせることにあります。つまり、単なる物語としての歴史ではなく、現に自分の目の前で繰り広げられつつあって自分自身と自分の子孫にとっても重大な結果を内に孕んでいる因果の連鎖としての歴史に興味を抱かせることにあります。それは、人類が幸福に至るか悲惨に陥るか、高邁な精神に至るか堕落に陥るか、といった一大叙事詩または劇的場面の展開としての歴史、善き力と悪しき力の絶え間ない闘争としての歴史です。その力の行為はどんな人間によってなされようとも出来事の一つを成します。その闘争は、正しき側に与しないものはすべて悪の側に加担することになるゆえに、影響力をもたない人といえどもそれに関わることから逃れられず、その関わりが大きかろうと小さかろうと、現実的な結果が見えようが見えなかろうが、われわれの誰もがそれに関与した責任を回避することができない闘争です。たとえ教育によって学生がこの戦いのための武器となる完全な政治哲学や歴史哲学を装備することがないとしても、市民としての義務に直接関係する積極的な教育を受けることができます。学生には自国の社会制度と政治制度の概略と、さらに一般的にならざるをえませんが、他の文明国のもっと進んだ制度の概略が教えられるべきです。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「政治の各部門や社会現象の法則の各部門のなかでも、一科学を創始しうるに足りるほど十分に分類され体系化されている事実と概念が集積しているものは、学生に教えるべきであると思います。それらのなかでも特に重要なものは「経済学」です。それは人間の集合体に資する富と物質的繁栄の源泉と条件に関する学です。この部門を研究することは政治に関わりをもつ他のどんな部門よりも一科学の地位に近づいています。ここでいう科学とは、われわれが自然科学を科学と呼ぶ場合に意味するものです。経済学が生活を営む上で、また法律や制度を評価する上で役に立つ、貴重な教訓を与えてくれることや、あるいは、人為的な事象の流れを正しく見定めたり、現実に実行しうるような改善計画を立てるためには、経済学から学びうるすべての知識を身につける必要がある点については、ここで多言を費やす必要はないでしょう。論理学を誹謗する人々は大抵また、経済学など学ばない方がよいと諸君に警告するでしょう。そのような人々は、経済学には人間感情がないと言うでしょう。確かに、経済学は不愉快な事実を認めます。私に言わせれば、私の知る限りでもっとも非情なものは重力の法則です。それは、善良なもっとも愛すべき人であっても、もしほんの一瞬でも注意を怠ると、情け容赦なくその人の首をへし折ってしまいます。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
「キリスト教は歴史的な宗教ですので、大学にもっともふさわしいと思われる宗教講座は、教会史の研究です 73。もし教えるということが、科学的確実性の得られる事柄に関してでさえ、結果そのものを教えることだけではなく、その結果に到達するまでの過程を示すことを目的としているならば、同等の能力を持ち、真理に到達するために同等の努力を払ってきた人々の間にでさえ極端な意見の相違がある問題に関しては、なおのことそうすべきです。意見の相違があるということが、おのずと良心的な教師に、自分には自らの意見を権威的に若者の精神に押しつける権利などないのだということを痛感させる一種の警告になるはずです。授業は独断的な態度ではなく、探究の精神をもって行われるべきです。学生に対して、彼が信ずる宗教が前もってすでに決定されていたかのように語るのではなく、将来自分の意志で宗教を選ばなければならない人に対するように語らなければなりません。」
—『大学教育について (岩波文庫)』J.S.ミル, 竹内 一誠著
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自分の信じている学問を肯定してくれた一冊。
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まず僕含め、ミルが語っているような学生生活を送る学生がほぼいない、この日本の「大学」という機関に絶望した。(勿論僕の環境に限った話ではあるが)
それは文理選択を高校の時に迫る制度が一つの原因だろう。文系が化学や数学をやらなかったり、逆に理系が歴史を勉強しないことが当然と言っても過言ではない制度だ。
文理問わず、教養として身に付けておくべきはずのものを学ばぬまま学生を終える。そんな人々に警鐘を鳴らす著作である。
本の内容からは逸れるが、僕は高校が大学という機関について教えるとともに、その存在意義を考える機会を設けることで、この課題がほんの僅かでも変わるのではないかと思う。(高校がこの著作を大学入学を控えた生徒に読ませるのも有効かも知れない)
近年、大学不要論なんかがよく唱えられてる。
大半が大学を手段でなく目的にして、その本質を見失ってるから当然の話であって、上記のことを高校が実施するだけでも状況は変わるのではないか?
