日本美の再発見 増補改訳版 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (182ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004000105

感想・レビュー・書評

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  • 建築家ブルーノ・タウトの日本に関する論考と日記の翻訳書。伊勢神宮や白川郷、秋田の民家を評価し、特に桂離宮を「永遠なるもの」と位置づけるほど称賛している。
    西洋建築と比べて、日本は宮殿や教会が民家と変わらぬ造りであると指摘する。宮廷生活と庶民生活を西洋ほど区別しておらず、上流階級の邸宅がより簡素(そのために芸術的)である点を興味深く読んだ。また、茶室は建築ではなく抒情詩であると言い切っていた。
    ただし、あくまでも評価しているのは先に述べた一部の日本建築であり、特に近代建築は「いかもの」と切り捨てるばかりで手厳しい。

  • 日光東照宮、ギャル的にはデコ盛り盛りで結構アガると思う キッチュなものが大好きなので

    何も知らないまま坂口安吾の「日本文化私観」を読んでいたので、なぜ安吾が「法隆寺が駐車場になっても構わん」と述べていた理由がわかった

  • タウトといえば桂離宮を絶賛して再発見した外国人建築家、という印象が強かったけれど、本書をはじめて読んで、ずいぶん日本のあちこちを回っていたんだな、とか、想像と違った内容だった。
    日本旅館の多くを「いかもの」と言い、文句をたらたら書き連ねながら日本津々浦々をめぐる姿はおかしみもあり、往時の日本を想像させて面白かった。

  • 836

    これめちゃくちゃ良かった。学生時代、鹿島出版会のSD選書とか沢山読んでて、その中でブルーノ・タウトも読んだことあるけど、あれKindle化してないんだよね。こういうの読み放題で一旦読めるって凄いな。有り難すぎる。再読したい

    私も大工さん尊いと思って現場に一番近い図面が描ける仕事をしたいと思ってこの仕事して9年ぐらいなんだけど、聖徳太子も大工の生業を高い位置にしていたって聞いて驚いた。華道発祥の地の六角堂の開祖も聖徳太子だし好きなものが聖徳太子で繋がってた。聖徳太子系の本も読も。

    京都奈良の古建築ほぼ観てないもの無いレベルで観たんだけど、桂離宮だけ予約するのがめんどくさくて行ってないんだけど、これ読んでほんとに桂離宮行かなきゃと思った。桂離宮観に行くために関西行こ。

    ブルーノタウトは伊勢神宮も絶賛してるんだけど、伊勢神宮は10代後半で行った。

    第4章の「飛驒から裏日本へ」読んで飛騨高山行きたくなった。岐阜の大会探したら10月にやってたの見逃した。愛媛の大会行った月だわ10月。でもこの大会がきっかけでハナちゃんに出会えたから良かった。

    ブルーノタウトは伊藤忠太とかコルビジェと同時代のドイツの建築家か。伊藤忠太の築地本願寺はほんと好きだな。

    桂離宮をはじめ、伊勢神宮、飛騨白川の農家および秋田の民家などの美は、ドイツの建築家タウトによって「再発見」された。彼は、ナチスを逃れて滞在した日本で、はからずもそれらの日本建築に「最大の単純の中の最大の芸術」の典型を見いだしたのであった。日本建築に接して驚嘆し、それを通して日本文化の深奥に遊んだ魂の記録。

    目次
    日本建築の基礎
    日本建築の世界的奇蹟
    伊勢神宮
    飛驒から裏日本へ
    冬の秋田
    永遠なるもの──桂離宮
    あとがき
    書評情報


    東洋古代建築の最高権威の一人である伊東(忠太)博士は、近ごろ日本のある専門雑誌で、ほぼ次のようなことをいわれた、──「五十年前にヨーロッパ人が日本へ来て、日光廟(東照宮)こそ日本で最も価値のある建築物であるといえば、日本人もまたそうだというし、今またブルーノ・タウトがやってきて、伊勢神宮と桂離宮こそ最も貴重な建築だといえば、日本人もまたそうだと思うのである」と。

    芸術自体は、定義せられえぬものであり、一切の計量と合理的な公式化とを拒むような領域である。しかしそれにもかかわらず芸術の領域は、知性に影響を与える。実際にも、もしこのことがなかったら、たんなる知性だけでは貧弱にして生産に堪えないであろう。それだから芸術は、合理的定義をいっさい拒否するにもかかわらず、決して神秘的な、曖昧模糊たるものではない。芸術的な形、すなわち芸術の所産は感情に出ずる。感情がひとたび閑暇と安らかさとを得て芸術の事に集注すると、ついにはきわめて明確に肯定しあるいは否定するにいたるのである。美しい形は、その起源を尋ねるに由なきにせよ、こうして客観的な事実となるのである。

     よく日本人は、時代の匂いが特殊の魅力をもつことを強調し、「佗び」という概念で一つの芸術観全体を包括的に表現する。ところが伊勢神宮は、「佗び」らしいものの痕すらとどめていないのである。伊勢神宮は常に新しい。私にはこのことこそ、とくに日本的な性格のように思われるのである。むっとするような時代の黴臭さは放逐せられ、それと共に一切の非建築的な付加物、すなわち純粋な建築に背くような一切の装飾はことごとく排除されている。これらのものは、さなきだに無用の長物であるが、伊勢神宮でそれが脱落してしまったのは、二十年目ごとの造替に際してかかる贅物までも繰返し付加することの無意義を覚ったためであろう。

    聖徳太子は、大工の業を高い位置の職業にし、今に大工の守護神としてあがめられている。実際、日本の大工は複雑な寺院建築においても、すぐれた技倆を有することを立派に実証している。

     世界じゅうのどこの国でも、およそ教養のある人ならば、日本が近代芸術の発展に独自の刺戟を与えた国であることを知っている。実際、劇場の舞台、能の 面 と衣裳、絵画──とりわけ浮世絵などによって、近代芸術に及ぼした影響は深刻であった。しかしたとえば絵画の方面で北斎や広重に与えられた「世界的名声」なるものは、決して最高の「質」を有する大家に与えられたわけではない。昔も今も真に偉大な画家達は、このいわゆる「世界的名声」にあずからないのである。同様に日本建築の偉大な業績もまた、人知れぬ谷間に咲く菫にも似た運命を担わねばならなかった。

     日本建築の真髄を認得しようとするならば、まず京都近傍の桂村に赴かねばならない。桂離宮──天皇の「 無憂宮」ともいうべきこの小離宮は、いくつかの付属建物および林泉とともに、あの「有名な」日光廟(東照宮)とあたかも時を同じくして、この地に建造せられたのである。これらの建物と林泉とを造営した小堀遠江守政一は、大名であると同時に芸術家でもあった。小堀遠州は彼の声望を恃み、あらかじめ三個の条件を提出してその承認を求めた。これは現代の建築家にはまるで夢のような話である。その条件の第一は「ご費用お構いなきこと」、第二は「ご催促なきこと」、また第三は「ご助言なきこと」(もちろん図面を提出するようなことはしない)というのである。

     桂離宮の美しさは、その全結構を造営の順序に従い、静かにかつ深く思念しつつ繰返し観賞するときに初めて開顕せられる。このような建築にあっては、簡単な記述によってその美を如実に伝えることはまったく不可能である。しかし現代文明に特有のあわただしさのなかにあっても芸術的感情に豊かな満足を与えようとする人にとって、以下の叙述がほんのあらましの道しるべにでも役立てば、筆者の喜びはこれに過ぎるものはない。

    建築家はもとより、いやしくも建築に関係ある人々は、是非ともこの建築の聖殿に詣でなければならない。

    桂離宮は歴史的模範であるばかりでなく、実にそれ以上である。

     建築家は、桂離宮を訪れるたびごとに、自然的な簡素のうちに精妙をきわめた天才的な細部をいくつとなく発見する。用材の精選とその見事な加工、あくまで控え目な装飾──私はもはやこれを表現すべき言葉を知らない。桂離宮の御殿と御庭とを世界的奇蹟たらしめたものは、たんなる天才的な芸術形式ではなくて、そこに実現せられている「現代的」な見解にほかならない。かかる見地に立つとき、桂離宮の建築は、日本においても唯一無二である。この奇蹟の真髄は、関係の様式──いわば建築せられた相互的関係にある。

     あたかも天から降った神工のようなこの建築を如実に描くことはまったく不可能である。この形の完成したのがいつの時代であるかも知られていない。しかし材料からいえば、これらの神殿は決して古くない。二十年目ごとに造替せられているからである。白絹の立派な装束をつけた宮大工たちは、次の造営に用いる見事な檜材を調進するために、しょっちゅう働いている。新しい社殿は、形こそ「古い」が、実は造営されてからまだ間もない現社殿のかたわらに建立せられるのである。社殿は新たに造営せられても、その形式にはいささかの変改も加えられない、しかもこれまですでに六十回以上も造替せられたという。最初に造営した建築家の名はまったく知られていない。だがこの形式こそ、日本の国民に与えられた貴重な贈物である。国民もまた清新な材料を用いて、本来の形式が年へて生える黴のためにむしばまれないように、ひたすら心を労しているのである。この一事にこそ、実に雄大な、またきわめて独自な考え方が現われているではないか。

     朝早くから犬の吠える声、宿では相変らずがやがやと騒々しい人声。洗面所へいくと、もう例の愛すべき厠臭が漂ってくる。鴨居に頭を打ちつけた。しかしよい機嫌で旅を続ける。今度はしっかりした汽車の二等客になって富山へ向った。探検につきもののロマンチックな話は、私の柄でない。

     富山に着く。この都会の第一印象、──家屋も生業も、まるきり興味索然たるものだ(駅付近の俗悪な様子はいうまでもない)。生業といえば、猿の頭をひさぐ薬種店、──黒焼にした猿の頭は、粉に碾いて精神薄弱者や産後の婦人に服用させるのである。蛇も、一般に虚弱な人に効くし、亀や蛙なども同様である。アルコール漬の蛇もあった。この液体を飲むのである。いずれも特効薬なのだ。富山の売薬行商人は、国々を巡っては諸方の家々へ、代価をとらずに薬を置き、翌年ふたたびやってきて、使った分だけの薬代を請求するのである。

     佐渡ヶ島は昔の流刑地で、天皇でさえ配流されたということだ。また徳川時代には、政治犯人がここへ送られ、幕府の金山で採鉱に従事せねばならなかった。  新潟でも佐渡でも、いったいにこの辺では娘達が出稼ぎに行く。「新潟美人」という言葉をよく聞くけれども、私はまだそれらしいものに一人もお目にかかったことがない。しかし潑剌とした気持のよい、また知能の点でも決して男子に劣らないような婦人は何人も見かけた(これはあながち佐渡ばかりでなく、日本を通じて私を驚かす事実である)。佐渡では、女子が早熟で、女は十三歳、男も十五歳になると結婚するそうだ。

     上野君は新潟郵便局へ行って、局留になっているフィルムを受け取った、これはこの旅行の最初に撮ったフィルムを現像させてここへ送らせたものである。その出来栄えの上乗なのにすっかり気をよくした私達は、自信満々でまた探検旅行を続けることにした。