もっと言えば、教養の有無が人生の豊かさを左右するとも本書で述べられている。大学が学生の未来を決めかねない。
その教養を培うための、「独力で学ぶために必要な読書習慣と楽しみを生徒の心に育てないような教育制度がもしあったとしたならば、それはまったくの失敗」ともミルは嘆いている。
美学・芸術の教養についてはめちょくちゃ共感!
「ゴシック様式の大聖堂の壮観さによって喚起される感動に浸る」や「日常の仕事が味気ないものであればあるほど、あの高尚な思想と感情の息づくところをしばしば訪れることによって、われわれの心の調子を高めておくことがますます必要」
本書に書いてある水準まで学ぶことは困難でありつつも、まずは論理学・歴史哲学・幾何学を最低限勉強しようと決意した。 -
大学の中だけの事に限らず、
人間が人生で生きる上で非常に重要なもの、それは教養だ。
仕事をする上での専門技術も、それを人の役に立て、世の中を今までよりも良くする為にという素養があってこそ活きる。
それを養うのが、教養だ。
広く自分の専門分野でない事も、その分野の要点や本質を深く理解することは、人生を生きる上での武器となる。
一生をかけて学ぶことは
重要であり、楽しいことだ。 -
個人的なハイライトは知的教育の意義を提示した部分。ミルによれば、大部分の真理の認知においては直覚に頼ることができない。この弱点を矯正、緩和するのが知的教育である、という。
たしかに大学教育を経た者は、全員ではないが、観察可能な部分から原理原則を推論することに長けている。この点については大学教育がある程度の成功を収めているといっても差し支えないかもしれない。
一方で大学教育のあるべき姿を巡る主張と議論はこうも変容しないものかと驚いた。大学教育論が19世紀から進歩していないわけではないだろうが、問題自体は根治していない、あるいは悪化していることが窺われる。
大学が専門性教育に傾倒せず知性を育み人間精神を涵養する場であってほしいと、大学を職業訓練に利用してしまった身として自戒の念を込めて願う。 -
2023/03/06 初めの部分がSFCの入気に引用されていたので読んだが,「文学教育について」から先は contextualすぎてついていけなかったので読まずに図書館に返した.
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やはり古典は素晴らしい。200年前に遠く離れたスコットランドで書かれたとは思われないほど、現代に通じる含蓄に満ちている。特に現代でも度々問いただされる古典不要論がJ.S.ミルが生きてた時代から言われてたと知ってつくづく人って変わらないなと思った。
専門バカにはならないように大学在学中は広く学ぼうと思う。 -
背ラベル:377-ミ
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◆5/24 シンポジウム「自由に生きるための知性とはなにか?」と並行開催した「【立命館大学×丸善ジュンク堂書店】わたしをアップグレードする“教養知”発見フェア」に登壇者の推薦書としてご紹介いただきました。
http://www.ritsumei.ac.jp/liberalarts/news/article.html/?id=22
本の詳細
https://www.iwanami.co.jp/book/b270889.html -
ヤスパースとかと比べるとはるかに具体的で、ミルらしいのかもしれない。大学論の古典としての位置づけみたいなのは定まってるのかな?
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平成バブルが崩壊した頃から、大学生が大学教育にもとめるものが変質した。文部科学省の考え方も変わっている。
それは、一言でいえば、大学教育の目的について、ミルのしているようなきちんとした検討をしなくなったこと。大学教育が就職の手段、企業の利益の手段と化し、手段が目的化している。近年の実学重視、理系優位はその結果です。
人間がきちんとした一般教養を身につけることの意義をよく検討しないといけない。
本書は、そういうことをじっくり考えさせてくれる良書です。 -
教養とは何か、それがなぜ重要なのか、そしてそれはどのようにして身につけられるものなのか。ミルの大学名誉学長就任演説である。学生に懇切丁寧に語っている。語られて150年近く経っているが、昨今の教養課程廃止や文系不要論への最良の反論となりうる。高校生や大学生に是非読んでほしいと思う本である。巻末の竹内洋の解説も簡にして要を得て素晴らしい。
ジョン・スチュアート・ミルの作品