     ところが私達の二等車のなかは、そんなに明るいものではなかった、というのは次のような場面が展開されたからだ。寝台車の長い腰掛の上での出来事である。私は旅日記の覚書を書いていたが、向いに坐っている上野君のところへちょっと行っている間、ノートを腰掛の上に開いたままにしておいた。すると一人の若い男がノートのところへ来て、長いこと覗き見している。これが教育のある日本人のなすべきことだろうか。この男が突然車室外に出て行くと、やがて今度は車掌が上野君のところへやって来て、あの方がお話ししたいことがあるそうだからちょっときて頂きたいというのである。つまりあれは刑事なのだ。いったい私達は、この男からこれほどの侮辱を受けねばならないようなことをしたのだろうか。探偵などという人間は、こういう無礼な態度をとるものだろうか。この刑事は、今までの警官と違って、群馬県知事から新潟県知事宛の私の紹介状を示したにもかかわらず、上野君に撮影した写真の提示を求め、しかも下車に際して一言の挨拶もしないという横暴さである。  これでは外人が日本へ旅行しようなどという気になれないだろうし、また旅行したところで、けっきょくいい知れぬ嫌悪感が残るだけだろう。いったいどうしてこんなに(こんどが三度目である)、たえず警察官の訊問に会うのだろう。まだ知られぬ日本に観光客を吸収しようとして、大わらわで宣伝に努めている観光局の田(誠)氏は、この現状をどう考えていられるのだろうか。また私の研究の続行を望んでおいでの国際文化振興会の樺山(愛輔)伯は、こういう事実に対してどんな意見を持っていられるのだろうか。もし私達が紹介状も持たずに旅行するとしたら、どんなことになるだろう。台湾には首狩があるそうだ。しかし日本は文明国なのである。こんな「首狩」…

     廊下には秋田の郷土画家勝平得之氏の版画と絵葉書(木版)とがならべてあった。同氏の作品は東京の版画堂平居氏の店にも陳列してある。そこで上野君は、ひとつ勝平氏に秋田の案内を頼んでみようという妙案を思いついた。早速使いの者に手紙を持たせてやったら、明朝きてくれるという返事であった。ところがあくる朝、宿の人が勝平氏の名刺を持ってきた時には、てっきり四番目の刑事かと思違いしてしまった。しかし秋田は、私達に親切であった。私はここで、人を刺すような厭な目付を身の廻りに感じないで済んだ。秋田に高い文化のある証拠である。秋田は人口がわずか六万の都会にすぎないが、東北の裏日本における文化の中心地である。しかし雪や霜が多いので、感じはすこぶる陰暗だ。冬は太陽を見ることがまれだという。

    運動場があった、──これはとうてい公園などと呼び得るものではない、むしろ練兵場だ、しかしここに植えてある松はすぐれて立派である。おそらく寒冷な大地に育つ特殊な種類のものであろう。一体にこの地方の樹木には、怪奇な形のものが多い。苛酷な天候に堪えて生長した証拠である。見事な建築を数多く見かけた。とりわけ小さな家屋がすぐれている。これらの家はいずれも京都風の茶趣味に通ずるものだ。秋田はまことに北日本の京都である。

    汽車は、一面に拡がっている水田の中を走った。そのむこうには八郎潟が見える。平野のなかの村落はまるで島のようだ。北ドイツの平野に似た風景である。しかし平原といっても畑ではなくて水を湛えた田である、その中に小島のように浮んでいる神社の杜は実に美しい。水田では勤勉な農民が馬に犁をつけて耕したり、また男も女も鍬を揮って耕土を掘返したりしている。この人達はまことに日本の働き蜂だ。それから砂丘の上に松林が現われた。白色の岩石を含む山々(この土は陶土として用いられる)。おびただしい木材の堆積。たえず去来する美しい風光。富士山に似た大きな山が眼前に浮び上った。岩木山である。岩木山は、堂々とした輪郭を大空に限って、弘前市に君臨している。

     大川氏は、近頃のような嫌らしい「モダン」弘前市の出現は、関東大震災の際、弘前の大工達が東京へ出かけて、この いかもの を土産に持ち帰ったためだと説明してくれた。

    青森は、建築的にはまるきりつまらないところだと聞かされていた。私は、たまたま駅前で人夫達がセメントを混合しているのを見た。彼等は物を運ぶのに手押車を使わない。何もかも二人の肩に渡した棒でかつぐのである。セメントの混合は驚くべき速さと熟練とで行われていた。そして次の材料がくるまでの合間を、笑ったり冗談をいい合ったり、煙管で煙草をふかしたりしている。ドイツでこんな場合に手押車でもなかろうものなら、ひどい悪口雑言を聞くことだろう。

     雪中の静かな祝祭だ。いささかクリスマスの趣がある。空には冴えかえる満月。凍てついた雪が靴の下でさくさくと音を立てる。実にすばらしい観物だ! 誰でもこの子供達を愛せずにはいられないだろう。いずれにせよこの情景を想い見るには、読者はありたけの想像力をはたらかせねばならない。私達がとあるカマクラを覗き見したら、子供達は世にも真面目な物腰で甘酒を一杯すすめてくれるのである。こんな時には、大人はこの子達に一銭与えることになっている。ここにも美しい日本がある、それは──およそあらゆる美しいものと同じく、──とうてい筆紙に尽すことはできない。しかし私達は、六郷行きの時刻が迫っているので、先を急がねばならなかった。とりわけ終りのほうは、ほとんど素通りしてしまった。それでも、雪の壁龕を祭壇風にこしらえ、多彩な色布で装飾したカマクラも見た。また祭壇を通りにむけて造ってあるカマクラでは、それが窓のように刳り抜かれていて、そこから蠟燭の灯りが見え、また子供達はここで外から話しかけたり、何か品物を手渡したりするのである。

    桂離宮はあらゆる決定的な点において、いかなる日本住宅よりも文字通り簡素である。豪奢な邸宅ならば床の間にも庭園にも嫌味な、もしくは「面白い」意匠が、いたるところにつきまとっているし、また普通の住宅でなら、同じ意図がもっと安っぽい細部や下品な趣味となって現われている。なかんずく禅に由来する哲学的要素を多分に含む茶道と日常生活との間の限界は、まったく払拭せられているのが一般である。これに反して桂離宮は、この両者に截然たる区別を付しているのである。つまり一方で日常生活が他奇なく営まれる部分に対しては、これに必要な一切の要求は、きわめて自然に、また最も単純な仕方で充たされ、従って全体はこの上もなく淡々とした落着きを示している。しかしこのことは他方で、哲学的なものの背景をますます際立たせ、両者の分化を強める効果を挙げているのである。

    ブルーノ・タウト(Bruno Taut, 1880─1938)の論文二篇と日記抄二篇との訳に、『日本美の再発見』という題を付して刊行したのは一九三九年の六月で、タウトがイスタンブールで亡くなってからちょうど半年後であった。その後たびたび版を重ねて紙型が使用に堪えないほど傷んだので、今度の改版を機会に、「日本建築の世界的奇蹟」と「伊勢神宮」の二小篇を新たに付け加えた。このうち前者は欧文雑誌“Nippon”(一九三五年一月号)に載せたもの、また後者は日本に関する彼の最初の著書『ニッポン』(一九三三年)に加えたものである。

    桂離宮はもとより、伊勢神宮、飛驒白川村の農家および秋田の民家等の美は、いずれもタウトによって本来の意味で「再発見」されたのである。彼が建築学的な立場からこれらの作品に加えた分析と綜合、および芸術的鑑賞は、いつまでも高く評価されてよいだろう。

    タウトは東ドイツのケーニヒスベルクに生れ、同地の国立高等建築専門学校に学んだ。卒業すると、当時手堅い建築家として評判されたシュトラースブルクのテオドル・フィッシェル教授の指導を受けた。そして一九○八年にベルリンに建築事務所をひらいた。こうして一人立ちしたタウトは、事務所建築、広間建築、大アパート、百貨店、映画館、レストランや大小の住宅建築などの業績によって、一流の現代建築家としての地位を確立した。なかでも「鋼鉄の記念塔」(一九一三年)と「ガラスの家」(一九一四年)とは、最も近代的な建築材料を自在に駆使した作品として、彼の名声を高めた。第一次大戦で、彼の自由な建築活動は一時はばまれたが、大戦後はもっぱらジードルングの建築に力を注ぎ、その総住宅数は一万二千戸に達している。その間に一九二一年から二四年までマグデブルク市庁の建築課長の職にあり、高層建築と都市計画とを担当した。彼は在職中に、建築物の内外を諸色で塗装する「色彩建築」を試作したが、この斬新な創案は、建築界で目を見はらせ、また種々な批評を呼びおこした。一九三〇年にはベルリンのシャルロッテンブルク工業大学の教授として、ジードルングと住宅建築の講座を担任した。ところが当時のドイツでは、ジードルング建築によって大衆の便を図ろうとする建築家は、社会主義的だと見なされた。案の定、彼はナチス政権の確立する数日前─―一九三三年の三月一日に、お茶の会の席上で友人から身辺の危険を告げられた。彼が一九三二年の春、モスクワ市庁に招かれて十カ月ばかり建築設計に携わったことも、彼に対する心証を不利にしたらしい。タウトは、その日の夕方エリカ夫人を伴い、ベルリンを脱出してスイスに逃れた。そして国境を越えた町に着くと、ベルリンの自宅から僅かばかりの荷物を取りよせた。…

    タウトの生れ故郷ケーニヒスベルクはカントが八十年の生涯を送った土地である。彼は──当然のことながら──自分の町の生んだこの偉大な哲学者を敬愛し、また誇りにもしていた。たまたま私がカント哲学を学んだことを知り、彼が通ったギムナジウムがカントの講義した大学のつい近くにあること、またカントの墓碑銘「頭上に輝く星空、内なる道徳律」を眺めていつも感動したことなどを私に話した。彼は、特にカントの哲学を勉強したわけではないだろうが、「自然を受けいれるのは我々の精神の形式である、ここに人間の心の偉大さがある」と言っているところにも、彼の世界観ないし人生観に及ぼしたカントの影響を見出すことができる。

    ブルーノ・タウト
    (Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日 - 1938年12月24日)は、東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家[1]。鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。

    1933年、ナチスの迫害から逃れるため上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会の招聘で来日し3年半滞在した[2]が建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年にトルコで没した。

    人物・来歴
    修業時代
    父ユリウス・ヨーゼフ・タウト、母ヘンリーテ・アウグステ・ベルタ・タウトの第三子として1880年5月4日ケーニヒスベルク生まれる[1]。1897年クナイプホーフ・ギムナジウム卒業後、ケーニヒスベルクの建設会社グートツァイト入社、2年間、石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働いた[3]。父親の商売が失敗したことから、大学の授業料を稼ぐ必要があったので、20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学した後も建築現場で見習いとして働きながら得た金を学資にして1902年に卒業[3]。

    卒業後、ハンブルク、ベルリン、シュトゥットガルトなどで修業を積み、1903年にベルリンの建築事務所(ブルーノ・メーリンク[要出典])に就職[4]。1904年から1908年までの間、シュトゥットガルト工科大学教授だったテオドール・フィッシャーに弟子入りして(テオドール・フィッシャーの設計事務所勤務[要出典])建築理論と実務を本格的に学んだ[5]。1908年からは、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学のテオドール・ゲッケ教授の授業を受け、ベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働いた[6]。


    グラスハウスの内装
    1909年、同僚のフランツ・ホフマンと設計事務所を設立・開業[6]、1912年には弟のマックス・タウトもメンバーに入った[6]。1910年、ドイツ工作連盟に参加。[要出典]1913年には、ライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作り[7]、1914年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった[8]。「鉄の記念塔」、「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」[注 1]は表現主義の代表的な作品とされる[9]。この頃設計した、田園都市ファルケンベルクの住宅群(ドイツ語版)(1913-1916年)はベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として世界遺産に登録されている。

    結婚・同棲
    1904年頃、ベルリンから北東に50kmの場所にあるコリーンという村に滞在し[5] ヘドヴィック・ヴォルガスト(鍛冶屋であるヴォルガスト家の娘,三女[10])と出会い、1906年に結婚した[11]。

    1907年に長男ハインリヒ、翌年に長女エリザベートが生まれたが、ヘドヴィックは体調を崩したため、ハインリヒはヘドヴィックの母親の家に、その後はタウトの弟マックス・タウトの家に引き取られた[12]。長女同様にマックスの家に引き取られ、2人とも養子同様にして育てられた[13]。この頃から、夫婦間に亀裂が生まれ出した[14]。 1916年には、職場の部下だったエリカ・ヴィッティッヒと恋愛関係になり同棲するようになった[15]。1918年10月にはエリカとの間に娘のクラリッサをもうけたが、ヘドヴィックに頼んでクラリッサを自分の子として入籍させている[16]。

    アルプス建築・色彩宣言
    1916年 コンスタンチノープル(現イスタンブール)に渡り、ドイツ・トルコ友好会館の建設に携わった[9]。この時ミマール・シナン建築のモスクに強く惹かれるようになった[9]。

    1918年に起草、翌年に出版した画帖『アルプス建築』は実際には実現不可能な建築物(アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想[要出典])のイメージ図で[17]、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の下山のシーンから影響を受けていることが知られている[18]。1919年には、その他にも『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。[要出典]同年、モスクワに入って仕事をした[8]。これ以後、断続的に続いた旧ソ連での仕事が ナチスから睨まれる原因になった。

    1921年から1924年まで、マクデブルク市の建築課に勤務し[19]「色彩宣言」を発表[20]、建築物はすべて色彩を持たねばならないと主張して、マクデブルク市庁舎やオットーリヒター通りの集合住宅に彩色を施した[20]。さらにこのマクデブルク時代に『曙光』『都市の解体』を出版[21]、特に後者は世界的にも広く読まれ、日本でも分離派の建築家に好んで読まれた[22]。

    ジードルング
    1924年にベルリンに戻り、住宅供給公社ゲハークの主任建築家になった[19]。

    当時、ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、様々な工業製品を作ることで賠償金を支払っていた。このため労働者は劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであった[23]。タウトは主任建築家として労働者の健康を考慮したジードルング建設に注力し、1924年から1932年までの間に1万2千戸の設計を行った[24]。1924年から携わったブリッツのジードルングで国際的な評価を受けた[25]。

    世界文化遺産
    シラーパークのジードルング(wikidata)(1924年 - 1930年)、ベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅(wikidata)(1925年 - 1930年)とカール・レギーンの住宅都市(ドイツ語版)(1928-1930年)[注 2] は、ベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として2008年に世界遺産(文化遺産)に登録されている[26]。

    1930年、ベルリンの母校のシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の客員教授に就任した[19]。

    ナチス政権
    革命への憧れをもっていたタウト[要出典]は、1932年から1933年までソ連で活動した。1933年4月には、モスクワ市の建築局、都市計画局の主管としてホテル、火葬場などの建築計画に従事しているはずだったが、市当局との意見調整に失敗して計画は実現しなかった[27]。モスクワ市との契約を解除して同年2月にドイツに帰国した[28]。

    前月の1月30日にはヒトラー内閣が誕生しており、以前から社会主義的傾向のある建築家として知られた[29][注 3]ソビエト連邦から帰国したことは、政権から危険視される原因になった[29]。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われた。[要出典]

    1933年3月1日(総選挙の4日前)、タウトはベルリンを離れて[29]、パリへ逃亡した[31][注 4]。その後、(ドイツに戻ってわずか2週間後[要出典])にスイスへ向かい、ベルンの日本公使館で旅券を発行してもらった[29]。タウトは「日本インターナショナル建築会」の海外客員の1人で、前年の1932年夏に同会から招待状を送られていたので、旅行先として日本を選んだのである[29]。

    マルセイユから汽船で地中海を渡り、ギリシャ、トルコのイスタンブール[要出典]、黒海を経由して、汽車でモスクワ入りした後、シベリア鉄道でウラジオストックまでたどり着いた[29]。その後4月30日に同地を離れ日本海を渡り、5月3日に敦賀に到着した[29]。来日に際して、妻のヘドヴィックや子供たちはドイツに残して、秘書のエリカを同伴させた[15]。

    日本滞在
    敦賀では、「日本インターナショナル建築会」の上野伊三郎らがタウトを出迎えた[32]。来日前に手はずを整え、来日翌日の5月4日には桂離宮に案内して観覧させ、離宮の美しさを称賛した[32]。早く拝観させた理由は、タウトが、毎年、誕生日にはその土地の最もよい建築を見ることにしているので日本の最もよい建築を見たい、と言っており、それに合わせて桂離宮を見せたのだと上野が言っていたという伝聞が残されている[33]。

    5月21日、斎藤寅郎の案内で日光東照宮に出かけ[34]、過剰な装飾を嫌い日記には「建築の堕落だ」とまで書いて罵倒した。後に桂離宮や伊勢神宮を皇室芸術と呼んで持ち上げ、東照宮を将軍芸術と呼んで嫌悪する[35][注 5]。

    5月26日、上野の母校早稲田大学建築学科教室を案内、タウトを同大学の講師に迎え入れようと交渉したらしいが、不首尾に終わった[39]。上野は、修学院離宮、平安神宮、比叡山、琵琶湖、祇園、伊勢神宮も案内[40]、滞日中のタウトの面倒を見た人物で、滞在費捻出に骨を折った[40]。7月9日から17日まで6日間にわたって東京帝国大学で、講義を行った[40][41]。ただ、講義に集まってきたのは大半が学生で、一般人は聞きに来なかったので、タウトは幻滅したようである[42]。

    来日後、京都の呉服商(京都大丸の当主)下村正太郎の客人としてしばらく滞在、[43]、11月10日からは、仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)の嘱託として赴任[44]、1936年10月まで滞在、仙台や高崎で工芸の指導や、日本建築に関する文章(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』『日本美の再発見』『日本文化私観』『日本 タウトの日記』など)を書いた[45][注 6]。『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』(1933年6月に起稿、同年7月に脱稿、1934年5月に明治書房から出版、翻訳者は平居均)と『日本文化私観』だけがタウト滞日中に翻訳・発表された文章である[45]。残りの文章は全てタウトの死後に翻訳・出版された[注 7]。『ニッポン』はタウトが来日直後の日本に関する印象をまとめた口述筆記による本で、この中で桂離宮を激賞したことが以後の「桂離宮ブーム」を引き起こしたことで知られる[50]。出版して間もなく日本図書館協会の推薦図書に、その後は文部省選定の優良図書に指定されている[51]。

    1934年8月1日、高崎へ移住し井上工業研究所顧問として、井上工業の工芸製品デザイン、製作指導を行うようになった[52]。これは、久米権九郎が井上房一郎にタウトを紹介したことが縁で決まったことである[53]。高崎に移って以降約2年間を少林山達磨寺にある洗心亭でエリカと共に過ごした。


    少林山達磨寺洗心亭
    ここでの生活を大変気に入ったようである[54]。井上工業研究所では、水原徳言が共同制作者として協力した[55]。水原はタウトの日本における唯一の弟子だと言われている[56]。井上工業研究所では、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表した。井上が1935年に東京・銀座と軽井沢に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始め、東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。例えば、高崎で細々と生産が続く工芸「竹皮編」は、竹皮を使った草履表(南部表)の職人に対して、近代化が進んでいた当時の日本に合うような新しい用途の製品を作るよう、デザインなどを指導したという[57]。

    建築での仕事に恵まれなかったことを不満に思い、日記で、日本での生活は「建築家の休日」であると自嘲している[58]。例外が、日向利兵衛の別邸の地下室部分(国重要文化財)である[59]。設計依頼の計画は何度か持ち上がったが実現まではいかなかった[60]。1935年3月5日、大倉和親邸の設計を任された久米権九郎を手伝う話があったが、スケッチが「日本的でありすぎ」たことに失望され、その後、依頼人はあらわれなかった[61]。建築設計では実りがなかった一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した本を著したり、日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行ったりもした。地方へも何度か旅行をしているが特高に尾行されたこともある[62]。名所だけでなく、貧民窟を見たこともある[62]。1935年に入ると、日本での生活の将来に不安を覚えるようになりだした[63]。

    トルコ時代
    1936年9月11日、トルコからイスタンブール芸術アカデミー(現ミマール・シナン大学)の教授招聘の手紙が届いた[64]。当時のトルコは大統領ケマル・アタテュルクの独裁的指導の下で近代化を目指していた。

    この話を持ってきたのは、トルコにいた建築家マルティン・ヴァグナーである[65]。ヴァグナーはタウトの盟友で[66]、ドイツ社会党に所属していたことからナチス政権に睨まれたため、1933年にトルコに亡命していた[65]。当初は、ハンス・ペルツィヒが候補者としてあがっていたが、ペルツィヒが急死したので代わってタウトに白羽の矢がたった[65]。

    日本での将来に不安を抱いていたこと[63]や、親友の上野から、日本にいても建築家としての仕事は期待できないのでトルコへ行ってそこで建築の仕事をしたほうがよい、との助言もあって[67]か、タウトは10月8日洗心亭を発ち、10月11日の夜東京で友人たちが告別会を開いたのち、10月15日夜、下関から関釜連絡船でエリカと共に日本を去った[68][69]。その後 北京に10日ほど滞在後、11月11日、シベリア鉄道経由でイスタンブールに到着した[70]。

    トルコでは建築家として非常に多忙だった[71]。そのため日記をほとんど書いておらず、トルコでの行動や考えはよくわかっていない[58]。

    アタチュルク大統領の信用が厚く、アンカラの文部省建築局首席建築家を任された[70]。ただ、その分他の建築家から妬まれた面もあったらしい[55]。トルコ滞在中水野徳言に手紙を出し、トルコに来るようにと言っているが、水野はその話を断った[72]。トルコで設計した建築物には、アンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブール郊外の自宅などがあり現存している。自宅の完成間近にタウトは亡くなってしまう。1938年から健康状態が優れないことが多くなり[73]、アタチュルク大統領(1938年11月10日)葬儀の演出を任されていた頃には状態はよくなかったらしい[74]。

    1938年12月24日、心臓疾患で病没[73]、最後の仕事は彼自身の死の直前に死去したアタテュルク大統領の祭壇だった。翌25日に告別式が行われたあと、エディルネ門国葬墓地に埋葬された[73][75]。死後、デスマスク、タウトの所有物はすべてエリカが日本へ持ち出し洗心亭に預けており、トルコ国内にタウト関連の資料は残されていない[71]。

    タウトを巡る誤解
    ユダヤ人・亡命
    日本滞在中、ユダヤ人(あるいはユダヤ系ドイツ)であるからアドルフ・ヒトラー政権に迫害されて亡命したのだと盛んに噂されて、辟易していたらしい[76]。実際はユダヤ人ではなく、13世紀から続くドイツ人の家系図があるのだと、噂を否定するコメントを建築雑誌『国際建築』に、日本滞在中残している[77]。弟のマックスが、兄がドイツを後にしてからもベルリンに住んでいたことも、ユダヤ人ではないことを裏付けている[77][23]。

    当時から、日本に亡命したと書く文章があふれているが、井上章一によると矛盾する事実が残されている。日記には、滞在中にドイツ大使館に出かけた(1936年10月12日[78])とか、日独協会から講演を依頼されてそれを引き受けたとか、亡命者とは考えられない行動をしている事実が書かれている[79]。1935年3月1日にドイツのフランツ・ホフマン(タウトと共同の設計事務所を持っていた人物)からドイツ帰国を勧める手紙が届いているが 帰国しても自由がないと言って、この話を断っている[80]ことも1つの証拠になっている。

    桂離宮の「発見者」
    日記(1935年11月4日)に「私は桂離宮の『発見者』だと自負してよさそうだ」と書き残している[81]。一般的にタウトが初めて桂離宮の真価を評価したと言われているが、事実とは異なっており、「伝説」でしかないと言える。タウトの著述に関してさまざまな誤解が広まっていることは否定できない[82]。

    事実と異なっている点は3つある。1つ目は、タウト以前にも桂離宮を高評価した日本人はそれなりの数に達していたという点である。2つ目は、観光案内書の紹介の大きさを見る限り、桂離宮の知名度はタウト来日以前から一般的に高かったと考えられる点である[83]。3つ目は、専門家を越えて一般大衆レベルにまで桂離宮のモダニズム建築としての解釈が浸透したのは、タウト滞日中の1930年代中期、あるいはその多くの著書が翻訳されて出版された1940年代のことではなく、1960年代以降とかなり遅くなってからのことである[84][注 8]。

    タウト以前に桂離宮を評価する日本人が全く、あるいはほとんどいなかったということはなく、むしろ専門家の間ではかなり早くから高く評価されていた。ただ、評価していたのは建築家ではない。明治・大正時代、桂離宮を研究・評価したのはもっぱら庭園関係者と茶人だった [85]。庭園という観点からの桂離宮評価だったからか、この時代の建築家は桂離宮にはあまり興味を示さず、建築家の評価は低かった[86]。 しかし、庭園関係者が桂離宮を絶賛していたのは確かである[87]。

    流れが変わったのは、昭和時代に入ってからである[88]。例えば、1928年(昭和3年)5月には桂離宮の実測測量が始まっている[89]。また、1920年代半ばから世界的にモダニズム建築が流行し、日本でもその流れに乗った建築家の1群が現れた。桂離宮は実際にはデザインに凝った建築であり、モダニズムからは遠い要素を多分に含んだ建物で、昭和以前は、そのように理解した論もそれなりに多かった[90]ものが、モダニズムが流行し始めると、モダニストたちは桂離宮を、モダニズム建築という点を強調し、モダニズムに合わない部分を無視して評価し始めるようになった[注 9]。

    一方、タウトは桂離宮を純粋なモダニズム建築としてから高評価したのではなく、それ以外の要素も多分に含まれていた。実際にタウト自身が、「「すべてすぐれた機能を持つものは、同時にその外観もまたすぐれている」という私の命題は、しばしば誤解された」と書いているように、タウトの桂離宮評価は、かなり誤解されて広まったと言える[93]。

    1929年、岸田日出刀は写真集『過去の構成』を著し、その中で桂離宮をモダニズム建築の観点から激賞した[94]。『過去の構成』はモダニズム建築家や若い建築家の間で評判となった著書で、堀口捨巳、丹下健三らがその内容を誉めている[95]。しかし、桂離宮の評判は専門家の狭い領域から出ることはなく、専門家集団の中で共有されただけだった。その点に関しては、タウトが専門家の領域を越えて、桂離宮の価値を広めた点は間違いがない。問題は、その広がった領域、広がり方の程度である。

    滞日中、その著書が読まれた層は一般大衆ではなく、古美術や古建築を専門とした読書人、あるいは読書人を中心とした当時のインテリ層であり(例えば和辻哲郎のような建築を非専門とする人々)、社会全体からするとその数が多かったわけではない[96]。タウトが喚起した桂離宮ブーム、桂離宮の「発見」というのはこうした読書界の人間の意識を変えた程度のもので、一般大衆までの広がりを持った再認識ではなかった。ただ、彼らは出版メディアに頻繁に登場したので、建築家よりも影響力が強かった。

    タウトがこれらの読書人に大きな影響を与えたのには、いくつかの理由があったらしい。1つには、タウトが文章に腕の立つ建築家だったことがある。例えば堀口捨巳はタウトの文章力を評価している[97]。また、日本主義・日本精神という言葉が流行したように、ナショナリズムの高揚していた1930年代にあって、日本文化を称揚する西洋人が現れた事は、彼らにとって心地よいことだったこともあるらしい[98]。特にタウトが国際的に知名度のある西洋人だった点は大きかった[99]。

    もう1点は、タウトの日本文化称賛の論理が、ステレオタイプ化した日本文化論と同一のものとして理解された点にあったようである[100]。タウトが日本文化を賞揚した文脈は、明治中期から既に日本国内で流通していた日本人論・日本文化論のステレオタイプ化した論理と必ずしも同じだったわけではなく[101]、そこからのずれを多分に持っていた[102]が、実際には、タウトは、ステレオタイプ化した日本人論・日本文化論を繰り返したものとして受容された[103]。

  • 訳者あとがきに拠ると、筆者の論文二篇と日記抄二篇、合計四篇を和訳したものを纏めて1939年に刊行し、その時につけられた邦題が『日本美の再発見』らしい。日記は「飛騨から裏日本へ」と「冬の秋田」、論文は「日本建築の基礎」と「永遠なるもの---桂離宮」。
    そののち、紙型が劣化したため改版するにあたり、あらたに「日本建築の世界的奇蹟」と「伊勢神宮」を加えたのが増補改訳版の中身。

    「日本建築の基礎」は論文といいながら実際は講演のまとめであり、内容そのものが可也主観的かつ情感的で、お世辞にも学術的とは言い難い。講演なので細かい話や詳しい図表も一切なし。桂離宮を褒めちぎるのはよいが、どこがどう凄いのかとなると、とんと要領を得ない。ただ一言、直接参詣してつぶさに観察すべし、と。茶室についての考察は興味深いが、少し極論の嫌いもある。

    「飛騨から裏日本へ」と「冬の秋田」は、全体に文句たらたらで、ややもすると電車や自動車などの近代文明に悪態をついている。訳者がどうしてこの内容を上梓しようと思ったのか、意図が知れない。褒めちぎる建築物はどれも農業や牧畜に適った構造をもつものばかりのようで、簡素を求めているらしい。その一方で旅館の一番綺麗な部屋をイカモノ、イカモノと扱き下ろす癖があるらしく、総じてみると、簡素で屎尿の臭いのしない納屋が筆者の意に最も適う建造物ということになろうか。その時の気分で見方もころころかわるし、何が言いたいのかわからない。章末に「私は夕方散歩しながら秋田の建築に教えられるところが多大であった。」と一言あるが、何がよかったのかは一切説明なしなので、本当に駄文でしかない。書かれていることは「何月何日、この旅館は臭い。何月何日、すばらしい接待を受けて嬉しかった。何月何日、ゴリラをみるみたいな目でみられた。ここの人はろくでもない。」みたいなのの繰り返し。駄文。

    「永遠なるもの」もただの感想文。上野君は、上野君は、と繰り返し上野(伊三郎)氏の考えをもちあげるなら一層のこと上野氏の考えを新書にしてほしい。「私達が見、考えまた語ったすべてを剰すところなくここに述べる……には別に一巻の著書を必要とするだろう。」それならむしろそれを本にしてほしかった。

    増補された小二篇は数頁だけの内容であまり記憶にのこっていない。

    邦題をみて期待したのは、日本の美しい風景や景観を書き留めて、そのほかの西欧人の旅行指南にでもしたような内容だが、実際の内容は上記の通り。『日本の家と人々』とでもしてくれていればもう少し客観的に読めたのに。残念。筆者自体を詰るわけではなく、あくまでもこの書籍が残念。気づきを与える箇所は勿論あるし、一欧州人の考えや、その目に映った日本の当時の姿を知れるという意味では価値ある本。この四章+二章を一つに括ったのがそもそもの間違いとしか思えない。

    建築について興味があるのなら、今和次郎の『日本の民家』(岩波文庫) を読んだ方が得るものは多い。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/702397

  • 再読。秋田と勝平得之に関する部分を重点的に。秋田Disは建築に対してではなくて、知事と大地主の対応についてだった。

  • 感想
    刹那と永遠。消えゆく美を固定し体現する建築。一見矛盾する要素を呑み込む。本で知識を得た後は実際に足を運んでみたい。まずは近所の神社から。

  • やはり岩波新書はいい仕事する。
    明治時代、ネットはもちろん、交通の便は今よりもはるかに劣り、カメラも手軽に使えない時代、ヨーロッパからはるか離れた日本を訪れ、日本の美しさを素晴らしい文書で残してくれている。
    ただ感謝しての言葉ってしか浮かばない。、

  • 今年は桂離宮に行く!

    高松の達磨寺と洗心亭は訪れました。あのこじんまりとした家屋から見下ろした高松の街を想像しながら、家屋のわきにある石碑に刻まれたich liebe die Japaneche Cultureの言葉の意味を思いました。

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著者プロフィール

ブルーノ・タウト(1880-1938):ドイツの建築家、都市計画家/日本で刊行中の主著に『日本美の再発見』岩波新書、『忘れられた日本』中公文庫、『日本雑記』中公クラシックス、『ニッポン』『日本文化私観』講談社学術文庫、『建築とは何か(正・続)』SD選書など。

「2015年 『タウト建築論講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ブルーノ・タウトの作品

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